書評 小島道裕著『描かれた戦国の京都 洛中洛外図屏風を読む』

藤原重雄(東京大学史料編纂所:日本中世史)
※国立歴史民俗博物館編『歴博』160(2010年5月)掲載、2024年5月10日転載。誌面〔PDF〕


 歴博総合展示室の主役は、研究に裏打ちされた模型や複製だが、毎年必ず秋に期間限定で出陳される現物がある。現存最古の洛中洛外図屏風の歴博甲本である。華やかで活気溢れる上杉本に対し、地味で落ち着いたこの屏風は、現物に接して良さが際立つタイプの作品である。本書での主役も、上杉本に先行する歴博甲本や東博模本で、一六世紀に制作された初期洛中洛外図屏風の各々の制作事情を探ることが全体を貫く問題関心である。

 本書の議論の中核は、描かれた邸宅と人物を歴史上の個人として比定し、注文主を浮き彫りにする点にある。画中人物に具体名を宛ててゆく方法の一貫性は、作品に馴染みない読者にも読みやすかろう。注文主である権力者が屏風に自己を描き込ませ、統治下の京都の全体像を表現したとの理解に立ち、歴博甲本は細川高国が大永五年(一五二五)に植国へ政権を委譲した絶頂期に狩野元信が描き、東博模本は細川晴元政権下に阿波細川氏の注文によるとする。

 結論の当否を論ずる力量は評者にない。しかし、初期洛中洛外図屏風の主題的表現は、上京隻に幕府というより細川邸を描くことにある点は、研究史的な到達点となった。描かれた幕府の理解や現実の所在地―読者には驚きかも知れないが、幕府所在地の変遷が確実には追跡できないのである―に関して著者と見解を異にする高橋康夫氏が、細川殿とその「城下」を描くとした意見と相通ずる。

 邸宅に描かれた人物に逐一実名を宛ててゆく作業は、本書の新しさであり、違和感を覚える点でもある。最初の事例として示された歴博甲本の三条西家における家族構成との一致は、直感的でしかないが、読み込みすぎと思える。肖像画との類似も例示されるが、様式的な検討、例えば顔の描き方の類型や当時の風俗との比較は示されない。ただし著者の説で歴博甲本成立の前年となる大永四年の『真如堂縁起絵巻』(久国筆、実隆・公助清書)の最終段、同時代の落慶供養の場面で特定個人を描いたとも見える人物があり、―二〜一四世紀に遡れば行事絵は集団肖像画でもあって、そうした絵画のフォーマットの行方は気がかりだ。それでも、制作と享受の位相の違いには注意が必要で、制作時の意図の見極めは難しい。

 個人的に印象的であった二点をあげる。ひとつは、人物で構成される場面について、〈何をしているのか?〉を詳しく読み解く必要性の喚起である。その際、意識的な情景作りなのか、漠然とした場面の雰囲気演出なのか、余白の埋め草的な描写なのか、バランス感覚をもって絵画に接したい。もうひとつは、『実隆公記』の洛中洛外図屏風初見記事を、「朝倉本」として図様構成を想定する点である。邸宅と行事(景物)のセットが、場所の移転や画面構成の変化とともにまるごと画面内を移動するという見方は、読み解きの可能性を広げよう。

 洛中洛外図屏風の研究をめぐっては、描かれた内容はある一瞬に収斂するとして、詳細な考証を組み合わせた今谷明氏のアプローチに対して、佐藤進一氏の手法を応用して未開拓な室町末期政治史の分野で圧倒的な業績をあげた手腕への共感から、親和的な研究者もあり、本書全体のトーンもそうである。今谷氏の政治過程や寺社沿革の考証はなすべき作業であり共有財産だが、その徹底性(景観年代論という方法自体は承継的)は、絵画制作の現場から乖離していると評者は判断する。同じように、本書全体の叙述の平易さにもかかわらず、議論の展開や挙例・解釈・判断をたどるのに困難を覚える読者もあろう。ただ歴史研究がやっかいなのは、論理的整合性が結論の正しさを保証すると限らないし、議論の筋道での難点は新しく得られた視界を否定することにもならない。戦国・織農期の政治史を研究課題としてきた著者が屏風に見えるものは、作品の核心を突いている可能性がある。作品に幅広い観者を招き入れる一方で、複雑かつ推移の激しい室町末期の政治過程という限定された研究のなかで、本書が厳密に検証されることも期待する。

※A5判・204頁、吉川弘文館、2009年10月、定価(2200円+税)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録