「行事絵・名所絵としての最勝光院御所障子絵――法金剛院とのかかわり――」要旨   藤原 重雄

 

 日本における肖像画の歴史は、院政・鎌倉時代という新しい時代の幕開けとともに、従来の禁忌を破った写実的な「似絵」が成立する、との図式で理解されるのが一般的である。しかし、このなじみやすいステレオタイプに対して、近年一部で反省がなされるようになり、本稿もその流れの中で、肖像画の歴史を語るに際して必ず言及される最勝光院御所障子絵について、名所絵・行事絵の視角から詳しく検討を加えたい。

 承安三年(一一七三)、建春門院(後白河院女御)御願として建立された最勝光院の御所の障子絵には、女院・院の寺社参詣が描かれた。絵師は常磐源二光長であったが、面貌ばかりは藤原隆信が分担した。このことを伝える『玉葉』の記事は、自身が描かれることを免れて「第一の冥加」と漏らすことで著名である。その述懐の内実については、自分の似顔絵が己の与かり知らぬところで作られ、見られることに対する忌避感が中核にあるという見方を先に再確認した。本稿では、この障子絵に当時の貴族層に共通して感じられていた珍しさ新しさを切り口として、絵画史的な考察をおこなうこととする。

 最勝光院の障子には、院・女院御座所に上述の寺社参詣が描かれたほか、本堂とそれに連なる左右の廊に法華経変相図、殿上廊には本文(中国故事)にもとづく障子絵があった。うち本文障子絵については、法金剛院が踏まえるべき先例として院から指示されていたことがはっきりしている。待賢門院−上西門院に連なる建春門院の位置を考慮すると、他の側面においても参照されたことが推測される。

 法金剛院は、仁和寺近くの待賢門院御願の御堂で、大治五年(一一三〇)に阿弥陀堂の供養が行われた。この御所の寝殿・対には本文障子絵があり、場所は不明ながら名所障子絵があった。その上で、顕昭『古今集注』に記された、法金剛院の〈宇多院の花山(元慶寺)臨幸の絵〉に注目すると、おそらく名所絵の一場面である桜の花咲く山寺と貴人の行楽の図様が、仁和寺という鑑賞の場に即して読み解かれたものと考えられる。すなわち、特定の季節感を備えた或る名所というもとの主題よりも、物詣のありさまという添景を具体的な院の参詣として前景化したものであったのではなかろうか。

 同様の発想を前提とするならば、最勝光院の寺社参詣の障子絵は、先規として参照された法金剛院のそれからテーマを引き継ぎ、ごく最近の実際の行事に取材して、当代人物の似顔絵を画中に描き込んだものといえる。画題となった行事についても、参加者についても、個別的な(差異化された)具体性をコンセプトとし、とりわけ当代の行事・人物を直接に画題としていた点で新奇に感じられた。隆信による面貌表現は、こうした企画のテーマに沿って理解されるものであり、リアルさの強調は当たらないと考える。

 そして図様としては、行列図が想定できる。行列は、女院・院を主人公としながらその顔貌を描かない絵画にふさわしい主題であり、かつ行事遂行にあたっての交名が前提となっていたと思われる。絵巻に限らず、大画面に行列を描くこともあったであろう。

 さて、上述の二つの障子絵の間には、名所絵から行事絵への転換が、やまと絵の鑑賞のありかたを媒介としてなされた様を想定できる。あるテーマに沿って選択され描かれたモチーフに対して、鑑賞者が様々な物語を付与してゆくことにより、別のテーマの枠組みが浮上する。こうした絵画を見/読む営みは、作品の様式の変遷と動的な関係を切り結んでおり、かつ、絵画史料論の方法上の歴史的正当性を物語る。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録