「上杉本『洛中洛外図屏風』の季節外れの景物−黒田日出男『謎解き 洛中洛外図』W章・補注−」 藤原 重雄
    (科学研究費研究成果報告書『第二定型洛中洛外図屏風の総合的研究』研究代表者・黒田日出男、2005年3月)


 米沢市上杉博物館所蔵『洛中洛外図屏風』(以下、上杉本と略す)の核心的なモチーフとして、公方様(足利将軍邸)に向う大行列に注目すべきであることを明確に指摘したのは、大塚活美「輿に乗る貴人−上杉本洛中洛外図成立の一試論−」(『日本史研究』三二二、一九八九年)であった。これをうけて瀬田勝哉「公方の構想」(『洛中洛外の群像』平凡社、一九九四年)は、輿に乗る貴人を細川政元とする大塚説を退けつつも、「いくつもの点で傾聴すべきアイデアを提示している」(註41)としている。瀬田論文に刺激された黒田日出男『謎解き 洛中洛外図』(岩波新書、一九九六年)は、公方様への大行列に着目する妥当性を、美術史学などから指摘されていた上杉本における〈季節の乱れ〉を踏まえて説明し、ここに上杉本固有の制作意図が込められていることを論証した(W章)。
 この小文では、上杉本における〈季節の乱れ〉の具体例とされてきた季節外れの景物が、実際には屏風の中の季節の流れに適合的、もしくは別の理由で描かれた可能性があるとの指摘が、すでになされていたことを紹介する。これにより、上杉本における〈季節の乱れ〉が公方様の周辺の正月風景にほぼ絞られ、黒田が主張するように、上杉本の注文主の要求の一つが、公方邸の初春の風景とそこに向う管領クラスの行列を描くことあったことがより明確になる。筆者自身によるオリジナルな見解は何ひとつなく、多数にのぼる先行研究のなかから、重要な指摘を拾い上げるノートとして記しておきたい。

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 戦国期に成立した初期洛中洛外図屏風は、四季絵・月次絵の伝統に則って全体が構成されており、屏風のなかには四季の流れがある。すなわち、下京と東山を描く下京隻には、第六扇から第一扇に向って春から夏が、上京と西山・北山を描く上京隻には、同じく画面向って左から右へと秋から冬が描かれている。伝統的な枠組みといっても、通常の屏風・障子であれば画面向って右から左へ、春から冬へと季節が移ってゆくのであるから、基本的な季節の流れが左から右の方向であり、あまり例をみない。初期洛中洛外図屏風では、上京隻・下京隻の左右の配置を決しにくく、事実、下京隻を左隻に、上京隻を右隻とする図録・研究と、その逆にするものとが存在しているが、そのいずれとしても、向って左端に正月がくるのか秋がくるのかの違いで、時間や物語が向って左の方向へ進む一般的な原理に添わない点では同じである。この理由もはっきりとしないが、四方と四季との対応関係(東南西北=春夏秋冬)と京中から周囲を見渡す視点の設定との組合せから説明されるものであろう。絵画の基本的な文法である左向性よりも、四方四季の原理が上回った結果といえよう(このことは、大画面成立にあたっての原理として、絵画性よりも地図性が優先されたということにもなろう)。
 上杉本における季節外れの景物を具体的に図示して分析を加えたものが、武田恒夫『日本絵画と歳時』(ぺりかん社、一九九〇年)である。黒田著書においても、武田著書の図が利用されている(一一八・九頁)。この図によると、上杉本にはきわめて多数の季節外れの景物が描かれているかのように見える。ほとんど季節外れのない歴博甲本(町田本)・東博模本と比較するならば、なお一層その特徴が際立つ。しかしながらこの図には、一連の誤認による季節認定と別の論理で説明しうる事例が含まれている。これを順次みてゆきたい。

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 ひとつは、冬から初夏にかけての農作業風景である。これについては、小泉義博「洛中洛外図屏風の農作業風景」(『日本史研究』三三七、一九九〇年)の指摘がある。
 一見したところ稲作の光景と見えるがために、いずれもが季節外れとされてしまったものである。武田著書の図に従えば、上京隻第一・二扇に田おこし、下京隻第六扇の下方に青々とした稲穂、同扇から第五扇にかけて稲刈り・脱穀が描かれている。しかしながらこれらの光景は、麦作のサイクルと理解すれば季節に適合的な配置となる。そして小泉によれば、脱穀作業の一連の描写は、麦の場合のそれに相応しい表現が確認できるという。
 【挿図】には武田著書の原図を左右隻を入れ替え、関係のものも加筆しておいた。上杉本の歴史的な鑑賞形態については不明とせざるを得ないのであるが、向って右に下京隻を、左に上京隻を置いた場合、一連の農事として理解しやすくなる。

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 もうひとつは、下京隻第二扇の中ほど、因幡堂(平等寺)に描かれる灯籠を持った参詣人たちである。七月十五日の盂蘭盆会に際して、精霊迎えにやって来た姿と解釈されている(例えば、『図説 上杉本洛中洛外図屏風を見る』107頁)。同扇の下方、悲田寺の下(西側)に描かれる風流踊の光景も、町田本・東博模本では上京隻第六扇に描かれており、同じ七月・盂蘭盆会の行事と考え得るので、本来的には併せて考えるべきものだろう。
 しかしここでは、因幡堂の灯籠について、ありうる解釈のひとつを紹介しておきたい。大塚活美「洛中洛外図にみる下京の暮らし」(『平安京左京五条二坊十六町』京都文化博物館調査研究報告・六、一九九一年)には、興味深い指摘がある。下京隻第四扇の中ほど、六角堂の下(西側)の路上に描かれた、上に包みの懸かる箱を持った男二人について(『洛中洛外図大観』は傀儡とする)、饅頭屋の老舗・塩瀬家のあった饅頭屋町の位置に相当し、饅頭を買って帰る人を描いているのではないかとし、このような町名に由来する図像として、因幡堂に描かれる灯籠が東側の灯籠町に関わるものかと、きわめて簡単ではあるが指摘してる。(ちなみに灯籠町の名称の由来は、『平家物語』の「灯籠之沙汰」にみえる平重盛建立の灯籠堂が、東山から洛中の五条東洞院(現在の東洞院高辻)に移ってきたと伝承される浄教寺(秀吉により四条寺町へ移転させらる)の故地であったことからという。すぐ南東も本灯籠町である。兵藤裕己「当道の形成と再編−琵琶法師・市・時衆−」〈『平家物語の歴史と芸能』吉川弘文館、二〇〇〇年〉に研究史の紹介がある。)
 実際、上杉本のなかには、町名やその地域に特徴的な職人などを描く事例のあることがいくつも指摘されてきた。上京隻第五扇の中ほど、小河通りに描かれる靱(うつぼ)を製作販売している町屋の位置は、今日も靱屋町の名の残るところに相当する。同じく小河通り近くの第四扇中ほど、魚売りの町屋の描かれた位置は、今町という魚市場とでもいうべき地であった。また瀬田勝哉は、下京隻第四扇中ほどの米屋と馬の場面を場之町(米場の故地)と、下京隻第二扇下方の暴れ馬の描かれた場所を伯楽座の故地で馬市の開催された地と、忘れられしまったその場の記憶を掘り起こしている(「馬二題」『洛中洛外の群像』)。
 さらには、下京隻第三扇の祇園会の船鉾が描かれている位置は、新町通りの綾小路と五条坊門との間で、船鉾を出す町・船鉾町に相当する。上京隻第四・五扇の畠山辻子には遊女が描かれ、下京隻第四扇中ほどには、著名な医師であった竹田瑞竹邸の門前に順番待ちを描く(黒田紘一郎『中世都市京都の研究』)。
 このように、様々な生業を描いた図像には、その地を象徴的に示す場合がありうるのである。地名由来の図像、もしくは土地の記憶による図像とひとくくりにしておこう。因幡堂の灯籠もこうした図像類型に含まれることを考え得、〈季節の乱れ〉から消去できる可能性が認められよう。

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 残る上杉本の季節外れのモチーフとしては、詳細に見てゆくと検討すべき点は出てくるだろうが、上京隻第三扇の北野社の梅花と、上京隻第二扇の千本閻魔堂の桜花、同じく第一扇の鞍馬寺の桜花となる。説得的な理由を見出していないが、上京隻への正月光景の導入に引きずられて、それぞれにふさわしい花を咲かせることが許されたものと理解してよいのかもしれない。北野社や千本閻魔堂は、比較的近い箇所に描かれる金閣・高雄・愛宕山の周辺は雪景であるが、遠近の関係で極端に違和感があるものでもない。鞍馬寺の桜は、上端隅といった場所に位置し、次の季節の示唆といった解釈が可能であるかもしれない。
 とはいえ桜といえば、近衛殿には著名な糸桜(鶴崎裕雄「近衛殿の糸桜」)が必ず描かれているが、歴博甲本(町田本)上京隻第三扇では花咲くものとして描かれ、季節外れのモチーフとなっているが、東博模本上京隻第三扇・上杉本上京隻第四扇では咲いたものとはしておらず、ハレの季節としては描いていない。
 このように未解決な部分も残るが、上杉本における〈季節の乱れ〉の分布がかなりすっきりしたことと思う。歳末から年始にかけての一連の景物が、公方様への大行列の背景に控えているということが浮き彫りになったのではあるまいか。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録