順番「行列」 いつごろできたか?

藤原重雄(日本中世史)

『日本経済新聞』2007年1月20日(土)「「フォーク並び」いつから」(NIKKEIプラスワン15面)に関する取材の備忘 (2007年1月23日記)
  ※取材の再現というわけではありません、あしからず。


・「行列」という言葉の意味

 まずはじめに、「行列」という言葉の歴史的な意味を確認しておきましょう。日本の古代中世の用例では、〈権力者なり神仏なりが移動するときに組む隊列〉、〈儀式などで人々が立ち並び、また進むこと〉を指しています。もともとの語義としては、「行」は「行く」の意味ではなく、「列」と同じような意味、ないしは「道」「連なり」の意味で、整列することを指していたようです。しかし日本では結果的に、おおむね動きのあるパレード的な行列に対して用いられることになりました。最初の事例をお示しする用意はないのですが、平安時代の儀式や貴族の出行に際して「行列」の言葉が用いられるのはごく普通のことです。
 一方、〈順番待ち〉という現象に対して、「行列」という言葉が用いられるようになったのは歴史的に遅れると思います。ただし、偶然気づいた例ですが、五世紀初頭に鳩摩羅什が漢訳した『法華経(妙法蓮華経)』の授記品に「宝樹行列」とありまして、これは道沿いに〈立ち並ぶ〉の意味ですから、順番を待って〈立ち並ぶ〉様子を表す言葉として、「行列」はふさわしいとも言えます。また先の行列でも、順番(出番)を待つという側面があるので、共通性を認めることが出来なくもないのですが、こんにちの〈順番待ち〉の行列とは性格が異なるものでしょう。「行列」と言葉は同じでも、指し示している現象の成立要因は別物であることに注意する必要があります。

・阪神淡路大震災での経験

 〈順番待ち〉行列という現象が、古い時代の歴史を研究している者にとって、とても不思議な光景に見えたことがありました。阪神淡路大震災に親戚が被災して、ある程度落ち着いた頃、避難先の中学校へ見舞いに行きました。お昼にトン汁の炊き出しをして振舞ってくれるのですが、みな静かに一列に整列します。そして「小さなお子さんと並べないお年寄りの分はお先にどうぞ」といったことを、ボランティアさんが案内されていました。避難所生活そのものが日常化しつつあったこともあるのですが、この秩序だった光景は、重力の方向が混乱してしまったかのような街の風景とともに、とても印象に残っています。つまりこの〈順番待ち〉行列が成り立つには、大きな原則と例外とが、ひとびとによって暗黙に共有されていることが前提となるのです。これは日本の古代中世にはなかった現象ではないかと想像しています。

・銀行ATMの〈順番待ち〉行列

 今日の典型的な〈順番待ち〉行列としては、銀行ATMがあるでしょう。新聞の記事では、「フォーク並び」(窓口複数に対して一列待ち)が話題になっていましたが、〈順番待ち〉行列のなかでの種類の違いについては、ここであまり立ち入らないことにします。ATMの前で〈順番待ち〉の行列が出来るのは、貴賎貧富を問わず、そこに立って待つということを通じて、窓口=機械を利用する権利を得るためです。つまりそこでは、機械を利用する目的は度外視され、利用者は身分も地位も均質な存在となります。「並ぶ」ことで差異が生ずるのは「待ち時間」であって、そのための時間と労力を払うことが価値を生み出すわけです。そしてこれが大事なことですが、そのことを「並ぶ」人たちは言われずとも知っており、黙ってそのルールに従っているのです。

・現象としての〈順番待ち〉行列の成立

 以前わたしは、『歴史学事典』3(弘文堂、1995年)の「行列」という項目の末尾で、次のように書きました。
「現在では、順番待ちの列が、一般的に行列と理解されているが、その成立時期は明らかにされていない。この行列は、規範(ある種の対等意識を含んだ)や時間に対する観念を内面化して共有することが成立の要件となる。古代・中世の段階では、賑給・施行などに人々は群がったようであり、明確な列をなしたか不明である。近世以降、意識の成熟や権力による統制(例えば、先の行列に対する作法を徹底させる)などを要因として徐々に形成され、明治以降の近代国家はとくに強く働きかけたものと推測されるが、具体的な検討は今後の課題である。」
 これを書いてから以降、きちんと調べていませんが、基本的な見通しという点で考え方は変わっていません。軍隊と学校が近代的な身体を育成し、近代的価値観が内面化されていったというのは常識的な理解になっており、秩序だった〈順番待ち〉の成立の前提と考えられます。例えば、多木浩二、吉見俊哉、タカシ・フジタニといった方々、ないしは教育社会学のお仕事を拝読すれば、上記のような見通しがたちます。しかし歴史学者の立場からすると、記号論や社会学では江戸時代の実態的な研究が踏まえられているわけでないので、わかりやすい図式には多少の不安と不満が残るわけです。近世都市社会史を研究されている方などにご意見をうかがっておけばよかったですが、すみません確認しておりません。近世の方々が「当たり前じゃないか、並ぶ!」と言われればそれにキチンと従います。こういう事象は、証明するというよりも、時代的な感覚から想像するものですから。以下は標題からすると余談ですが、わたしの研究分野からすると本題になります。


・中世に〈順番待ち〉行列はあったのか

 先に述べましたように、中世に〈順番待ち〉の行列はなかったのでないかと考えています。一般論として、「なかったもの」を証明するのは学問的に難しい課題ではあるのですが、陰画としてその見通しをお示ししておくことにします。
 まず第一に、16世紀ぐらいまでの範囲に限られますが、〈順番待ち〉行列を示す語彙や表現が思い当たらないことです。物を貰う、受け取る、買う、場所を使う、施設を利用する、サービスを受ける、そういった時にどのような言語表現がなされているであろうかと考えてみるのですが、並んで待つという情景にふさわしい記述はどうも思い浮かばないのです。これはわたしの史料を読む経験がまだまだ足りないので、そうした言語表現が出てくる可能性をあまり感じることができないでいる、といったところに留まるものではあります。

・中世の施行の光景

 第二に、宗教的な物語=歴史を描いた絵画に見られる施行(せぎょう)の様子のとりあげてみたいと思います。施行とは人々に布施をほどこすことですので、〈順番待ち〉の行列が出来そうな状況のひとつと考えられ、検討に値するでしょう。例えば、11世紀に描かれた東京国立博物館所蔵(法隆寺絵殿旧障子絵)『聖徳太子絵伝』には、法興寺での無遮大会(むしゃだいえ)を描く場面があります。この法会は、王が施主となって僧俗貴賤を問わず人々に財と法を施すもので、巻かれた布を持つ人や、袋をかついで中門から出てくる人々の他に、東門の外に用意された米俵の前に分配を待つ人々が居ます。しゃがんで取り囲みながら待つ、というのが相応しい情景に見えます。(「e国宝」で『聖徳太子絵伝』の右から3番目の画像を拡大してみてください。中央のやや上のあたりです。)
 次にみるシアトル美術館所蔵『源誓上人絵伝』の薬師堂縁起絵の事例はおもしろいものです(Web上に画像なし)。14世紀ごろの作品です。残念ながら対応する文字テキストが残っていないので、どのような出来事なのか正確には分らないのですが、主人公となる僧侶が力を尽くして堂舎が完成したことを描いたと推測されます。こうした寺社の落慶供養を描く際には、もちろん立派な建物が描かれるのですが、本来的な宗教儀礼(供養法会など)の様子が加わることがあります。ただ『源誓上人絵伝』の場合、そうしたハレの儀式というより、その後に行なわれる〈もどき〉の芸能(余興)を描いているようです。さらに、同時代的な価値観を知っていないと分りにくい表現ですが、こうした儀式にあわせて行なわれる施餓鬼(貧しい人々への施行)を門前に描いています。絵師が知っているかぎりの図像を描いて埋めたといった趣きで、数と種類の多さを表現しようとしています。それは「並ぶ」というより、「群がる」というものでしょう。
 もうひとつ、これは有名な場面ですが、『遊行上人縁起絵』に描かれた甚目寺での一遍の施行の場面は示唆的に思えます。すでに黒田日出男氏の『境界の中世 象徴の中世』(東京大学出版会、1986年、144〜50頁)に分析があり、厳然たる身分的差別による共食・別食の関係と浄・不浄の対立についてその構造を読み取られています。この作品は複本がたくさん作られているので表現に違いはありますが、供養を受ける集団が身分ごとに明確に分けられ、そのうちの三つは輪をなしています。中心に飯の入った大きな曲げ物があり、椀によそう僧がいて、それを丸く取り囲むように供養を受けるひとびとが描かれています。「並ぶ」というより「群がる」を基底にした集団的行動様式ですが、とても秩序だった印象を受けます。中心から等距離という円形の構図には、一揆の傘連判状(からかされんぱんじょう)に通じる対等性(同一身分内での平等性)が表現されているかもしれません。円形の持っていた象徴的な意味合いについて論じた研究があったかも知れませんが、今すぐ出てきませんので、勝俣鎮夫氏『一揆』(岩波新書、1982年、73頁)をあげておきます。
 ただしこれらの場面の解釈には、注意しなければならない点があります。描かれている情景を、そのまま歴史的にあった光景と理解してしまうのは短絡的であるということです。ここで施行を受ける人々は、絵画を制作・鑑賞する立場からすれば蔑視の対象であった一般民衆であったり、歴史的に差別されていた人々であったりしますから、ネガティブな価値をもった様態(雑然とした様子)で描くことは、対象への負の意味づけの一環になります。それでも、『遊行上人縁起絵』はむしろ整然とした様子で描こうとしており、これはその時代なりの秩序だった光景に見え、〈線状に整列して待つ〉という行動様式が一般的ではなかったであろうことは、想像してよいと判断しています。今日の「長蛇の列」に対比するならば、「大きな輪」「いくつもの円」が出来たのではないでしょうか。〔補注〕

・上杉本『洛中洛外図屏風』の光景

 〈順番待ち〉の光景と取れなくもない絵画表現としては、上杉本『洛中洛外図屏風』(下京隻第四扇)の医師竹田瑞竹の邸宅の門前があります。洛中洛外図屏風を歴史学的に読み込んだ研究者のひとりである黒田紘一郎氏は、次のように記述しています(『中世都市京都の研究』校倉書房、1996年、250〜54頁)。
 「門前には男七人女三人子供一人の一一人の人物がリアルに描きこまれている。輿のかたわらで女が子供をかかえてオシッコをさせており、その様子を二人の女が心配そうに覗いている。門前に腰をおろした四人の男たちは、力なく蹲りいかにも病人である。扇を口にあてた男の首には襟巻様のものが結ばれていて、咳でもしているのであろうか。一人の武士は今門に入ろうとしている。これらの人物に診察までの長い退屈な待ち時間がシンボライズされている。同時に瑞竹の医者としての繁盛ぶりがあざやかに活写されている。」
 これまた見事な観察と言えますが、門前に描かれている人物=患者とみてよいのかどうか、やや疑問が残ります。というのも、中世の絵巻物に見慣れた目からしますと、繁栄する邸宅の門前には、主人を待つ従者という人物像が定型的な風俗表現として見られますから(佐野みどり「絵巻に見る風俗表現の意味と機能」『風流 造形 物語』スカイドア、1997年)、門前に居るのは病人自身に限らず、主人が治療を終えて出てくるのを待つ供人ではないかとも理解可能なのです。黒田紘一郎氏の説くところによれば、瑞竹は、後奈良天皇の脈診をしたり、幕府御用医師として八面六臂の活躍をしておりましたので、門前に描かれているような人物が彼の患者層としてふさわしいのかも、注意を要するでしょう。したがってここでは、〈順番待ち〉と解釈するにはなお分析の必要があるとして、断定はひかえておきます。ただしこれらの人物は、評判の高い医者、繁昌している医者という含意になりますから、黒田紘一郎氏の着眼そのものは慧眼と言うべきものです。
 ちなみに黒田日出男氏は、佐倉の国立歴史民俗博物館が所蔵する『江戸図屏風』に描かれた大名屋敷を分析して、門前に人だかりができているのを、改易・閉居や評判などを示すための記号的な表現ではないかと解釈しています(『王の身体 王の肖像』平凡社、1993年、118〜121頁)。またわたしも14世紀の絵巻物『慕帰絵』の一場面について小文(PDFの22頁)を書いていますが、屋敷の主を暗示するような表現が門前にみられます。16世紀の洛中洛外図では、寺社や邸宅の性格と関連するような人物が描かれている場合があり、門前の風景の含意を意識的に読み解いてゆくことができるかも知れません。


・近世における「近代」化の準備

 16世紀頃までの様子と近代の大きな動きはだいたい見当がついてきたのですが、よくわからないのが江戸時代、近世の様相になります。これもすでに研究のあるところなのですが、朝鮮通信使などの行列をひとびとが見物するに際しては、幕府などからこと細かな作法に関する指示が出されているようです。こうした政治的な命令を通して、ある種の規範意識とそれに従った行動様式とが形成されてくる可能性はあるでしょう。また、さまざまな芸道や儒学的な教育においては、ある程度自主的な身体の育成がなされていたと思われます。こうしたものが「近代」的な身体の形成の前提となっていたことを想定しなくてもよいのか、わたしには俄かに分りません。むろん、その範囲や規模、徹底性において、近代にきわめて大きな段階差のあることは確認しておいた上です。前の時代と切り離して近代の問題として論じてしまうのでなく、近世の状況を史料的に踏まえたうえで、通時代的に議論をしてもらえればと考えているわけです。そのように考えていると、中世でも、宮廷儀礼や顕密仏教の法会、禅律系の寺院内での生活規範など、発端になるものはないのか、確認しておくことは課題になりましょうか。
 これは記号論風なエッセイでして、歴史学の論文にするにはいささか練り上げが足らず、ひとまずWeb上の軽い読み物としておきます。ご存じのことがありましたら、ご教示ください。

〔補注:2011年6月記〕
『中臣祐賢記』文永六年三月廿五日条(『春日社記録』二・77頁)にみえる叡尊・忍性による非人施行の様子は以下の通り。施行全般に一般化はできないと考えられますが、儀礼的に整ったものとなっています。
般若寺ニテ文殊供養次第、/非人二千人ヲ集テ、其西ノ野ニテ南比〔北〕ニナラフ、十座〈ナカレ:ルビ〉ニ居タリ、午剋〈巳歟、〉ニ面々ニ米一斗、フクロニ入テ、・・・此等於面々キタノハシヨリ供之、ヲノレト次第ニ取継テ伝供スル也、非人皆以持斎、面々前々ニミアカシ(御灯)ヲ進之、此等ヲ供之時奏音楽、…

〔補注:2013年8月記〕
ケンペル(齋藤信訳)『江戸参府旅行日記』(平凡社、東洋文庫303、1977年)にみえる、街道での左側通行の習慣。1691年に最初の長崎〜江戸の往還。
「これらの街道は幅広くゆったりとしているので、二つの旅行隊は触れ合うこともなくすれ違うことができる。日本国内の仕来りに従っていうと、上りの、すなわち都に向かって旅する者は道の左側を、下りの、つまり都から遠くへ向う者は、右側を歩かねばならないのであって、こうした習慣は定着して規則となるに至った。」(16頁)
C.P.ツュンベリー(高橋文訳)『江戸参府随行記』(平凡社、東洋文庫583、1994年)の記述。1776年に長崎〜江戸を往還。
「この国の道路は一年中良好な状態であり、広く、かつ排水用の溝を備えている。…さらにきちんとした秩序や旅人の便宜のために、上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は右側を行く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、邪魔したり、または害を与えたりすることがないよう、配慮するまでに及んでいるのである。このような状況は、本来は開化されているヨーロッパでより必要なものであろう。ヨーロッパでは道を旅する人は行儀をわきまえず、気配りを欠くことがしばしばある。」(106頁)
「道路は広く、かつ極めて保存状態が良い。そしてこの国では、旅人は通常、駕籠に乗るか徒歩なので、道路が車輪で傷つくことはない。そのさい、旅人や通行人は常に道の左側を行くという良くできた規則がつくられている。その結果、大小の旅の集団が出会っても、一方がもう一方を邪魔することなく互いにうまく通り過ぎるのである。この規則は、他の身勝手な国々にとって大いに注目するに値する。」(254頁)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録