大日本史料第五編


 
    自分でもう一度読み直してみたら、結構面倒くさかったので、
 種明かしをしておきます。学生の皆さんは、こっちから読んで
 はいけませんよー。勉強になりませんからね。
 
  まず、記主は金剛夜叉法を修した寛耀さんのもとにいる僧侶
 です。これはすぐわかりますよね。で、211ページを見ると、
 寛耀のもとには伴僧が6口いるわけです。
  このうち、能陀羅尼僧は161ページを見るとよく分かるよ
 うに、三井寺から借りてこようとか何とか言ってるくらいで、
 記主ではありません。
  すると、残りは3人。律師の行憲さんか、大法師の寛兼さん、
 あるいは信寛さん。
  ここからは引き算です。168ページの最後の行を見ると、
 「予」は車に乗っていて、行憲さんと同車、とある。つまり、
 「予」は行憲さんではない。
  また、177ページの5行目をみると、当壇伴僧寛兼が出か
 けていって、初夜時以前に帰ってきた、とあります。となると
 記主は寛兼さんでもない。
  行憲さんでもないし、寛兼さんでもない。となれば、記主は
 残る信寛ということになります。Q、E、D、   
 
  上の推測を補強する記事としては173ページの13行を見
 て下さい。諸壇神供は中壇は定乗が、降三世は成俊が、軍荼利
 は覚審が、大威徳は信性が、金剛夜叉は「予」が勤めた、とあ
 って、「伴僧の最末を以て勤めるのだ」とあります。そして「
 それなのに大威徳は最末の兼恵をさしおいて信性にやらせた。
 これはおかしい」と批判します。
  となれば、「予」もまた、金剛夜叉壇の最末であると考えら
 れます。で、211ページの交名をみると、おおっ、たしかに
 最末は信寛です!やはり「予」=記主=信寛である、そういう
 ことですね。