粉河寺縁起絵巻

(『別冊歴史読本58 合戦絵巻・合戦図屏風』新人物往来社、2007年1月)

 和歌山県・粉河寺所蔵。国宝。紙本着色、一巻、全五段。十二世紀後半、ないしは十三世紀始め頃の成立。後白河院の蓮華王院宝蔵に納められた絵巻のひとつに数え挙げられることが多いが、詞と絵とが同じ料紙に書かれ、描写には簡素さが認められる点などから、副本的な性格を考慮に入れておく必要がある。一巻に粉河寺の本尊である千手観音像の造立譚と霊験譚との二つの物語が描かれている。前篇は、粉河に住む猟師が山中に光の発するを見て、仏堂を建て仏像を造りたいと願っていたところ、ひとりの童の行者が現れ、七日のうちに千手観音像を刻んだ話。後篇は、河内国讃良郡の長者の一人娘は不治の病にかかっていたが、ひとりの童の行者が現われ祈祷を行って娘は治癒し、礼として娘が捧げた袴とさげ鞘(短刀)のみを受け取り、長者からの礼物を受けず、住所を粉河だとだけ告げて姿を消した。長者一家はその地を尋ね、山中の庵の千手観音像が娘の袴とさげ鞘を持っているのを発見し、その前で出家を遂げるという話。絵には焼損も多いが、長尺の場面に同一背景の反復を用いながら、視点の距離を一定に保って、淡々と物語を追ってゆく。


 @第一段:前篇の猟師による粉河観音の発見の話で、その発端の場面。冒頭の詞書は現在失われているが、関連史料で内容の推測が可能である。猟師はいつも踞木を定めて獲物を狙っていたが、近くに光明の発するところを見つけ、奇特の念を抱いてその地に柴の庵を建てた。程なくして、ひとりの童の行者が猟師の家を訪ねて来た。猟師は行者に、その庵に仏を造りたいとの願いを伝えると、行者は自分は仏師であると言って、七日間を約束して庵に閉じこもった。絵は、猟師の家に行者が訪れたところ。門の外へと走り出る犬は、もちろん狩の伴である猟犬。訪れてきた行者に、猟師が立て膝・合掌して拝礼する。その奥は、猟師の日常生活を描く。獲物である獣の皮や肉を干す光景である。

 A第三段:後篇の河内国の長者の娘が受けた利益の話で、これもその発端の場面。長者の一人娘が身の内が熟柿のように腫れて悪臭を放つ病にかかり、治る見込みが立たなかった。そこにひとりの童子が訪ねて来て、七日間の祈祷を申し出た。絵では、長者の屋敷を長い場面で描く。門前にはさまざまな貢納物を背負ったり担いできた者達が描かれ、門の前には溝があり、そこに渡された橋の上に案内を乞う童子がいる。門は上に矢倉のあるもので、両脇は板塀で囲まれ竹が植えられている。門の下には警護の武士が座っている。邸内では、長櫃に入れられた山河の品々が貢納されていて、縁側に座る家人が目録を手に確認している。手前側は馬屋で、立派な屋敷を描くのに欠かせない。さらに進むと、建物のなかで童子と長者が対面しているところである。その隣室に碁盤があるのは、それを使うような呪術者による祈祷に効き目がなかったことを示していよう。渡り廊下でつなげられた奥の部屋では、娘が病に苦しみ、侍女たちが異臭に耐えながら看病をしており、枕元では童子が千手陀羅尼を誦して祈る。


 この絵巻物には、直接に合戦の場面が描かれているわけではない。しかし、武士の姿に注意しながら見てゆくこともできる作品である。「武士」とは何か? その本質や淵源を探る武士論が、近年までの日本中世史学界では、論点のひとつになった。そうした研究の歩みの全体を紹介することはできないが、議論の中で強調された武士の諸側面をこの絵巻を見る際の補助線にしてみよう。
 武士に対するそれまでの定型的な理解は、「在地領主」的武士論と言われる。武士を在地領主として把握し、平安時代に進行した地方政治の弛緩により、在地有力者が自ら武力を蓄えるようになった、としているという。こうした自然発生的なとらえ方に対し、武士の本質として、社会的分業としての職能に注目する「職能」的武士論が現れた。地方においては、国衙で編成される武者であって、諸国の一宮の祭祀儀礼や国司の催す巻狩に参加する。かたや京都の貴族社会に武士の出発点を置く考え方では、王朝や貴族の護衛を任とし、武芸(武力が備えているとされた呪術的な側面も含む)を家業とする芸能者として捉えている。むろん排他的に対立する論点もあるが、種々の来歴を持つ武士の特質をそれぞれ鮮明に提示したものといえよう。
 おおまかに言うと、武士の属性には殺生を生業とする職能民という側面がある。人間ばかりでなく、とりわけ四足の大型獣(シシ:猪鹿)の殺生は、誰もが行なえるものではなく、特別な能力を必要とするものであった。そして畏怖の対象となったり、他者としてみられる要因となった。狩猟という営みは武士のみに限られるものではないが、その専門家としての力量に長けていることは必須であり、猟師と武士とは淵源を同一とする側面がある。中世武士の自意識の中には、武士の原像としての猟師、あるいは狩猟といった痕跡が見え隠れする。仏法に背く「殺生人」としての武士という観念は、仏教者の側からの働きかけによって、武士たちも自己の罪業観として内面化してゆくことにもなった(刈米一志「日本中世における殺生観と狩猟・漁撈の世界」『史潮』新四〇、一九九六年)。こうした視点で『粉河寺縁起絵巻』前篇、猟師による千手観音発見の話をみてゆくこともできるだろう。

 猟師による光明の発見は、単に深い山中で活動するから、ということでなかった。罪深く穢れた業を行なうとされた存在が、その属性そのものによって、霊地の聖なるものを見出すという逆縁の論理が、中世的な思考にはあった。この粉河寺縁起に限らず、猟師による宗教的な存在の発見という奇跡譚の類型が見出される(阿部泰郎「中世宗教世界のなかの志度寺縁起と「當願暮當」」『国立能楽堂上演資料集3 当願暮頭』一九九一年〔九三年を訂正〕)。絵画化された事例を挙げると、弘法大師の高野山開創伝説では、地主神の高野明神が二匹の犬を連れた猟師とあらわれ、大師が中国から投げた三鈷の掛かった木を発見する。『大山寺縁起絵巻』(一部模本のみ伝存)では、猟師依道が海底より現れた金狼を追っていたところ、地蔵を発見し、出家して開山となった。『志度寺縁起絵』においては、当願と暮当という二人の猟師がおり、当願は道場の供養に結縁したが、暮当は狩に出かけた。当願は儀式に参列しながらも狩のことを思ったがため、気を失ってしまい、下半身が蛇となってしまった。心配した暮当が当願を見つけ、請われるがままに満濃池へ背負ってゆき、三日後に暮当が池に行くと大蛇が現れ、自らの眼を抜いて如意宝珠であるといって渡す。『観興寺縁起絵』では、妻覓ぎ(つままぎ)譚とも重なっているが、草野氏の祖先となる常門が狩に出かけてゆき、今夜鬼に取りさらわれるという長者の娘を助け、栢木の観音を見出す。これらの物語が差し向けられていた相手には、武士たちが確実に含まれていたと考えられる。

 『粉河寺縁起絵巻』後篇の河内国の「長者」とは、歴史的な存在としては在地領主の一類型となるが、こうした長者は武士(武士団の長、豪族)と重なりあう社会的階層であった。そして長者の屋敷には、長者に仕える従者としての武士の姿が描かれているが、これらは家子・郎等といった層と同じものであろう。このように、軍事貴族や地域豪族として名を残すような武士とは異なった、別の二類型の「武士」的な存在の姿が、この絵巻には描かれていることになる。


【参考文献】
『新修日本絵巻物全集』(角川書店、一九七七年)
『日本絵巻大成』五(中央公論社、一九七七年)
『新版 絵巻物による日本常民生活絵引』三(平凡社、一九八四年)
『日本の美術』二九八(至文堂、一九九一年)
『粉河寺縁起』(京都国立博物館 名品紹介)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録