大和文華館 特別企画展「中世の人と美術」 第四パート「『中院一品記』の世界」のみどころ(後期:9月15日〜10月4日、9月20日シンポジウム)


T、動乱期の群像

(1)暦応二年(1339)五月十八日条
   光厳院の琵琶灌頂に関する。父の通顕(法名空乗)へ通冬の出仕要請が直接あり、その遣り取りの文書を日記に貼り継ぐ。光厳院の宸翰二通〔『宸翰英華』北朝篇★号〕が残る部分。
    五月十八日条(
    光厳院宸翰1(一紙目二紙目端裏書
    空乗請文案
    光厳院宸翰2(一紙目二紙目
    五月十九日条
    (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第5冊542543544545546頁:大日本史料総合データベースからの版面Tiff画像)

(2)暦応三年(1340)十二月十三日条
   バサラ大名として著名な佐々木導誉の配流に関する朝廷の手続きを伝える記事。俗名高氏を足利尊氏と同音のため、峯方を改めて文書を作成した。
    十二月十三日条() 貼継文書(図録に掲載、出陳せず)
    (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第6冊419420421422423頁)

(3)暦応五年(1342)正月廿一日条
   高師直の急病で洛中が騒動となった記事。後に何事もなかったと追筆している。(『大日本史料』第六編:第7冊21頁)

(4)貞和三年(1347)六月八日条
   足利直義に男子の誕生した記事。夫人は42歳の初産であった。観応の擾乱の伏線となる。界線の入った用紙に記されている。(『大日本史料』第六編:第10冊691頁以下)

U、日記原本の接続

(5)暦応四年(1341)正月巻
  六日条:通冬が急遽執筆を勤めた除目に関する長文の記事。大和文華館蔵断簡と史料編纂所蔵分が直接接続する部分。
      分離した時期は正確には不明だが、おそらく200年ぶりぐらいの再会となろうか。
  A史料編纂所蔵断簡 (
  B大和文華館蔵(洞院公賢書状裏)※京大写本: 102103コマ目
  C原本散逸部分(京都大学附属図書館の近世写本[中院II/30上]) 104105コマ目
  D史料編纂所蔵(七日条
    (参考:『大日本史料』第六編の翻刻:第6冊556557558559560561562563564565567頁)

V、紙背文書の復元

(6)一条経通書状:二紙一通を元の並びに直して配置。一紙目二紙目
   某消息別の一条経通書状:上の書状に墨映となっている元の文書を脇に置いている。巻子に戻すため、映り合い関係で並べることも出来なくなる。

(7)光厳上皇院宣(勧修寺経顕奉)
   @本文部分(京都大学総合博物館蔵):裏面は白紙。
   A宛名部分(史料編纂所蔵):裏面には日記本文あり。
   B京都大学附属図書館蔵の近世写本[中院/II/32](76コマ目):@Aがもともと一紙と確認できる根拠。長い余白部分が伝来過程で切られたらしい。

W、周辺

(8)『中院通冬卿記目録』(大和文華館蔵):『中院一品記』の日条ごとの内容を記した目録。鈴鹿文庫のうち。国文研DBより全冊マイクロ画像公開。
(9)三条実継書状(史料編纂所蔵):『中院一品記』と一具になっていた洞院家の記録の紙背文書のうち。高階隆兼の「絵本」を藤原隆章が所持していたことを知る。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録