藤原重雄『史料としての猫絵』補注・訂正

事実関係とかかわりそうな箇所を中心に、補註・訂正を加えます。網羅度の高い参考文献は現在整理・確認中で、しばらくお待ち下さい。〔図版典拠・参考図版リンク集〕(2014年9月記、同11月、2018年1、10月、2020年11月、2023年4月・7月追加)


【訂正】18頁8行目:『図画見聞誌』(ルビ:とが)の方が一般的でしょうか。

【訂正】18頁頭注『古今著聞集』5行目:「書画」→「画図」

【訂正】19頁1行目「口上書」(ルビ:こうじょうがき)

【補註】25頁5行目:「伊藤克枝氏によると」に頭注を追加。伊藤克枝「猫絵の広まり―新田猫から猫の刷り物へ―」(『富岡市立美術博物館研究紀要』三、2008年)。また、富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館編『蚕の神さまになった猫』(2006年)も、群馬県立博物館所蔵の「新田猫」と東京農工大学工学部附属繊維博物館所蔵の養蚕錦絵の猫を最も網羅し、売薬版画・護符の事例も多数掲載し、概説として伊藤克枝「猫絵の展開」収録しています。これは行数の関係で巻末目録から割愛しましたが、併せて紹介します。

【補註】41頁・図21キャプション:「斜体は絵師名」を追加。

【訂正】42頁3行目:南ニ猶障子東西行立 → 猫障子
  ※島田武彦『近世復古清涼殿の研究』(思文閣出版、1987年)114頁注(4)は誤植。

【訂正】64頁4行目、65頁・図41キャプション:「小猫を集め大猫と(×に)する」

【訂正】72頁12行目:『新納忠元勲功記』(ルビ:にいろ(×の)ただもと)

【訂正】72頁頭注『新納忠元勲功記』:「『鹿児島県史料』旧記雑録拾遺伊地知季安著作史料集二(一九九九年)に収録。」が脱落。

【補註】76頁4行目:「付合」に頭注を追加。中村真理「俳諧の猫」(『連歌俳諧研究』一二五、2013年9月)。

【補註】81頁7行目:繋ぎ飼いは犬と猫とで同時に入れ替わったわけでなく、天文五年(1536)窪田統泰画『日蓮聖人註画讃』巻一第五段には、鎖で繋がれた犬を描く。

【訂正】93頁頭注:「猫の名札」三六(×七)・八三ページ参照。

【訂正】96頁11行目:「伝通院」(ルビ:でんつ(×づ)ういん)

【訂正】100頁7行目:「西洞院時慶が記したように(八四頁)」

以上、第2刷にあたって修正。


【補註】29頁:五山文学にみえる猫絵:太極『碧山日録』応仁二年(1468)二月二十五日条に以下の記事あり(『増補続史料大成』20巻188頁:『大日本古記録』下冊45頁)。

漁庵賦画猫云、
  春蝶閑意緒 無罪可加汝
  祇養人〓(豚)猫 遣搏呂后鼠
余曽聆(聴)良〓(女弟)猫捕武后鼠、未聴漢后有之、喜新得而紀之、

 記主の太極は、南江宗ゲン(水元)(1387〜1463)が猫の絵に賦した詩を書き留め、感想を述べている。宗ゲンには『漁庵小藁』(『五山文学新集』6巻に拾遺とともに収録。本詩は見えず)などの詩文集がある。
 「人豚」は、漢高祖・劉邦の寵愛をうけた側室・戚夫人を罵って付けられた呼称。「呂后」は劉邦の皇后で、皇太子の盈(後の恵帝)の母であるが、盈を廃して戚夫人の息・如意を皇太子となそうする動きのあったことを恨み、劉邦没後に如意を暗殺し、戚夫人をなぶり殺した。手足を切り落とし、豚を飼っていた厠に放り込み、「人豚」と呼ばせたという。
『史記』巻九・呂太后本紀「太后遂断戚夫人手足、去眼、W耳、飲〓(病音)薬、使居厠中、命曰人〓(豚)、」
 「良〓(女弟)」は唐高宗の側室である蕭淑妃、「武后」は則天武后(唐高宗の皇后武照)で、武后が宮中で猫を飼うの禁じた故事にもとづく。高宗の寵愛を受けた蕭淑妃を逐い落とすべく、王皇后により後宮に迎えられた武照は、やがて高宗により皇后に立てられて、王皇后・蕭淑妃をなぶり殺す。蕭淑妃は杖で殴られる時に、「自分は猫に生まれ変わり、鼠となった武后を食い殺してやる」と罵ったという。
『旧唐書』巻五十一・列伝第一・后妃上(高宗廃后王氏伝)「庶人良〓(女弟)初囚、大罵曰、願阿武為老鼠、吾作〓(猫)兒、生生扼其喉、武后怒、自是宮中不畜〓(猫)、」
『新唐書』巻七十六・列伝第一・后妃上(王皇后伝)「至良〓(女弟)、罵曰、武氏狐媚、翻覆至此、我後為〓(猫)、使武氏為鼠、吾當扼其喉以報、後聞、詔六宮勿畜〓(猫)、」
 高名な作者による故事の取り違えを指摘して自得したものか、あるいはそれを踏まえた趣向を愉しんだものか。画軸・便面に続いて記録されており、画面形態は不明だが、掛軸ないし扇面等の小画面であろうか。おそらく根津美術館蔵「牡丹猫図」のような、春うららかな花に寄る蝶を見上げる猫の図様と思われる。
→未見でした中西紀子「『源氏物語』の舶来品をめぐる人々(8)―女三の宮の唐猫に投影した『唐書』后妃伝―」(『大阪芸術大学短期大学部紀要』34、2010年)に、上記の中国史書にみえる猫のイメージを、女三の宮の唐猫やその人の理解に活かすべきとの見解が示されています。


【補遺】35〜39頁:寛政内裏清涼殿の猫障子に関して、武田庸二郎「寛政の御所造営と十九世紀の京都画壇」(五十嵐公一・武田・江口恒明『天皇の美術史』五、吉川弘文館、2017年)46〜50頁にも詳しい記述あり。

【補遺】文献:横山岳「養蚕の鼠害と新田猫絵」(『シルクレポート』54、2017年7月)〔PDF〕 ※現在も受けることができる鼠除けの猫のお札の図版あり。

【参考】文献:長谷川賢二「阿波足利氏の守札」(『朱』49、2006年)。足利将軍家(公方)の末裔が発行するという守札が、マムシ除けに効能があったという。 徳島県立博物館サイト「阿波の足利家とまじない」も参照。 湯浅良幸「阿南ふるさと探訪61 室町幕府・平島公方(二五) まむしよけのお札」(『広報あなん』632、2011年3月1日)では、岩松氏にも言及する。

【訂正】91頁11行目:遅く帰る → 帰ってこない

【補遺】文献:杉山和也「日本に於けるネコの認識―猫またの出現をめぐって―」(『平成二十五年度 名古屋大学大学院国際言語文化研究科 教育・研究プロジェクト「文化創造の展開および発展」報告書』2014年11月)〔PDF〕

【補遺】文献:遠藤薫「近世における都市-農村・日本-世界の文化的交差―〈近代〉を準備した江戸の猫ブーム―」(『学習院大学法学部法学会雑誌』53-1、2017年9月)

【訂正】92頁6行目:『時慶記』慶長九年閏八月三日条「鼠狩猫ヲ入、多鼠」の箇所、刊本(3巻227頁)に拠りましたが、東京国立博物館の転写本『時慶雑略記』では「多取」と写す。原本写真帳に当たると、当該部に欠損があり、「鼠」の可能性もなくはないが、「留」に近い。ひとまず「□〔留カ〕」とする。

【補遺】『時慶記』(臨川書店)5・6巻目が刊行されています。猫の所見は少ないですが、慶長十五年(1610)閏二月二十日条「一、夜猫ヲ天井上候、」(5巻45頁)と鼠狩りと見なして良い記事があります。

【補遺】九条尚経『後慈眼院殿御記』明応三年(1494)八月二十九日条(図書寮叢刊『九条家歴世記録』2巻137頁): 宮内庁書陵部所蔵[九-96]国文研画像
「猶有神変、三ケ村之田之内、毎夜鼠出来喰稲茎、其鼠之数不量、翌朝見足跡者、近辺草茎之臥体、千万人之一度踏付如跡、一宵之間一段二段食失、不知引取之処、郷□〔民〕失魂、或輩雖置猫、彼猫為鼠被追走、未曾有至極也、仍別而対当社(梅宮社)、郷民等祈謝申云々、権預等其外東梅津之者所談也、殊勝々々、」
 鼠の大群によって田稲が荒らされ、ある者は猫を置いて対抗したが、猫も鼠に追い出される始末という変異があったという。
 背景にあったのは、九条家によって支配されていた梅宮社と、その社領である東梅津郷民との争いである。梅宮社が参詣人の便のため、梅津川(桂川)に仮橋をかけたが、渡舟の権利を持っていた東梅津の郷民らが仮橋を切り落とした。梅宮社の訴えを受けた九条家は、渡舟の権利は認めるも、仮橋の切り落としは狼藉であるとして、武力による制裁を加えようとしたところ、東梅津の郷民らは詫言を申して降参した。九条家当主の尚経は梅宮社に願文を捧げてその神威が示されたことを記し、続けて東梅津・半名・郡の三郷で起こった不思議な出来事を記録している。相論の経緯については、島田次郎「十五、十六世紀における権門領主の私的武力について」(『荘園制と中世村落』吉川弘文館、二〇〇一年)127頁参照。

【補遺】94頁:『鹿苑日録』天文五年(1536)五月十三日「猫初捕鼠来、」(刊本1-224)。
これだけでは何か比喩めいたものとも読めるが、猫を飼っている気配があるので、文字通りの意味ととってよいだろう。

【参考】36頁『枕草子』「なまめかしきもの」の字句
 この点を詳しく論じたものとして、萩谷朴「猫も繋いで」(『むらさき』一七、一九八〇年)、同『枕草子解環』二(同朋舎出版、一九八二年)334〜6頁がある。写本に「はかり」とあるのを、版本で「いかり」と改訂されたのをふまえ、「碇の緒」と解釈されてきたのが大まかな流れで、平仮名の字形相似により、「つかり」すなわち「繋り」「連り」「鎖」からの転化と推測している。
「つがりのを」:三巻本・能因本「はかりのを」、流布本「いかりのを」、前田本・堺本ナシ。
「つ(門)」→「は(ハ)」もしくは「つ(津)」→「は(波)」

【補遺】84頁:天正十九年の法令につき、谷徹也「豊臣政権の京都政策」(『日本史研究』677、2019年1月)にて、都市景観・環境の整備の一環としての評価を加える。

【補遺】14頁:鈴木春信「猫に蝶」(図5)につき、赤木美智「鈴木春信の猫の絵―その史的位置―」(太田記念美術館編『江戸にゃんこ 浮世絵ネコづくし』2023年)が技法・図様・画題を美術史的な面から詳しく論じる。

【補遺】87頁:小林照子「発掘・猫の玩具 東京大学本郷構内の遺跡調査にて」(東京大学広報室編『猫と東大。』ミネルヴァ書房、2020年11月)89頁の言及につき、出典を確認しています。
『富山市史』(一九〇九年)44頁 〔国会デジタル〕(1936年版は欠丁1983年復刻版
○寛文二年(一六六二)四月九日 猫ヲ飼フコト流行シ、市中到ル処売買盛ニ行ハレ、悪漢之ニ乗ジ、良民ヲ欺キ私利ヲ壟断スルモノ輩出ス、因テ其売買ヲ禁止シ、之ニ違背スルモノハ過銀ニ処スルコトニ定ム、
 法令の原文に当たれておらず、ひとまず出典らしきものは下記。
富山県立図書館:古絵図・貴重書ギャラリー>古文書>仮整理文書>『利次公御分知之事』【仮−13】56コマ
  猫御停止之事
其頃猫飼候事流行て、売買なとして事騒かしかりけれハ、向後猫つなき候事、尤売買にいたし候儀御停止、若右違背之者於有之者過銀可出旨、寛文二年四月九日ニ御家中エ被仰渡けり、

※『富山舊記略』【仮−46】72コマ(写しで誤写あり)
 このあたり、当然ながら愛玩用の需要を明確に記述すべきところでした。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録