「院政期の行事絵と仮名別記」要旨   藤原 重雄 (『東京大学史料編纂所報』36、2001年10月)

 

 報告者は、院政期に生成した文化に関心があり、その形式・様式の成因を探るなかで、この時期から文献上に登場する行事絵に注目してきた。従来の研究では、とりわけ絵巻物について、後白河院の主導性=蓮華王院宝蔵伝説が強調されてきたが、多様な伏流と複雑な脈絡のもとに生み出されたとの認識にたち、前提となった慣行・蓄積とそこからの飛躍・変化とに注意してゆきたい。その際、史料論的な視角を取り込んで、層なす文化の一端を解明することを目指す。

 最初に、『看聞日記』裏書に記された〈仁安大嘗会御禊行幸絵〉奥書を紹介し、拙稿「行列図について−鹵簿図・行列指図・絵巻−」(この件を取り込んで、『古文書研究』五三号に掲載)の補足を行い、これから行われるべき行事を描いた作品であり、また鹵簿図(指図=交名)から絵巻(画巻)へと展開した事例として、『年中行事絵巻』へと連なるものと考えた。

 次に、『年中行事絵巻』をめぐる諸問題として、成立・原形についての議論と詞書の存在とを取り上げた。前者については、全体構想をもった〈視覚的故実書〉の如き流布したイメージに対し、先行研究においても書き継ぎや追加が想定されているほか、一部の巻には承安年間が制作主体者の意識にあったする説(國賀由美子「『年中行事絵巻』朝覲行幸巻の制作に関する一試論」『古代文化』四〇−一)が出されており、個別的な行事を契機に制作されたものの集積という想定により全体像を考える方向を提示した。後者については、現存の模本に詞書は伝わらないが、「やすらい花」巻には詞書があり(一具であることを疑問視する意見もある)、住吉模本奥書に「所々言書者雅経卿、絵者光長」とあるのを、画面注記とみることもできるが、詞書が存在したとみることもできると考えた。

 ここで話題を行事絵の詞書に転じた。まず、制作に記録(日記)が利用されていたこと、詞を読み聞かせることが行われていたことを確認し、行事絵に詞書があったとみるのが自然であると考えた。次いで、模本として詞書の残る作例や、絵は失われたものの詞書のみが残る作例を紹介した。とくに『後嵯峨院宸筆御八講之記』と、それを先規とした『延徳御八講記』(その三条西実隆跋文)は、仮名/真名の問題を提示しており、こうした行事絵制作にあたって、公家の漢文日記(別記となりうる)が参照され、仮名になおして詞書が付けられたという想定を導き出した。その際、絵を交えつつ記された「絵日記」と、古典としての(古典化すべく)過去の日記に絵を添えた「日記絵」とに概念化すること(秋山光和「日記絵について」『日本古典文学大系月報』八)は示唆的であり、『栄花物語』つぼみ花に見える、日記を絵本とした事例は注目される。

 さらに、行事絵の詞書と類似する表現形式として、〈仮名別記〉というカテゴリーを案出してみた。後白河院政期の仮名日記のうち、藤原隆房『安元御賀記』には和風漢文の記録体を読み下したような部分が認められ、源通親『高倉院厳島御幸記』『高倉院昇霞記』も文学的な和漢混交文の系譜にあるが、前者は特に記録的要素を認めることができる。これらは、日次記を対置しての別記でなく、特定の出来事を焦点化して独立させた点で、別記の範疇でとらえ得る性格を備えている。『梁塵秘抄口伝集』や『建春門院中納言日記(たまきはる)』の年月日記載にも留意されよう。

 以上の考察から、院政期の行事絵と〈仮名別記〉とは、文化的背景を同じくし、隣接して成立した表現形式と想定してみた。その成立の一因には、公事記録的で実務的なものから、記念的(治世・人物の賛仰・顕彰)なものへのテキストの変換が契機となっている。女性(性)との関わり、歴史物語や仮名日記の類の前史、女房日記を引き合いにする中世の男性の仮名日記など、考慮すべき点は多々あるが、現時点の試論として提示した。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録