「永徳筆「洛外名所遊楽図屏風」と上杉本「洛中洛外図屏風」談義」   藤原 重雄

(『東京大学史料編纂所附属画像史料解析センター通信』40号、2008年1月)


*『芸術新潮』二〇〇七年一一月号「特集 天下の狩野永徳!」の取材記事のために用意したメモの一部をもとに、文献注を付した。
*新出の狩野永徳筆「洛外名所遊楽図屏風」については、以下の書籍・雑誌で紹介されている(新聞報道は省略)。また筆者不参加であるが、学会・シンポジウムでも取りあげられている。
◎狩野博幸「洛外名所遊楽図屏風」(『国華』一三三一「特輯 洛外図」、二〇〇六年九月)
◎狩野博幸監修『桃山絵画の美』(『別冊太陽』一四五、平凡社 、二〇〇七年二月)
◎鈴木廣之編『名所風俗図』(『日本の美術』四九一、至文堂、二〇〇七年四月)
◎京都国立博物館編『狩野永徳』(特別展図録、二〇〇七年一〇月)*以下、『図録』と略す。
◎狩野博幸『狩野永徳の青春時代 洛外名所遊楽図屏風』(アートセレクション、小学館、二〇〇七年十一月)*以下、『AS』と略す。
○『BRUTUS』六二四「国宝って何?」(マガジンハウス、二〇〇七年九月一日)
○『和樂』二〇〇七年九月号「特集 狩野派再発見!」(小学館、二〇〇七年八月)
○『アート・トップ』二一八「巻頭特集 狩野永徳」(芸術新聞社、二〇〇七年一一月号)
・マシュー・マッケルウェイ「名刹と武士−新出洛外図屏風の意義−」(美術史学会東支部例会口頭報告、二〇〇六年九月二三日。『美術史』一六二、二〇〇七年三月、に英文要旨掲載)
・狩野博幸「新発見の永徳筆洛外名所遊楽図屏風」(京都国立博物館土曜講座、二〇〇七年一〇月二七日)
・京都国立博物館国際シンポジウム「狩野永徳研究の現状と課題」(二〇〇七年一一月三日)
◎東京国立博物館「対決−巨匠たちの日本美術」展(2008年)、
◎栃木県立博物館「狩野派−400年の栄華−」展(2009年)にても展示。


一、上杉本との類似性

 昨年秋〔2007年10月16日〜11月18日〕の京都国立博物館「狩野永徳」展で広く紹介された、新出の狩野永徳筆「洛外名所遊楽図屏風」(以下、新出洛外図と呼びます)について、気のついたところを雑駁にお話します。
 一昨年の最初の新聞発表や、展覧会のプロモーションでは、「永徳の真筆発見」「国宝級」などの文字が躍りました。どの記事も似通っており、食傷気味になったかと思いますが、この作品を米沢市上杉博物館所蔵「洛中洛外図屏風」(以下、上杉本)と同一の絵師、つまり永徳筆と見ることには異論ありません。初めてこの屏風を目にしたとき、「狐につままれる」とはこうしたときを言うのだろうという感覚でした。上杉本の金雲が輪郭のくっきりした盛り上げ胡粉であるのと違って、新出洛外図は金の霞がもやのようにかかり、どこか夢幻的な印象も、こうした初対面となったのだろうと思います。

 落ち着いて細部を見てゆきますと、あちこちで「見たことがある」という既視感にとらわれました。幸い上杉本は、人物の描写などを観察できる図版が出ており(註1)、展示以外でも繰り返し目にすることが可能で、それらとの類似性を思い起したのです。しかし持参した図版と見比べ、また後日詳しく確認してゆくと、この既視感というのが、ある意味では思い違いでもあったことに気づかされました。このあたりの点を、人物像に絞って見てゆきましょう。ほんとうは、国立歴史民俗博物館所蔵甲本(歴博甲本=町田本)・東京国立博物館所蔵模本(東博模本)、あるいは扇面・画帖など、他の初期洛中洛外図を含めて比較する必要がありますが、とりあえず上杉本を参照して話をすすめます。図示できるのはわずかですので、『洛中洛外図大観』と上掲の『狩野永徳の青春時代』などをご参照いただけると幸いです(例示として[『掲載書』頁]をあげました)。以下、上杉本の一扇内での高さは四分割して上からABCDとし、上京隻第一扇Aを〈上1A〉と記します。新出洛外図では、宇治隻・嵯峨隻と称して、高さはおよそABCに分け、〈宇1C〉などと表記します。

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 新出洛外図で秋を中心に描く隻の嵯峨は、上杉本にも描かれており〈上5A〉、両者の類似性を容易に看て取ることができます[『AS』26〜28頁]。とくに大堰川(桂川)べりの紅葉のもとでの宴の様子は、印象に残りやすい光景でしょう[『図録』159頁、『AS』85頁]。上杉本でもほぼ同じ位置に描かれています。また鷹狩りの一行[『AS』7頁]も目をひき、上杉本に描かれていたことや〈上2B・下5B〉、紅葉狩りの一行〈上5B〉を思い起こします【図1】。ただ並べて比べてみると、定型的な図像という側面もありますが、かたちまでそっくり同じというわけではなく、むしろ思っていたより違うところが多いことに気づいて、自分の記憶のあいまいさに焦ります。判で押したような相似性ではなく、描かれている内容の同一性が加わった類似感で、こうした事例は両図中にたくさん見出せます。また鷹狩り一行では、右上から左下という構図の斜線の方向(逆勝手)が上杉本と同じであることも、紅葉狩りの例をあげましたが、関与しています。

 気を取り直し、図像の型までもほぼ同じくする事例をみてみましょう。例えば琵琶法師[『芸術新潮』83頁]。新出洛外図では、嵯峨の街並みのにぎわいを表現するモチーフとして描かれています〈嵯2C〉。上杉本でも、当時のメインストリートであった小川通りに描かれます〈上2C〉。服装の色や犬に追い立てられるさまを含めてそっくりです。同じように、武士の一行〈嵯3Cと下1C・上1D〉【図2】、旅商人の一行〈嵯3Cと下2C〉【図3】・〈宇1Cと下1D〉【図4】なども酷似する図像です。人物ひとりひとりもさることながら、まとまりとしての類似性があります。これらは、人物を描くときの仕草とその組合せ(群像の作りかた)に応用され、肩車〈宇3Bと上2B・上3A〉【図5】、武士の一団〈宇3Cと下5D〉、あるいは巡礼〈嵯2C〉[『図録』154頁]と鳥刺〈上1C〉や僧俗三人の道連れ〈下5D〉などにみられる相似性になります。
 人物の服装や身分の同一性といったレベルからさらに細部へ分解して、ひとりひとりを形づくる要素にまで戻ってみても、両本には類似性が見られます。例えば上杉本に頻出する片手を差し出すしぐさ〈上1B・上2D・上3C・下5D・下6C〔本誌では上1中・上2下・上3中・下5下・下6下と記載〕など〉【図6・7参照】は、新出洛外図でも確認されます〈宇2C[『AS』62頁]・嵯2C〉。馬の首をひねった姿〈嵯4Bと上1C〉【図6】もそうした事例といえましょう。また、形ではなく彩色の点では、俗人男女の服に見られる薄緑(萌黄色)の地に濃緑で模様を描くものや水色(浅葱色)が、発色なども含めて特徴的と思います。もっともこのレベルの細部になると、歴博甲本も比較に出す必要が出てきますが。

 画面にかなり近づいてしまいましたが、ふたたび視野を広げてゆきますと、建物を含めた場の情景の類似性があります。嵯峨隻の釈迦堂の門前、俵を担った牛や俵を馬から積み降ろす場面[『AS』18・19頁]は、上杉本の著名な場面を思い起こさせます【図7】。〈下4C〉(註2)と〈上5D〉ですが、牛の向きが反転したりするものの、場の雰囲気の近さは顕著です。新出洛外図のこの場所に注目してみますと、上杉本〈上5A〉[『AS』83頁]のみならず、歴博甲本・東博模本においても俵を運搬する人々を描き、画面向かって右から釈迦堂−米屋−天龍寺と配置しており、嵯峨の都市的な景観を描くのに欠かせない要素となっていたようです。嵯峨には土倉・酒屋が立ち並び、経済的な要衝であったことはよく知られています(註3)。上杉本と新出洛外図とを比べますと、赤い衣の女性が店へ招じ入れようとしているところや、米屋の前の屈曲した溝が共通します。中世の嵯峨を描いた指図には、釈迦堂から南下する直線道路(朱雀大路)に溝がありますので、それを意識したものではないでしょうか。上杉本と新出洛外図とでは、同じソースを用いながらも、場面の大きさなどを考慮しつつ、大きく手を加えて場の情景を作り出しているようです。

 以上のような、また後述する事例からも、両本では類型的で固定化してしまった「型」の近似性というものではなく、絵画表現を実現している諸要素と、表現しようとしている内容なり気分・雰囲気がとても近いと感じます。これは、絵師が学習段階で習得した「型」を、咀嚼し内面化した上で、自在に操って表現したものだと考えられましょう。「天才」と言ってしまえばそれまでですが、一面では、粉本による修練の良き成果と思います。目に付きやすいところをごく簡単に紹介しましたが、「似ている」という感覚はもっと複雑な要素から成り立っており、分析を深めることによって、絵画制作の秘訣の一端に触れることもできましょう。こうした表現形成に対する感覚は、歴史学の絵画史料論にとっても重要なものです。
 新出洛外図と上杉本との制作時期の前後関係ですが、人物の描き方を見ますと、上杉本の方が気持ち小さいことに留意したうえで、全ての箇所で同じように言えるわけではありませんが、上杉本に見られる描き起し線(色を塗った後に輪郭や衣を描く墨線)の素早さ・闊達さ、また動きを感じさせる人々の姿態などが、新出洛外図では相対的にやや控えめであるように思われ、新出洛外図を上杉本よりも前の置く意見には、そのあたりの感覚も含まれているのかと考えています。上杉本の速筆ながら活気を表現するのに的確な墨線には、絵師の成熟や自己のスタイルへの自信を見て取ることは可能でしょう。加えて、新出洛外図の画題の伝統性と金霞とが、より古風な印象を与えることになります。

 ところで、これも発見時に上杉本との近似性が注目されてきた作品に、滋賀県立近代美術館所蔵の「近江名所図屏風」があります。これもたいへん美しい作品で、中世都市の景観を伝える貴重な史料でもありますが、上杉本や新出洛外図とは、志向性に何か決定的に違うものを感じます。「型」の面では上杉本かと見まがう細部がいくつもあるのですが、細画の部類とはいえ人物は相対的に大きく、その姿や輪郭線を描く素早い筆遣いには生気・活撥さが抑えられ、山・樹木・建物の表現には、精巧さ丁寧さとともにどこか人工物的な静止性があり、全体としてとても静かで落ち着いた印象を受けます。たぶんこれは、ある種の洗練の結果だろうと思います。新出洛外図によって、上杉本と滋賀県立美術館本との距離感がつかみやすくなりました。


二、新出本の芸能的表現

 さて新出洛外図に描かれている人物について、もう少し立ち入ってみてみましょう。いずれも何らかの芸能に関わるものです。

【祭文】 新出洛外図の嵯峨釈迦堂の境内、上杉本では革堂の前で〈上5B〉、短い錫杖(金杖)を振りながら何かを唱え、それを巡礼・乞食がありがたく受けている光景です【図8】。ざんばら髪も特徴的で、山伏・禰宜・陰陽師などが起源とされる「祭文」(さいもん)という芸能者の前身のようです。もともと祭文とは神仏への祈願・祝詞の文ですが、近世にはその詞章形式によって種々な内容を語る大道芸・門付け芸となりました(*4)。両図では、徳のある宗教者として、たいへん敬意が払われている様子です。この点、『人倫訓蒙図彙』に描かれる近世の祭文は、かなり零落した印象です。すでに平安時代の『今昔物語集』巻十七には、錫杖を振り、宝螺(法螺)を吹き、地蔵の名を称えて人々に善心を催させたという僧侶がおり、祭文に近い姿の宗教者がいたのですが、中世段階の祭文の具体相はわかっておらず、貴重な図像です。上杉本・新出洛外図ともに首に木枠のようなものを掛けていますが、山伏の結袈裟(ゆいげさ)の意匠化したものと考えておきます。硬いもののようなのですが、「戒」の象徴だったりするのでしょうか。今後、気にかけてゆこうと思います(*5)。

【尺八】[『芸術新潮』85頁] 次に見るのは新出洛外図で平等院の釣殿に腰掛けて、竪笛を吹いている男です。この笛は、時代劇で馴染み深い、虚無僧の吹く尺八にしては、いささか小さな印象を受けます。室町時代から江戸時代初期にかけて、現在では一節切(ひとよぎり)と区別している長さ三三センチ程度の尺八が幅広い階層に流行し、室町小歌と呼ばれる歌謡の伴奏にも用いられました(*6)。描かれているのはこの尺八でしょう。上杉本の門付けする場面〈下4D〉[『図録』145頁]や他の作品(「三十二番職人歌合」、東京国立博物館所蔵「月次風俗図屏風」)に現れる「薦僧」、すなわち後の虚無僧へつながる人物像は、いかにも宗教芸能者としての出で立ちをしています(*7)。対して、上杉本の三十三間堂〈下1A〉と新出本の平等院境内で尺八を吹く男の集団は、服装自体は一般俗人と大きく変わりません。したがって、外出に遊興の道具として携えていた可能性もありますが、脚半をして腰には巻いた薦莚を付け、ともに四人組で一人が尺八を吹くまとまり(残り三人は歌うのでしょう)にも意味がありそうで、芸能者・職能民と見てよさそうです。江戸時代に虚無僧として整理統合される以前の芸能民を描いていると考えられ、中世の「薦僧」に含まれるのかどうかも問題です。先の祭文ともども、文献史料ではあまり現れてこないタイプの芸能民、もしくは特定の芸能民と結びつけて考えてこられなかった図像であり、これら絵画史料を手がかりに検討が深められると思います(芸能史が御専門の方は、すでに何かお気づきかも知れません)。伝承では、虚無僧の創始者とされる僧侶が宇治の辺りで活動しており、上杉本・新出洛外図で描かれた場所には、そうした職能民集団の根拠地が洛南・宇治にあるという認識が背景にあるのでしょう。場と人物像の布置をめぐっても注目されます。

【禅宗寺院の中庭の稚児】[『芸術新潮』82頁] 二人の稚児が前後に並んで歩いています。新出洛外図では天龍寺[『AS』21頁、『図録』154頁]、上杉本では南禅寺の中庭です〈上4A〉。『洛中洛外図大観』の解説では「何かを屋根に投じる」とされていましたが、新出洛外図によって、そうではなさそうだと分りました。二人がペアで前後に並び、両腕を横に上げて、時には腰を捻るなどの動作を交え、歌いながら歩く儀礼的な所作ないしはお遊戯のようなものではないでしょうか。むろん禅宗寺院では、あらゆる所作が修行・教育でありますから、そうした意味合いも持っていたでしょう。五山寺院の生活誌を調べるとわかるかもしれませんが、いまのところ謎です。

 これら三種の人物像は、類似の図像が上杉本にも存在していたのですが、新出洛外図に若干大きく明確に描かれていたことで、問題意識を持つことができました。上杉本だけでは見えにくかったものが、新出洛外図によって、しっかりと眼に入るようになったのです。加えて、動きや音といったことにも注意してこれらの人物像を読んでみましたが、そうした世界を呼び起こす巧みな表現になっています。


三、「洛外図」と「京中」図

 新出洛外図を拝見した後に、国立歴史民俗博物館で洛中洛外図屏風を柱のひとつにした展覧会がありました(*8)。上杉本は出陳されませんでしたが、先行する歴博甲本のレプリカを露出で向かい合わせに置き、床面には地図貼って、大きさやかたちを実感できる工夫がなされていました。新出洛外図を念頭に、レプリカの間で立ったりしゃんだりしていると、今でこそ「洛中洛外」図と言っておりますが、これらは「洛中」図なのだとの感を強くしました。洛中洛外図屏風では、画面の下三分の二に、洛中の屋敷・町屋が地理的な関係を踏まえながら描写されています。洛外の寺社・名所は画面の上方に遠景として小さめに、座敷に座った見た場合には視線よりも高い位置に描かれています。むろん「洛外」の霊場に取り囲まれた特別な地という性格抜きにして「洛中」はありえないのですし、「洛中」+「洛外」ではなく「洛中洛外」で都市京都を把握する総称でもあるのですが、洛中洛外図屏風の主題は「洛中」にこそあると思います(*9)。洛中洛外図屏風の文献上の初見である『実隆公記』の土佐光信の「新図」も、「京中」を一双に描くとあったのです。

 新出洛外図の出現は、おそらく平安時代以来続いてきた、京都近郊の名所を描いた絵の伝統をくっきりと思い出させてくれました。名所には、それぞれにふさわしい季節や人々の営みがセットとなって定型が蓄積され、それらを四季なり春秋なりで組み合わせていたのでしょう。『国華』一三三一号で新出洛外図とともに紹介された、これも新出の「東山名所図」と太田記念美術館所蔵の「洛外名所図屏風」からも、そうしたことを考えさせられます。景観表現の流れとしては洛外の名所絵がメインであり、洛中での祭礼・行事も個別に描かれるようになっていました。図像の比較では省略しましたが、洛中洛外図屏風の場面場面を切り取ったかような小画面の扇絵・画帖が残されています。洛中洛外図屏風というジャンルは、洛中の都市的な広がりを主題化し、周辺の名所を含めて緊密な地理的関係によって大画面に統合する構想のもと、一五〇〇年前後に新たに成立したものと言えそうです(*10)。

 そして洛中洛外図屏風の何よりの特徴は、位置関係の地理的な正確さでしょう。ズレや歪みを強調することによって、絵画は「写実」ではないとする言説がひところ猛威を振るいましたが、現実との対応関係に対する意識の質的な差異を一様に塗りつぶす点で、行き過ぎたものでした。「洛中」を描くのであれば、内裏や将軍御所、祇園会や風流踊、職人や町屋といった「おいしい」場面を、雲や霞でゆるやかに繋ぐことで構成できます。実際、歴博乙本からは、そうした制作のあり方へ逆行したかのような印象を受けます。やはり洛中洛外図屏風の成立には、「洛中」を地図のように描く意志もしくは趣向が必要です。それは都市京都の支配者層の周辺から出てくる発想でしょう。
 瀬田勝哉氏や黒田紘一郎氏は史料上の用語としての「洛中洛外」を検討し、室町・戦国時代の「洛中洛外」概念を浮き彫りにしています(*11)。「洛中洛外」とは、権力が政治的・経済的支配の対象として一体的に把握する空間でした。応仁の乱後の「洛中洛外」ではまた新たな様相を見せますが、政権が「洛中洛外」を中心とする領域を支配する体制に縮小していることも注目されます。黒田紘一郎氏は、この「洛中洛外」概念と『実隆公記』の「京中」の語とを区別されるものとみて、光信の「新図」を洛中洛外図屏風とすることに慎重です。しかし、「京中」の言葉に洛中への焦点化を認めることと、「新図」の描写範囲が「洛中洛外」であったこととは、必ずしも矛盾しないように思います。盆地という地理的な条件を前提に、都市京都を切り取る枠組としての「洛中洛外」概念と洛中洛外図屏風とは、重なり合っているといえましょう。洛中洛外図屏風の構図は、支配層の空間認識を映し出したものでした。同時に彼らは洛中での生活者でもあったからこそ、正確な地理的関係(すなわちそこで生きている者にとって当たり前な位置関係)で描かれ、町々の性格を暗示する図像(それは今日なお解ききれていないと思います)が画中に散りばめられているのです。むろん、過剰なまでの精密さというのは、やまと絵の伝統でもあり、現実的な要請のみによる説明は嘘っぽくなります。

 新出洛外図の置き方は、宇治を描く隻を左、嵯峨隻を右としているようですが、季節の流れは左から右へと、宇治隻で春から夏、嵯峨隻で秋から冬となっています。これは、現在通行している上杉本の置き方を左右ひっくりかえして、それぞれを下京隻と上京隻とに対応させれば、洛中洛外図屏風での季節の流れと同じになります。もちろん京中からみた方位と季節との関係(東・南=春・夏、西・北=秋・冬)も重なります。この点でも、洛中洛外図屏風と密接な関係にあることは間違いありません(なお、宇治は支配概念としての「洛中洛外」の範囲からは外れます)。そして洛中洛外図屏風は、直接に「洛中」を描くことに主題があったとするならば、新出洛外図では、画面に描かれた名所に囲まれ挟まれた描かれない中心として、京都があります。洛外の名所から、都の気配が浮かび上がるという趣向です(*12)。

 新出洛外図自体がもたらした新知見−例えば平等院の境内や建物についてのビジュアルな情報−は貴重です。それとともに、上杉本の再認識というか、上杉本や初期洛中洛外図を見る新しい視角の確保というか、その点でも大変重要な意味を持っています。一級の新史料の発見は、それだけでもニュースとなりますが、今までのものの見方を変えさせてくれるということでも、大きなインパクトをもたらします。

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 以上、新出洛外図と上杉本の比較としてはおおざっぱでしたが、新たに洛中洛外図屏風へ関心を持たれた方々への案内として、自分の頭の整理を兼ねてお話しいたしました。このような大画面の細密画は、大規模でお客さんの多い特別展の出陳作品の一点としてでは、なかなか見きれるものではありません。歴博甲本・上杉本などを所蔵するそれぞれの館では、年に一・二度程度、期間限定で原本を展示しており、それだけをじっくりと見るつもりでお出かけになるとよいでしょう。新緑・黄葉の美しい米沢の博物館で、ひねもす上杉本を前にするのは、とても贅沢な時間になると思います。


【注】

(*1)以下では、石田尚豊監修『洛中洛外図大観』上杉本(小学館、一九八七年。新装新訂版、二〇〇一年、およびCD−ROM版もありますが、基本的に旧版に拠りました)を参照していますが、小澤弘・川嶋将生『図説 上杉本洛中洛外図屏風を見る』(河出書房新社、一九九四年)、『国宝上杉本洛中洛外図屏風』(米沢市上杉博物館、二〇〇一年)が廉価です。
(*2)瀬田勝哉「馬二題」(『洛中洛外の群像』平凡社、一九九四年)が、三条烏丸の米場(場之町)であることを明らかにしています。
(*3)原田正俊「中世の嵯峨と天龍寺」(『講座 蓮如』四、平凡社、一九九七年)、大村拓生「嵯峨と大堰川交通」(『中世京都首都論』吉川弘文館、二〇〇六年)、山田邦和「中世都市嵯峨の変遷」(金田章裕編『平安−京都 都市図と都市構造』京都大学学術出版会、二〇〇七年)。
(*4)諏訪春雄『元禄歌舞伎の研究』(笠間書院、一九六七年)。
(*5)歴博甲本の上京隻第四扇中ほどに描かれた、錫杖を持つ宗教者が上杉本の前提で、舟木本の左隻第二扇中ほどに、錫杖を振るう山伏姿の人物が描かれています。
(*6)井出幸男『中世歌謡の史的研究』(三弥井書店、一九九五年)。
(*7)保坂裕興「一七世紀における虚無僧の生成−ぼろぼろ・薦僧との異同と「乞う」行為のあり方−」(塚田孝・吉田伸之・脇田修編『身分的周縁』部落問題研究所、一九九四年)。
(*8)国立歴史民俗博物館編『西のみやこ 東のみやこ』(特別展図録、二〇〇七年)。
(*9)宮島新一「洛外名所図屏風」(『国華』一三三一、二〇〇六年)でも強調されるところです。
(*10)洛中洛外図屏風の成立については、奥平俊六「洛中洛外図の魅力−主題の生命−」(米沢市上杉博物館編『洛中洛外図−くらし−』特別展図録、二〇〇三年)もご参照ください。藤原「中世絵画と歴史学」(石上英一編『日本の時代史 30 歴史と素材』吉川弘文館、二〇〇四年)では、一五世紀から一六世紀にかけての景観を見る眼の変化について見通しを述べました。
(*11)瀬田勝哉「荘園解体期の京の流通」(前掲『洛中洛外の群像』)、黒田紘一郎「洛中洛外図屏風の成立」(『中世都市京都の研究』校倉書房、一九九六年)。
(*12)上野友愛「「東山名所図屏風」について」(前掲『国華』一三三一)で、「都は、可視的表象としてその存在を声高に主張するのではなく、むしろこれら境界に位置する聖域の描写〔藤原注:東山一帯の描写のこと〕によって想起される中心なのである。」とするのと同じことです。

【付記】作品調査・図版掲載にあたってご高配賜りました各位に深く御礼申し上げます。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録