「行列図について――鹵簿図・行列指図・絵巻――」要旨      藤原 重雄

 

 中世の絵巻には、貴紳の行列を主題とした特徴的な構図の場面がいくつか見られる(『石山寺縁起絵巻』・四十八巻伝『法然上人絵伝』など)。そこでは、横方向に展開する絵巻の形態を生かして、長大な画面に延々と行列を克明に描き出している。また、周囲の環境表現があまりなされない傾向も備え、宮廷絵所に近い絵師の作品に多いことも指摘されている。

 こうした行列図に関連する文献上の作例に、『古今著聞集』画図〈後鳥羽院御幸あらましの図〉がある。後鳥羽院が似絵と得意にする藤原信実に制作を命じたもので、肖像性の高い絵画作品であった。描かれた御幸は実際にはなかったことから、絵画特有のフィクション性や、院の恣意的な専制権力のあらわれといった側面が、従来強調されてきた。この評価には一理あるが、宮廷社会における歴史的な伝統・慣習をふまえた上でこの作例を理解する方向を採ると、律令にみえる「鹵簿図」の存在が注目される。

 日本令においては、唐令のように鹵簿令は独立の篇目として立てられず、行列次第の詳細な規定は文章化されていない。おそらくそれに代わって、「鹵簿図」が存在/予定されていた。儀式書・古記録からは、大嘗会御禊行幸に際して、次第司による「鹵簿図」の奏上がなされたことが知られる。次第司は、行幸の行列を整えるための臨時の官司で、そこには各種の供奉人交名が集められ、廻文等によって供奉を催した。同時に、交名を行列次第に従って再編した「鹵簿図」を作成し、行幸の前にあらかじめ天皇に奏上して認可を得た。この「鹵簿図」は、再び次第司に返し下され、行幸当日はそれに従って行列次第が整えられた。

 このほか、天皇・皇后・院・摂関らの出行に際して「図」「指図」「行列図」のあったことが古記録にみえ、これらも「鹵簿図」に類するものであったと考えられる。その様態は必ずしも明らかではないが、交名であり、かつ行列の次第(や布置)を視覚的に表現したものであって、「指図」を呼ぶにふさわしい。逆に行列は、「指図」をもって設計・構築される営みであったと言える。

 ここで『古今著聞集』〈後鳥羽院御幸あらましの図〉に戻ってみると、院が予定として供奉人を選んだ、という制作手順には、御幸・行幸といった行事遂行のために作成される行列の指図が、その歴史的な前提であったことが読み取れる。また、人の把握が、名前−顔(の記されたもの)を視る/持つことによって実現されているさまが、如実にあらわれている。さらに行列図は、すぐれて宮廷的な産物であったことも明瞭である。

 ところで、大嘗会御禊行幸の「鹵簿図」を見る者は、当初はもちろん天皇であった。しかしながら院政期に入ると、「鹵簿図」は桟敷で行幸を見物する院のもとにあり、そこで供奉人の見参が行われるようになる。この院による「見物」は、「鹵簿図」の奏に相当し、行列を掌覧する意味あいがある。言い換えると、院の「見物」という場を含めて、儀礼が完結する。もちろんこのことは、総覧権の移動による必然的な変化と理解できる。一方、行列そのものの性格に関しても、力点の置かれ方が、百官の供奉動員から、より見物(みせもの性)へと移行する文化史的な状況を想定できる。

 


東京大学史料編纂所古代史料部藤原重雄論文目録