藤原重雄「裏松本『神明鏡』の書写にみる戦国期東国文化」(『古文書研究』五九、二〇〇四年) 補注


 拙稿の三・4「修験者と徳一の足跡」で述べたことについては、小林崇仁氏「東国における徳一の足跡について−徳一関係寺院の整理と諸問題の指摘−」(『大正大学大学院研究論集』二四、二〇〇〇年)、同氏「東国における徳一の足跡について−遊行僧としての徳一−」(『智山学報』四九、二〇〇〇年)がありました。前者では徳一伝承寺院を網羅的に収集し、後者では『私聚百因縁集』の記事についても徳一信仰の点から言及されております。成稿時に見落としておりましたので、お詫びして補注いたします。

 なお『私聚百因縁集』は、跋文に正嘉元年(一二五七)に常陸国で愚僧住信が撰したとあり、成立年代が明確とされてきましたが、湯谷祐三氏「『私聚百因縁集』の成立時期−その法然門下についての記事と『内典塵露章』及び『天台名目類聚鈔』との関係から−」(『愛知文教大学比較文化研究』六、二〇〇四年)は、「現存『私聚百因縁集』」を室町期まで降ると考察しております。個人的な漠然とした感覚では、常陸国で鎌倉中期に成立は早すぎるとの感がありましたので、参考として紹介しておきます。(二〇〇五年八月記)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録