大和文華館 特別企画展「中世の人と美術」 第四パート「『中院一品記』の世界」のみどころ(前期:8月21日〜9月13日)


T、動乱期の群像

(1)建武五年(1338)七月五〜十四日条
   五月に高師直と戦って敗死した北畠顕家の残党が、石清水八幡宮に城郭を構えて立て籠り、師直の計略により八幡宮が炎上する。
   その情報が伝わる過程も記録され、入手した注進状(報告書)等を日記に貼り継ぐ。
    七月五・六日条
    七月七日条
    貼継文書1:久我長通書状 第一紙
    貼継文書1:久我長通書状 第二紙
    貼継文書2:八幡執行注進状 (同端裏書)
    七月十一・十四日条
    (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第4冊 826856857858
     ※大日本史料総合データベースからの版面Tiff画像。暦応1年5月25日・7月5日条)

(2)暦応二年(1339)八月十九・二十八日条
   後醍醐天皇、吉野で崩御の報が伝わり、北朝・武家での対応の様子が記される。通冬の後醍醐天皇に対する評も。
    八月十九・二十八日条 (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第5冊 661662704頁、暦応2年8月16日条)

(3)暦応三年(1340)十月六・七・二十六日条
   佐々木導誉父子による妙法院門跡御所の焼討。武家により配流に処せられるが、遊覧の体であったという。
   『太平記』にもバサラ大名の振る舞いとして著名な事件の同時代人の記録。(鈴鹿文庫本『太平記』★)
    十月六・七・二十六日条  十月二十六日条
   (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第6冊 365366367379380381382頁、暦応3年10月6・26日条)

U、日記原本の接続

(4)暦応五年(1342)春巻
  B三月七〜十六日条(史料編纂所蔵)/ (京大写本130コマ目)
    三月七日、光厳院が夢窓疎石の建立した西芳寺に御幸。足利尊氏・賢俊ら参仕。夢窓は唐絵を引出物とする。(『大日本史料』6編7冊5859頁)
      八日、足利直義が病の後、始めて沐浴する。
      十六日、仁和寺宮御灌頂。(『大日本史料』6編7冊64656667頁)
  C十六日条貼継文書:仁和寺宮御灌頂散状(国立公文書館蔵:参考写真)
  D十九〜廿一日条(京都大学総合博物館蔵):廿日、法勝寺炎上。(『大日本史料』6編7冊7172737475頁)
  E廿日条貼継文書:通冬書状・実夏勘返(史料編纂所蔵)/(京大写本131コマ目)
    ※日記に貼り継いで巻物にすると、はみ出してしまう下辺を折り込んでいた跡あり。
  FG廿日条貼継文書:法勝寺回禄注進状(国立公文書館蔵:参考写真)(京大写本132コマ目)
    ※注進状の脱落部分と、Hへの接続を京都大学附属図書館蔵の近世写本[中院II/30下:で提示、京都大学電子図書館貴重資料書画像にて全冊公開]133コマ目
  H十七日条(史料編纂所蔵):第2・3紙(図録未掲載)は宿紙を用いる。(『大日本史料』6編7冊97〜102頁)

V、紙背文書の復元

(5)洞院公賢書状(大和文華館蔵):もとは『中院一品記』紙背文書。おそらく観賞用に抜き取られた。
(6)洞院公賢書状(史料編纂所蔵):別の箇所に紙背文書として残る公賢書状。
(7)上に続く部分の紙背文書(史料編纂所蔵 一紙目二紙目):相剥ぎされて日記面が残り、紙背文書は墨痕として痕跡のみ確認できる。
   ※失われた紙背文書を、京都大学附属図書館蔵の近世写本[中院/II/32] 11コマ・12コマ目と照合して復元。相剥ぎされた面には裏打ち紙があてられる予定。

W、周辺

(8)御記目録(史料編纂所蔵):『中院一品記』に附属する、近世に作成された巻次の目録。 (図録未掲載、出陳) (同裏)
(9)『中院通冬卿記目録』(大和文華館蔵):『中院一品記』の日条ごとの内容を記した目録。鈴鹿文庫のうち。国文研DBより全冊マイクロ画像公開。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録