安徳天皇縁起絵

(『別冊歴史読本58 合戦絵巻・合戦図屏風』新人物往来社、2007年1月)

 山口県下関市・赤間神宮所蔵。重要文化財。紙本金地着色、全八幅。もとは、赤間神宮の前身である阿弥陀寺にあった安徳天皇御影堂の襖絵で、平家一門・女房の画像に囲まれた天皇の御影を祀る部屋の隣室を飾っていた。ゆるやかに連続する大画面に、京都での安徳天皇の誕生から、福原・一の谷、屋島、そして壇ノ浦の合戦と安徳天皇の入水までを、時間と地理的関係に応じて順に描いている。画中には、『平家物語』で喧伝された合戦中の名場面が盛り込まれ、中世における物語受容の様相を伝えている。とりわけ壇ノ浦の合戦には大きな画面を割き、阿弥陀寺と周囲の景観を舞台として、安徳天皇廟所であるこの地の性格を説明するものともなっている。筆者を土佐光信と伝えるが、光信の確実な遺品とは様式的に異なり、制作年代についても、十六世紀前半とするか後半におくか、意見が分かれている。江戸時代にはこの絵の解説(絵解き)が行なわれており、ケンペルやシーボルトの紀行文にもそのことが見える。


 この絵は、かつて障壁画であったこともあり、一幅が一場面となっているのではなく、幅をまたがって連続する景を金雲でくくりながら話を展開する。上部に色紙形があり、内容を示す文句が書されているが、描かれている内容と必ずしも一致しない。そこで、画面を中心とし、色紙形も参照して、概要を説明してゆくことにしよう。
 @第一幅と第二幅右下:治承二年(一一七八)十一月十二日、高倉天皇の中宮(平清盛の娘徳子、建礼門院)を母として、安徳天皇は誕生した。産所には後白河法皇の御幸があり、関白以下の公卿が群参し、天皇からの使いも頻々で、高僧に祈祷させたが、なかなか出産とならなかった。平重盛は子息らを従えて捧物を持参し、それを諸社に奉納して、法皇の祈念もあって、皇子降誕となった。絵では門前の群像にかなり大きな場面を取っている。
 A第二幅中央:寿永二年(一一八三)七月二十五日、東国武士が競って京に攻め上ってくるため、平家は安徳天皇を奉じて西国へと移る。後白河院は比叡山へと逃れ(山門御幸)、摂関家以下の公卿たちもここに参った。絵は山上の院御所となろう。いわゆる僧兵の姿が目立つ。
 B第二幅左下:源氏の軍勢が比叡山へ後白河院を迎えに行く。山路を行く軍勢には、源氏の白旗がはためていている。場面をAからCへと結びつける。
 C第三幅中央から第四幅右:後白河院は京の御所へ還御する。貴族たちに供奉された牛車が門を通るところである。安徳天皇の福原入りとも解釈できるが、乗物は輦輿で供奉には武者を含む図様がふさわしいか。ここでも門前の光景に場面が大きく割かれる。
 D第三幅上部から第四幅上部右:不詳。源氏の将とされるが、一門の都落ちに従わなかった平頼盛、あるいは屋島から抜け出て高野山にて出家し熊野で入水した平維盛(色紙形に見えている)と取れるか。
 E第四幅上部左から第五幅上部右:搦手から福原へと進軍する源義経。道に迷って老馬を先導とし、猟師を案内人として鵯越へと至る。
 F第四幅左下と第五幅大部分:元暦元年(一一八四)二月七日、平家根拠地福原を落とした、いわゆる一ノ谷の合戦。鵯越から奇襲する源義経、東方の木戸である生田の森での激戦と平重衡の捕われ、平敦盛を呼び止める熊谷直実、海上に逃れる平家の船などが描かれている。第五幅の海上では、次の屋島合戦における義経の弓流しの場面も含まれている。
 G第六幅:文治元年(一一八五)二月の屋島の合戦。上部には屋島の行在所を描く。平家の首が獄門にかけられた報が届き、生け捕られた重衡と三種神器との交換を持ちかけられ、月夜に都を思って歌を詠むなど、悲嘆する二位尼(清盛妻時子)と女房たち。下は合戦の景で、海上では那須与一が扇の的を射た話が描かれている。
 H第七・八幅:同年三月二十四日の壇ノ浦の合戦。第七幅で目立つ大きな船は平家方の唐船で、これには雑兵を乗せて源氏の船をおびき寄せ、安徳天皇は屋形船に移したことを描く。第八幅の海上右下に義経の八艘飛びを、中央部に安徳天皇の入水と熊手で捕らわれる建礼門院を描く。また、源氏の船に白旗が舞い降り、平家の船の下を海豚が海豚が泳ぎ越えたという勝敗の予兆も描き込まれる。この障壁画のあった阿弥陀寺は、壇ノ浦を臨む丘陵にあり、この絵でも海原に意識が向いた画面構成がとられている。寺は両幅の中央部に突き出た島状に描かれ、左手には亀山八幡宮、右手には満珠・干珠の両島がある。亀山はかつて島であったいい、橋が架けられ赤間関の町場(南部町)が描かれる。先の大きな唐船の描写には、中世に赤間関に寄港した大船の残像があるだろう。


 阿弥陀寺は、現在この絵を所蔵する赤間神宮の前身である。寺の創建は貞観元年(八五九)に遡ると伝えるが、安徳天皇が壇の浦に入水後、怨霊鎮慰を祈る堂宇の建立が企てられた。経緯の一部が藤原兼実の日記『玉葉』に記されている。文治元年七月、兼実は外記の勘申に従って、安徳天皇の怨霊に謝し、戦場で落命した士卒らのために作善を行なうべく、長門国に命じて一堂を建立することを奏上している。ただし国土凋弊の折、火急のことではないが時間をかけても完成すべきと付け加えている。建久二年(一一九一)閏十二月にも、崇徳院と安徳天皇の崩御した所に一堂を建てその菩提を弔うことが後白河院に奏上され、具体化されてゆくことが見える。永正十六年(一五一九)に阿弥陀寺別当秀益が前年に焼失した伽藍の再興を願い出た文書では、寺の草創について、文治二年(一一八六)、後鳥羽天皇の時代に国司に命じて造られ、本尊の阿弥陀三尊は平清盛の持仏であり福原より下ってきたもので、中興開山の命阿弥陀仏は建礼門院の乳母の娘である少将局と述べている(赤間神宮文書。建徳二年(一三七一)の今川貞世『道ゆきぶり』にも同様の記述がある)。
 こうして、平氏ゆかりの本尊を据えた本堂と、安徳天皇御影を祀る御影堂が造られたようである。中世のいつの段階か決めがたいが、阿弥陀寺の境内を描いた古図がある。左右(境内軸線はやや西に傾くが南北とみなせるので東西)に並んで鎮守社八幡宮と本堂と建ち、渡り廊で結ばれている。左手前の邸宅風建物が御影堂と思しく、それと対面するように右手前に堂が建つ。両者を結ぶ石塁状の道が珍しく、迎講(阿弥陀の来迎を再現する法会)ないしは、東方(京都の方)から西方に安置される御影に向かって奉仕するような儀礼が行なわれていたと想像される。
 文明十二年(一四八〇)、当寺を訪れた飯尾宗祇は『筑紫道記』に、御堂・鎮守社を経て、御影堂で安徳天皇の御影を拝したことを記している。みずらを二つに結い分け、紅袴に笏を持つ姿であった。また命運を共にした平家の人々、知盛・経盛・信基・敦盛・資盛・教経と大納言の佐の局以下女房四五人の影があった(現在は等身大画像全十幅があり、敦盛に替わって教盛となっており、教盛が適切か)。先に触れた永正十五年の火災には、「安徳天皇御真影、同御供奉公卿等之絵障子」が取り出されて焼失を免れた。天文十年(一五四一)、策彦周良は御影堂にて先帝像(安徳像)を拝し、次いで「壁間図画」を見て「蓋先帝顛末也」と記している。これが安徳天皇御影堂の生涯を描く障壁画の初見となる。
 一方、永禄十年(一五六七)頃とされる文書に、「天皇絵障子」を新たに書き調えることが話題に見え(赤間神宮文書)、現存する『安徳天皇縁起絵』はこれ以降に完成したものとするか、策彦が見たものとするか、判断が分かれている。いずれにしても、十六世紀の作品と見てよかろう。
 江戸時代には、床下に五輪塔がある天皇殿に安徳天皇・平家一門の影が安置され、その隣室の襖絵として『安徳天皇縁起絵』があったようである。阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈に際して廃寺となり、御影堂は解体されて安徳天皇陵・安徳天皇社となって、のちに赤間宮(あかまのみや)、さらに赤間神宮となった。御影堂・御陵の位置は、画中の阿弥陀寺境内でいうと、向って左手の樹木が描かれている辺りに相当しようか。御影堂の解体時に、障子絵は現在の掛幅装に改められたといい、第二次世界大戦の戦火を免れて今日まで伝わっている。


【参考文献】
『日本屏風絵集成』五(講談社、一九七九年)
『図説日本の古典』九(集英社、一九七九年)
『赤間神宮 源平合戦図録』(赤間神宮社務所、一九八五年)
『日本美術全集』一三(講談社、一九九三年)
井土誠「「安徳天皇縁起絵図」について」(『下関市美術館研究紀要』四、一九九三年)
御宝物(赤間神宮)
安徳天皇絵(下関市教育委員会「ふるさと下関 第2集 文化財・諸施設編」)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録