「『仮屋』小考−−松の葉を屋根に葺くこと−−」補注        藤原 重雄 

 

【追記】全体の趣旨に大きな影響はありませんが、四点、補注を加えます。(一九九五年十一月記)

 

(1) 「松葉葺」の事例の検出は、とりわけ中世後期以降について、さらに可能でしょう。本稿執筆時に見落とした中に、かなり具体的な様子のわかる記述がありましたので、ご参考に呈しておきます。

『春日社参記』(姉小路基綱作。寛正六年〔一四六五〕、足利義政の社参に随行。『群書類従』神祇部。)

 [九月]廿七日、[若宮祭]……かくて黒木の御所とかやいひて、こゝろもをよばずつくりたてぬる御桟敷にぞいらせ給ひぬる。み山木のをのがさまぐおひいでたる、なをきをもまがれるをも、そのまゝなるまろ木どもにて、その処処に作りあはせぬる、たくみどものしわざ見所あり。軒ばを松杉などのみどりふかき葉にて青やかにふきわたしたる、まづめとゞまる心地するに、……

[九月]廿八日、後宴とて、けふは又きのふの御桟敷に引かへて、うつくしき杣木どもにて白く作りみがける所にて、……

  史料上の「松」を、常に厳密にマツ科の植物に限定する必要はなく、広く常緑針葉樹を意味する場合もあるでしょう。さしあたり、松と杉との差異は際立たせません。ちなみに、春日若宮おん祭の大宿所は、杉葉の枝で飾られます。またここで「軒ば」とあることから、屋根全体には葺かないとも解釈できますが、そのこと自体を否定する根拠とはしません。ただ、「松を葺く」のいいまわしをもとに、おん祭の御旅所や『春日験記』の図像が案出されたという筋も、視野に入れておいた方がよいようです。

 

(2) 小稿の本筋からは外れますが、注(29)に掲げておくべき論文を見過ごしていました。伊藤延男氏ならびに読者の皆様におわびして、追加します。

伊藤延男「大仏背後の山」(『研究論集T』〈奈良国立文化財研究所学報〉二一、一九七二年)

同   「東大寺大仏背後の山の築造をめぐって」(『仏教芸術』一三一号、一九八〇年)

 前者では、天長四年の太政官符を詳しく分析し、「後山」の推定復元図を作成しており、様々に飾られた供養のありさまを想像するには、興味深い内容です。後者は、おおよそ前者の抄録になります。

 

(3) 注(47)に相当する本文に関連して、家永三郎氏『上代倭絵全史』(高桐書院、一九四六年、七三・七五頁)には、すでに次の指摘がありました。

 ……保元二年七月東三条院行幸の装束に「不画図」る布突立障子二枚を立てたことが兵範記に見え、画図の無い障子も存在したのであるが、しかしそれらは概して例外であり(註二)……。

(註二)例へば久寿二年法性寺殿法事に、「撤絵障子張替布面、不図絵」(兵範記)とあるが如く、弔事には画無き障屏が使用されたが、この様に図絵無きことは特筆せられるべき例外であつたことが分かる。もつとも……、必ずしも障屏に常に絵画が伴つたと云ふわけではない。

  ここに言う「画図」とは、書や文様を含めての意味です。どこまで一般化できるのか、検討の余地は残りますが、(註二)の類例は数多くあり、大筋で認められる主張です。また、凶事と「伊予簾」との関係については、別稿にて検討します。なお、コード論と実態論との関係は、今後の課題です。

 

(4) 〈仮屋〉を問題にしながら、折口信夫以来の「桟敷」をめぐる先行研究に全く言及しておりません。辞典の記述をもとに〈仮屋〉を概観したので、「桟敷」については触れそびれましたが、目下考えております《行列》論との関係で、いずれとりあげることを目標とはしております。他の論点についての注のつけかたとは、明らかにバランスを欠いていますので、言い添えておきます。

(以上は、一九九五年十一月、抜刷に添付したものです。)

 

【追記】(5) 参考文献補遺(網羅的ではありません。一九九九年六月記)

注(22) 尾吹(泉)万里「金剛寺蔵日月山水図屏風をめぐって」(『美術史学』六、一九八四年)

注(32) 金子裕之編『日本の美術360 まじないの世界T(縄文〜古代)』(至文堂、一九九六年)「居す」の章

注(37) 辻惟雄「『かざり』の奇想」(『奇想の図譜』平凡社、一九八九年)

注(47) 千野香織「古代中世障壁画の研究――建築内部空間における意義と機能――」(『鹿島美術財団年報』九、一九九一年度)

注(66) 牟禮仁「「神者依人之敬増威」考――神人相依論の系譜――」(『皇學館大學紀要』三六、一九九七年)

 

【追記】(6) 補遺(2001年12月記)

 発表後、「松葉葺」「黒木屋」「仮屋」「伊予簾」などの史料を見かける事はありましたが、問題とした『春日権現験記絵』巻一第三段とあるいは直接的な関係があるかもしれない記述が、絵巻発願者の西園寺公衡の日記『公衡公記』にあることに気づきました。まず、関係箇所を引用します。

「昭訓門院御産愚記」乾元二年(一三〇三)四月十一日条(史料纂集三−16頁)
抑北屋北御壷俄立仮御厩、〈依法皇仰予儲之、〉竹柱・同台木上ニ葺檜葉、以葛結之、於竹柱者、雖土用中無憚、不打釘者不可有苦之由、(賀茂)在秀朝臣計申之、仍如此致沙汰、腹懸・霸以下同儲之、〈翌日被立御馬、三鴾毛・四黒・五川原毛、〉

 昭訓門院は、公衡の妹で亀山院妃です。その産所に指定された今出川第を、院・女院の御所としてふさわしいものとする修理に関する一節になります。南屋の寝殿が中心となる御所で、寝殿北面が女院常御所、北屋南面が法皇常御所とされています。その北屋北御壷に、亀山院の命があって俄に仮厩を立てることになり、竹柱に竹台木(屋根板のことでしょうか)の上に檜葉を葺いたといい、造作が禁忌となる土用中のことなので、釘を用いず葛で結ったといいます。

 厩としての仮屋であること、院を迎え入れる御所に付属するものであることなど、『春日権現験記絵』との共通性が高いものです。「同台木」の意味が不詳で竹の簀子のようなものをイメージすると厳密には一致しませんが、絵の表現とも重なります。すると葺かれた針葉樹も、檜なのかもしれません。『春日権現験記絵』が奉納された延慶二年(一三〇九)とはさほど隔たらず、造園にもかかわっていた当時の絵師の活動を想起すると、憶測の域を出ませんが高階隆兼自身が見知っていた事例であるかもしれません。(なお、特別展図録『時を超えて語るもの−−史料と美術の名宝−−』No.39解説文中にて、『春日権現験記絵』奉納年を誤って記述しております。ここにお詫びして訂正いたします。)

【追記】(7) 補遺(2005年12月記)

 京都国立博物館蔵『若狭国鎮守神人絵系図』の冒頭、「明神仮殿所」の場面、神が鎮座する幄舎の屋根には、緑の地に褐色系で針葉樹の葉のような表現がなされた痕跡がごくわずかに残っており、「松葉葺」に類するものと考えられます。『若狭の古寺美術』(同刊行会、1983年)にカラー図版あり。(2003年10月29日、京博常設展にて)

【追記】(8) 補遺(2007年7月記)

 『細々要記抜書』〔大日本仏教全書・興福寺叢書二〕至徳三(1386)年十一月(二十日維摩会始行と二十七日との間)に次の記事あり。維摩会の延年の仮屋と若宮おん祭の仮屋とに用いる松枝に関する史料で、その調達について多少具体的にわかる事例です。

一、花山巡験事、衆徒ノ管領ヲ、両堂ニユツテ、各十人ツヽ、合二十口ノ札ヲ出テ、下カリヲシテ巡験ス、去度ヨリナリ、付之、今維摩会ノ延年カリ屋ノフキ松ヲ、木守モヨヲス、四十八荷ト申、又御祭ノ御殿ノ上フキニ、二十四荷入ヘシト申、此分両堂ヨリ出ス、当堂分二十四荷ヲ、上八人ハ二荷半宛、下二人ニ二〈行賢・栄禅〉荷宛出之、御祭之時ケヽアルヘシトモ、御祭ノ時事札ニ記之、

【追記】(9) 補遺(2016年4月記)

 岡本彰夫「若宮祭御旅所行宮考」(『悠久』141、2015年。奈良国立博物館編『おん祭と春日信仰の美術』特集・御旅所、2015年、に再録)が、玉井定時『春日若宮祭礼記』の翻刻などを収めて、お旅所仮御殿の造営について論じています。


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録