「賀茂(鴨)御幸記二種」補注   藤原 重雄


(1) 校了後、横井靖仁氏「中世成立期の神祇と王権」(『日本史研究』475、2002年3月)を拝読しており、貞和三年撰の「鴨御祖皇太神宮正祝光高縣主祝詞」と近藤喜博氏の同題の解題・翻刻(『神道史研究』6-2、1958年)の存在に気づきました。本史料については横井氏が別稿を用意しておられるとのことで、詳しくはそれを俟ちますが、拙稿と関わる範囲で触れておきます。
 拙稿で紹介した史料の性格を要約すると、洞院公賢の周辺で書写された下鴨社神官の日記で、『園太暦』貞和三年(一三四七)六月十日の記事と密接な関係があると推定されるものです。ただ『園太暦』の記事と写本作成との前後関係を決めかね、紙背文書のうちには同年十月十日の可能性があるものを含み、写本作成の方が後になることを考慮する必要が残りました。
 この段になって気づいた「鴨御祖皇太神宮正祝光高縣主祝詞」は、鴨光高が貞和三年十一月にまとめた返祝詞の文例集です。光高は先の『園太暦』の記事に登場し、予定されていた御幸に際して勧賞に預かるよう申請して来ており、そもそもことの発端を開いた人物です。この史料を紹介した近藤氏は、この時期に光高が祝詞集を書写した理由について、遷宮との関わりがあろうかとされています。一方、先の『園太暦』の記事によると、光高はまさに「返祝詞」の勧賞を申請して来たのでした。
 また遷宮の経過を確認しておくと、この貞和四年八月の遷宮については、『下鴨社遷宮記』(鴨脚秀文氏所蔵、史料編纂所影写本[3012-20])という詳しい記録が残されており、『大日本史料』第六編ノ九〜十一に割裂して収録されています(貞和二年四月二十六日、貞和三年九月三日、同年十二月十日・十四日、貞和四年七月十九日・二十二日・八月八日・二十四日ノ条)。貞和二年四月二十六日に造立の日時定があるも延引が続き、貞和四年七月二十二日に仮殿遷宮、八月二十四日に正遷宮となります。
 下鴨社神官の日記が公賢のもとで写された背景には、遷宮を含めた一連の動きとの関連性を推測でき、『園太暦』の記事より後の書写であることも、積極的な側面から考えることができましょう。

(2) 本稿で参照すべきであった文献に、嵯峨井建氏の「鴨社の祝と返祝詞」(橋本政宣・山本信吉編『神主と神人の社会史』神社史料研究会叢書一、思文閣出版、1998年)・「社寺行幸と天皇の儀式空間」(今谷明編『王権と神祇』思文閣出版、2002年6月)があります。行幸が主な検討対象ですが、翻刻史料の理解には有益なものであり、注にてご紹介すべき先行研究でありました。お詫びしてご併読をお願い致します。

(3) 所功氏の「『賀茂注進雑記』に関する覚書」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』一、1996年)の注14によれば、針小路文庫旧蔵(京都産業大学図書館所蔵)『社記目録〈上賀茂/下鴨〉』には、「賀茂御幸記」(文治元年、鴨社家記)や「賀茂御幸記」(建久九年、鴨社家記)が見えるようです。文治元年御幸記の写本については気づいておりませんが、いづれかに伝存するかも知れません。ただ、旧社家の史料群に散見する建久九年のものと比較して、流布していないようです。

(4) この他、下鴨社関係で未見または校正時の加筆を控えた主な参考文献の補遺です。
    糺の森顕彰会編『鴨社古絵図展図録』(下鴨神社社務所、1985年)
    糺の森顕彰会事務局編『鴨社の絵図』(1989年)
    新木直人「鴨社神館の所在」(『古代文化』390、1991年)
    嵯峨井建「下鴨神社史料の所在と現状」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』五、2000年)
    松田敬之「京都府立総合資料館所蔵の賀茂関係史料目録(抄)」(『同』五、2000年)
    所功・松田敬之「カモ(賀茂・鴨)社関係の研究文献目録(稿)」(『同』五、2000年)
    大間茂・所功編「賀茂社関係古伝集成」(『同』六 別冊付録、2001年)

(以上、2003年4月記)

(5) 田中幸江氏の「専修大学図書館蔵「菊亭文庫蔵書目録」解題ならびに翻刻(一・二)」(『専修国文』七六・七七、二〇〇五年一月・九月)に紹介されている十九世紀末の菊亭家の蔵書目録には、「萬」の部に「賀茂御幸記〈端不足〉 一ノ〔巻〕」と「八幡御幸記〈建久九年/社家記〉 一ノ〔巻〕」が見えますが、拙稿で紹介した巻子本に対応し、表紙の八双の脇に「万」と墨書した小片が貼られています。この点、解題にて触れ落しましたので、補注します。(2005年12月記)


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録