「名所絵・行事絵としての最勝光院御所障子絵」訂正   藤原 重雄


(1) [234頁上段]『長秋記』大治五(1130)年七月十日条

 (誤)…次女院御方見参、絵障子十枚許被取出云々、

 (正)…次参女院御方見参、絵御障子十枚許被取出云々、

 この箇所、刊本(増補史料大成)および秋山光和氏論文に誤りはございません。
 お詫びしてご訂正をお願いいたします。(2000年12月25日記)

(2) [232頁下段、後ろから4行目] 第三条の「鄭公」は、これのみでは確定しにくい。

 鎌倉時代に流行した早歌のなかに「屏風徳」という曲があり(『玉林苑』下。外村久江・外村南都子校注『早歌全詞集』三弥井書店、1993年、158番)、中世の屏風(絵)を考える一史料となります(大西広氏御教示)。そこであげられている屏風に関わる故事として、「鄭弘〈てつこう〉は雲母の屏風に、朝夕影をやどし、身のゆがめるを刷〈つくろ〉ひ」という一節があります。校異によると、続群書類従系などに「鄭公」とする本もあるようです。頭註によると、この典拠は『後漢書』六十三(列伝**・鄭弘伝)「鄭弘為大尉時、挙将第五倫為司空、班次在下、毎正朔朝見、弘曲躬自卑、帝問知其故、遂聴置雲母屏風、分隔其間」(***)であり、源光行・元久元年(1204)自序の『百詠和歌』八(服玩部・屏、『続群書類従』15下)にも採られています。なお『百詠和歌』は、唐代詩集で幼学書として受容されていた『李*〔山+喬〕百廿詠』に則り、抄句、注・説話、詠歌からなっています。
 この鄭弘には「鄭公風」あるいは「鄭大尉之谿風」という熟語になった故事があるようです。『大漢和辞典』から引用しますと、「後漢の鄭弘、薪を若邪渓に採り、神人に箭を還した報いにより、谿風の便を得て仕事を楽にした故事」で、『本朝文粋』に引かれた菅原文時作の表にもこの故事をふまえた一節があるようです。これらの事例からは、後漢の鄭弘の逸話は日本でも知られていたと考えることができ、鄭姓の誰かというよりも絞り込むことができるかもしれません。
 仮にこの絞込みが正しいとすると、『長秋記』でいう典拠の「二史」とは『後漢書』『晋書』となります(註16参照)。日本における中国故事の受容には、先に触れた幼学書などが媒介となっている場合も多く、具体的に想定される典籍があるかもしれません。
 日頃扱わない史料で、校注・辞典類から典拠を探った頼りないものですが、補注といたします。 (2003年月日記)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録