春日権現験記絵

(『別冊歴史読本58 合戦絵巻・合戦図屏風』新人物往来社、2007年1月)

 宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。絹本着色、全二十巻(全二十一巻とあるのは校正ミス)。春日権現の霊験譚を集成した鎌倉時代後期の絵巻物。「春日権現霊験記絵巻」などとも言うが、成立当初のものとみられる銘に「春日権現験記絵」とある。目録(内容目次)と願文とが附属し、西園寺公衡の発願によって延慶二年(一三〇九)に完成し、春日社に奉納されたと考えられてきた。しかし最新の研究により、願文は制作の企画を述べたもので、正和年間(一三一二〜一七)までに完成し、おそらく公衡没時(正和四年:一三一五)まで手元に置かれ、実弟の興福寺東北院覚円の管理の下、春日社へ奉納されたとみられる(末柄豊「『春日権現験記絵』の奉納をめぐって」『日本歴史』六九五号、二〇〇六年)。詞書の編集には覚円ら興福寺関係者があたり、清書は前関白鷹司基忠父子四人に委嘱した。絵を描いたのは絵所預の高階隆兼で、豊麗な色彩と詳密な描写、冷静で客観性を感じさせる画面構成や人物との距離のとり方などに特色がある。明治に皇室の所蔵となり、一九八九(平成元)年に国へ寄贈された。模写本が数組知られているが、東京国立博物館には精密な剥落模写が所蔵されている。


 寿永二年(一一八三)七月、源義仲らの東国からの軍勢による圧迫を受け、平宗盛以下の平家一族は、自邸を焼き払い、安徳天皇を奉じ神器を携え、西海へと向かった。いわゆる「平家の都落ち」である。ときの摂政藤原基通も、これに従って京を後にしようとしていた。京中を五条大宮の辺りまで南下してきたとき、黄衣の神人(春日社の神人)が後ろから手招きするのが見えるので、牛車を停めたところ、その姿は消えた。また車を進めると、先と同じようであった。こうしたことが二度・三度ととなったので、春日大明神のお考えがあることであろうと、車を北へと返したが、前後を囲んでいた武士の中を分けて車を進めても、誰も咎める者はなかった。
 この『春日権現験記絵』巻四第三段に採られる説話は、『源平盛衰記』などに見える基通の都戻りの経緯とは異なっており、事実性においてはその経緯を確定し難い。おそらくは喧伝された噂のひとつで、基通の行動を正当なものと説明するとともに、春日権現の霊威と藤原氏・摂関家の守護神としての性格を語る物語として取り込まれたものであろう。詞書を清書したのも、基通に列なる近衛家の父子である。
 絵は基通一行を描くもので、上位貴族が出行する際の行列の前後を、甲冑で身を包んだ武士の集団が警固する。図版は前方を固める武士の一団である。鮮やかな色彩で細部の文様に至るまで綿密に描かれている。馬の毛色もそれぞれに異なったもので、馬上の武士にもやや顔が白い者がいて、高位の貴族でもあった平家一族であることを表現している。
 ここでは、大鎧の鎧・兜の組合せの描かれ方を見てみよう(なお、絵画に描かれた武具・甲冑については、藤本正行『甲冑をまとう人びと』吉川弘文館、二〇〇〇年、を参照)。騎馬する者の大半は、大鎧を着しているが、頭には立烏帽子をつけており、兜を被っていない。大鎧と一具になるはずの兜はどこに描かれているかというと、騎馬の者の近くで徒歩で従う者が被ったり、持ったりしている。例えば、先頭の上部に描かれている騎馬の者は、紅色の威(おどし)の大鎧で、鎧の大袖や草摺の下端(最下段の小札、菱縫の板)には、金色の丸い装飾(裾金物)を打っている。これと一具になる兜は、一人おいて後ろに、熊手を担いで従う者が被っている。兜の〓(革毎:しころ)に同じ金物があって、鍬形も付く立派なものである。先頭中央で鞭で先を指し示す騎馬の者は、銀の裾金物を打った大鎧を着けるが、その後ろに従う者が脇に抱えている鍬形付きの兜が、一具のものとなる。その後ろ、千鳥の裾金物の大鎧は、馬柄杓(馬に水を飲ませるもの)を持った従者の後ろ、扇と長刀を持つ徒歩の者が被っている。下方の先頭の大鎧の裾金物は揚羽蝶で、兜は後ろの長刀を持つ従者が被る。
 このように見てゆくと、おおよその対応関係が意識されて描かれているとわかる。むろん従者は戦闘要員であるのだが、主君の武具を携行したり、威儀を整えるものとしても付き従っていたのである。
 騎馬で兜も被った者は二人描かれていて、いずれも長い棒を空に突き出すように持っている。これは旗を持つ従者で、竿の先から紐で下げられている赤い筒状のものが、巻かれた旗である。平家の赤旗という定型化されたイメージに従って描かれている。またここには熊手が描かれており、『春日権現験記絵』巻二第二段の合戦の場面では、実際にそれが使用されている様子が描かれている。従って熊手は絵師にも見慣れた武具ではあったのだろうが、この平家の都落ちの場面に描かれた熊手から、源義経の弓流しや建礼門院の捕獲など、源平合戦の有名なエピソード(『安徳天皇縁起絵』参照)を連想するのは、必ずしも飛躍のし過ぎとばかりは言えず、むしろ計算づくの細部の描き込みとも思える。


 著名な武将が大活躍する合戦ばかりが、中世に行なわれていたわけではない。『春日権現験記絵』巻十九は、正安三年(一三〇一)に起こった春日社神鏡強奪事件の顛末を描くものである。作品が成立する直前の出来事であり、いまだ生々しい記憶が残っていたであろう。掉尾を飾る巻二十も、嘉元二年(一三〇四)の地頭設置による神木枯槁と神火の事件を扱っている。この二つの出来事は、絵巻詞書の撰者である興福寺関係者にとって、大和国の支配に関わるきわめて深刻な政治的な事件であった。こうした直近の出来事を、春日権現の神威が今も新たなることを語る説話として、この大規模な絵巻のなかに取り入れている。
 巻十九の扱う事件は以下のとおり。近年、興福寺の学侶は蜂起して、大和国の悪党を捜り捕えて流罪にするよう訴えた。これに反撥した悪党たちは、正安三年十月二十五日、春日社に乱入して大宮・若宮の神鏡計十四面を盗み取り、高尾というところに引き籠った。同二十八日、興福寺の衆徒は軍兵を率いて搦め捕ろうとし、大いに合戦をしたところ、悪党交名(リスト)にある池尻家政という者を戦場で討ち取り、その男の持っていた神鏡三面を取り戻した。その後、数々の奇瑞があって順次神鏡が発見され、三ヶ月のうちに全てが本社に戻った。
 この出来事を詞書とし、巻十九は全五段にわたって描かれている。うち第一段の絵は三場面からなっている。始めに、悪党が武装して春日社に押し入り、本殿の前の幣殿で勝ち誇ったごとく一服しているところ(*)。次いで静かで美しい春日山の雪景色を挟み、悪党と追捕の軍勢とが山間で合戦するところ。図版はその合戦の場面である。
 双方の軍勢が対峙している画面左側の描写には、当時の戦闘の方式のひとつのあり方が反映されているだろう。楯を持って前進する者たちと、同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。この楯の列の背後から、互いに弓を射掛けあう。さらにその後ろには、太刀や長刀で戦う者や大将らしき騎馬武者が続く。矢に当たるなどして負傷すると、背負われて逃れるが、遅れて敵方に寄せられ囲い込まれて、命を落とすことになる。画面右側で、片足を斬り落とされ、髻をつかまれて、まさに首を取られようとしている者は、詞書にいう池尻家政であろう。彼から奪い返した神鏡を手に提げる軍兵がいる。
 描かれた楯は、板二枚を副木で打ち付けたもので、裏には立てかけておくための棒や持ち手も見えている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が、追討方には違い鷹羽を描いたものもある。『男衾三郎絵巻』や十五世紀の『十二類合戦絵巻』などに描かれた楯の形状や使用法とも類似し、華麗精妙を尽くした甲冑刀剣とは異なるものの、実戦には欠かせない武具のひとつであった。

(*)内田澪子「『祐春記』から見る「神鏡奪取事件」−『春日権現験記絵』巻十九読解のために−」〈神戸説話研究会編『春日権現験記絵注解』和泉書院、2005年〉352-3頁では、悪党を追捕する興福寺衆徒軍と解釈する。


【参考文献】
『新修日本絵巻物全集』十六(角川書店、一九七八年)
『続日本絵巻大成』十四・十五(中央公論社、一九八二年)
『皇室の至宝 御物』絵画T(毎日新聞社、一九九一年)
神戸説話研究会編『春日権現験記絵注解』(和泉書院、二〇〇五年)


【キャプション訂正】
・34頁:刀と扇を持った従者 → 長刀と扇
・37頁上段:第二巻 → 巻十九第一段
・38頁上段:第十九巻 → 巻二第二段


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録