(1)建武五年(1338)七月五〜十四日条:
五月に高師直と戦って敗死した北畠顕家の残党が、石清水八幡宮に城郭を構えて立て籠り、師直の計略により八幡宮が炎上する。
その情報が伝わる過程も記録され、入手した注進状(報告書)等を日記に貼り継ぐ。
七月五・六日条
七月七日条
貼継文書1:久我長通書状 第一紙
貼継文書1:久我長通書状 第二紙
貼継文書2:八幡執行注進状 (同端裏書)
七月十一・十四日条
(参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第4冊
826・
856・
857・
858頁
※大日本史料総合データベースからの版面Tiff画像。暦応1年5月25日・7月5日条)
(2)暦応二年(1339)八月十九・二十八日条:
後醍醐天皇、吉野で崩御の報が伝わり、北朝・武家での対応の様子が記される。通冬の後醍醐天皇に対する評も。
八月十九・二十八日条 (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第5冊
661・
662・
704頁、暦応2年8月16日条)
(3)暦応三年(1340)十月六・七・二十六日条:
佐々木導誉父子による妙法院門跡御所の焼討。武家により配流に処せられるが、遊覧の体であったという。
『太平記』にもバサラ大名の振る舞いとして著名な事件の同時代人の記録。(鈴鹿文庫本『太平記』★)
十月六・七・二十六日条
十月二十六日条
(参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第6冊
365・
366・
367・
379・
380・
381・
382頁、暦応3年10月6・26日条)
(4)暦応五年(1342)春巻
B三月七〜十六日条(史料編纂所蔵)/
(京大写本130コマ目)
三月七日、光厳院が夢窓疎石の建立した西芳寺に御幸。足利尊氏・賢俊ら参仕。夢窓は唐絵を引出物とする。(『大日本史料』6編7冊58・59頁)
八日、足利直義が病の後、始めて沐浴する。
十六日、仁和寺宮御灌頂。(『大日本史料』6編7冊64・65・66・67頁)
C十六日条貼継文書:仁和寺宮御灌頂散状(国立公文書館蔵:参考写真)
D十九〜廿一日条(京都大学総合博物館蔵):廿日、法勝寺炎上。(『大日本史料』6編7冊71・72・73・74・75頁)
E廿日条貼継文書:通冬書状・実夏勘返(史料編纂所蔵)/(京大写本131コマ目)
※日記に貼り継いで巻物にすると、はみ出してしまう下辺を折り込んでいた跡あり。
FG廿日条貼継文書:法勝寺回禄注進状(国立公文書館蔵:参考写真)(京大写本132コマ目)
※注進状の脱落部分と、Hへの接続を京都大学附属図書館蔵の近世写本[中院II/30下:で提示、京都大学電子図書館貴重資料書画像にて全冊公開]133コマ目
H十七日条(史料編纂所蔵):第2・3紙(図録未掲載)は宿紙を用いる。(『大日本史料』6編7冊97〜102頁)
(5)洞院公賢書状(大和文華館蔵):もとは『中院一品記』紙背文書。おそらく観賞用に抜き取られた。
(6)洞院公賢書状(史料編纂所蔵):別の箇所に紙背文書として残る公賢書状。
(7)上に続く部分の紙背文書(史料編纂所蔵 一紙目・二紙目):相剥ぎされて日記面が残り、紙背文書は墨痕として痕跡のみ確認できる。
※失われた紙背文書を、京都大学附属図書館蔵の近世写本[中院/II/32]
11コマ・12コマ目と照合して復元。相剥ぎされた面には裏打ち紙があてられる予定。
(8)御記目録(史料編纂所蔵):『中院一品記』に附属する、近世に作成された巻次の目録。
(図録未掲載、出陳)
(同裏)
(9)『中院通冬卿記目録』(大和文華館蔵):『中院一品記』の日条ごとの内容を記した目録。鈴鹿文庫のうち。国文研DBより全冊マイクロ画像公開。