「陳外郎関係史料集(稿)・解題」補遺・訂正   藤原 重雄

 

 拙稿〔PDF〕発表後にご教示いただきました関係史料、それに伴う訂正箇所をご紹介します。貴重なご教示を賜り、誠にありがとうございました。この他にもお気づきの点がございましたら、お知らせ下されば幸いに存じます。なお、小田原外郎の関する図像は収集中で、まとまった際に改めてご紹介できたらと存じます(よく見えませんが、一例)。(一九九九年五月記)

 

[史料補遺]1・2 〔米谷均氏よりのご教示〕

□80 『朝鮮王朝実録』成宗一八年(一四八七)六月丁丑(九日)条〔米谷98【史料11】〕

礼曹啓「日本僧元*(旅+鳥)贈行詩和章、及陳祖田杏林亭詩・序・後跋、令弘文館製之」、伝曰「此人求詩文者、欲観我国之人材耳、不可草率、文臣堂上官及堂下官、択能詩文者製給」、

□81 東京大学史料編纂所架蔵『日本関係朝鮮史料』所収『四佳詩集』(徐居正)〔米谷98【史料10】/[4140.1/43/14]〕

  日本国員外郎陳祖田杏林亭詩巻

日辺紅杏倚雲端、樹樹濃陰払玉闌、花正開時圍錦幄、子初成後綴金丸、

人居橘叟神仙上、家在桃源伯仲間、肘後良方多妙用、不須勤覓九還丹、

参考:米谷均98 「東大史料編纂所架蔵『日本関係朝鮮史料』」『古文書研究』四八

 

[訂正]1 〔米谷均氏よりのご教示〕

□4○23 『蔭凉軒日録』長享二年(一四八八)二月九日条〔米谷98【史料12】〕

斎罷陳外郎来、……有宴、高麗諸官人廿六日〔人カ〕和杏林亭諸詩、有一軸一巻、有跋、一覧而返之、

 先の史料の発見によって、米谷氏論稿に指摘があるように、この記事が理解できるようになります。この時期に高麗使節が京都周辺に滞在していた形跡はなく、「高麗諸官人廿六日」は(年月が脱落した可能性もありますが)おそらく「廿六人」の誤記と考えられ、一四八七年に高麗へもたらされた「杏林亭詩巻」に高麗諸官人が和し、それが翌年のこの日までに京都の陳祖田の手元へと戻ってきたというわけです。拙稿解題三六頁上段一三・四行目および四四頁略年代表の記述は、上のように訂正されます。これにより、六(一)A 杏林亭詩序大軸・董奉杏林図の節に関しても、米谷氏に整理していただきました。『実録』に見える成宗の言は拙稿解題の趣旨に好都合なものでありますし、海を越えた詩画軸の事例として大変興味深いものと言えましょう。詳しくは米谷氏論稿を是非ご参照ください。

 

[訂正]2 〔米谷均氏よりのご教示〕

□18○6 『翰林五鳳集』 「童仙家」→「童〔董〕仙家」

 米谷氏論稿表七の指摘に従います。なお拙稿で『翰林五鳳集』に関しては、大日本仏教全書本に拠っており、良質な写本に当たって校訂を施してはおりません。

参照:蔭木英雄88・89・90 「『翰林五鳳集』について−−近世初期漢文学管見(一・二・三)−−」『相愛大学研究論集』第四・五・六巻(通巻三五・六・七巻)

 

[史料補遺]3 〔川添昭二氏よりのご教示〕

□82 『下つふさ集』(伊勢貞仍)〔私家集大成中世W〕

永正六年(一五〇九)九月すゑに祖田法師〈外郎〉もとへまかり侍しに、夢庵、玄清法師なと軒ちかき竹を題にて、秋のくれの歌よみ侍しとてよませられけるに、

とふ人もともにいく世かなれてみん 軒はの竹の長月のかけ(412)

参考:井上宗雄87 『中世歌壇史の研究 室町後期(改訂新版)』明治書院

 

[史料補遺]4 〔末柄豊氏よりのご教示〕

□83 尊経閣文庫蔵『和歌御会中殿御会部類』下冊 紙背文書

(三条西実隆による書写本。紙背に陳祖田の消息があるとの由。[小川97 注(9)])

参考:小川剛生97 「尊経閣文庫蔵『和歌御会中殿御会部類』について−−南北朝期の宮廷和歌三種の紹介−−」『国語国文学研究』三三 

 

[史料補遺]5 〔福島恒徳氏よりのご教示〕

□84 東福寺蔵「三十三観音図」(明兆筆)のうち「大自在天身図」画面右下墨書

「陳外郎尊信寄付」

(裏書から応永十九年(一四一二)に東福寺に寄進されたことがわかり、吉山明兆(一三五二から一四三一)筆とされている。各幅の画面下方に寄附寄進者名の墨書があり、このうちの一幅に陳外郎尊信の名が見え、この(再)寄進が作品成立後およそ一世紀のちのこととわかる。)

参考:五十嵐公一95 「東福寺蔵三十三観音図」『美術史論叢』一一

山口県立美術館編(担当、岩井共二・福島恒徳)98 『禅寺の絵師たち−−明兆・霊彩・赤脚子−−』

 

[史料補遺]6 〔森幸夫氏よりのご教示〕

□58○3 『後法成寺関白記』享禄四年九月十三日条

従伊豆有音信、宇野妻女両種一荷持参、御乳母令見参、給盃・帯等、

 

[訂正]3

三五頁下段後ろから四行目「…一人二篇=B」、五六頁下段四行目「B(内閣本…)」それぞれのBにダッシュの記号を加える。

 

[参考文献補遺](上記以外のもの)

今泉淑夫98 「彭叔守仙年譜稿 (上)」『東京大学史料編纂所研究紀要』八

(□21の読点の打ち方が異なり、必ずしも解題三六頁下段のようには読めません。また、□20の年代比定が若干異なり、おそらく拙稿に分が悪いと思います。)

真鍋淳哉96 「戦国大名と公家衆との交流−−北条氏の文化活動を中心に−−」『史友』二八

 

[史料補遺]7 〔及川亘氏よりのご教示〕 (一九九九年八月記)

□85 『徳川実記』大猷院殿御実記巻六十七 正保四年(一六四七)〔新訂増補国史大系40〕

〇1 六月廿六日 外郎右近といへるもの蹴鞠に名を得たりしが、蹴道の条約にそむき曲足をなすによりて、飛鳥井〔前脱〕大納言雅宣卿よりうたへられ大島へながさる。(日記)

〇2 八朔拝賀例に同じ。 飛鳥井〔前脱〕大納言雅宣卿、宰相雅章卿ともに太刀目録を献じ、こたび外郎右近といへるもの蹴鞠の事により、飛鳥井家の家法に背きければ、上裁に及び遠流に処せらしをもて、拝謝せらるゝとぞ聞えし。即日帰洛のいとまたまふ。此日吉良若狭守義冬、雅章卿の旅館に御使し、こたび飛鳥井家のために厚く御心用ひ給ひて、外郎を厳刑に処せられしとの御旨をつたえしかば、雅宣卿父子厚くありがたき旨を謝せられしとぞ。[後略](日記、吉良日記、水戸記録)

 この史料によって、49□1〇ウや51□・52□に記される、蹴鞠の名人外郎右近が飛鳥井家の訴訟により幕府から流罪に処せられたという事件について、確実な時期を押さえることができます。52□などに見えるように、この一件は巷間でかなり噂になったものとは思われますが、49□1〇ウの奥書について、これを与えられた「山本六之丞」につきて考慮すべきではあるものの、ことさらに外郎右近に仮託された作とする必要はないという印象を持ちました。49□全体の史料的な性格と併せて、今後とも諸賢のご教示をお願いいたします。

 

[参考文献補遺] 〔畑靖紀氏よりのご教示〕 (二〇〇一年七月記)

宮島新一00 『雪舟 旅逸の画家』青史出版

 本書76〜78・134頁では、雪舟の画室名「天開図画楼」の由来を伝える史料(了庵桂悟「天開図画楼記」)や、『隣交徴書』に引く「題日本能阿弥瀟湘八景図巻」にあらわれる人物を陳外郎としています。その当否については、追って考えを述べたいと思います(御意見ください)。また陳外郎の略伝を載せていますが、拙稿は参照されておらず、細部での理解の違いは相互参照をお願いします。

 

[史料補遺]8 (二〇〇一年七月記)

□86 『半陶文集』二 (彦龍周興)〔五山文学新集四〕

〇1    和東山友蘭晤少年試筆
   笑我春来似老年、朦朧如霧看花眠、憶曽秋雨暮烟裏、相約過橋鴨水辺
      *注18参照。

〇2    彼美玉府友蘭少年、今日乃梅樹下、瀟洒一僧郎也、当其落錦〔飾〕、諸老賦以賀之、
      余也以不与其会為恨矣、因追和友蘭詩韻、以策一笑云、
   佳会違期可見憐、看梅独使此郎先、相逢不道有遺憾、人自花前花臈前、
      *□18〇2『翰林五鳳集』として、□4〇39に便宜合叙したものと同じ。若干異同あり。

 

[史料補遺]9 (二〇〇一年十二月記、二〇一〇年一一月追記)) 

□87 『大友家文書録』二 〔増補訂正編年大友史料一二/3071.36-25-2〕

(文明)十三年、辛巳、六月、大樹(足利)義尚、使(大友)政親献硫黄時、賜御内書并太刀〈冶工真恒、〇義尚自文明十一年冬、代義政領天下事、〉

就唐船之儀硫黄事、如前々申付候者喜悦候、仍太刀一振〈真恒、〉遣之候、猶巨細申含陳外郎候也、
  六月廿一日 御判
   大友豊前守(政親)とのへ

参考:鹿毛敏夫編99『府内と臼杵から戦国の世界が見える』(大分県立先哲史料館)14頁
   鹿毛敏夫2006『戦国大名の外交と都市・流通』(思文閣出版)233頁(初出、2003年)

 

[史料補遺]10 〔伊藤幸司氏よりのご教示〕 (二〇〇三年一月記) 

□88 『筑前国続風土記拾遺』巻之四九・志摩郡・中 (青柳種信編著)〔文献出版、福岡古文書を読む会校訂〕

   秀善寺
門川(桜井村)に在。洪福山と号す。禅宗済下博多妙楽寺の末なり。応永中浦刑部次永〈法名秀善院仁山道勇〉といへる者開基す。本尊薬師如来開山を無方応和尚〈応永十四年二月五日寂〉といふ。古鬼簿有。前建長後当山無涯倪大和尚宝徳元年六月、又前礼部員外郎台山宗敬居士〈大元台州人陳廷祐、寿七十三、応永二乙亥七月〉。また一休閑紹羅信士〈一法寺土佐守直久同姓大炊父としるせり。永禄六 八月〉。
    ※なおこの記事は、二〇〇二年三月に御教示いただきましたが、底本を確認しに行くのを怠り、紹介が遅れましたことお詫びします。

 

[史料補遺]11 (二〇〇三年四月記) 

□89 内閣文庫蔵『異本塔寺長帳』四 〔6112-1-2〕

(天文五年)今年、透頂香外郎《ウイロウ》売薬、相州小田原明神ノ前ニ北条氏綱屋敷ヲ賜リ始、其起ヲ尋ニ、昔人皇八十七代寛元四年丙午、大覚禅師入唐、帰ニ員外郎ト云唐人、此妙薬ヲ持来テ売、今年居所ヲ究、日本ニ名ヲ顕ス、

 

[史料補遺]12 (二〇〇三年七月記) 

□90 『経尋記』 〔大日本史料九−二十三、三二七頁〕

(大永三年二月)廿日、
一、松井昨日之礼ニ来、(中略)
    物語条々
 (中略)
 一、聖済総録ト云物者百廿巻在之、日本ニ無之者也、故法印□令秘蔵、有存分寄進西屋了、然処(赤沢)宗益乱入之時、所望寺門云々、生智院指ヲサス歟ト云々、無念之事也、但抜書以下者在之、内典・易道マテ在之物也云々、胤舜云、陳外郎二本所持云々、不審之事也、 

※陳外郎家には細川頼之より与えられた『聖済総録』を所蔵していた(史料□7)。解題36頁下段・註37参照。

 

[史料補遺]13 〔末柄豊氏よりのご教示〕(二〇〇四年八月記) 

□91 天理図書館蔵『兼右卿記』 〔6173.43-17〕

(天文三年十一月)十五日、雨下、(中略)ウイラウ藤五郎家ノ竈、去年七月比二三度鳴動、ワレクタケ訖、然ニ亦今度鳴動シワレクタケ訖、鎮札令所望之間、遣竈神安鎮札了、

 →岸本眞実・澤井廣次「『兼右卿記』(五) 天文三年七月至十二月」(『ビブリア』154、2020年10月)に翻刻

[参考文献補遺] (二〇〇四年八月記)

柴田真一92 「近衛尚通とその家族」(中世公家日記研究会編『戦国期公家社会の諸様相』和泉書院)

 本文170頁および注27で『後法成寺関白記』享禄四年七月五日条の「宇野藤右衛門」に触れ、[史料補遺]6(同年九月十三日条)に言及する。

[史料補遺]14 (二〇〇五年五月記) 

□92 『笠山会要誌』 〔『大日本史料』六ノ四〇・四九頁〕

会要雑志 随筆 続録
天隠(龍澤)文集曰、細川悦道(満元)平生欽謁地蔵院碧潭(周〓〈白交〉)禅師、院有聖済惣録二百巻、不許外人渉猟、悦道云、仏祖典籍浮屠氏所珍秘者理或有之、非医家而貯医書、豈有補於世、不如賜医人以療蒼生疾苦、乃以贈陳太年(宗寿)、〈太年乃順祖子、官于大医局、大明国人也、〉子孫伝以為陳家青氈也、於是悦道為之出青〓〈虫夫〉百索以充地蔵院修補也、

※『聖済総録』については、[史料補遺]12参照。ここでは、細川満元が地蔵院(満元祖父頼之が開基)より購入し、宗寿に与えたとしているが、信憑性のある記述であろう。『五山文学新集』には未収録か。

[史料補遺]15 (二〇〇五年五月記) 

□93-1 「中古京師内外地図」(寛延三年1750・森幸安)〔改訂増補故実叢書〕
四条北・錦小路南・油小路東・西洞院西に「陳外良ノイヘ」

□93-2 「中昔京師地図」(宝暦三年1753・森幸安)
四条北・錦小路南・油小路東・西洞院西に「陳卯良家」

[参考文献補遺] (二〇〇五年五月記)

杉山茂2003 『薬の社会史』第四巻(近代文芸社)
   第二章「中世日鮮交易における外郎二世宋寿及び三世常祐の活躍」(初出『薬史学雑誌』35-2、2000年)

 拙稿と重複する点については省略し、独自な指摘と思われる点についてのみ私見を述べます。

(杉山説1)『李朝実録』に所見がある平宗寿は、陳外郎二代目の宗寿である。

 杉山氏の典拠挙例は網羅的でないので、改めて『中国・朝鮮の史籍における日本史料集成 李朝実録之部(一)』(国書刊行会、1976年)からの孫引きになりますが、平宗寿の表記を抜書きしてみます。(なお、杉山氏の著書ではすべて「宋寿」となっていますが、単純な誤植とみなしました。)
  太宗十五年(1415)七月甲子「日本濃州太守平宗寿」
  太宗十六年(1416)三月辛丑「日本濃州太守平宗寿」
  太宗十七年(1417)正月辛卯「日本濃州太守平宗寿」
   同 年     十二月辛亥「濃州守平宗寿」
  太宗十八年(1418)六月戊申「濃州太守平宗寿」
  世宗零年(1418)十一月丁卯「九州総管右武衛将軍管下濃州太守板倉平宗寿」
  世宗元年(1419)十一月乙丑「濃州太守平宗寿」
  世宗二年(1420)正月甲辰「濃州守平宗寿」
   同 年    十一月己丑「濃州太守平宗寿」
  世宗三年(1421)正月己卯「(源義俊)管下平宗寿」
     同 年    十二月丁未「日本九州平宗寿」 ※父を亡くしたことへのおくやみ。
 ここからも明らかなように、九州探題渋川義俊の被官である板倉宗寿という武士です。日本側の史料にもあらわれます(『大日本史料』七之一一・432頁、一三・308頁など)。陳外郎宗寿とは、ほぼ別人と言ってよいでしょう。

(杉山説2)『李朝実録』に所見がある文渓正祐は、陳外郎三代目の月海常祐と同一人物である。

 文渓正祐については、
  村井章介1995 『東アジア往還』(朝日新聞社)
  −−−−1999 「室町時代の日朝交渉と禅僧の役割」(『駒澤大学禪研究所年報』10)三章
  米谷均 1998 「東大史料編纂所架蔵『日本関係朝鮮史料』」(『古文書研究』48)
に紹介があります。文渓正祐は、朝鮮側の史料に散見する日本の外交僧で、出自や法系についてはよくわかっていません(文安四年1447に建聖院の住持)が、もともと「正」と「常」とが音通するとの点からの立論ですので、同一人物説は難しいように思います。禅僧は文字でもっても交際していますから、俗人の音写を例示しても根拠としては弱いでしょう。(なお村井1999では、文渓の号を賜っている点から、天佑大年を文渓正祐と同一人物としています。この点は御教示ください。)

[史料補遺]16 (二〇〇五年九月記) 

□93 『嘉良喜随筆』 〔『日本随筆大成』新装版・第一期21、二八八頁〕

○鞠ヲ蹴ル外郎ガ一家ハ、正月三日精進ニテ、一年中精進日ナシ。惣別元三ノ儀式ハ色々有者也。(下略)

  ※山口幸充の雑録。黒川道祐『遠碧軒雑記』寛文十一年(1671)六月よりの冊からの抜粋ならむ。

[史料補遺]17 (二〇〇七年七月記) 

□94 『寺門事条々聞書』(興福寺南戒壇院長専)〔末柄豊「国立公文書館所蔵『寺門事条々聞書』−附、国立公文書館所蔵『長専五師記写』」(科研費報告書『大和の武士と武士団の基礎的研究』研究代表者・安田次郎、二〇〇四年)五七頁〕

応永二十八年(1421) 一、自八月六日、為祈祷三十講被始行、第四座講師懃仕、  題(アキママ)  問者行舜房、 一、此祈祷者、於南円堂壇上物恠在之、六月廿九日、《ウイロモチ也、:傍書》〓(鼠+晏)鼠狐歟食散、又同日アマ鷺食散、又七月五日、於壇上血落散、又同十日、同壇上小者足在之云々、此等奇異匪直也事之間、被修三十講也、何〔河〕上関所停廃、失名利表示也、

※興福寺南円堂の壇上に備えてあった「ウイロモチ」が食い散らされていたという記事です。「ウイロウ餅」か? 菓子としての外郎餅の初見史料なるかも知れません。

[史料補遺]18 (二〇〇八年十月記) 

□95 『大乗院寺社雑事記』紙背文書〔木藤久代「『大乗院寺社雑事記』紙背文書内容細目(六)」(『北の丸』30、1998年)75頁/国立公文書館架蔵写真帳〕

160冊(文亀二年七月〜九月)第三紙紙背:包紙 陳外郎祖田より福智院因幡寺主御坊宛
              第四紙紙背:包紙 陳外郎祖田より福智院因幡寺主御坊宛
              第六紙紙背:書状 六月十六日祖田(花押) ※蘇合香円三具進上
              第七紙紙背:書状 六月十五日祖田(花押) ※御門跡様御書の□紙二十束拝領御礼

 ※□29『大乗院寺社雑事記』文亀二年六月六日・十七日条を参照。

[史料補遺]19 〔橋本雄氏よりのご教示〕(同)

□96 『永享九年室町殿行幸御飾記』(能阿弥)〔佐藤豊三「将軍「御成」について(二)−足利義教の「室町殿」と新資料「室町殿行幸御飾記」および「雑華室印」−」(『金鯱叢書』第二輯、1975年)/徳川美術館『室町将軍家の至宝を探る』(2008年)No.48にカラー図版〕

 ※永享九年(1437)十月二十一日、後花園天皇が足利義教の室町殿に行幸した際に、会所に飾られた品々を列記した史料。
  「西之御所」(室町殿泉殿)の「御眠床中」に「籠子一〈外郎進上、〉」とあり(翻刻489頁下段)。

[参考文献補遺] (二〇一〇年一一月記) 

伊藤幸司2010 「硫黄使節考−日明貿易と硫黄−」(『アジア遊学』132「東アジアを結ぶモノ・場」勉誠出版)
 ※文明十五年度遣明船の硫黄使節を勤め(□8)、明応度では辞退する(□4○27〜○47)。

[史料補遺]20

□97 『本朝世事談綺』(菊岡沾凉。享保19年〈1734〉刊) 〔日本随筆大成第二期12〕

〇1 一・飲食 ○外郎
応安のはじめ、大元の老臣礼部員外郎陳宗敬といふもの、筑前国博多の津にきたる。大元の至正年中、大明のために亡ぶ。宗敬二君につかへずとて、遂に本朝にきたる。将軍義満公その名を聞きたまひ、まねかるゝといへども来らず。此人文材博達にして占相に通じ、又霊方を伝ふ。後に崇福寺無方和尚の室に入て衣鉢をうけ、明照と号。齢七十有余にして卒す。その末裔京都にきたり、西洞院に住し、透頂香を製す。蓋透頂香といふは、公卿殿上人冠の甲に入て、髪の臭気を去也。因て此名あり。又相州小田原の透頂香は此余流也。鎌倉円覚寺の大覚禅師来朝ありて、鎌倉に住する時、此薬を小田原の土人に伝ふと云。小田原の外郎これ也。唐僧大覚禅師は、円覚寺の開祖也。諱は道隆と云。

〇2 三・態芸 ○蹴鞠
外郎派、洛陽西洞院陣〔陳〕外郎二位杏林、鞠に手練して、種々の曲を蹴たり、その子右親衛政光、父の伝へを得る、そのころの地下人専これを倣ふ、外郎派の始これなり、当時御家の流儀を学ぶ輩は、転業なりとて、此流を用ひざる也、(※『古事類苑』遊戯部・1141頁)

[史料補遺]21・[参考文献補遺] (二〇一二年一〇月記) 

佐々木孝浩2012 「『卜養狂歌絵巻』における挿絵と本文」(松田隆美編『貴重書の挿絵とパラテクスト』慶應義塾大学出版会)
 ※諸本間での異同の例示に、外郎右近政光のことを詠んだ狂歌の部分を比較する(横55頁以下)

□98 『卜養狂歌絵巻』〔日本古典文学会蔵本・寛文六年(1666)写/『日本古典文学影印叢刊』30〕

外郎右近といふものは、少年のときより鞠に心をつくし、ことさら曲鞠をえし侍りけるが、或人のもとにて興行ありしに、この人を狂歌によめと所望ありければ、
  楊貴妃の時にはしまりけるものかそやけいしやう外郎の曲

[参考文献補遺] (二〇一三年二月記)

市村高男2006 「戦国期城下町研究の視点と方法―相模国小田原を事例としたその実践的考察―」(『国立歴史民俗博物館研究報告』127、1998年春脱稿)
 ※小田原城下の商人を列挙するなかで、今宿町の宇野氏に言及、その活動の概要を紹介。

小田原市教育委員会編1993・94・94・98 『小田原城下 欄干橋町遺跡』T〜W(小田原市文化財調査報告書42・47・54・67)
 ※TのU章(3)「外郎家の歴史」として略述あり(執筆:石塚勝)。
小田原市編1995 『小田原市史』別編・城郭、186〜190頁(執筆:諏訪間順)
 ※欄干橋町遺跡(外郎家敷地内および隣接地)の発掘調査をとりまとめて記述。

佐々木健策2008 「相模府中小田原の構造―小田原城にみる本拠地と大名権力―」(浅野晴樹・齋藤慎一編『中世東国の世界3 後北条氏』高志書店)91-93頁
 ※城下の居住者比定のなかで、宇野氏に言及。

サントリー美術館編2012 『お伽草子』
 ※同館蔵「酒呑童子絵巻」とあわせて、『実隆公記』享禄四年閏五月二十一・二十八日、六月二十二日条の図版掲載。

[参考文献補遺] (二〇一三年七月記)

佐伯弘次2013 「室町時代の博多商人宗金と京都・漢陽・北京」(中島楽章・伊藤幸司編『寧波と博多』汲古書院)
 ※簡単に触れられたものは網羅していませんが、新しい論文の例示として。

[参考文献補遺] (二〇一五年八月記)

鹿毛敏夫2015 『アジアのなかの戦国大名』(歴史文化ライブラリー409、吉川弘文館)
 ※文明度の硫黄使に関して、71〜74頁に祖田について記述あり。

[参考文献補遺] (二〇一五年十月記)

田中尚子2013 「月舟寿桂と医学―『幻雲文集』に見る五山と医家の接点―」(『駒沢女子大学研究紀要』20)〔PDF〕 ※「陳有年員外郎遺像有年」につき言及あり。

[史料補遺]参考(2021年4月記)

『隔メイ記』寛文四年(1664)六月五日条(刊本5巻593頁)
「狩野探幽法印え使者遣、外郎餅五竿贈之、」

大西親盛『〔歌日記〕』安永五年(1776)
(六月十三日)羽倉石見守より暑気の安否を尋ぬるよし、外郎粽二把送り給りけれは、そのむくひに庭前の草花一筒贈文の奥に、(歌略)
六月十四日、藤嶋遠江より亡父下野守(信充)一周忌之御霊祭之給とて、蒟蒻十五盃贈給、其便に付て外郎二棹送遣短尺相添、(歌略)
*一戸渉「稲荷社祠官大西親盛の和歌 続々−京都学・歴彩館蔵『〔歌日記〕』翻印と解題(2)−」(『斯道文庫論集』55、2021年)142頁


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録