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| id | title | thumbnail | 管理:架番号 | 管理:国名 | 管理:模写時所蔵 | 管理:原本制作年代 | 管理:模写年代 | 管理:模写者 | 管理:縦 | 管理:横 | 管理:材質 | 管理:著色 | 管理:聚影巻数 | 管理:絵図番号 | 画像:画像情報 | 画像:模写画面 | 画像:トレース図 | 釈文:釈文情報 | 地理:所在地 | 地理:地図 | 文献:参考文献 | 画像有無 |
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| i_341_3 | 陸奥国骨寺絵図(簡略図) | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_101i_/341-3/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 以-341-3 | 陸奥(岩手県) | 中尊寺(岩手県西磐井郡) | 鎌倉時代 | 1992年 | 村岡ゆかり | 85 | 56 | 紙本 | 墨書 | 東日本一 | 1 | 本絵図には方位記載はないが、現地と照合すると、西を天として描かれていることがわかる。文字記載も基本的に西を天とするが、南北の山地に付随するものは、それぞれ平地部から見た方向で記述されており、また平地部西北の田記載については、南東方向を天に記す一群が見いだされる。 色彩は墨色のみであるが、周囲の山を強い筆致の線で、その他の表現はやや細い線で描きわけている。天に近い西側の山地は東から見て描かれており、南北の山地は、岩井川(現・磐井川)にそった平地からそれぞれ見上げる構図となっている。東側には平地が続き、山によって閉じられていないが、後述するように本来は下にさらに図が続いていたと考えられ、絵図全体の構図は不明である。山稜の表現においては、南側の描写が北や西に比べて簡略であり、絵図の主題が岩井河の北側にあったと推測される。なお平野西部の「骨寺跡」(A1-13)、「六所宮」付近(B1-7)には丘陵表現がなされているが、周囲の山に比べると筆致が弱く、描きわけられていたことが分かる。 山肌に描かれた樹木は、幹・枝のみからなる落葉樹の表現と、葉を描く常緑樹的な表現の2つに分類することができる。さらに常緑樹には、幹の線の上に葉の表す横線を配した単純な表現の樹木と、幹・葉ともに太い線で描くものの2種類に区別されている。近景では落葉樹の表現が多く用いられ、遠景では常緑樹が使用されている。 平地部に目を転じると、そこには2本の河、1本の沢が描かれている。図中最大の河川である「岩井河」(A2-3)は、太い二本線で表現されている。西の山中より蛇行して平野部に入り、平野南部の山ぎわに沿って東へと流れていく。その北側を流れる「檜山河」(B2-10)も二本線で描かれているが、岩井河にくらべると幅が狭く小河川として表現されている。やはり西の山中から平野へ入り、さらに南北に蛇行しながら平野部を東流している。また岩井河と檜山河のほぼ中間には「中沢」(A2-9)と記された小さな流れが一本線で描かれている。山中に水源をもたず、平地中央部から流れだす表現がなされ、平地内の余水を流す小さな流れであったことが窺われる。 本図に描かれた道は平地中央を縦断するもの一本だけである(B2-11)。その道は、岩井河が骨寺跡周辺の丘陵部と接する付近から始まって、北東へ湾曲しつつすすみ、「うなね」(B2-5)のところで屈曲して東へと直線的にのびている。道沿いには神社(B2-5,13)、在家、牓示を示す独立樹(B2-18)などがあり、主要なランドマークを結ぶルートとなっている。なお、「白山」・「寺崎」(A1-12)・「骨寺跡」(A1-13)のあたりから丘陵の縁辺部を北にのび、「金峯山」(B2-4)のところで東方向へ曲がり、北側山麓にそって引かれている点線があるが、これが何を意味するものであるか現状では確定することができない。点線が引かれている荘園絵図は希有であり、その解明が待たれる。 耕地の表現として第一に注目されるのは、文字記載の向きが、およそ4種類ほどに分けられることであろう。一番主要な文字記載の向きは、西を天に大きな文字で書かれた「野畠」(A2-8)・「田」・「田代」(A2-13)であり、絵図の東半分に書かれている。それに対して、絵図の作成契機に関わるのは、東南方向を天にした文字記載群であり、「田」の脇に「宇那根田二段」(B2-1)・「六所神田二段」(B2-3)・「山王田三段」(B2-8)・「霊田二段」(B2-6)・「若御子神田二段」(B2-13)などが書かれている。3つ目の文字記載の向きは、南ないし南西方向を天にした文字記載群であり、岩井川の南岸の山地に「田」の記載がなされている。耕地の表現としては、文字記載以外の記号的な表現は用いられていない。また山間にいたるまで「田」の記載がなされているが、現地形からみて不自然な点がめだっており、後述する加筆との関係が窺われるものである。 建造物表現として顕著なのは、3箇所に記された神社である。いずれも、棟には千木をもち、縁付の建物である。「御拝殿」(B2-14)と記された建築もこれに準じている。また、「うなね(社)」(B2-5)と「若御子」(B2-13)社では、周囲に枝・幹のみを描く落葉樹が配されており、その社殿の光景が写されている。この外、在家、「経蔵別当休息所」(B2-7)なども描かれているが、図様が単純なため、その構造は明確でない。また建築跡として、礎石の表現が平野部西側の丘陵部に2箇所に見られる。一つが「白山 寺崎」(A1-12)で5個の礎石から表現され、もう一つが「骨寺跡」(A1-13)で3×3の9個の礎石が描かれている。 さて、本絵図は現在4紙から構成されており、うち右上の一紙は上半分を欠いている。また下側の2紙にはその下部に糊代が存在しており、さらに紙面が接続していたことが判明する。糊代部分に書かれている「寺領」という文字記載は、筆勢などから明瞭な追筆である。同筆の「寺領」という文字記載は、東南(2箇所)・南(2箇所)・西南(3箇所)・西北(1箇所)・東北(2箇所)の合計10箇所もある。どのような狙いをもった追筆であろうか。同様に、「御拝殿」(B2-14)・「経蔵別当御休息所」(B2-7)・「馬頭観音」(B1-8)も後から書き加えられたものである。こうした改変がいかになされたのか、さらに検討を進めてゆく余地が大きい。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_101i_/341-3/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_101i_/341-3/y0000001.png | A1 1 駒形根 2 寺領 3 田 4 田 5 田 6 寺領 7 寺領 8 田 9 田 10 寺領 11 堂山 12 白山 寺崎 13 骨寺跡 14 田 A2 1 田 2 寺領 3 岩井河 4 田 5 田 6 田 7 田 8 野畠 9 中沢 10 田 11 田 12 寺領 13 田代 14 寺領 B1 1 寺領 2 山王 3 田 4 首人分二段 5 田 6 ミたけたうよりして/山王の岩屋へ五六/里之程 7 六所宮 8 馬頭観音 9 田 B2 1 田 2 田 宇那根田二段 3 田 六所神田二段 4 金峯山 5 うなね 6 田 霊田二段 7 経蔵別当休息所 8 田 山王田 三段 9 田 10 檜山河 11 道 12 田 13 田 若御子神田二段 14 御拝殿 15 慈恵坂 16 田 17 寺領 18 郡方牓□〔示〕 19 □ 20 寺領 | 岩手県一関市厳美町 | 本寺・栗駒山 | 松井吉昭 「陸奥国骨寺村絵図―聖地を描く絵図―」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) 奥野中彦 「「近江国菅浦与大浦下荘堺絵図」の成立」 日本歴史 657 (2002) 飯田晶子 「中世称名寺における結界と絵図」 建築史学33 (1999) 松井吉昭 「陸奥国骨寺村絵図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 松井吉昭 「陸奥国骨寺村絵図を歩く」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 上村喜久子 「「尾張国冨田荘絵図」の主題をめぐって」 愛知県史研究5 (2001) 松尾容孝 「山城国神護寺図・山城国高山寺図・山城主殿御領小野山与神護寺領堺相論図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 藤田裕嗣 「神護寺絵図・高山寺絵図の作成過程」 葛川絵図研究会編『絵図のコスモロジー 上巻』地人書房 (1988) 下坂守 「山城国嵯峨舎那院御領絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 岩崎しのぶ 「西大寺荘園絵図群と相論」 人文地理52―1 (2000) 石附敏幸 「大和国乙木荘土帳―土帳から見た村落景観―」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) | 有 |
| i_341_1 | 陸奥国骨寺絵図(詳細図) [表] | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_101i_/341-1/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 以-341-1 | 陸奥(岩手県) | 中尊寺(岩手県西磐井郡) | 鎌倉時代 | 1992年 | 宮本尚彦 | 85 | 57.7 | 紙本 | 墨書 | 東日本一 | 2 | 本図は西を天にとり、四方を山が取り囲む構図をとっている。絵図下部(東側)には、河川が流れ出てゆくさまが表現されているが、そのすぐそばまで山が迫っており、平地は盆地として描かれていると言ってよい。また作成者の視点は平地中央にあり、周囲の山塊はそれぞれ平地から見た向きで描かれている。 南側を流れる「石ハ井河」(A1-10、現・磐井河)と、東北から西へぐるりとめぐる太い稜線によって囲まれた空間に注目すると、これがその外縁部と区別されるように描かれていることに気づく。この構図は、絵図中央部の「寺領」と外部の「郡方」の領域を明確にするという本図の主題を巧みに表現したものである。外縁部の山稜部には「郡方」(A1-3,11,A2-13,B1-1)ないし「郡方、山アリ」(B2-2)という表記が、東南・南・西南・西北・北の5ヶ所にあり、これに対して内部空間には、西南西・西北西・北・北北東・東北東の5ヶ所に「寺領」と記載され、中尊寺と「郡方}の争いが本図の作成契機であったことを窺わせる。 山塊表現に注目すると、外縁部に相当する西奥の遠景表現(西南の山塊には「駒形」(A1-2)と山名記載がされている)と、平地の周囲を北から西へとめぐる近景表現とに分類できる。前者は高く独立した峯を描写し、多くの谷筋線を付しているのに対し、近景にあたる東北から北、さらに西へかけてのびる山地は、山稜線を力強い筆致でつなぐように描いてゆく。南側の「石ハ井河」南岸の山地の場合は、稜線をつなぎはしないものの、山の高まりや筆致などが後者に近似しており、中間的な表現と言えるだろう。このほか「寺領」に相当する内部の空間には、ランドマークとなるいくつかの独立した山がある。平地の西側には「山王岩屋」(A1-5)と記された高まりと、隣接してもう一つの山が描かれ、北東隅には「不動岩屋」(B2-13)と記された山が配置されている。なお、平地部分以外には、薄く墨色が塗られており、地目の差を明確に表現している。 樹木はそのほとんどが山地にあり、幹を表す細い縦線と葉を示す太い横線を組み合わた常緑樹的表現が用いられている。しかし平地中央の「宇那根社」(A2-3)裏にある木々だけは、枝葉を写実的に表現しており、山地の樹木と意識的に区別されていたことが窺われ、特定の樹種まで表現している可能性もある。また「石ハ井河」の北側には流路に沿う形で笹と思しき図像が配されているが、藪地を表現しているのだろう。 河川は、南側を西から東へと流れる「石ハ井河」、平野部を北西から東へと流れる小河川(現骨寺川)、およびその中間を流れる小川という3本が描かれている。全て「東」記載(A2-14)の付近にて合流して東へと流れており、周辺の地形を窺うことができる。前二者は西側の山地に水源をもち、平野部に注いでいるのに対し、後者の小川は「宇那根社」南側の田地(A2-2)から流れ出ており、その場所に湧水があることを物語るとともに、その余水を流す機能を持っていたと思われる。いずれも水面に広がる波紋を、曲線や波線を使って丁寧に描写しており、骨寺村におけるこれらの河川の重要性が窺われる。 耕地は田のみが記されている。田の表現は、平野を北西から東へと流れる骨寺川南岸に集中していて、より大きな河川である磐井河流域に乏しい。これは絵図が作成された当時の耕地開発の技術水準を反映するものであろう。畦畔の表現は、骨寺川上流部左岸のみ整然とした区画をもって示されており(B1-10)、他は矩形と扁平な楕円形を組み合わせた表現となっている。こうした差異は、前者が一定の規模をもって計画的に開発されたものであることを推測させる。また西側に分布する田には、「二反」「三反」といった田積が示されているが(B1-8〜11)、なぜか東側にはそうした記載がない。なお畦畔表現が何もなされていない箇所にも、単に文字で「田」という表記がなされているが、こうした田がどのようなものなのか、詳細は不明である。 本図に記載された道は2本あり、いずれも二本線で表現されている。磐井川と骨寺川の中央にある「宇那根社」(A2-3)を起点に描かれた道は、東に進んですぐに2本に分岐し、宇那根付近より流れてくる小川を挟むかたちでのびている。そのうち小川の北側をゆくのが「馬坂新道」(A2-12)で、「東」記載の付近で本寺川を渡って北へ進み、「不動岩屋」(B2-13)の裏をぬけて山地へと通じている。もう1本が小川の南側へ渡る「古道」(A2-9)で、岩井河に沿って進み「鎰懸」(B2-17)を抜けて東へのびている。この2本だけが特に描かれているのは、東側の境界をいかに表現するのかという絵図の主題と密接に関係しているためと推測される。 建築物としては、在家、神社、堂、建物跡が寺領とされた内部空間に描かれている。在家は全部で7つあるが、田と結びついて立地しているように見受けられる。表現方法から在家はいくつかの種類に分類することができる。網代壁をもち比較的大型のもの、網代壁の表現がないもの、掘立柱とおぼしき表現をとるものに大別できるが、いずれの在家も寄棟の屋根を有している。屋根は、草葺を示すと思われる短い点線の表現をもつものと、何も記されていないものの2種類に描き分けられている。在家の規模としては、二間四方、二間×一間、一間四方の3通りであるが、はっきり読みとれない部分も残る。また「在家跡」という文字記載が2カ所あるが(A2-5,B1-5)、図像は何も記されておらず、こうした記載のなされた意味を絵図の主題から検討せねばならないだろう。 神社は計4つが描かれている。西側から「六所宮」(B1-6)・「金聖人霊社」(A1-9)・「宇那根社」(A2-3)および名称記載のない宮となる。一間四方の高床の本殿に、寄棟の屋根をのせる形式はすべてに共通している。「六所宮」と「宇那根社」は千木を持たないが、他の二社は千木をもっている。 堂の表現は、堂跡として礎石が描かれているもの、文字のみで跡と記されたもの、堂を描くものの3形態をとる。「骨寺堂跡」(A1-8)は4×3の、「ミタケタウアト」(B1-3)には3×3の礎石が配されており、往時には大きな堂があったことを表現している。「骨寺堂跡」付近には「房舎跡等」(A1-7)があったと記されているが、図像は特に描かれていない。堂舎を描くのは、東北隅の馬坂新道付近にある「大師堂」(B2-12)であるが、図像・文字ともに描線が弱く、他の部分とは異筆である。石積と簡略な堂舎表現がなされているが、図内に類似する表現はなく後筆と考えられる。 以下、こうした改変に関する所見を挙げておく。絵図最上部の山に記された「駒形」(A1-2)という文字については、加筆の可能性が指摘されている。本図の文字がすべて西を天として記しているのに対して、この「駒形」のみ方向が異なっているからである。また図中にはいくつかの抹消部分も確認できる。「宇那根社」(A2-3)の左上には擦り消した跡が見られ、残画を確認することができる。また「山王岩屋」(A1-5)付近にもいくつかの加筆、抹消の存在が指摘されているが、微妙な痕跡であるためか模写には、そうした描写はなされていない。 なお、本図の紙背には、本図と関連する別の絵図が記されているが、これについては別レコードとして採録している。そちらを参照いただきたい。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_101i_/341-1/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_101i_/341-1/y0000001.png | A1 1 西 2 駒形 3 郡方 4 寺領 5 山王岩屋 6 〃〃〃〔七髙山〕 7 房舎跡等也 8 骨寺堂跡 9 金聖人霊社 10 石ハ井河 11 郡方 12 田 二反 13 宮 14 〃〃〃〃〔宇カ□□□〕 A2 1 南 2 田 3 宇那根社 4 田 5 在家跡 6 田 7 田 8 田 9 古道 10 田 11 田 12 馬坂新道 13 郡方 14 東 B1 1 郡方 2 寺領 3 ミタケアト 4 寺領 5 在家跡 6 六所宮 7 宇那根 8 田 三反 9 田 三反 10 田 三反 11 田 □反 B2 1 北 2 郡方山アリ 3 飯岡 寺領 4 田 5 田 6 田 7 田 8 寺領 9 田 10 田 11 田 12 大師堂 13 不動岩屋 14 田 15 寺領 16 馬坂新道 17 鎰懸 18 田 | 岩手県一関市厳美町 | 本寺・栗駒山 | - | 有 |
| i_341_2 | 陸奥国骨寺絵図(詳細図) [裏] | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_101i_/341-2/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 以-341-2 | 陸奥(岩手県) | 中尊寺(岩手県西磐井郡) | 鎌倉時代 | 1992年 | 宮本尚彦 | 85 | 57 | 紙本 | 墨書 | 東日本一 | 2 | 陸奥国骨寺絵図簡略図の紙背に描かれた本図は、描写の対象をどこにもとめるか諸説あり、描かれたものが何であるのか正確に確定できない。そのため方位や範囲は不明とせざるを得ない。図様の構成からみて、本図は描写の視点から上中下と大きく3つの空間に区分することができる。上部は山地に耕地や在家の広がる情景を、中間部は左右に通じる道を中心に耕地や在家を配し、下部には多数の建築物ないし建物跡をもつ寺院らしき空間を描いている。 まず上部空間に描かれている事物を検討してみよう。上部中央からは数本の線を束ねたような表現がなされ、一つの流れとなって下へのびたのち、右へほぼ直角に曲がり絵図外へと向かっている。この表現は河川を示すものと思われ、流路の変更を示すような線も見いだすことができる。この流線表現のうち、屈曲後の左右方向の線と、その左延長上にある山稜線が、上部と中間部をわける境界になっており、この空間では、山・耕地・在家がみな川床から俯瞰する形で描かれている。 上部の構図を概観すると、河より左側に平行して縦に2つの山塊がならんでいる。山容表現は、2本の曲線を用いるパターンが多いが、単純に1本の線で山稜を描くものもある。河川とその左にある山塊の間には、井桁による田地表現、在家表現が見られるが、その多くが墨線で抹消されている。また左端の山塊と中央の山塊の間にも在家が描かれているが、屋根と柱を簡略に示すばかりで、構造までは読みとることは難しい。 また上部空間でとりわけ目立つのは空白部分の存在である。縦に走る河川の右側には三宇の在家が簡略に描かれいるが、さらにその右側に黄土の線が縦方向に走っている。この線は、絵図最上部、一番右寄りの山頂から始まり、川を渡って在家の右脇を抜けていく。さらに右へと流れを変えた河川を縦に横切り、道と推定される左右方向の墨線まで進んでいる。空白部分との関係からみて、この黄土が絵図の主題と密接に関係すると思われるが、詳細は不明である。さらに、この黄土線がはじまる山の左には縦にならぶ山塊があり、ここにもう一つの黄土線が存在する。山頂をぐるりと取り巻く描線は、上部で2本になっており、あたかも山を描いたかのような表現をっとているが、これが何を意味するのかは判然としない。 中間部は先に述べた河川・山稜線から、寺院直上に接する荒野に至るまでの空間である。この部分も事物を描く視角に共通点を見いだすことができる。荒野の上部には道路とおぼしき表現が右から左へとのび、井桁や方形で表された田地付近で上下に分岐する。中間部は基本的にこの道路から俯瞰する形で描写がなされているのである。道路下部の荒野には、笹が描かれるとともに、曲線と点を組み合わせた不思議な表現が見いだされる。これが具体的に何を示すものか不明であるが、笹同様に荒野を示すための標識なのであろう。寺域との境界には丘陵が描かれており、地形的に隔てられていたことが分かる。この丘陵線の一番左側には、樹木らしき表現がある。幹と葉を描いているように見えるが、他の樹木とは明らかに表現は異なっており、描き手の意図は明確ではない。荒野とは逆の道路上部には、小さな高まりが多数連続して描かれている。多くのピークがある特徴的な丘陵表現であるとすれば、現地比定の大きな手がかりになると考えられる。 さて問題の道表現は、右から左にすすみ中途で分岐している。分岐点には大きく区画された畦畔や井桁で表された田地の表現があり、開発の進んでいた様子が読みとれる。左下へ続く線は再び笹の生える荒野を通り絵図外へと続く。一方、上へ分岐した道は田地や在家のなかを抜け、上部との境界となる山稜線へ至る。この付近に描かれた在家は、屋根・棟木・柱から表現されており、上部にある在家に比べると大きさ、形ともに明確な表現となっている。また上部との境界となる山塊の下にも、左右にのびる道とおぼしき線があり、分岐してきた道と交差している。この左右方向の道には絵図の中央付近で上へ分岐する線があるが、おそらくこれも道に相当するのだろう。 最後に寺域を中心とした下部を見てゆく。この空間においては絵図下部からの視線が中心となる。左下の山塊などに矛盾はあるが、基本的に下から見る構図と考えてよいだろう。 数多くの建築物は、すべて棟が表現され、柱が数多く描かれている。入母屋とわかるものが2,3宇見えるが、その他は構造的に明確ではない。中央部には池と思われるひょうたん形の図形が見え、その直上には屋根の連なった建物がある。また右に目を転じると宝形造と二層の塔が目立つ形で配されており、この近辺が寺の中心であったことが窺われる。他に注目すべきものとして、層塔上部にある石塔ないしは鐘楼のような表現を挙げることができる。建物跡を示す礎石の表現も寺域内の各所に計9カ所ほど記されている。とりわけ境界となる丘稜線下に数多く集中しているのが目立っている。寺域を囲む山の表現は、上部でみられた2本の線によって描かれるものはなく、1本の線で山稜を描くことを基本とする。左下の寺に近い側の山上には、単純ながら広葉樹とおもわれる樹木が描かれており、他と区別されている。寺域右端にも山らしき表現があるが、複数の線が重ねられているため意図するところは不明確である。その右側に描かれた上下方向の線が河川であるとすれば、堤のような施設を描こうとした可能性も否定できないだろう。 さて本図には、右下部に2つの文字列がある。これが表の絵図に関わるものであるのか裏にあたる本図を示すものであるのか、研究者によって解釈がわかれている。本図理解の上で重要な問題であるが、今後の検討課題である。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_101i_/341-2/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_101i_/341-2/y0000001.png | 1 「御経蔵所領骨寺村差図」 2 「骨寺絵図案/寺領□□堺論/具書□」 | 岩手県一関市厳美町 | 本寺・栗駒山 | - | 有 |
| ho_293 | 菅浦与大浦下庄堺絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/293/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-293 | 近江(滋賀県) | (菅浦文書附図菅浦区長保管) | 南北朝時代 「乾元元年八月十七日」 | 1918年3月 | - | 90 | 61.4 | 紙本 | 着色 | 東日本二 | 9 | まず、絵図上の折筋の観察によって、本絵図は2通りの折り畳み方がなされていたことを確認できる。すなわち、第一の折り畳み方は、まず絵図の上下(北南)を、方位「東」(B2-1)・「西」(A2-1)が記してあるところのすぐ上で半分に折る。次に、南半分(竹生嶋)を内側にして、絵図の左右(東西)を半分に折る。そして次には、「峯堂」(A1-1)の側を外、「菅浦」(B1-8)の側を内側にして、さらに半分に折ってあるというものである。この折り畳み方だと、裏書の「菅浦与大浦下庄堺絵図」が一番上に来て、ちょうど絵図の表題となり、一方裏書の「乾元々年八月十七日」は、極めて不自然な位置の記載であることがわかる。後者の裏書は異筆であるとされている。 第二の折り畳み方も、絵図の上下(北南)を半分に折るところは同じである。次に、竹生嶋を内側にして、上下をさらに半分に折り、細長くする。そして最後に、北の「大浦下庄」(B1-2)と記してある部分を外側にして、絵図の左右(東西)を3つ折りにしたと思われる。この場合にも「菅浦与大浦下庄堺絵図」が表題となり、「乾元々年八月十七日」の記載位置は極めて不自然である。 絵図の欠損状態から、第一の折り畳み方を基本として伝来してきたことが明瞭であるが、第二の折り畳み方もはっきりした折筋が残っているので、ある期間そのような折り畳み方がなされていたと言える。 本絵図は、基本的には北を天にして描かれた。そのことは、「菅浦」(B1-8)「大浦下庄」(B1-2)「竹生嶋」(B2-3)という領域(ないし領主)名の記載が、いずれも北を天にして記載されていることによって判断できる。少し斜めに書かれているが、「神楊」(B1-3)・「谷尾」(B1-4)・「□□〔津吹〕羅尾崎」(B2-2)の3地名も、北を天にして記載されている。また、堺相論に関係する文字は、基本的には東を天にした向きで記載されている。すなわち「山田峯」(B1-5)・「菅浦与大浦下庄堺」(B1-6)・「赤崎」(B1-7)・「諸河」(B1-9)・「日差」(B1-10)・「鉢伏山」(B1-11)である。したがって、本絵図は、主として北と東を天にした2方向から読まれ、検討されたと言いうる。それに対して、西を天にして書かれている文字は「峯堂」(A1-1)・「□〔大〕崎」(A1-2)のみである。なお、「南」・「北」・「東」・「西」の4方位を示す文字は、いずれも絵図の中心から読めるように墨書されている。 次に、この絵図の構図であるが、北半分に「菅浦」(B1-8)・「大浦下庄」(B1-2)・「□〔大〕崎」(A1-2)を描き、南半分には「竹生嶋」(B2-3)が異様に大きく描かれている。構図の左右のバランスに着目すると、北の「大浦下庄」は、湾曲している二本線の河川(大浦川)で2分割され、南の「竹生嶋」では、東半分(右側)に神社の社殿群の空間があり、西半分(左側)には、寺院の堂塔群の空間があり、その間を板橋が繋いでいる。この精細な社殿と堂塔の配置は、鎌倉末・南北朝初期における竹生嶋の境内絵図ないし縁起絵図的表現となっている。すなわち、絵図の真中が構図上の縦の中心軸をなしているのであり、地形図上では「菅浦」の南に位置する「竹生嶋」が、この絵図では、中心軸上の、大浦川の真南の位置に大きく描かれているのである。この表現上の最大の特徴が、本絵図謎を読み解くための鍵となるはずである。 ところで、本絵図は「竹生嶋」の境内絵図的性格をも有しているので、堂塔や社殿群を記述すると、右半分には弁財天社(都久夫須麻社)の景観があり、左半分には行基創建と伝えられる宝厳寺(神宮寺)がある。前者が弁財天信仰の中心であり、後者が観音信仰の中心となっている。右に位置する弁財天社の方は、湖岸の岩場(宮崎)に宝塔(聖武天皇塔)が立っており、その先に朱色の鳥居があって、2つの周囲には幹のくねった赤松がある。鳥居を潜ると長い石段があり、それを登ると懸崖造りの拝殿があって、梯子状の長い階段がついている。拝殿の前には舞楽の行われる舞台があり、その右には楽屋、左には経所が配されている。これらの拝殿や経所・楽屋は、皆蔀格子などが黒く塗られている。それに対して、石舞台の奥には勾欄などを朱色に塗った弁財天社の本殿があり、その前方の左右に配された小さな末社も、柱などが朱色に塗られている。つまり、弁財天社は、本殿などの朱塗りの社殿と、拝殿・楽屋・経所といった人々のいる建物とに分けて表現されているのである。それに対して左半分に位置する宝厳寺の方は、湖岸(仁王崎)に楼門(仁王門)があり、その北(上方)には懸崖造りの観音堂と、その左隣りの同じく懸崖造りの堂(恐らく阿弥陀堂)が描かれている。また、観音堂の背後には三重塔と、その左方に鐘楼のような建物が配されている。これらの宝厳寺の諸建物は、いずれも柱などが朱塗りである。そして、この2つの聖なる中心を包むように、住房・住院のような諸建物が立ち並んでいる。これらの建物だけが板葺き屋根であり、弁財天社と宝巌寺の建物は皆檜皮葺の屋根である。なお、同様の建物が表現されているところとして、「□〔大〕崎」(A1-1)の常緑樹の陰から頭を覗かせている塔と、「峯堂」(A1-1)にある檜皮葺の屋根で、縁付きのお堂がある。いずれも聖地を意味している。 絵図の彩色に目を転ずると、「竹生嶋」と「□〔大〕崎」の「峯堂」付近の濃い緑青で描かれた常緑樹林であり、朱色で紅葉表現がなされている。それに対して、北半分の「菅浦」(B1-8)・「大浦下庄」(B1-2)の山並みには淡い緑青が施されていて、対照的表現となっている。 さて、大浦下荘と菅浦の堺相論絵図である本図の表現に着目すると、まず山々は6種類表現されており、第一は、樹木で覆われ、濃い緑青や朱色で彩られている山地で、「竹生嶋」(B2-3)とその東にある小島や「峯堂」(A1-1)のところである。第二は、急峻な山容で表現された境界の山とそれに続く山並み(峯筋)であり、「山田峯」(B1-5)と以北の山並みがそれにあたる。第三は、「鉢伏山」(B1-11)の山並みであり、「山田峯」の南に続く峯筋であるが、境界の山との差異を強調するために、意識的に小さい山並みに表現されている。第四は、里山的な表現の山であり、菅浦の在家を包み込むように描かれた山と、「日差」(B1-10)・「諸河」(B1-9)を表現する山並みがそれにあたる。どちらも、境界となる峯筋とは切り離して表現されており、それぞれの地名や在家とセットになっている山である。第五は、とくに尾根筋を表現している場合であり、「山田峯」(B1-5)から「赤崎」(B1-7)へと伸びている南尾根や、同じく「山田峯」から「谷尾」(B1-4)・「神楊」(B1-3)へと伸びている北尾根がそれである。後者は、「谷尾」・「神楊」が、「大浦下庄」と「菅浦」の境界をなしていることを示している。前者の尾根筋の両側には、幹と枝だけで葉が描かれていない、広葉樹の雑木林のような木立ちが、弱い筆致で描かれている。その表現が何を意味しているのかが問題となる。そして第六が、「峯堂」(A1-1)以北に続くゆるやかな山並みの表現であり、南北の峯筋を示している。このゆったりした山並みには地名や在家が一切なく、「□〔大〕崎」の「峯堂」以北の南北の峯筋を示すだけの山地表現である。 さらに、北半分における建物の表現についてみると、在家は全て同じ表現であり、掘立柱の家である。縁つきの領主的な家は描かれていない。注目すべきは、在家のまとまりであり、次の2種類に分けられる。一つは在家4宇(八田部)、在家3宇(山田)、在家3宇(小山)、在家3宇(大浦カ)の4箇所であり、それらは大浦下荘の集落(村)を表現している。今一つは、在家8宇(「赤崎」「神楊」「谷尾」に囲まれた在家)と在家9宇(菅浦)であり、「菅浦」の集落(村)である。 北半分の「菅浦」と南半分の「竹生嶋」を結びつける建物表現は神社であり、「赤崎」の社と、山際に半分ほど隠れて北尾崎の八幡宮が描かれている。また、「菅浦」の集落では、右の方に菅浦大明神が、左の方には八王子権現が描かれている。この4つの神社は、皆同じ形で描かれており、朱塗りの小さな社殿である。この社殿と同じ形のものは、「竹生嶋」の右にある小島にも描かれており、「菅浦」と「竹生嶋」の結びつきを窺わせる表現である。 このように描かれている本絵図の焦点となっているのは、「菅浦」と「大浦下庄」の境界線であり、朱線で示され、「山田峯」の尾根筋から、社(八幡宮)・「谷尾」・「神楊」へと伸びている。とくに社から「谷尾」、そして「神楊」へと至る朱線とその南側の8宇の在家が堺相論の焦点の一つとなっている。それとの関連で、「赤崎」の背後の尾根に見られる雑木林のような樹木の表現が何を意味するのかが、解決すべき謎の一つとなっているのである。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/293/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/293/y0000001.png | A1 1 峯堂 2 □〔大〕崎 A2 1 西 2 南 B1 1 北 2 大浦下庄 3 神楊 4 谷尾 5 山田峯 6 菅浦与大浦下庄堺 7 赤崎 8 菅浦 9 諸河 10 日差 11 鉢伏山 B2 1 東 2 □□〔津吹〕羅尾崎 3 竹生嶋 (裏書)「乾元々年八月十七日」「菅浦与大浦下庄堺絵図」 | 滋賀県伊香郡西浅井町 | 竹生島・海津・駄口・木之本 | 西岡虎之助 「古代における寺院の荘園」 歴史と地理29-2、1932、西岡『荘園史の研究 下巻一』岩波書店、1956に収録 (1932) 大阪人権博物館 「『絵図に描かれた被差別民』」 『絵図に描かれた被差別民』大阪人権博物館 (2001) 西岡虎之助 「絵図からみた荘園の話」 荘園研究会編『荘園絵図の基礎的研究』三一書房 (1973) 飯沼賢司 「環境歴史学序説」 民衆史研究61 (2001) 太田浩司 「中世菅浦における村落領域構成―景観復原を通して」 史林70-4 (1987) 勝俣鎮夫 「惣村と惣所―近江国菅浦惣の形成」 『週刊朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読み直す一三 家・村・領主―中世から近世へ』朝日新聞社 (1994) 海老澤衷 「島津荘内薩摩方伊作荘・同日置北郷の「下地中分」について」 鎌倉遺文研究15 (2005) 瀬田勝哉 「菅浦絵図考」 武蔵大学人文学会雑誌7-2、『古文書学論集Ⅴ』吉川弘文館、19?に再録 (1975) 高木辰也 「中世における菅浦と大浦庄の堺相論について」 年報中世史研究14 (1989) 田中克行 「惣と在家・乙名―近江国菅浦惣庄の形成」 史学雑誌104編9号 (1995) 田中克行 「地下請と年貢収取秩序―近江国菅浦惣庄の場合」 歴史学研究679 (1995) 田中克行 「村の紛争解決と乙名・文書」 遥かなる中世14 (1995) 錦昭江 「近江国菅浦絵図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 長谷田公子 「相論開始期の菅浦をめぐって―永仁期における惣有地の存在の再検討を中心に」 『西垣晴次先生退官記念 宗教史・地方史論叢』刀水書房 (1994) 吉田敏弘 「菅浦絵図と『官使注進絵図』」 國學院雑誌95-4 (1994) 吉田敏弘 「近江菅浦絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 黒田日出男 「竹生嶋神領菅浦の堺相論」 黒田『中世荘園絵図の解釈学』東京大学出版会 (2000) | 有 |
| ho_119 | 称名寺古図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/119/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-119 | 武蔵(神奈川県) | 称名寺 | 鎌倉時代 「元亨三年(癸亥)二月廿四日」 | 1907/12/01 | - | 94.4 | 90.4 | 紙本 | 着色 | 東日本二 | 19 | 本絵図は、北を天にして描かれている。「北」(B1-1)「南」(B2-2)「東」(C2-2)「西」(A2-1)の方位は、中心に頭を向けて記載されており、右下隅には、「東南」(C2-10)の文字が記載されている。そこには独立樹として鶏冠木(かえで)があり、対角線上の西北隅には椎木が、これまた独立樹として描かれている。この両木は「結界」を示す朱線と不可分の標木であり、本絵図が結界絵図として作成されたことを表現している。 まず、周囲の山々の観察記述から出発すると、山稜線がほとんど描かれていないところに、本絵図の特徴が見られる。東側部分を見ると、丘陵の壁面が描かれているだけであり、西側部分を見ても、山稜線は西南と西北の一部にしか描かれていない。北側部分でも、山稜線の表現は見られない。また、南側も楼門(仁王門)までしか描かれていない。寺社境内図の表現では一般に、周囲の境界が山稜線などによって周到になされるはずであるが、本絵図では境内の全体を描こうとはしていないのである。すなわち、この絵図はいわゆる境内図とは性質が異なるように思われる。 山稜線に関連して、樹木の表現を見ると、樹種のわかる表現がなされているのは東南隅の鶏冠木や西北隅の椎木とその隣の水源林とおぼしき杉の樹林、北側山地中央の杉の巨木、「僧坊」(A1-4)の背後の竹林、そして「鐘楼」(B2-1)脇の松の木や池の周囲に描かれた松などの木に限られる。それに対して、東側山地には1本の樹木も描かれていないし、西側と北側の山地の樹木はまばらで弱々しい表現である。山稜線を描かないだけでなく、このように山々の樹木もまばらな本絵図は、境界としての山地表現を意図していないかに見える。 また、一定の領域を描く絵図には必ず内と外を分ける表現がなされる。本絵図では内と外を区切るのは朱線しかない。称名寺と他領の境界を示さない本絵図では、朱線によって内と外が分けられているのであって、この朱線が絵図作成当初よりの表現であることは明らかである。 道の描写も特徴的であり、本絵図には道が三本だけ描かれている。一つは、東側の「浴室」(C2-6)と井戸の背後から北に山際を伸びる道であり、「経蔵」(C1-4)の北側の築地塀を抜けると、3本の道に分岐している。次が「両界堂」(B1-2)から伸びて、北側の山にある小堂へと至る道である。そして3つ目が、西側の「僧坊」(A1-4)の背後から伸びて「善光寺殿御廟」(A1-3)の脇を通り、北の椎木とまとまった樹林へと至る道である。本絵図の道は、称名寺伽藍を囲みながら、北の墓地・小堂・樹林へと伸びており、東側と西側、及び北部山地における結界を示す表現となっているのである。 そして本絵図の最大の特徴は、墓地・墓所表現の多さであろう。寺院境内図では、普通はこのような墓地は描かれない。しかもそれらの墓地の全てが周到に朱線の外部とされている。これまた、絵図の作成目的・機能などに密接に関わる表現と見るべきであろう。 次に、本絵図はどのように描かれたのか。その整然とした表現は、無論、定規なしには描くことができない。本絵図を観察していくと、角筆の跡と判断できる直線を随所に見出すことができる。一番明瞭なのは、画面右側つまり東端を南北にはしる直線的な跡である。この直線に沿って、「骨堂」(C1-5)などが布置されている。もう1カ所を例示すれば、「経蔵」(C2-4)の南に、斜めにはしる角筆らしき線を見出すことができる。それと左右対称の場所つまり「僧坊」(A1-4)の背後から経塚の文字記載(A1-5)にかけて、斜めの角筆線が見られる。同様にして、他の部分についても角筆線を随所に発見できる。建物群や池、樹木や墓所などが、縦・横そして斜めにひかれた角筆線によって位置指定されていることを確かめられる。「金堂」(B1-6)南面の池の表現についても、石や樹木などが角筆によって位置指定されている。本絵図の構図は角筆線によって構築され、諸事物の位置指定がなされているのである。こうした角筆線によって、本絵図は極めてバランスのよい左右対称の表現をなしているのだが、それは称名寺伽藍配置の特徴が絵画的に表現されたものでもある。 縦の中心軸線上には楼門・「金堂」(B1-6)・「講堂」(B1-3)が位置しており、他の諸堂・施設は、この中心軸の左右に対称的に配置されている。表現上で注意されるべきは、この楼門・「金堂」・「講堂」がいずれも正面観で描かれていることであり、それは、中心軸がまっすぐに貫かれていることと、称名寺の中心をなす建物であることの表現である。 横(左右)の中心軸の方にも正面観で描かれた建物が浮かび上がってくる。それは、西端(画面左)中央部分の三重塔である。この塔の表現からすれば、横の中心軸の存在が明らかである。この三重塔と「金堂」を左右に貫く中心軸の存在であり、東端(画面右)中央部分で正面観で描かれた建物は、中心軸から少しはずれるが、「経蔵」(C1-4)である。また、樹木の描き方に注意すると、北西部から西側にかけての山地に樹木が多く、東北から東側にかけては樹木は描かれない。そして、西を天にして本絵図を見ると、正面観で描かれた三重塔を中心として、「称名寺」(A2-5)・「当寺檀那」(A2-2)・「新宮」(A2-6)・「僧坊」(A1-4)などが1つの中心的なまとまりをなしていることが読み取れる。池のなかの反橋と平橋の2つの橋も、西を天にして描かれている。すなわち本絵図は、基本的には北を天にして見るべきものであるが、今一つの主要な向きとして、西を天にした向きが存在するのである。 それに対して東側の建物群には、「無常院」(C2-4)・「浴室」(C2-6)・「東司」(C2-5)などが混じり、そこが穢れを帯びやすい部分であったことが窺わせる。また、東側には樹木がほとんど描かれない。従ってこの絵図では、東を天にしてこれらの建物群を見る向きは、副次的であった。 そして南側の向きであるが、楼門を中心とした3つの門と築地塀、「鐘楼」(B2-1)・「東司」(C2-5)そして、池の周囲の土手や石・樹木などの表現が全て、南を天つまり金堂に向き合うかたちで描かれている。この描き方は、「金堂」の中心性を示すと同時に、「金堂」を中心とした伽藍空間の南端を包む(閉じる)ことに意識が働いていて、この絵図には、諸門の外部(南面)に対する関心がほとんど存在しないことを示している。 描かれている諸事物の現地比定は、すでに多くの研究によってなされており、本絵図は、称名寺の伽藍配置をじつに正確に表現していることが確かめられている。 ところで、本絵図は確かにバランスのよい構図であり、伽藍配置と現地地形が巧みに描かれているのであるが、「護摩堂」(A1-2)・「両界堂」(B1-2)・「講堂」(B1-3)などの背後に広がる北側山地については、強いゆがみが生じている。地形図と絵図を比較すると、南半分の楼門から「講堂」までの縮尺と北半分を占める山地の縮尺が大きく異なることがわかる。仁王門から「講堂」までを大きく描き、講堂背後から「本願」(C1-1)墓所背後にかけての山地部分を極めて小さく表現していることが一目瞭然である。 この表現は、一つには伽藍配置を大きく描いているのだが、他方、圧縮された表現の北側山地にあっては、西北隅の結界の椎木と水源林とおぼしき樹林は大きく強調して描かれ、東北隅の「本願 同 谷殿」(C1-1,2)・「先代一門次郎入道殿」(C1-3)の2つの墓地も大きく描かれている。北側の山地の表現は、全体として強く圧縮されつつも、本絵図にとっては不可欠な事物を大きく描くという操作がなされているのである。 さらに細かく観察すると、第一に、「本願 同 谷殿」や「先代一門次郎入道殿」の墓所はきちんと描かれているのに対して、北側の山地は極めてあいまいにしか表現されていない。北側4分の1は、とくにその中央部分で具体的な描写を欠いている。第二に、「護摩堂」(A1-2)の右上の板葺の小堂と杉の巨木のある谷は、本来南北方向に長く伸びている谷であるのに、圧縮された結果、東西方向にひしゃげ、板葺の小堂はあたかも講堂の北方に位置するかのように描かれている。そして第三に、東北端の「本願 同 谷殿」や「先代一門次郎入道殿」の墓所と、西北端に位置する椎木とその東側にある水源林とおぼしき樹林はじつに丁寧に描かれており、この墓地と椎木と樹林は、どうしても描き込む必要があったものである。すなわち、北側山地の観察によれば、西北端の椎木とその右隣の樹林表現、中央の板葺の小堂と杉の巨木、そして「経堂」(C1-4)の北にある築地塀は、結界の朱線を位置指定する図像であり、東北端の2つの墓地は、称名寺の構成要素でありつつも、結界の外にあるべき事物として描き出されている。 次に、建物群の記述を行なうとしよう。元亨3年(1323)頃の称名寺伽藍は、本絵図のような建物群によって構成されていたと推定されているのである。 建物の表現は、a,屋根の葺き方、 b,朱塗の有無、c,建物の描き方(正面観か側面観か)、d,描かれた位置(中心軸線に乗っているか否か)によって分類すると、4タイプに分けられる。第一のタイプは、瓦葺か檜皮葺の朱塗の建物であり、縦(南北)の中心軸に乗っていて、しかも正面観で描かれた建物群である。第二のタイプも、瓦葺か檜皮葺で、朱塗の建物であり、正面観で描かれているのであるが、こちらは横(東西)の中心軸に乗っている。この第一・第二のタイプが、中心的な聖なる建物であることが明瞭である。第三のタイプも檜皮葺と朱塗であるが、側面観で描かれている建物群である。そして第四のほとんどは、板葺屋根・白木・側面観で描かれている建物群である。建物群は、このような記号的表現によって、伽藍におけるそれぞれの配置とランク付けが明瞭になされていたと言えよう。 それでは、本絵図に特徴的な墓地表現についての記述に入る。すなわち、この絵図には墓地ないし墓所が6箇所も描かれているのである。 墓地表現を構成している部分・要素を整理すると、 a宝篋印塔 b五輪塔 c宝形堂 d骨堂 e卒塔婆 f板葺門 g板葺塀 h 門付土塀 i土塀のみ j釘抜 である。このa〜jを利用して6箇所の墓所を観察すると、第一位の墓所は、「當寺檀那」・「貞顕宗顕」・「顕時恵日」(A2-2〜4)と「本願」・「同 谷殿」(C1-1〜2)であって、とくに重要な墓地であることが明瞭である。前者は、墓所の境界は板葺の棟門と連子欄間の塀で囲まれ、3つの宝形堂が描かれている。そのうえ五輪塔が3基も描かれている。「當寺檀那」と記されているのも当然であろう。後者も、宝篋印塔1基と五輪塔2基は、共に基壇が描かれており、門付土塀がある。称名寺にとっては最重要人物たちの墓所であることに疑いはない。 第二位のランクに描かれているのが、「先代一門次郎入道殿」(C1-3)と「檀那 南殿」(C2-9)の墓所であり、土塀か釘抜によって囲われている。第三位の墓所は「善光寺殿」(A1-3)であり、五輪塔のみの表現である。 そして「骨堂」(C1-5)は、火葬した人骨を納める納骨堂であって、卒塔婆と五輪塔が描かれており、第一〜第三の墓所とは別性格の地であることが表現されている。 それらの墓地の文字記載に着目すると、次のような要素に分けられる。 イ,「當寺」+「檀那」+「顕時恵日」+「貞顕宗顕」 ロ,「本願」+「同 谷殿」 ハ,「先代一門次郎入道殿」 ニ,「檀那」+「南殿」+「御廟」 ホ,「善光寺殿」+「御廟」 ヘ,「骨堂」 第一に、イ・ロは「當寺檀那」と「本願」という記載によって、称名寺にとって特別な存在であることが明示されている。ハも、おそらくロに近い人物の墓地であり、称名寺にとって重要な人物たちの墓地であることが明瞭である。それだからであろうか、この三つの墓地は、かえって「御廟」とは記されない。 第二に、ニは「檀那」とあり、ホにはそれがないから、一定の相違があるが、共に「御廟」と記されているグル-プである。 そして第三は「骨堂」であり、イ〜ホまでの墓地とは自ずから性格が異なるものである。 このように分類してみると、この文字記載は、前述の墓地表現とほぼ対応しあっていることがわかるであろう。 しかし、見過ごすことの出来ない異例な記載として、イの「顕時恵日」と「貞顕宗顕」がある。その2つは、「俗名+法名」という奇妙な記載の仕方となっていることが明瞭である。 「當寺檀那」の墓地には十一段の石段があり、板葺の棟門と連子欄間の塀で囲まれている。その内部には、宝形の小堂が3棟と五輪塔が3基存在する。窮屈な表現に見えるのは、3棟の宝形小堂と3基の五輪塔が描き込まれているからである。 この墓地の入り口にある門の正面に位置するのは、宝形の小堂である。その右横に並んでいるのも、2つの宝形の小堂なのである。この絵画表現からは、3つの宝形の小堂は一種の鞘堂であって、その内部に石塔があったのではあるまいか。 そうなると、3棟の宝形の小堂の周囲にある、3基の五輪塔の方は何を意味するのであろうか。 注意すべきは、「貞顕宗顕」・「顕時恵日」の文字記載と五輪塔の関連である。 「貞顕宗顕」の文字は少し斜めに傾いており、五輪塔になされた記載と判断できる。「顕時恵日」の文字も五輪塔に対してなされた文字記載となっている。つまり、この2つの文字記載と3つの五輪塔はセット性を有するのである。 ところが、3つの五輪塔は他の墓所の五輪塔とくらべてみすぼらしく、とても「當寺檀那」の石塔とは見えない。しかも、他の五輪塔や宝篋印塔が正面観で描かれているのに対して、この3つが斜め上から描かれているという異例さもある。そこで、「称名寺絵図」に描かれている石塔の大きさと、その描写が正面観なのか側面観なのかについて観察すると、次のようになる。 最大の石塔は「本願 同 谷殿」(C2-1,2)の宝篋印塔と五輪塔の3基であり、「檀那 南殿御廟」(C2-9)、「善光寺殿御廟」(A1-3)、「先代一門次郎入道殿」(C1-3)の五輪塔がそれに次いでいる。最小は「骨堂」(C1-5)の五輪塔のうちの2基である。このように、称名寺にとって重要な人物のものと思われる石塔ほど大きく描かれているのである。 ところが、「當寺檀那」の3つの五輪塔は、「骨堂」の五輪塔2基に次ぐ二番目の小ささであり、みすぼらしい。しかも、他のほとんどの石塔が正面観で描かれているのに対して、この3基の五輪塔は、斜め上からの側面観で表現されている。そして、この五輪塔は一緒に描かれたものである。 とすれば、この3基の五輪塔の表現と「貞顕宗顕」・「顕時恵日」の文字記載は同時になされたのであって、それは貞顕の法名を「宗顕」と誤記しても怪しまなくなった時期の後筆であったであろう。 次に、「本願 同 谷殿」(C1-1,2)の墓地であるが、北側山地を削平して営まれている。手前には門付土塀があるが、閉じられてはいない。門の正面には宝篋印塔1基があり、その左側には五輪塔2基が並んでいる。宝篋印塔と五輪塔のいずれも基壇が描かれており、しかも、その大きさは本絵図の石塔のなかで最大である。称名寺の「本願」の墓地としていかにもふさわしい石塔表現であろう。 しかし、さらに熟視すると、墓所空間と3基の石塔表現の関係が微妙にバランスを欠いていることに気付く。すなわち、宝篋印塔の右側には一定の空間があるのに対して、「同 谷殿」に対応する五輪塔の左には隙間がない。「谷殿」の五輪塔は、明らかに墓地の左側に窮屈そうに描き込まれているのである。しかも、この五輪塔の表現は、右側の五輪塔と比較してみると、プロポ-ションが明らかに異なる。地輪・水輪・火輪・風輪・空輪のいずれもが微妙に違う。また、基壇の側面のかたちも違っている。中央の五輪塔と左側の宝篋印塔は、「称名寺絵図」が作成された当初の表現であるのに対して、「同 谷殿」の五輪塔は後で描き加えられたものであったと判断せざるを得ないだろう。 とすると、「同 谷殿」という文字記載も後筆ということになり、元亨3年の結界や絵図作成と切り離すことができることになる。しかも、「本願」と「同 谷殿」は同筆であるから、「本願」も後筆と判断しなければならない。「本願」の文字に注目すると、その下の部分に擦消した痕跡が認められる。現時点では判読できないが、当初の文字記載と思われるものが擦り消されている。「本願」も「同 谷殿」と一緒に後で書き込まれたのであり、それは「同 谷殿」の五輪塔が描き込まれた時点であったことになるだろう。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/119/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/119/y0000001.png | A1 1 冨士山現 2 護摩堂 3 善光寺殿御廟 4 僧坊 5 経塚両界畔相去十丈也 A2 1 西 2 当寺檀那 3 貞顕宗〔崇〕顕 4 顕時恵日 5 称名寺 6 新宮 7 別当坊 B1 1 北 2 両界堂 3 講堂 4 浄地 5 方丈 6 金堂 B2 1 鐘楼 2 南 C1 1 本願 2 同谷殿 3 先代一門次郎入道殿 4 経蔵 5 骨堂 6 行堂 C2 1 雲堂 2 東 3 庫院 4 無常院 5 東司 6 浴室 7 僧庫 8 地蔵院 9 檀那南殿御廟 10 東南 (裏書) 「大徳僧聴、我比丘、為僧、唱四方大界相、従当寺東南角鶏冠木中心、旁山根縄外畔、随屈曲、西下至渠南岸標木、旁渠南岸、猶西下至山根西岩稜、旁岸、隨屈曲南下、至標木、旁縄外畔、隨屈曲、猶南下至墻東頭内角、旁墻、西下至水門東岸縄頭、旁縄外畔、隨屈曲、西下通水門至墻内畔、旁墻、西下至土門東墻形内角、旁墻形、隨屈曲南出、至門限内角、旁門限、隨屈曲、西下至西墻形、旁墻形、北入至墻形内角、旁墻、西下至惣門東墻形内角、旁墻形、南出至東柱、穿柱、西下至地輻東頭内角、旁地輻、西下穿柱、至門限東頭内角、旁門限、西下穿柱、至西地輻東頭内角、旁地輻、西下穿柱、至西墻形、旁墻形、北入(行間書)「旁墻形、北入」、至墻形内角、旁墻、猶西下至棟門東墻内角、旁墻形、隨屈曲、南出至門限内角、旁門限、隨屈曲、西下至西墻形、旁墻形、北入至垣形内角、旁墻、西下至水門東岸縄頭、旁縄外畔、随屈曲、通水門、西下至墻内畔、(行間書)「曲、通水門、西下至墻」、旁墻、猶西下至西南角標木、従此旁縄外畔、隨屈曲、北下至標木、旁縄、東下至標木、旁縄、隨屈曲、猶北下至標木、旁縄、西下至標木、旁縄、北下又至標木、旁縄、東下至標木、旁縄、隨屈曲、北下至壁西頭内角、(行間書)「隨屈曲、北下至壁西頭」、旁壁、隨屈曲、東下至壁東頭標木、旁縄外畔、隨屈曲越山、北下穿入西北角椎木中心、従此穿出、至東縄頭、旁縄外畔、東下至標木、又旁縄、越山猶東下至東北角標木、従此、旁山根縄外畔、隨屈曲、南下至岩稜、旁縄、東下至標木、旁縄、隨屈曲、南下還穿入東南角鶏冠木中心、此是、大界外相、第一周訖<第一・第二/如是> 元亨三年<癸亥>二月廿四日 羯磨師 極楽寺長老―(順)忍公大徳 答法 多寳寺長老俊海律師 唱相 湛睿」 | 神奈川県横浜市金沢区 | 本牧 | 神奈川県立金沢文庫 「『金沢文庫研究二九八号 特集 称名寺絵図』」 (1997) 高橋秀栄 「称名寺絵図にみる建築とその機能」 『金沢文庫研究』298 (1997) 飯田晶子 「中世称名寺における結界と絵図」 建築史学33 (1999) 関靖 「称名寺伽藍古図に就いて」 関『金沢文庫の研究』講談社、のち芸林舎より覆刻、1976 (1951) 和島芳男 「中世における極楽・称名二寺の関係」 『金沢文庫研究』84 (1962) 西田長男 「称名寺の熊野堂(一)・(二)」 『金沢文庫研究』91 (1963) 熊原正男 「称名寺伽藍古図」 『金沢文庫研究紀要』2 (1964) 前田元重 「称名寺三重塔について」 三浦古文化1 (1966) 納富常天 「称名寺結界図について」 『印度学仏教学研究』17-1、のち納富『金沢文庫資料の研究』法蔵館、1982所収 (1968) 前田元重 「『称名寺結界図』と金沢貞顕五輪塔について(上)・(中)」 『金沢文庫研究』143・144 (1968) 三浦勝男 「称名寺結界図」 『鎌倉国宝館図録15 鎌倉の古絵図Ⅰ』 (1968) 石井進 「谷殿永忍考」 『金沢文庫研究』170 (1970) 関口欣也 「重文 称名寺結界図」 神奈川県教育委員会『神奈川県文化財図鑑 建造物編』 (1971) 前田元重 「称名寺開山審海五輪塔について」 三浦古文化10 (1972) 和島芳雄 「常陸三村寺と忍性」 『金沢文庫研究』195 (1972) 前田元重 「箱根宝篋印塔と大工前大和権守大蔵康氏―称名寺三重塔建立との関連において」 『金沢文庫研究紀要』9 (1972) 納富常天 「北条実時の阿弥陀堂と称名寺草創」 『金沢文庫研究紀要』9 (1972) 納富常天 「開山審海」 『金沢文庫研究紀要』10 (1973) 前田元重 「北条実時石造宝篋印塔について」 『金沢文庫研究紀要』10 (1973) 納富常天 「第二代釼阿」 『金沢文庫研究紀要』11 (1974) 前田元重 「称名寺棟札・銘札集」 『金沢文庫研究紀要』13 (1977) 前田元重 「称名寺 金剛力士像躰内銘」 『金沢文庫研究』242・243 (197677) 前田元重 「史跡 金沢貞顕五輪塔をただす」 『金沢文庫研究』246 (1977) 前田元重 「称名寺金堂の本尊について」 『金沢文庫研究』256 (1979) 真鍋俊照 「〔模写本〕称名寺絵図並結界記」 『金沢文庫研究』254 (1978) 田辺三郎助 「称名寺本尊・弥勒菩薩像をめぐる諸問題」 三浦古文化28 (1980) 柳澤孝 「称名寺金堂壁画考」 三浦古文化28 (1980) 納富常天 「『金沢文庫資料の研究』」 法蔵館 (1982) 峰岸純夫 「持犯文集紙背文書と極楽寺」 『金沢文庫研究』272 (1984) 前田元重 「金沢北条氏と称名寺について」 横浜市教育委員会『称名寺庭園苑地保存整備計画報告書』 (1988) 福島金治 「称名寺結界絵図」 神奈川県立金沢文庫『金沢文庫資料全書第九巻 寺院指図編』 (1988) 福島金治 「金沢称名寺の年中行事」 九州大学国史学研究室編『古代中世論集』吉川弘文館 (1990) 百瀬今朝雄 「北条(金沢)顕時寄進状・同書状案について」 神奈川県文化資料館『郷土神奈川』26 (1990) 松尾剛次 「結界の作法―常陸三村寺結界石と称名寺結界絵図」 日本歴史534 (1992) 松尾剛次 「『中世都市鎌倉の風景』」 吉川弘文館 (1993) 藤井恵介 「称名寺結界絵図に描かれた建築郡について―特に律院としての性格をめぐって―」 『金沢文庫研究』298 (1997) 松原誠司・吉田敏弘 「称名寺絵図と結界記―その史料批判の試み―」 『金沢文庫研究』298 (1997) 黒田日出男 「称名寺絵図のアポリアと解決(上)」 『金沢文庫研究』307 (2001) 関靖 「称名寺の伽藍図の発見」 書誌学3―6、後「金沢文庫書誌論考」『金沢文庫研究紀要』2、1964に収録 (1934) 森蘊 「称名寺の建築と庭園」 建築史6―4 (1944) 吉永義信 「称名寺庭園」 『史蹟名勝天然記念物』13―9 (1938) 熊原政男 「称名寺の庭」 『金沢文庫研究』45、後「金沢文庫書誌の研究」『金沢文庫研究紀要』1961に収録 (1959) 西田長男 「称名寺の熊野堂(一)(二)」 『金沢文庫研究』91 (1963) 関靖 「紙本墨書・称名寺伽藍古図」 『金沢文庫研究紀要』2 (1964) 前田元重 「称名寺三重塔について」 『三浦古文化』1 (1966) 森蘊 「結界の立地的考察」 『南都仏教』20 (1967) 前田元重 「口絵解説 金沢顕時塔」 『三浦古文化』3 (1967) 森蘊 「結界図による称名寺の復元的考察」 『大和文化研究』14‐10 (1969) 百瀬今朝雄 「明忍房剱阿の称名寺長老就任年代」 『三浦古文化』13 (1973) 柳沢孝 「称名寺金堂壁画考」 『三浦古文化』28 (1980) 高橋秀栄 「宝樹院阿弥陀三尊像の像内納入文書について」 『三浦古文化』50 (1992) 福島金治 「金沢称名寺の寺院組織」 『金沢北条氏と称名寺』吉川弘文館 (1997) | 有 |
| ho_68 | 円覚寺境内古図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/68/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-68 | 相模(神奈川県) | 円覚寺 | 南北朝時代 | 1908年3月 | - | 95.3 | 90.2 | 紙本 | 着色 | 東日本二 | 20 | 本絵図は、境界を示す朱線があり、全体的に薄い彩色がなされている。通説では、元亨三年(1323)から建武二年(1335)の間に作成されたとされている。絵図の向きは、北を天、南を地とする。「北」(A1-1)、「南」(A2-12)、「東」(B1-2)の三方位が記載されており、各方位の文字記載の向きは、それぞれの方位を上にして書かれている。 まず、絵画表現に着目すると、伽藍などの諸建築物は全体的に小さめであり、山地表現と東北・西北の余白部分が大きい。山稜線が絵図全体を包んでおり、円覚寺領が基本的には山々の峰筋によって包まれていることを示している。また、山地と平地の区切りを示す山麓線ないし山裾が絵画的に表現され、それによって谷々や削平された敷地や境内などを明瞭に判読できるようになっている。樹木の表現としては4種類あり、一つは、西から北、そして東へと領域を包んでいる山並みに描かれている常緑樹である。縦に3本ほど引かれた樹幹に、横の墨線のタッチで葉(常緑)を描いている。基本的には寺山を表現したものであろう。第二の樹木表現は、惣門の左右に描かれた塔頭や岡・丘陵のような表現にあるもので、樹幹と枝の描写だけの落葉樹である。このような落葉樹は、寺山の低い部分とそこの一部を削平して営まれている塔頭の表現の一部を構成している。第三の樹木表現は、縦の中心軸の一番奥の谷の石段の左脇と、惣門の左にある「正観寺」(A2-6)の建物を囲んでいる竹林ないし竹藪である。第四の樹木は、絵図の右下(東南)のところに描かれている1本の樹木と、南端の山地の1本の樹木である。前者は「新寄進」とある土地の右方角にあり、そこには朱の境界線も引かれているのでランドマ-クとして描かれているものであり、後者も朱線のところに描かれているので同じくランドマ-クであろう。そして第五は、東南端の樹木表現であり、「東慶寺」(B2-7)の表現の一部かも知れない。 建物は、堂塔・塔頭と門前の在家が描かれている。この絵図によって、建武頃の円覚寺の伽藍は、三門・仏殿・法堂(はっとう)が絵図中央の南北軸に一直線に並び、主要堂宇は中国風に左右に整然と配置されていることがわかる。 まず、伽藍前の道は、門前でコの字形に屈折しており、現状からすると、石積みの障塀が境内の南面を限っている。この南面障塀の正面には門が作られず、コの形をした結界の両側には釘貫門の外門が描かれている。円覚寺にやってきた者がこの外門を入ると、水路にかけられた橋を渡り、左右対称になる白鷺池(はくろいけ)と呼ばれる蓮池の間を通って階段と上がると、惣門(三間一戸、単層、入母屋造)につく。惣門には両側に長く築地塀がのび、その右端には脇門が描かれており、左端には坂がある。 惣門を入ると正面の中央に二重屋根の三門(三間一戸、重層、入母屋造)があり、その左右には、二重屋根の建物が廊によってつながっている。この建築は、東福寺の場合などから推定すると、鐘楼と経蔵であろう。また、惣門と三門を結ぶ中軸線の左右に相対している小建築は、右が浴室、左が東司であろう。 三門を入って正面に見える高い基壇上の裳階付(もこしつき)の大建築物は仏殿(重層入母屋造)である。その仏殿前庭の左右にある堂は、右が庫院(くいん)、左が僧堂(そうどう)であり、これも裳階付の建物である。仏殿の背後には、基壇上に花灯枠(かとうわく)をもつ二重屋根の法堂(三間、重層)があり、その後ろにも裳階付の堂(重層)がある。この堂は二重屋根の仏堂風に描かれており、その位置からすれば方丈か、あるいは「建長寺指図」に見える「禮間」(礼間)に相当する。この堂の右上には他の小建築よりも若干大きく描かれた2棟の建物があり、これを方丈と小庫裡とすれば、法堂後ろの二重屋根の堂は前方丈に相当する「禮間」ということになる。そのいずれか、判断を要するところである。 この建物の左上には、大きな池(妙香池)が描かれ、池の左は2つの門のある障塀で限られ、その中には二重屋根入母屋造の「舎利殿」(A1-5)とその脇に縁付の建物1棟が描かれている。妙香池の右上には小さな門と左右の障塀があって、その奥には小さな谷がある。そこには左手に3棟の建物で構成された檀那塔の「仏日庵」(A1-4)があり(1棟は縁付の建物)、谷の奥突き当たりの高い石段の上に華厳塔が立ち、その脇には二棟の建物が立つ。そしてその後ろ山には「六国見」(ろっこくけん)(A1-3)と記載されている。 このように円覚寺伽藍は、両側に山が迫り、奥に行くに従って高くなる奥深くのびる谷に三門・仏殿・法堂の大建築が直線的に立ち並び、伽藍中心の入り口である三門には、その両翼に鐘楼と経蔵と判断される重層建築がつながっている。また、仏殿前庭左右には大規模の庫院と僧堂が配されている。伽藍の背後左手の小さな谷には舎利殿、中心軸の最も奥まった谷には華厳塔と仏日庵があって、その背後には「六国見」とある寺山が寺域を囲んでいた。このような伽藍は典型的な宋風の伽藍配置とされている。 但し、三門両翼から仏殿両側につながる廻廊が描かれていないが、これが省略によるのか、実際に存在しなかったのかは今のところ不詳である。また、盛時の五山仏殿にはその左右に土地堂と祖師堂が付属していたが、この絵図の円覚寺仏殿にはそれが見られない。 円覚寺境内には、その他にも建物の表現が何か所もある。塔頭名が明記されているのは「仏日庵」の他に「大仙庵」(A2-4)・「白雲庵」(A2-2)・「伝宗庵」(A2-3)である。この3つの塔頭の2棟の建物のうち1棟は重層建築であり、昭堂(しょうどう)と思われる堂である。その他の二棟ワンセットの建物表現には、そのような重層建築はなく、それらが塔頭なのか、それとも別の建築なのかは、今のところ判断できない。 なお、円覚寺境内の文字記載の特徴として注目すべきは、伽藍の中心軸に位置する諸建築物には文字記載は一切なく、「仏日庵」・「舎利殿」・「大仙庵」・「伝宗庵」・「白雲庵」だけに文字記載がなされていることに意味が問われるべきであろう。 次に道と溝の記述に移る。門前を東西にはしっているのは、大道とその北側の溝である。この大道の左端には「篝屋跡」(A2-7)があり、溝には何か所も橋が渡されている。この道と溝の南側に描かれている主要な建物が、掘立柱風の町屋である。道によって3区画のまとまりとして描かれており、門前の障塀の南面には30数宇、その左側の一画には50宇近く、そして「瓜谷路」(A2-8)の左側には5宇が描かれている。これらの町屋の住人は、寺の雑務に従う承仕(しょうじ)や小番(こばん)等だけでなく、文書からは「畳刺」(たたみさし)などの職人の存在も確かめられている。 なお、円覚寺の境内は、大きな谷のなかに広がっているのだから、境内のなかに溝がどのように走っているのかが問題になるが、この絵図では、惣門の前の池と溝の関係や境内のなかの池と溝のつながりなどを、的確に把握することはできない。 ところで、境界は朱線で表現されているが、全体的に薄くなっており、原本ではとくに東南部分の判読が困難となっている。天=北から時計回りに朱線を追うと、北から東南東にかけては山稜線に沿って引かれており、真北と真東には上杉伊豆守重能の花押(B2-5)が据えられている。この山地の山裾に朱線は伸びる。そして、「蔵六庵/当庵敷地/口貮拾五丈/奥拾貮丈」(B2-2)と「新寄進」(B2-4)の東端を通り、2つの「新寄進」の地(B2-3,4)の南端を通るのである。この地点の境界としての重要性から、朱線上に上杉重能の花押が据えられている。朱線は、コの字形をした結界の左側の釘貫門の外門の手前で南に折れ、「中殿跡」(B2-6)と町屋の間を南下して南端の山中に入る。そこから朱線は南の山中を東から西へと伸びている。その朱線の中央部分にも上杉重能の花押(A2-11)があって、さらに朱線は東南端の「瓜谷路」(A2-8)の東側を北へと走り、「篝屋」(A2-7)の右下の橋から溝に沿って、それが大道を横切る橋のところで寺山の山稜線へと向う。そして、あとは寺山の山稜線上を北へと至るのである。この西の朱線の中央にも上杉重能の花押(A1-6)がある。 以上の朱線の走り方と2つの「新寄進」の文字記載、「新寄進」の東南角にある独立樹木、そして「新寄進」の南側の朱線に据えられた花押の存在からすれば、本絵図の作成目的となっているのが東南の「新寄進」の地であることは、通説の説く通りであろう。 なお、境界線の外側には、東には「最明寺」(B2-1)、南には「中殿跡」(B2-6)・「東慶寺」(B2-7)・「薩摩掃部大夫入道跡」(A2-10)・「飯島弥次郎入道跡」(A2-9)があり、西には「塔」(A2-1)・「長勝寺」(A2-5)・「篝屋跡」(A2-7)・「瓜谷路」(A2-8)といった文字記載がある。「最明寺」の描写は、門内へ入っていくと石段があり、その上に楼門があり、多角形(六角形か)をした堂と、その奥の山陰に隠れた堂が描かれている。次に「中殿跡」は久明親王妃(冷泉為相の娘)の邸跡と推定されている。「東慶寺」は、覚山尼(北条時宗の妻、安達義景の娘)を開山とし、北条貞時を開基とする寺である。「薩摩掃部大夫入道跡」は薩摩掃部大夫成綱のことであろう。「飯島弥次郎入道跡」は未詳。「長勝寺」は、空山円印を開山とする寺であり、「塔」は長勝寺開山塔雲頂庵をさすと言われている。以上のように、朱線の外側の他領の記載も、絵図の上半分には見られず、円覚寺境内の東南から南、そして西南にかけてに集中している。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/68/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/68/y0000001.png | A1 1 北 2 (花押・上杉重能) 3 六国見 4 仏日庵 5 舎利殿 6 (花押・上杉重能) A2 1 塔 2 白雲庵 3 伝宗庵 4 大仙庵 5 長勝寺 6 正観音 7 篝屋跡 8 瓜谷路 9 飯嶋弥次郎入道跡 10 薩摩掃部大夫入道跡 11 (花押・上杉重能) 12 南 B1 1 (花押・上杉重能) 2 東 B2 1 最明寺 2 蔵六庵 当庵敷地口弐拾伍丈・奥拾弐丈 3 新寄進 4 新寄進 5 (花押・上杉重能) 6 中殿跡 7 東慶寺 | 神奈川県鎌倉市 | 戸塚 | 玉村竹二・井上禅定 「『円覚寺史』」 春秋社 (1964) 佐藤道雄 「相模国円覚寺境内絵図の作成過程に関する一考察」 『國學院雑誌』99-6 (1998) 松尾剛次 「『中世都市鎌倉の風景』」 (1993) 三浦勝男 「円覚寺境内絵図」 『鎌倉の古絵図Ⅰ』 (1968) 「『神奈川県文化財図鑑 建造物篇』」 (1971) 川副武胤 (1959) | 有 |
| ho_67 | 明月院古図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/67/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-67 | 相模(神奈川県) | 明月院 | 室町時代 | 1906年2月 | - | 84.1 | 127.1 | 紙本 | 着色 | 東日本二 | 22 | 本絵図は、極めて絵画的な絵図である。応永元年(1394)頃の様相が描かれているとされている。主要な建物は細かく描いており、樹木の表現も精細である。本絵図には、主要な建物として、画面左に「明月庵」(A1-2)、真中に「宗猷庵」(B1-1)、右に経蔵、そして右下には三重塔が描かれている。絵図の右方中央に、鎌倉御所足利氏満の花押(C2-2)が据えられている。この「明月庵」・「宗猷庵」・経蔵を正面から見る向きが本絵図の基本であり、方位の記載はまったくないが、現地比定によって、この天=上の向きはほぼ北であることがわかる。従って、右が東方向、下が南方向、左が西方向となる。 この絵図の表現は、普通の寺院境内絵図とは異なっている。例えば、円覚寺絵図などと比べれば、寺内の建物や塀などがとても大きく、極めて精細に、そして際立って絵画的に描かれていることがわかる。その表現からは、障塀が石塀であることや、じつにさまざまな樹種の樹木が描かれていることがわかる。樹木は場所によって描き分けており、実際の樹相をかなり意識して描いていると思われるが、樹種を特定していくことは今後の課題である。 本絵図の表現からすると、天=上(北方向)、右(東方向)、下(南方向)の三方は、基本的に山並み(山稜線)で囲まれている。そのうち天の山稜線の上には、「谷」(A1-1)と書かれており、それに相当する細長い谷状の表現がある。これによって、上(北)に別の谷が存在することがわかる。また、絵図中央の部分つまり「宗猷庵」の上部で、朱線は山稜線からはずれて上に向かい、別の墨線の上に重なって「建長之界」(C1-1)という文字記載やそれと結びついた石垣状の表現のところへと伸びている。この「建長之界」という記載の部分のところで、朱線はなぜかコの字形となっており、建長寺側には石垣状の構築物があったことがわかる。この部分の朱線と山稜線の間には、何の文字記載も描写も見られないが、この朱線の範囲内も寺域であったと考えざるを得ないだろう。なお、東北隅には、前に2本の樹木が配された小さな神社が立っている。 右側の山稜線の外側には、上から「天源庵」(C1-2)・「正統庵」(C1-3)・「傳燈庵」(C2-1)・「龍峰庵」(C2-3)・「宝珠庵」(C3-1)・「玉雲庵」(C3-2)と書かれており、山稜線の向こう側には、これらの庵が並んでいる。 次に下側の山稜線の外側には、右から「龍興院」(C3-1)・「保寧寺」(C3-4)・「安国寺」(B3-3)・「徳泉寺」(B3-2)・「正法寺」(B3-1)が列記されており、こちらは寺か院である。但し、この下側の山稜線は、左下隅(西南)で切れており、そこには「傳宗庵」(A3-1)とあって、門と障塀・垣根や竹林が描かれている。 そして左側には、南北方向に小川ないし溝が流れており、その小川が本絵図に描かれた「明月庵」・「宗猷庵」・経蔵・三重塔の西の境界をなしている。 この寺域に入るには、まず、左端に書かれている「禅興寺」(A2-1)の方から、境界をなす小川にかかる反橋(そりはし)を渡る。すると、「明月庵」(A1-2)と記された庵がある。その塀は屈曲した中国風の石の障塀であり、その左端には小さな脇門(通用門)と、「明月庵」の中心軸より右によったところにある檜皮葺切妻造の棟門が開かれている。後者の門を入ると、正面に仏堂(昭堂)が立っている。この昭堂は壇上積基壇(だんじょうずみきだん)の上にたち、上・下層とも桁行三間の檜皮葺屋根をあげた禅宗様仏堂である。下層は木鼻・台輪がみえ、各間に花灯枠が設けられ、上層は高欄(こうらん)をめぐらしている。注意深く観察すると、上層にも花灯枠がある。この建物は、榑葺(くれぶき)・重層二階造の建築であり、塔頭の昭堂にこの形式を確認できる珍しい例とされている。この昭堂の前庭には、左右に相対して、縁をめぐらした重層建築が配されており、左方の重層建築の脇には、縁のない内部が土間と推測される榑葺の建物が四棟たっている。また、昭堂と左右に相対する重層建築の間には、いわゆる両廊下がある。その榑葺の屋根は各建築の上層の屋根の下に納まり、下端が各建築上層の高欄にとりついているので、この両廊下は二階廊であると判断しうる。 昭堂の前庭右方の本坊と思われる榑葺の重層建築は、周りに縁をめぐらし、桁行五間の規模である。複雑な描かれ方をしており、屋根は二重である。上層は入母屋であるが、下層は前面が入母屋状に上層にかぶっており、上層は後ろに寄っている。しかも、右側面から上に登る檜皮葺山廊が描かれているので、この建物は楼閣形式の二階造と見られる。 昭堂の前庭左方の庫裡客殿と思われる重層建築も楼閣形式であって、初層は桁行五間・梁行三間・周囲縁付であり、上層は桁行四間・梁行二間・周囲高欄付の榑葺入母屋の屋根である。この建築に並ぶ桁行四間の建物は、桁行柱間数の多さから庫裡と推定されている。縁がないので、内部は土間を主としていたであろう。 なお、この庫裡客殿と思われる重層建築の左側には、榑葺屋根の桁行六間の建物があり、その背後には、同じく榑葺屋根・桁行五間の建物が向かい合っているが、この3棟の機能については、今後の検討が不可欠である。 「明月庵」の裏山には、向かって右側の重層建築の脇に描かれている檜皮葺の小さな建物の脇の小門から行くことができると思われる。その門を入ると、石段が重層建築の背後にわずかに見え、さらに先に山道(登り道)があり、その上には桁行三間・切妻造の建物が懸造(かけづくり)の上に立っている。眺望にすぐれた建物であったと見られる。また、昭堂の左側の裏山の「明月庵」(A1-2)と書かれたところの下には、宝塔のような描写がある。これは、やぐらの入り口とされており、現在、風化の著しい十六羅漢と仏像2体を浮き彫りにしたやぐらがある。「禅興寺」 (A2-1)本寺の羅漢洞にあたるとされている。 なお、「明月庵」と次の「宗猷庵」の間の山地部分には、小さな鳥居と社殿(鎮守カ)が描かれており、赤く塗られている。 この「明月庵」から真中に描かれた「宗猷庵」に向かうには、屈曲したゆるやかな坂道を上っていく。同庵は無及徳詮の塔所であり、門の正面に昭堂がたち、昭堂前庭に左右相対して2棟の建物がたっている。これは、前殿と正殿および東西配殿よりなる中国の四合院配置の原則を示しているとされている。 宗猷庵の入り口の門は、桁行一間・梁間一間・檜皮葺入母屋造の禅宗様の門である。両脇には石の障塀がある。門の内側の両側面に腰掛があるのは極めて珍しく、現存する中世禅宗様の門では、この形式のものはないようである。 次に、宗猷庵の昭堂は、壇上積基壇の上にたち、裳階付檜皮葺入母屋造の禅宗様仏堂である。裳階桁行三間であるが、主屋の上部も三間に割られている。その昭堂前庭には樹木が二本植えられている。 前庭には、左右に相対して榑葺寄棟屋根の建築が立つ。共に縁をもち、居住用の建物である。両方共単層であり、明月庵よりもずっと簡素である。そのうち右方の寄棟造・桁行三間・縁付の建物には、桁行三間・上部欄間付の庫裡とおぼしき建物が付属しているから、庫裡客殿であろう。それに相対する寄棟造・桁行五間・縁付の建物は、後方を垣で囲っており、規模も大きいので、本坊にあたる建物であろう。 宗猷庵を出ると前面に池が広がっており、そこには檜皮葺の屋根をかけた廊橋(ろうきょう)がかけられている。廊橋の両端が切妻造となっているのは希有であるとされている。その橋を渡ると廊が伸び、三重塔(禅興寺の稜厳塔)に達する。壇上積基壇上に立つこの塔は、普通の三重塔のような縁がないので、内部は土間と考えられている。この塔は白壁であって和様に見えるが、そうではない。初層に頭貫鼻(かしらぬきはな)をもち、欄間が設けられるなど、禅宗様の三重塔である。 さらに塔から伸びている廊は屈折しており、中国の形式をとりいれたものである。そこを行くと、檜皮葺の経蔵に達する。壇上積基壇上に立ち、桁行一間・檜皮葺入母屋造の禅宗様建築である。内部の岩座にのる輪蔵も描かれている。 上部・右側・下部の境界を示す朱線は、基本的には山稜線に沿って引かれている。例外は、上部では「□〔建〕長之界」(C1-1)の部分、下部では「傳宗庵」(A3-1)の部分に限られている。そして左側の朱線は、小川の左側に引かれており、この小川も寺域内であることが示されている。 とすると、本絵図に引かれた朱線は、「明月庵」・「宗猷庵」・経蔵・三重塔を包んでおり、この2つの庵と経蔵・三重塔を1つのまとまりとする寺域(寺地)の確保が、この絵図の主題であったと思われる。注意すべきは下側左の「傳宗庵」の表現であろう。門・障塀・竹林などが描き込まれ、その前面の描写に修正があることなどから、この「傳宗庵」は、あるいは、「明月庵」・「宗猷庵」・経蔵・三重塔と一緒の庵とされる可能性があったのではあるまいか。つまり、禅興寺の奥、小川の東側部分に広がる谷の2つの庵と三重塔・経蔵によって構成される寺域とその境界を示したのが、本絵図である。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/67/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/67/y0000001.png | A1 1 谷 2 明月庵 A2 1 禅興寺 A3 1 伝宗庵 B1 1 宗猷庵 B2 B3 1 正法寺 2 徳泉寺 3 安国寺 C1 1 □〔建〕長之界 2 天源庵 3 正続庵 C2 1 伝燈庵 2 (花押・足利氏満) 3 龍峰庵 C3 1 宝珠庵 2 玉雲□(庵カ) 3 龍興院 4 保寧寺 | 神奈川県鎌倉市 | 鎌倉 | 三浦勝男 「明月院絵図」 『鎌倉国宝館図録15 鎌倉の古絵図Ⅰ』 (1994) | 有 |
| ho_69 | 尾張国富田庄知行古図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/69/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-69 | 尾張(愛知県) | 円覚寺 | 南北朝時代 | 1908年3月 | - | 99.6 | 88.7 | 紙本 | 着色 | 東日本二 | 25 | 本絵図は、北を天(上)にして描かれている。方位は「北」(B1-1)・「南」(B2-16)・「東」(C2-1)・「西」(A2-1)の4方位が記載されているが、いずれも北を上にして書かれている。 絵図の構図をかたち作っているのは河川と方格界線によって示された条里である。右上(東北隅)から流下してくる、薄い青で彩色された「河」は、4本に分流しつつ下(南)の、絵画的に波が描かれた海へと流れ込んでいる。その分流する4河川の間の平地部分に、富田荘が描かれているのである。 平地の領有・帰属関係などを示す表現・記号は、a,所領や里名・村名・江名・郷名・名名(みょうめい)などの諸地名、b,「富田庄内」という領域表示記載、c,道ないし堤(堤防)、d,条里界線・区画線・境界線となる墨線(直線と曲線がある)、e,富田 荘の東の境界線を示す墨線のうえに重ねられた赤色の線と大きな一本杉・三本松の表現、f,河川、g,川原(須賀)を表現する草、h,海岸に描かれた葦原ないし萱原、i,寺院の堂塔と門、j,神社の鳥居と社殿、k,縁付きの領主的家、l,掘立柱の在家、m,寺社や領主的家のそばに描かれた樹木、n,富田荘領の境界を示す樹木、o,橋などである。 最初に着目すべきは、富田荘と荘外(他領)をどのように区別しているかである。本絵図で、他の所領名が明示されているのは東の「一楊御厨」(C1-23)「御厨余田方」(C2-2)「余田方」(C2-6)だけであり、この部分が本絵図の作成目的・動機に大きく関わる地域であることは明瞭である。「富田庄内」との間の墨筆の境界線の上には、eの赤い線が重ねて引かれており、さらには巨大な一本杉と三本松が表現されている。fの川原(須賀)を示す草地の表現との関連からすれば、この部分は河川の流路変動によって生じた堺相論の存在と、一本杉と三本松によって富田荘側の主張する旧来の境界線が明示されていると見られる。また、この境界線の下(南)の部分では、在家3宇が堤で小さく囲われた部分と、領主的家1宇と在家3宇が葦原の端に描かれている部分を囲うように赤い線が引かれており、これらの領主的家や在家の帰属をめぐっても、「御厨余田方」との間に紛争を生じており、本絵図では富田荘が領有していることを示しているのである。 それに対して、富田荘の他の地域の境界・領域表現は、基本的には、a,の所領・里名・村名・江名・郷名・名名などの記載と、cの道ないし堤、dの境界線となる墨線、fの河川、mの境界を示す樹木、そして要所要所に書き込まれた「富田庄内」という領域表示記載によって表現されている。その内部には、掘立柱の在家や寺社などの表現がある場合とそれらがない場合とがあり、前者は富田荘内であることが明瞭である。 すなわち、北東の「萱津宿」(C1-6)の「円聖寺 富田」(C1-1,2)・「千手堂 富田□〔庄〕」(C1-3,4)・「光明寺」(C1-5)・「大師堂」(C1-7)は河川と墨線で囲まれており、いずれも富田荘である。その南にある「北馬嶋」(C1-9)と「馬場今村 藤原氏 富田庄内」(C1-10,11 B1-7)も墨線と の境界を示す樹木が描かれており、同荘内である。また、「二俣」(C1-12,13)も、道と河川、そして「富田庄」(B1-6)という記載によって囲まれているので、同荘内であろう。東側では、「賀茂須賀 富田庄内」(C1-14,15)だけが、河川の東岸にある同荘の領地である。その南の川原と「御厨余田方」(C2-2)についてはすでに記述した。富田荘の北側から西側にかけては、基本的には河川が領域の境界とされている。「嶋山郷」も、疑問は残るが、富田庄内と考えられよう。河川の西岸の「河辺」(A1-1)・「蟹柳」(A1-3)・「牛路」(A1-4)・「鷲尾」(A1-7)は、墨線と道路で囲まれており、対岸の富田荘領として表現されている。 しかし、「蟹江」(A2-2)「今村」(A2-4)とある区域・空間は、富田荘内であるか否かが微妙である。というのは、西側には、「富田庄内」という記載が2カ所にあり(A2-6,A2-12)、そのうち「蟹江」の上(北)に書かれている「富田庄内」(A2-6)の記載と、「今村」の下(南)の「蟹江今村 富田庄内」の記載が、「蟹江」・「今村」も富田荘内であるとすると、奇妙な記載となるからである。しかも、「蟹江」・「今村」は、「江西」(A2-7)・「内吉渕」(A2-8)・「泰富」(A2-13)と連続しており、境界線で区切られていない。「蟹江今村」という地名の意味するところや「西野新田」(A2-9)のような開発の進行を意味する記載などからすれば、「蟹江」「今村」は一種の未開地であり、そこには富田荘側の開墾・開発が進行しつつあるのではあるまいか。富田荘側から見ると、「上得真」(A1-5)・「下得真」(A1-6)・「□□里」(A2-3)・「稲村里」(A2-5)の西側にある堤ないし道の外側に「蟹江」・「今村」はあり、そこに墨線で区画された「蟹江今村 富田庄内」や「西野新田」が生み出されつつある。さらに言えば、「内吉渕」・「中野」(B2-8)の部分は区画線ないし境界線が不整形であり、ある段階まではこの部分も「蟹江」・「江西」といった江の延長線上の淵になっていた可能性が示されている。 とすると、「比叡」(B1-22)の南、「中荒田」(B2-6)・「前嶋榎津」(B2-7)・「助光」(C2-3)の北、「春田里」(B2-2)・「前嶋榎津」(B2-3)の東、「御厨余田方」(C2-2)の西にあって、堤と墨線で囲われた文字記載のない空白の区域も、かつては江であった可能性がある。そして、二カ所にある「前嶋榎津」という地名から判断すると、ここは津であったとも考えられる。そしてそこは、河川の変動後に堤で仕切られ、一種の未墾地ないし開墾予定地とされるに至った土地ではないかと見られる。河川と堤で囲まれた「御厨余田方」も、かつての河川の曲流によって西岸に位置するようになったのであり、橋で一楊御厨と結びつけられているのである。 また、8カ所にある「石丸」名や「伊勢名 富田庄内」(C1-21)、そして「御品田」(B1-11)も、富田荘を構成している所領と判断することができる。 荘内の描写としては、a鳥居・社殿・門・堂・塔・樹木で表現される寺社、b縁つきの家と樹木で表現される領主的家、c在家がある。寺院は、萱津宿の寺・堂の他に「成願寺」(C1-16)がある。そこは本堂と禅宗的な門、そして塔(四重?)が描かれ、周囲には縁つきの家2宇と在家9宇がある。 神社の社殿に赤い色が塗られており、「比叡」(B1-22)・「鳴海里」(B2-1)・「春田里」(B2-2)・「前嶋榎津」(B2-7)・「助光」(C2-3)・「常不」(C2-4)・「江松」(C2-5)堤外の萱野の隅、「泰富」(A2-13)に描かれている。鳥居と社殿・堂・樹木が描かれた「比叡」が一番立派であり、周囲には在家が11宇ほど描かれている。鳥居・社殿・樹木の描かれた「鳴海里」・「助光」の神社が第二ランクであり、社殿と樹木の「前嶋榎津」・「常不」・「江松」堤外の萱野の隅の神社が第三ランク、そして社殿だけの「前嶋榎津」・「泰富」の神社が第四ランクとなる。 領主的な家は各地に描かれており、東北の「賀茂須賀」(C1-14)に1宇、「春田里」(B2-2)に3宇、「新家里」(B1-16)に2宇、「□〔鳴〕海里」(B2-1)に1宇、「横江里」(B2-4)に2宇、「中野」(B2-8)に1宇、「鷲尾」(A1-7)に1宇がある。これらの領主的家についても表現に格差がある。一番立派なのは「春田里」の1宇と「横江里」の1宇であり、縁付きの堂々とした家で、付属屋まで描かれ、周囲に樹木が描かれている。第二ランクの領主的な家は、「賀茂須賀」の1宇、「新家里」の2宇、「春田里」の1宇であり、縁付きの家に樹木が描かれている。そして第三ランクの領主的家は、「春田里」の残りの1宇、「横江里」の1宇、「中野」の1宇、「鷲尾」の1宇であり、いずれも縁付きの家だけである。但し、「春田里」の1宇だけは、樹木はないが、付属屋が描かれている点に注目すべきである。このように見ると、領主的存在が描かれているのは7カ所であり、とくに「春田里」「横江里」「新家里」が有力領主の居住している里ということになろうか。 在家に目を移すと、寺社の周囲に表現されている在家と、領主的家とともに描かれている在家、在家だけが描かれている里などの集落、そして地名だけで在家がまったく描かれていない地名や区域がある。一里ないし一地名で最大の在家数が描かれているのは「比叡」(B1-22)の11宇であり、次は「成願寺」(C1-16)・「横江里」(B2-4)・「富長」(A2-16)の9宇と「鳴海里」(B2-1)・「中野」(B2-8)の8宇である。これらが有力な里ないし集落であることはほぼ確実であろうが、しかし、在家数がどの程度実態を反映しているかについては、慎重な検討が必要である。特に里名ないし地名があって、在家がまったく描かれていない「伊麦里」(A1-2)・「草壁里」(B1-17)・「富田里」(B1-20)・「□□里」(A2-3)・「稲村里」(A2-5)や「嶋山郷」(B1-8)、そして「鉢尻」(A2-10)・「狐墓」(A2-11)・「福富」(A2-17)・「泰富」(A2-12)・「中荒田」(B2-6)・「松本」(B2-15)などには、はたして集落(村)や在家が存在しなかったか否かの判断は、関連史料や現地調査を踏まえた慎重な判断が求められるだろう。 なお、本絵図には、堺相論のために作成されたと考えられる表現(側面)と、富田荘の領域を表現した絵図と考えられる表現(側面)とがあり、両者をどのように関連させて絵図の作成目的などを考えるかで、諸説が提出されている。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/69/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/69/y0000001.png | A1 1 河辺 2 伊麦里 3 蟹柳 4 牛路 5 上得真 6 下得真 7 鷲尾 8 富田庄内 A2 1 西 2 蟹江 3 □□里 4 今村 5 稲村里 6 蟹江 今村 富田庄内 7 江西 8 内吉渕 9 西野新田 10 鉢尻 11 狐墓 12 富田庄内 13 泰富 14 福嶋 15 秦追 16 富長 17 福富 B1 1 北 2 富田庄内 3 石丸 4 石丸 5 石丸 6 富田庄 7 富田庄内 8 嶋山郷 9 石丸 10 十音寺 11 御品田 12 山後 13 御品田 14 御品田 15 〃〔富〕田庄内 16 新家里 17 草壁里 18 服織古沢 19 秀時 20 富田里 21 服織里 22 比叡 B2 1 □〔鳴〕海里 2 春田里 3 前嶋榎津 4 横江里 5 稲真里 6 中荒田 7 前嶋榎津 8 中野 9 包里 10 苔江 11 新中野 12 今苔江 13 □〔西〕河和 14 岩丸 15 松本 16 南 C1 1 円聖寺 2 富田 3 千手堂 4 富田□〔庄〕 5 光明寺 6 萱津宿 7 大師堂 8 河 9 北馬嶋 10 藤原氏 11 馬嶋今村 12 二俣 13 二俣 14 加茂須賀 15 富田庄内 16 成願寺 17 石丸 18 石丸 19 石丸 20 石丸 21 伊勢名 富田庄内 22 長須賀 23 一楊御厨 C2 1 東 2 御厨余田方 3 助光 4 常不 5 江松 6 余田方 | 愛知県名古屋市中川区、海部郡蟹江町・大治町・七宝町・甚目寺町 | 蟹江・清洲 | 板倉勝高 「尾張国富田庄を例とせる日本庄園の村落構造」 東北地理5-1 (1952) 上村喜久子 「絵図にみる富田庄の開発と形成」 名古屋女子短大研究紀要24 (1986) 上村喜久子 「尾張国富田荘」 網野善彦・石井進・稲垣泰彦・永原慶二編『講座日本史 第五巻』吉川弘文館 (1990) 大山喬平 「尾張国富田荘について」 『オイコノミカ』1-1、大山『日本中世農村史の研究』岩波書店、1978に再録 (1964) 小川都弘 「尾張国富田荘絵図の空間叙述」 葛川絵図研究会編『絵図のコスモロジー 下巻』地人書房 (1989) 木村茂光 「中世富田荘の堤と開発―近世の村絵図から」 UP138 (1984) 黒田日出男 「一枚の絵図をめぐって―円覚寺領尾張国富田荘絵図を読む」 竹内理三先生喜寿記念論文集刊行会編『荘園制と中世社会』東京堂出版、黒田『境界の中世 象徴の中世』東京大学出版会、1986に再録 (1984) 樋口州男 「円覚寺領尾張国富田荘絵図について」 竹内理三編『荘園絵図研究』東京堂出版 (1982) 樋口州男 「尾張国富田荘絵図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 安田喜憲 「尾張国富田庄の歴史地理学的研究」 立命館文学303 (1970) 米倉二郎 「円覚寺領尾張国富田荘[「中世村落の様相」付収]」 地理論叢8輯、米倉『東亜の集落』古今書院、1960に再録 (1936) 吉田敏弘 「尾張国富田荘絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 松尾剛次 「いわゆる尾張国富田荘絵図をめぐって―絵図制作のなぞと絵図に見る宗教世界―」 速水侑編『院政期の仏教』吉川弘文館 (1998) 上村喜久子 「「尾張国冨田荘絵図」の主題をめぐって」 『愛知県史研究』5 (2001) 三浦勝男 「円覚寺領尾張国富田庄図」 『鎌倉国宝館図録17 鎌倉の古絵図Ⅲ』 (1994) 村岡幹生 (1998) 川上多助 (1925) 上村喜久子 (1997) | 有 |
| ho_162 | 神護寺領高雄山絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/162/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-162 | 山城(京都府) | 神護寺 | 鎌倉時代 「寛喜二年閏正月十三日」 | 1904年11月 | - | 157.5 | 193.4 | 紙本 | 着色 | 近畿一 | 12 | 本絵図は、「北」・「南」・「西」・「東」の4方位が、それぞれの方向を上(頭)にして文字記載されている。本絵図の向きは、堂塔・門や鳥居・社殿の描写が、「北」を天にしているものも多いが、主要な文字記載は北を天にしているものであり、絵図の中心近くにある「大門鳥居」(B4-4)は、南東を上にして描かれ、「槇尾」(B3-8)(神護寺)や「栂尾」(C3-1)(高山寺)と向かいあっている。つまり、堂塔・社殿・鳥居などの描写の向きからすれば、この絵図の天は「北」にあると言えるだろう。 山地には、松のような常緑樹の葉が薄墨で描かれて、その上に黄土色を重ねており、幹は茶色の線で表現している。その結果、山並みが全体として黄土色の感じとなっているのである。 道は、濃い黄土色の線で表現されていいて、三本ほどあり、1つ目は東南端からの道で、「平岡八幡宮」の前を通って、「三日坂」(B4-5)の「大門鳥居」(B4-4)を抜け、「檜社」(B3-7)の前を通ってから2つに分かれ、1つは「清瀧河」(B3-6)を渡って「槙尾」(B3-8)の神護寺へ向かっており、今1つは「栂尾」(C3-1)の高山寺へと向かっている。二つ目は絵図の西北方向からの道で、「乾刼6示」(A1-3)のところから伸びて2本に分かれており、そのうち一本は「脇刼6示」のところを通っていき、「机谷」(B2-3)の脇を抜け、一本杉のある山稜線を伝っている。3つ目は南西に伸びている道で、3つの榜示と関連する表現となっている。 河川としては、青い色をした「清瀧河」が東北から西南へと流れており、それに幾つかの流れが合流している。絵図を斜めに流れ下っている「清瀧河」が、1つ目の道とともに、本絵図の諸寺社の位置関係を示す座標軸となっていると言えよう。 建物は、檜皮葺を茶色で表現した堂・塔・門・社殿などと、板葺き屋根で描かれた「夏房」(A3-6)・「大湯屋」(A3-2)などの付属施設、そして岩屋のなかにある「峯堂」の三種類に分けられる。本絵図に描かれた神護寺は、a神護寺境内とb高山寺境内、そしてc平岡八幡宮の3つの部分空間によって構成されており、aの神護寺の建物は、石段の上に建てられた「中門」(B3-5)、基壇の上に建てられた「宝塔院」(A2-2)・「講堂」(二階)(A2-3)・「灌頂堂」(A2-4)・「法花堂」(B3-1)・「護摩堂」(B4-2)と、礎石の上に表現された「経蔵」(B3-4)・「中門」(A3-3)・「御影堂」(A4-1)・「五大堂」(A3-7)・「院御所」(B4-1)・「夏房」(A3-6)・「金堂」(A3-8)・「廊」(A3-9)・「槙尾」(B3-8)の堂であり、それ以外に「鐘楼」(B2-1)や「閼伽井」(A3-1)がある。bの高山寺では、「大門」(C3-2)・「塔」(三重塔)(C2-6)・「本堂」(C2-5)・「阿弥陀堂」(C2-4)・「羅漢堂」(C2-3)・「経蔵」(C2-2)・「鐘楼」(C2-7)・「鎮守」(B3-3)などがある。c の「平岡八幡宮」には、2つの鳥居があり、石段の上には、本殿・拝殿や廊・塀などが描かれているが、建物の名称の記載はない。また、境内には5本の樹木が描かれているのは何を意味するのであろうか。 文字記載の向きを調べると、「北」を天にしたものは、aでは「宝塔院」・「講堂」・「中門」・「灌頂堂」・「経蔵」・「法花堂」・「鐘楼」・「夏房」・「金堂」・「廊」・「槙尾」であり、bでは「塔」・「本堂」・「阿弥陀堂」・「羅漢堂」・「経蔵」・「鐘楼」・「鎮守」・「大門」・「鎮守」であり、cでは「平岡八幡宮」である。その他に「檜社」がある。その他に、「北」から時計回りで記すと、「寺尾」(A1-2)・「机谷」(B1-3)・「中河」(C1-1)・「長谷」(C4-1)・「砥取谷」(B5-1)・「菖蒲谷」(B5-2)・「木与志於渡瀬」(A5-1)・「車尾」(A2-1)と「北」(B1-2)の3つの榜示の文字記載などがある。「北」を天にした文字記載は33カ所となる。「西」を天にしたものは、aに集中しており、「御影堂」・「五大堂」・「護摩堂」・「院御所」・「巌堂」・「中門」があり、その他に西北端の「雲心寺」(A1-1)がある。また、西北の向きに記載されているのが、aの「閼伽井」(A2-2)・「大湯屋」(A2-2)と、「三日坂」(A2-2)の「大門鳥居」(A2-2)である。「東」を天にした文字は、「辰巳刼6示」(C6-1)と「脇刼6示」(C5-2)2カ所だけである。そして「南」を天にした文字は、南西部分に独立樹とともに書かれた「素光寺」(A5-3)のみである。 神護寺境内の境界線は、基本的には山稜線によって示されており、その要所要所には、刼6示が打たれている。境界を示す烏帽子形をした黒い榜示は、西北に「乾刼6示松尾」(A1-3)、東北に「高山寺丑寅刼6示」(C2-1)、東南に「辰巳刼6示」(C6-1)・「脇刼6示長谷口」(C5-2)、「脇刼6示大政峯」(B6-2)、「脇刼6示」(B5-3)、西南に「坤刼6示素光寺北峯」(A5-2)、西北に「乾刼6示松尾」(A1-3)・「押河谷与水谷堺脇刼6示、寛喜二年十一月十六日追押之」(B2-1)とあって、合計8カ所である。これらの刼6示と山稜線及び道や独立樹をたよりに境界線をたどると、次のようになるだろう。すなわち、西北端の「寺尾」から「乾刼6示松尾」・「押河谷与水谷脇刼6示」へ至り、山稜線をたどり、「机谷」の北側を通って独立樹に。そこから山稜線をたどって「高山寺丑寅刼6示」へ行き、山稜線をたどって南下して「脇刼6示長谷口」に至る。そこからははっきりとしないが「辰巳榜示」と「脇刼6示大政峯」へたどり、さらに道の線を「菖蒲谷」を越えて「脇刼6示菖蒲谷堺」と「坤刼6示素光寺北峯」へと至る。そしてそこからは道と「西」の山稜線をたどって「車尾」(A2-1)へ行き着く。「車尾」と「雲心寺」(A1-1)がどのように繋がるかはっきりしないが、「雲心寺」から「寺尾」に繋がるのである。 なお、本絵図の裏には三カ所の裏書がある。端裏には「神護寺絵図 官使国景重打定之時、刼6示図也/寛喜貮年十二月廿四日到来」とあり、絵図裏中央に「神護寺領高雄山絵図 閏正月十三日 官吏右弁官史生従七位上中原朝臣(花押)/国景」が、その左側には「高雄山四至刼6爾之絵図、今度一覧之処、自寛喜二年至于今、年久之間、悉依破壊修補之、而為後勘判形、 元和六年十月廿一日 前伊賀守(花押)」の裏書がある。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/162/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/162/y0000001.png | A1 1 雲心寺 2 寺尾 3 乾牓示松尾 A2 1 車尾 2 寶塔院 3 講堂 A3 1 閼伽井 2 大湯屋 3 中門 4 灌頂堂 5 西 6 夏房 7 五大堂 8 金堂 9 廊 A4 1 御影堂 A5 1 木与志於渡瀬 2 坤牓示素光寺北峯 3 素光寺 B1 1 押河谷与水谷堺脇牓示 寛喜二年十一月十六日追押之 2 北 3 机谷 B2 1 鐘楼 B3 1 法花堂 2 御墓尾 3 鎮守 4 経蔵 5 中門 6 清瀧河 7 檜社 8 槙尾 B4 1 院御所 2 護摩堂 3 巌屋 4 大門鳥居 5 三日塚 B5 1 砥取峯 2 菖蒲谷 3 脇牓示菖蒲谷堺 B6 1 南 2 脇牓示大政峯 C1 1 中河 C2 1 高山寺丑寅牓示 2 経蔵 3 羅漢堂 4 阿弥陀堂 5 本堂 6 塔 7 鐘楼 C3 1 梅尾 2 大門 3 東 C4 1 長谷 C5 1 □〔平〕岡八幡宮 2 脇牓示長谷口 C6 1 辰巳牓示 (端裏書) 「神護寺絵図〈官使国景重打定之時*示図也〉寛喜弐年十二月廿四日到来」 (裏書) 「神護寺領高雄山絵図〈閏正月十三日〉 官使右弁官史生従七位上中原朝臣(花押) 国景 」 (裏書) 「高雄山四至*示絵図、今度一覧之処、自寛喜弐年至于今、年久之間、悉依破壊、修補之、而為後勘判形 元和六年十月廿一日 前伊賀守(花押)」 | 京都府京都市右京区 | 京都西北部 | 藤田裕嗣 「神護寺絵図・高山寺絵図の作成過程」 葛川絵図研究会編『絵図のコスモロジー 上巻』地人書房 (1988) 松尾容孝 「山城国神護寺図・山城国高山寺図・山城主殿御領小野山与神護寺領堺相論図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) | 有 |
| ho_39 | 主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論指図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/39/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-39 | 山城(京都府) | 神護寺 | 鎌倉時代 「寛喜二年九月廿日」 | 1904年 | - | 62.5 | 101.2 | 紙本 | 着色 | 近畿一 | 13 | 本絵図は、「西」(A1-2)、「北」(B2-2)、「東」(A2-5)の三方位の記載があり、そのうちの「西」を天にして描かれていることが、主要な文字記載からわかる。彩色は、河川に薄い緑色(緑青か)が塗られており、堂・塔・門などの建物には朱線が用いられている。 絵図の周縁部分の記載を示すと、「西」には「愛宕嵩」(A1-3)と「雷嵩」(竜ヶ岳)(B1-1)があり、山稜線には杉のような樹木が描かれている。また、「北」には「細川」(B1-5)・「水谷」(B2-3)・「小乃」(B2-4)がある。その他の方位については周囲の地名記載がみられないので、「西」と「北」が問題となっている地点であることがうかがわれる。 山地表現で注意すべきは樹木表現である。樹木同士の間隔は密ではないが、愛宕嵩と雷嵩の山稜線と神護寺・高山寺の領地の山は樹木で覆われている。それとは対照的に、堺相論となっている山地には樹木が描かれていない。 樹木に覆われているなかに、「神護寺」(A2-2)と書かれている堂・塔・門のまとまりと、「栂尾」(B2-7)と記されている堂・塔・門のかたまりとがある。 「神護寺」のほうには、基本的には西を天にして、堂などの建物が5宇、門が1宇、そしてなかに鳥居のしるしがある半円形の上に建物が描かれているものとがある。ここに描かれた簡略な「神護寺」と「梅尾(栂尾)」の表現については、「山城国神護寺絵図」や「山城国高山寺絵図」との相互比較によって、描かれている堂・塔・門の名称がある程度判明する。まず神護寺の門前の川には板橋がかかっており、かすかな墨線で示された道をたどると、二階門で描かれた中門がある。そこを通り抜けて石段とおぼしき表現のところを登っていくと、「神護寺」(A2-2)と書かれた空間に出る。「神護寺」記載の右側には、手前に講堂ないしは灌頂堂があり、その上には半円形のなかに鳥居のしるしが書かれた宝塔院がある。右側では、手前の細長い建物が廊であろう。その上の入母屋づくりの建物が金堂であり、その左側の小さな建物は護摩堂と思われる。また、金堂の上の山際にある小さな建物は大湯屋か夏房であろう。なお、小さな2つの建物を除き、あとはすべて柱などを朱線で表現している。 「梅尾(栂尾)」のほうには、塔が1宇、本堂などの建物が5宇、門が1宇が描かれている。まず、門前の川には板橋がかかっており、「橋」(A2-3)という記載がある。板橋から「梅尾(栂尾)」へと向かうと、二階門の大門があり、そこを通って、石段のような表現のところを登ると、正面に本堂がある。入母屋造に描かれている。本堂の右側には阿弥陀堂らしい建物がある。左側には宝塔のような塔があり、そのさらに左側には3棟の建物が描かれている。その描かれた位置からすると、「山城国高山寺絵図」によれば、鎮守のあるあたりであり、手前の小さな建物が拝殿であろうか。そして奥に並んでいる2つの建物が鎮守であろう。「梅尾(栂尾)」の建物には、全部朱が入っている。なお、本絵図之原本には、鎮守のところに「永□□□」という墨書があるが、今のところ判読できていない。 小野山との堺相論の争点となっているのは、「小乃与神護寺堺*示 松尾峯」(B1-4)を挟んで東西に位置する「押川谷」(B2-1)と「雲心寺」・「旧跡壇」(B1-2,3)の山地である。この「小乃与神護寺堺榜示 松尾峯」を中心とした地域の境界線確定に関わる地点として記載されているのが、第一に、絵図の西南部分に記されている「清塩滝谷」(A1-4)であり、第二に、絵図中央左寄りにある「両岩」(A2-1)とその脇に立てられている「柊宮尾*示」(A1-5)であり、第三に、絵図右側の「梅尾」の右上に記載されている「大戸賀」(B2-6)と「三戸賀」(B2-5)である。これらの地点間には朱線が何本も引かれていて、堺相論の争点が如実に示されているのである。 第一の朱線は、西南の「清塩滝谷」の上の地点から引かれて、「雲心寺」・「旧跡壇」を包み込み、「小乃与神護寺堺榜示 松尾峯」の北側を東に伸びていって「三戸賀」に至っているが、しかし、「雲心寺」・「旧跡壇」から「小乃与神護寺堺榜示 松尾峯」の北側地点までは朱線で抹消されている。第二の朱線は、「清塩滝谷」から北へと伸びて「小乃与神護寺堺*示 松尾峯」へと至り、そこから斜め下に伸びて第一の朱線と合している。第三の朱線は、第一と第二の朱線を「雲心寺」・「旧跡壇」と「小乃与神護寺堺榜示 松尾峯」の間で繋いでいる。そして第四の朱線は、「清塩滝谷」から東北方向へ伸びて、「両岩」と「柊宮尾榜示」の上を通り、「三戸賀」へと引かれている朱線であり、この朱線は途中まで2本引かれているが、そのうちの1本は河の手前で止まっている。 このような朱線の引かれ方からすれば、少なくとも4度にわたって朱線が引き直されているのであり、しかもどの朱線で決着したのかは本絵図では分からない。 なお、本絵図には次のような裏書がある。「主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論絵図/寛喜二年九月廿日/小野山供御人/公文/案主/下司/神護寺/都維那法橋上人位 寺主法橋上人位 座法眼和尚位 官使/右史生紀/中原」。また、東南部分に墨線で鳥居が描かれ、それが抹消されている。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/39/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/39/y0000001.png | A1 1 丹波国 2 西 3 愛宕嵩御在所 4 清塩瀧谷 5 柊宮尾牓示 A2 1 両岩 2 神護寺 3 橋 4 橋 5 東 B1 1 雷嵩 2 雲心寺 3 舊跡壇 4 小乃与神護寺堺牓示松尾峯 5 細川 B2 1 押川谷 2 北 3 水谷 4 小乃 5 三戸賀 6 大戸賀 7 梅尾 (裏書)「主殿寮御領小野山与神護寺領堺相論指図〈寛喜二年/九月廿日〉 小野山供御人 公文芋部 案主芋部 下司高然 兼預主殿少允 伴朝臣 神護寺 都維那法橋上人位 寺主 法橋上人位 上座 法眼和尚位 官使 右史生 紀 中原 」 | 京都府京都市右京区 | 京都西北部 | 松尾容孝 「山城国神護寺図・山城国高山寺図・山城主殿御領小野山与神護寺領堺相論図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 藤田裕嗣 「神護寺絵図・高山寺絵図の作成過程」 葛川絵図研究会編『絵図のコスモロジー 上巻』地人書房 (1988) | 有 |
| ho_172 | 舎那院御領之絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/172/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-172 | 山城(京都府) | 天龍寺 | 鎌倉時代 「建永二年八月十六日」 | 1905年1月 | - | 151.4 | 153.5 | 紙本 | 着色 | 近畿一 | 18 | 本絵図は、西を天にして、山地・堂舎・在家・樹木などの絵画表現を行なっている。全体に淡い彩色がなされており、山並みには淡い緑色(白緑カ)と部分的に赤みを帯びた淡い茶色(黄土カ)が、河川は淡い青色(藍)で、岩や石が点々と描かれた川原(ないし川岸)は赤みを帯びた淡い茶色に彩色されている。舎那院の堂は、檜皮葺の屋根を表現する赤みを帯びた茶色が塗られており、道のうち、絵図の下に左右に引かれた境界をなす、樹木が連立した土手のような表現には、赤みを帯びた茶色が塗られている。画面左側の東西に伸びる境界線として、黄土色の直線が引かれている。平地の色彩表現としては、林地や堂舎・在家のあるところには、淡い緑色の島状の彩色がなされ、水田の方は、淡い墨線で不整形なかたちで表現され、その中には直線を斜めに交差させて表現された水田と、稲株とおぼしき点々が描き込まれている。斜めに交差させた直線は、最初に茶色で引かれ、その上に淡い墨線が重ねられている。 また、墨筆には二種類がある。一つは、鼠色に近い墨色の筆線であり、山並みの山稜線、河川の波、田地の表現、堂舎・在家や垣根・樹木など、大部分の描写は、この墨線で表現されている。それに対してもう一つは、濃く黒い墨色である。境界線を示す記載や花押と、山麓部分に描かれた二つの池の表現は、濃く黒い墨色で書かれているのであり、筆順からすれば、この濃い墨色の筆による記載が、境界線を確定する表現として後からなされたことは明瞭である。 山々(山並み)と樹木の表現について記述すると、山々は二種類に表現されている。舎那院領の西の境界をなす河川(大井河・大堰川)の対岸に広がる山地(嵐山)は、崖などを表現した、険しい感じの山並みであるのに対し、舎那院領内並びに大井河に沿って左右に伸びている山地(小倉山)は、なだらかな山並みとして描かれている。また、樹木について見ると、大井河の川向うの険しい山地には樹木を一切表現せず、手前の舎那院領と大井河沿いの山地の大部分に、松とおぼしき樹木を一面に表現している。樹木表現の密度はさほどではないが、松の樹林に覆われた山地として描かれていると言えよう。それに対して、舎那院領と大井河沿いの山地の山麓部分、堂舎・在家の周囲、そして絵図の下半分に広がる林地などには、樹幹と枝だけで表現された落葉樹が、まばらな感じで描かれている。この樹木のなかにも松の表現がまじっているが、主要な樹木は落葉樹的な木である。今後、この平地の樹木が何かを検討しなければならない。 建物としては、5つのタイプが描かれている。画面のほぼ中央にあるのが舎那院であり、その中心にある檜皮葺・入母屋造の建物が舎那院の堂舎である。第二は、朱塗りの小さな社殿が2つあり、舎那院の堂舎の背後の垣根の側に描かれている。第三は、「検非違使康信妹領」(9)と記された、垣根のなかの家であり、灰色の屋根をした土台のある家である。第四は板葺屋根の建物であり、1カ所は、絵図右端中程に板葺屋根の建物が2宇ある。水田に面しており、周囲に垣根が描かれていない。今一つは、「検非違使康信妹領」とある屋敷地の西側の屈曲部分にある。舎那院領内であり、門を入ったところに、板葺屋根の家3宇が並んでおり、その脇に小さな水田が3区画描かれている。そして第五は、藁葺・入母屋屋根の掘立柱の在家である。在家と思われる掘立柱の建物が3カ所に描かれている。西北部分には5本の木に囲まれた2宇が、画面右下の東北部分には、垣根に沿って一定間隔をおいて描かれた5宇の在家があり、画面下中央の東部分には、まばらな樹林のなかに4宇の在家が左右に、これまた一定間隔をおいて並んでいる。 本絵図は舎那院の境界を確定することが主眼であり、絵図の天から記述すると、まず西は大井川が境界となっているが、境界線の表現がないので、大井川の手前の岸か、河川の真中か、それとも対岸かは不明である。次に、北であるが、大井川の岸に、境界を示す杭があり、そこから境界を示す文字記載が屈曲しながら連なって、舎那院の領地を表示していく。最初は、大井川の岸辺に東を天にして「東西壱町(花押)〈自小谷至于大井河流〉」(18)とあり、次の屈曲点に杭があって、北を天にして「南北弐町肆段〈至于西小谷(花押)〉」(17)とある。次の屈曲点にも杭があり、西南西を天に「東西壱町四段弐杖(花押) 〔至于〕峯杭所」(16)とあって、その末尾に杭が書かれている。ここまでは、文字記載の位置指定のために、右側に細い直線が引かれている。そこからは柴垣のような垣根による境界表現となり、西北西を天にした「東西陸段 至于卿二位殿領堺(花押)」(15)とある。次は葉が菊花のように広がった樹種の垣根となり、北を天にして「南北参段〈至于北大道/山本坊跡〉(花押)」(14)とある。その垣根を東に直角に曲がると、上が叉になっている柱の上に棒を渡した冠木門状の木戸とそれに続く垣根には、東を天にして「東西壱町五杖(花押)〈西坊門大納言家領堺/東検非違使康信妹領堺〉」(13)とある。この辺りの垣根には勧請吊もかけられている。さらに、「検非違使康信妹領」(9)とある屋敷地の西側・南側・東側を巡って境界が記載されていく。すなわち、北を天にして「南北弐段弐杖参尺(花押)」(12)、次に東を天にして「東西壱段壱杖参尺(花押)」(11)、南を天にして「南北漆段五杖(花押)」(10)、東を天にして「東西参段壱杖 五段壱杖(花押)」(8)、北を天にして「□〔南〕北五段壱杖 参段壱杖(花押)」(7)という記載の連続である。そして、「東検非違使康信妹領」の東側の垣根の中程で、境界線の記載は東に屈曲している。これは、西からの道が南に曲がってすぐにまた東へ屈曲して東に伸びているのに沿っているのである。その東に伸びている道に沿って垣根があり、その脇に東を天にして「東西参段五杖〈東五条尼公領堺/西検非違使康信妹領堺〉」(6)と記載されている。その後、左右(南北)に伸びる、赤みを帯びた茶色の土手に沿って、「南北壱町捌段(花押)〈自南前大膳大夫業忠朝臣領堺至于北大道〉」(5)と書かれている。そして、「限辰巳角〈南前大膳大夫業忠朝臣領堺/東五条尼公領〉」(4)とある所で境界線は西へと曲がって、まっすぐに大井川の方向へと伸びていくのだが、そこには「西自大井河流、東至于五條尼公領参町也(花押)」(2)とあり、最後に「未申角〈西大井河流(花押)/南前大膳大夫業忠朝臣領堺〉」(1)と記載されている。文字記載は2種類に分かれ、一つは当該境界部分の方位と長さを記したものであり、今一つは当該境界部分の方位と長さだけでなく、隣接地の所有者を記載してある。なお、この東西に伸びた境界部分には、大井川の手前の山地から黄土色の直線が東西に伸びている。そして、本絵図面には、境界の要所要所合計16カ所に、花押が据えられている。 このように記述してくると、本絵図の舎那院領は、西が大井川で、北が西小谷・卿二位殿領・北大道山本坊跡・坊門大納言家領・検非違使康信妹領と、東が五条尼公領と、南が前大膳大夫業忠朝臣と堺を相接しているのである。なお、北大道は、「南北参段〈至于北大道/山本坊跡(花押)〉」(14)とある地点から、東に向かって描かれており、「検非違使康信妹領」の門の少し先で右折し、さらにすぐに左折して、あとはまっすぐに東へと伸びている。大道の両側に描かれた垣根が何を意味するのか、それがどこまで続いていくのか興味深い点である。 ところで、本絵図は15紙で構成されており、紙背を見ると、「嵯峨舎那院御領絵図/建永二年八月十六日」とあり、4紙の紙継ぎ目となる合計8カ所の部分には、花押が据えられている。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/172/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/172/y0000001.png | 1 限未申角〈西大井河流(花押)/南前大膳大夫業忠朝臣領堺(花押)〉 2 西自大井河流、東至于五條尼公領参町也(花押)、 3 (花押) 4 限辰巳角〈南前大膳大夫業忠朝臣領堺/東五條尼公領〉 5 南北壱町捌反(花押)〈自南前大膳大夫業忠朝臣領堺至于北大道〉 6 東西参段伍杖(花押)〈東五條尼公領堺/西検非違使康信妹領堺〉 7 □〔南〕北 伍段壱杖(以上4文字、朱抹消) 参段壱杖(花押) 8 東西 参段壱杖(以上4文字、朱抹消) 伍段壱杖(花押) 9 検非違使康信妹領 10 南北漆段伍杖(花押) 11 東西壱段壱杖参尺(花押) 12 南北弐段弐杖参尺(花押) 13 東西壱町伍杖(花押)〈西坊門大納言家領堺/東検非違使康信妹領堺〉 14 南北参段〈至于北大道、山本坊跡〉(花押) 15 東西陸段至于卿二位殿領堺(花押) 16 東西壱町肆段弐杖(花押) □□〔至于〕峯杭所 17 南北弐町肆段〈至于西小谷〉(花押) 18 東西壱町<自小谷于/至大井河流> (裏書) 「嵯峨舎那院御領絵図 建永二年八月十六日」 (紙継目裏花押八顆あり) | 京都府京都市右京区 | 京都西北部 | 下坂守 「山城国嵯峨舎那院御領絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) | 有 |
| ni_126 | 大和国西大寺与秋篠寺堺相論絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_104ni_/126/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 仁-126 | 大和(奈良県) | 東京大学文学部(東京都文京区) | 鎌倉時代 | 1995年6月 | 村岡ゆかり | 80.1 | 150.8 | 紙本 | 着色 | 近畿二 | 12 | 本絵図は、「西」(B1-1)・「東」(B3-6)・「北」(C2-2)・「南」(A2-1)の4方位が、それぞれの方向(向き)を上にして文字記載されている。絵画表現と文字記載は、3方向を向いている。主な山地や丘陵・池・谷・「当論所」(B1-2,4,8)・「相博地」(B2-13)などの大半は「西」を天にして描かれており、構図と描かれている地物や文字の量からすれば、本絵図の天は「西」であると判断することができる。二つ目の向きは「秋篠寺」(C2-3)と「西大寺」(B2-12)の堂塔の向きであり、「北」を天にして描かれている。寺院の描写は正面である南を向いて描かれていることになる。「秋篠寺」の北側にある3つほどに分かれた丘陵は、他の山地と異なり、樹木表現の向きは北を天にして描かれている。そして、その丘陵と周辺に分布している在家は、基本的には東側の上空から藁葺屋根が鳥瞰的に描かれている。三つ目は、付箋に見られる向きである。付箋は合計6枚あり、西を天にした付箋が3枚、南を天にした付箋は2枚、北を天にした付箋が1枚である。南を天にした向きもあることになろう。但し、東を天にした記載はない。 他の絵図にはなかなか見られない特徴の一つとして、この絵図には枠となる直線が引かれている。その枠線は「東」・「北」と「西」の北半分の3方に引かれており、「西」の南半分と「南」には存在しない。なぜこのような枠線を引いたのかは、今のところ十分に説明することができないでいる。 彩色は、薄墨・黄土・薄い青(藍)・朱の4色を基本とし、各所でそれが重ねられて多様な色調の変化が生み出されているのである。西南の部分以外には、全体的に黄土色が塗られていて、それが本絵図の色彩的特徴をなしており、とくに水田・「大道」と「野山」には黄土色の彩色が明瞭である。次に、「今池」(B1-5)とそこからの用水路、「赤皮田池」(B2-3)、そして絵図の北端を西から東へ流れる河川の場合は、黄土色の上に薄い青色が重ねられている。次に山地の彩色であるが、西南部分に連なる山並みとその山裾傾斜地については、「今池」の北側の「当論所」(B1-8)まで、黄土色の上から薄墨で彩色してある。「秋篠寺」(C2-3)の西側の半円形の山も、黄土色の上から薄墨色が塗られている。それに対して、「秋篠寺」の北側の3つの谷が入り込んでいる丘陵は、薄墨の上から黄土色で彩色しており、異なった色調となっている。 寺の建物や塀の彩色に関しては、建物の屋根には薄い青色が塗られているのが基本であるが、「秋篠寺」の東門のそばに描かれている小さな建物の場合には、薄墨の下地の上に薄い朱色が塗られている。この建物が聖なる場所であることを意味する。堂・塔・門などは基本的に黄土色が、築地塀や周囲の土塁には薄墨色が塗られている。 「西大寺」(B2-12)は、築地塀で囲まれた空間と、杉のような常緑樹の植えられている土塁で囲われた空間とに分かれている。前者は塀で縦に仕切られて2つの空間となっており、檜皮葺の棟門でつながっている。東側の空間には檜皮葺・縁付の堂が1宇だけあり、西側の空間には檜皮葺・縁付の堂、板葺の堂が各1宇、そして朱塗りの五重塔がある。この築地塀には、南側に門と塀の切れ目の2つの入り口がある。後者の土塁で囲われた空間には、檜皮葺の堂が1宇と東側の門がある。また、「京内一条 秋篠寺南堺 京内一条」(B2-10,B3-1,B3-2)とある道の北側にも土塁に囲まれた一画があり、北側中央に杉とおぼしき常緑樹が3本描かれ、そこには「相博地」(B2-13)の記載がある。但し、周りの土塁には切れ目や門はない。 「秋篠寺」(C2-3)の方は、西側に山があり、北側は土塁、東と南は築地塀によって囲まれている。東側には棟門が1つあり、南側には築地塀の切れ目があり、入り口となっている。この入り口の前の道は東西に伸びており、秋篠寺の入り口のところで、南北に伸びた道と交差している。この南北に伸びている道は、北側が秋篠寺の築地塀、南側は土塁状になっているが、「秋篠寺」の東南端と西南端で途切れており、この道が実際にこのような短い区間だけかどうかは問題である。「秋篠寺」の内部では、本堂1宇と左側の小さな堂1宇が、本堂の前には舞台のようなものがあり、その手前左右には、塔の礎石のような表現が見られる。東門の脇には、3方を囲われた小さな建物があるが、これは聖なる香水を汲むところであり、建物の屋根には微かに朱色が塗られている。 山地は3つに分かれていて、第一の山は、「西大寺」の西側に位置する。つまりは絵図の上部左半分(西南)を占める山地であり、尖った三つの山とその山裾の傾斜地である。山の部分には松などの常緑樹が一面に描かれているのに対し、山裾の傾斜地には常緑樹がまばらに描かれている。二つ目は、「秋篠寺」の西側の山地である。半円形のかたちをしており、鼠色の地に松などの常緑樹が全面に描かれている。そして三つ目は、「秋篠寺」の北側に位置する丘陵地帯であり、3つほどの谷が入り込んでいる。丘陵上には在家が7宇あり、「在家」(C1-3,5)という文字記載も2カ所ある。谷には1宇の在家が描かれ、「在家」(C2-1)という文字記載がある。南側の田地付近には4宇の在家が描かれ、「在家」(C1-4)という文字記載が1カ所ある。表現として珍しいのは、そのうち10宇の在家が真上から見ているように描かれていることである。今のところ類例はないと思われる。 道は6本ほど描かれている。aは絵図の中央に東西に伸びて「秋篠寺」にいたる「大道」(B2-9)である。以下、b,絵図の西南端から山の裏を西へと伸びている「大道」(A1-2)、c,「西大寺」と「相博地」(B2-13)の間を東西に伸びている「京内一条」(B2-10)の道、d,その道から西南の山地の山麓を抜けて、bの「大道」に合流する「道」、e,「秋篠寺」の北側を東西に伸びて、丘陵の裏に向かっている「大道」(C2-4)、f,黄土色の彩色はないが、「野山」(C1-1)の西側に描かれている二本線も道である可能性があるだろう。 耕地は水田の表現だけであり、×印の水田の記号が、「西大寺」の周辺、「相博地」(B2-13)のなか、「今池」(B1-5)と「赤皮田池」(B2-3)の間、「野山」と「秋篠寺」の西側の山の間、「秋篠寺」南側と東側の平地、そして「秋篠寺」の裏側(北)の丘陵に入り込んだ谷や前面の平地に表現されている。池は「赤皮田池」と「今池」の2つであり、両池には池水の波紋が描かれており、池水を塞き止める堤もある。 絵図の主題は、「今池」の北側から西側に記載されている「当論所」(B1-2,4,8)である。それと関連して「今池」と「赤皮田池」の水利も相論の対象となっている。「今池」には「西大寺一向押領」(B1-5)とある。「赤皮田池」には樋門が2つ描かれ、「北樋」には「元秋篠一円進止/今西大寺打塞之」(B2-7)とあり、「南樋」には「元両寺通用/今西大寺一向押領」(B2-5)とある。「当論所」は「野山」(B1-3)とあり、野草が表現されている。「今池」の上に広がっているので、同池の集水地でもあろう。「当論所」は朱線で囲われて示されている。その朱線は「今池」と「赤皮田地」の間にある水田の北の縁から西へと伸び、「当論所」(B1-2,4)の西側を囲んで道に沿って東へと向かっている。また、「今池」の南側の山裾傾斜地のなかに「西大寺押領山林」(B1-7)とある。 なお、その他の堺相論にかかわる表現としては、絵図面の中央に東西に伸びている2つの小さな谷がある。一つは、「赤皮田地」(B2-3)の南側の山裾傾斜地に南北に細長く伸びている谷とおぼしき表現であり、「西大寺押領山林」とある記載とかかわる可能性があるだろう。今一つは「相博地」の東北、池からの用水路と「京内一条 秋篠寺南堺 内一条」の道の間に、東西に伸びている「谷」(B3-5)である。この谷と「京内一条」の道の間には「押領」(B3-4)との文字記載があり、その「谷」が堺相論にかかわる場所ないしランドマークであることをうかがわせる。また、田地に関わる文字記載としては、次のようなものがある。「今池」(B1-5)の北側にある常緑樹の両側の谷に「御修法料田」(C1-2)と「大般若田」(B1-9)が、「今池」の用水路の北側に「御修法料田」(B2-15)、「赤皮田池」の「南樋」(B2-5)のかたわらに「御修法料田」(B2-4)、「西大寺」(B2-12)の北側には土塁に囲まれたなかに「相博地」(B2-13)、そして「相博地」の東側には「押領」(B3-4)の記載がある。「今池」の周囲から、この辺りまでが相論にかかわる場所であろう。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_104ni_/126/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_104ni_/126/y0000001.png | A1 1 (付箋)「於論所之次第者、無相違絵図也、於山岳者令参差、其故者、於当知行之山地者、委不及注進之申之間、凡山岳相違之」 2 大道 A2 1 南 A3 B1 1 西 2 当論所 3 野山 4 当論所 5 今池 西大寺一向押領 6 (付箋)「西大寺方申云、於此樋者、一向不打塞之、自然破損、任大治 宣旨、於山地等者、至于今通用来者也、而如此掠申之、無窮虚誕也」 7 西大寺押領山林 8 当論所 9 大般若田 B2 1 道 2 (付箋)「西大寺方申云、興昌菩薩寛元五年所被掘也、西大寺別当東光院法印、小別当富美荘霊山寺住浄観房也、蓮覚房ト云ハ、建長年中南戒壇定宗法印之時執行也、不知案内申状ト申之」 3 赤皮田池 4 御修法料田 5 南樋〈元両寺通用/今西大寺一向押領〉 6 (付箋)「秋篠方申云、此池者秋篠寺寺僧良印蓮覚房為西大寺執行之時、両方合力池也、而一向為西大寺進止之由、被論申之條、無其謂之次第ト申之」 7 北樋〈元秋篠一円進止/今西大寺打塞之〉 8 (付箋)「秋篠方申云、於此池者、四分三ハ秋篠寺進退、今四分一ハ西大寺 進退之由、見于大治宣旨、而当時為西大寺、一向被打塞此樋之由、申之」 9 大道 10 京内一条 11 押領 12 西大寺 13 相博地 14 溝 15 御修法料田 16 (付箋)「西大寺方申云、以京内一條大路、当寺之最中、東面、此ハ□通、 為秋篠寺与西大寺堺之由、構申之條、以外虚誕也、当寺内者、自一條大路北江壱町也、仍舊築地于今現在之由、申之」 B3 1 秋篠寺南堺 2 京内一条 3 被載 康平已下 宣旨之四至也、 4 押領 5 谷 6 東 C1 1 野山 2 御修法料田 3 在家 4 在家 5 在家 C2 1 在家 2 北 3 秋篠寺 4 大道 C3 (裏書)「秋篠寺注進絵図」「秋篠ヨリ西大寺之進絵図」「西大寺ニアリ」 | 奈良県奈良市 | 奈良 | 太田順三 「西大寺の領域的支配の確立と絵図」 竹内理三博士古稀記念会編『続荘園制と武家社会』吉川弘文館 (1978) 村岡ゆかり 「大和国西大寺与秋篠寺相論絵図模写記録」 東京大学史料編纂所研究紀要6 (1996) 弓野瑞子 「大和国西大寺与秋篠寺堺相論絵図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 藤田明 「西大寺と秋篠寺の相論に就きて」 『歴史地理』8―1 (1906) 石上英一 「西大寺荘園絵図群の研究」 条里制研究3、増補改訂して『古代荘園史料の基礎的研究 下』塙書房 (1997) 藤田裕嗣 「大和国西大寺与秋篠寺堺相論図(東京大学図)・大和国西大寺領之図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 岩崎しのぶ 「西大寺荘園絵図群と相論」 人文地理52―1 (2000) 安田次郎 (1994) | 有 |
| ho_237 | 乙木庄条里坪付図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/237/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-237 | 大和(奈良県) | 猪熊信男 | 鎌倉時代 | 1925年3月 | - | 95.7 | 135.2 | 紙本 | 墨色 | 近畿二 | 28 | この絵図は、条里図であり、かつ本絵図を書写したものとされる内閣文庫所蔵の絵図に「乙木庄土帳」と記載されていることから、土帳=検注取帳としての性格をもっている。また、個々の坪の内に書かれた条里坪の記載から、南を天にして描かれたことがわかる。 絵図に書かれた領域は、十一条七里・八里と十二条七里・八里の境界をまたぐ形で書かれており、南北6町、東西8町、計48町歩の範囲にわたっている。絵図の最北部は、十一条七里七坪・十八坪・十九坪・三十坪・三十一坪、十一条八里六坪・七坪・十八坪(1,12,13,24,25,36,37,48)の東西8町にあたる。 なお、坪の中は短冊形に10等分されており、坪を6歩×1町(=1反)の短冊形に区切る、いわゆる長地型の区画がなされている。この長地型の区画の上に、さらにフリーハンドで田地・屋敷の区画が記されている。その中には、半折型の区画方式がとられているものもある。 なお、南を天として絵図をみると、右端から2・4・6・8列目にあたる坪では、条里坪記載が右上に書かれ、この記載は天から地に向かって書かれている。逆に1、3、5、7列目の坪は、坪の右下に条里坪記載があり、この記載は地から天に向かって書かれている。つまり、偶数の列と奇数の列では条里坪記載が交互になっているのである。 このような記載の特徴は、土帳=検注取帳としての本絵図の性格に基づくものであろう。取帳は、検注目録を作成する前提として、まず土地を調査した順に、田数・耕作者などを書き込み、耕地片を確定する台帳である。本絵図で偶数列と奇数列の条里坪記載が向き合って記された事実は、検注使の土地調査の道筋を表している。土地の調査が東(絵図の奥)から始まったか、西(絵図の袖)から始まったかは明らかでないが、東から始まったのであれば、十一条八里十八坪(48)から南に6町南下して十二条八里十七坪(43)へ、そこから西に1町移動して十二条八里八坪(42)に至り、今度は北上してゆく。南北へ6町、西に1町ずつジグザグに移動して絵図の南西端である十二条七里八坪(6)に到達する、という土地調査のコースが想定できる。西から始まったのであれば、逆にまず北西端である十一条七里七坪(1)から6町北上して十二条七里八坪(6)へ、そこから西に接する十二条七里十七坪(7)に移って今度は南下する、というジグザグのコースをたどって、絵図の北東端十一条八里十八坪(48)に到達することになる。 なお、本絵図では絵画的表現はほとんどとられていない。絵画的な表現は、十二条七里十三坪(11)と十四坪(10)、十二条七里三十五坪(27)と三十六坪(26)にそれぞれまたがる、夜都岐神社(中世の春日社)の2つの鳥居のみである。また、田地・屋敷には、記載の右肩に合点が記されるものと、記載の頭に小さい丸が付されているものが目立ち、これらの符号は一定の法則性を持って付されている。また、坪内の田地・屋敷記載の粗密度は、場所によってかなりの偏差を持っている。特に神社、堂、屋敷地は近接して配置されており(32,33,34,39,40)、田地は夜都岐神社の参道の南北に集中する傾向にある(10,11,14,15,22,23,26,27)。このような記載の特徴は、本絵図の性格や乙木荘の景観復元、収取形態の考察の手掛かりとして注目されている。 本絵図の紙背は文書で裏打ちを行っている。裏打ちがなされていないのは絵図面の右上部分(南西部)のみである。この部分も、本来紙背に文書が裏打ちされており、現在は剥離したものと推定される。 なお、絵図を裏打ちする8紙の料紙のうち、紙背文書であるといえるのは7紙である。まず奥下見返し(絵図面北東部裏)から端裏に向かって絵図の下半分に位置する紙背文書を並べると、①年未詳某書状断簡、② 年未詳某書状、③乙木荘名主坪付表紙、④某書状追而書、となる。次に、奥上見返し(絵図面南東部裏)から端裏に向かって絵図の上半分に位置する紙背文書を並べると、⑤文永二年三月日某寄進状土代、⑥某書状裏紙、⑦某書状、となる。③は「乙木(挿入符)「御庄」名主坪付」という上書が2紙にわたっている。このうち、筆跡が類似しているのは、①⑥⑦の3通と、②④の2通である。また、⑤は、本絵図の成立時期を想定する手掛かりとして使用されてきた文書であるが、『鎌倉遺文』未収録である。また、⑤の日付は「廿日」と読めるが、「廿」は異筆である。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/237/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/237/y0000001.png | 1 十一条七里七坪 2 十二条七里十二坪 3 十二条七里十一坪 4 十二条七里十坪 高繩手 内山後藤次二斗、地子田三斗代 5 十二条七里九坪 6 十二条七里八坪 7 十二条七里十七坪 8 十二条七里十六坪 西柚窪 9 十二条七里十五坪 不軽屋 三反 菩提山領 八幡御分 (合点)二反 後平三 二斗 内山御分 ○後藤次 一斗五升 内山御分 三反 増勝 二斗 内山御分 ○目二斗五升 松尾領 10 十二条七里十四坪 三段田 云北不軽野 白毫寺領 ○目 三斗 職事田 (合点)「後平三 三斗七升 ○庄司 二斗 ○預所名 良実一斗 ○二反平太郎 六斗 (合点)藤内 一斗 (合点)善縁 一斗 11 十二条七里十三坪 西木殿之脇 ハミツカト云 他領 白毫寺領 二反地子田一石五斗 新薬師領 内山領二反 ○二反預所名 四斗 作目 ○一反預所名 鶴太郎 一斗 12 十一条七里十八坪 留河 (合点)後平三 三斗 (合点)禅勝 三斗 (合点)藤内 二斗 ○後藤次 壱年五升 ○増勝 三斗 一段売了 13 十一条七里十九坪 平太郎 一斗 14 十二条七里廿四坪 ○増教 一斗 ○良仏 一斗 ○二反 庄司 二斗 木殿之脇 又云北脇田 下司名二斗 三反他領 (合点)禅勝 三斗 ○良仏 三斗 15 十二条七里廿三坪 脇田 又云南脇田 他領 (合点)善縁 一斗五升 ○増勝 七升 (合点)後平太 二斗 (合点)後平太 二斗 (合点)後平太佃 一石四斗 瓜田売畢 (合点)藤五郎 一斗五升 ウセチト云 ○平太郎佃 一石四升 16 十二条七里廿二坪 八段田 (合点)二斗五升 預所名 目 (合点)二斗五升 預所名 慶願 二反 四段他領 (合点)楢丸 二斗 ○後藤次佃 一石四斗 ○増勝佃 一石四斗 17 十二条七里廿一坪 中柚窪 一反目 一斗 18 十二条七里廿坪 19 十二条七□□□□[里廿九坪] 鳥脚 (合点)藤内 一斗五升 ○良仏 一斗五升 他領 増教 一斗 (合点)三反 四郎 三斗 他領 ○戒真 一斗 ○増勝 一斗五升 20 十二条七里廿八坪 東柚窪 二反 他領 21 十二条七里廿七坪 石田 (合点)善縁 八斗 (合点)藤内 二斗 (合点)二反 下司名 (合点)後平三 四斗 二反 他領 職事田 他領 (合点)藤内 佃一石四斗 (合点)四郎 佃一石四斗 22 十二条七里廿六坪 於土呂 二反 他領 (合点)預所名 弥平次入道 一斗七升五合 ○目 一斗五升 他領 ○善学 二斗 (合点)楢丸 二斗七升 (合点)藤五郎 一斗 (合点)預所名 後平三 一斗七升五合 ○善学 一斗 23 十二条七里廿五坪 曾根田 西五反 他領 ○戒真 三斗 二反 地子田売了 (合点)楢丸 二斗 ○目佃 一石四斗 24 十一条七里卅 25 十一条七里卅一坪 26 十二条七里卅六坪 一持 (合点)下司田 一斗 (合点)後平三 三斗 ○善学 一斗七升 ○二反 庄司 三斗四升 (合点)下司名 二斗 (合点)後平太 一斗 ○預所名 回行 一斗五升 ○平太郎 一斗 (合点)藤内 一斗 27 十二条七里卅五坪 佃坪 ○良仏 佃 一石四斗 ○庄司 佃 一石四斗 ○善学 佃 一石四斗 ○増教 佃 一石四斗 ○預所名 佃 庄司作一石四斗 (合点)後平三 佃 一石四斗 (合点)下司名 佃 一石四斗 (合点)禅勝 佃 一石四斗 (合点)善縁 佃 一石四斗 ○良仏 二枝 地子七升 28 十二条七里卅四坪 三河垣内 29 十二条七里卅三坪 西辻 (合点)□反 善縁 五斗 30 十二条七里卅二坪 草カヘ 31 十二条八里五坪 32 十二条八里四坪 四坪 (合点)二反 後平太 四升 ○戒真屋敷 二反 戒真 五斗 (合点)四郎屋敷 33 十二条八里三坪 三坪 (合点)禅勝屋敷 一反 (合点)禅勝公事田 七升 ○良仏屋敷 ○目屋敷 ○預所名 藤内作 ○平太郎屋敷 (合点)善縁屋敷 (合点)楢丸屋敷 (合点)下司名屋敷 ○増勝屋敷 34 十二条八里二坪 二坪 又云イテヤ本 ○後藤次屋敷 (合点)藤内屋敷 (合点)楢丸 佃 一石四斗 (合点)一反 善勝 一斗 ○一反 良仏 一斗 一反大 後藤次 一斗七升 (合点)二反 藤五郎 四斗 (合点)藤五郎屋敷 35 十二条八里一坪 一坪 三反 他領 (合点)二反 四郎 六斗 (合点) 藤五郎 一斗 ○善学 一斗 36 十一条八里六坪 37 十一条八里七坪 38 十二条八里十二坪 宮前 (合点)藤五郎 佃 一石四斗 39 十二条八里十一坪 惣門<床カ垣内> ○庄司屋敷 ○増教屋敷 七反切 ○善学 一斗四升 ○戒真 佃 一石四斗 平太郎 二斗五升 40 十二条八里十坪 堂坪 他領 (合点)後平太屋敷 勝蓮 預所名屋敷 (合点)後平三屋敷 ○善学屋敷 一反 公事田分 ○三反切 一升 41 十二条八里九坪 42 十二条八里八坪 大 増教 地子田 43 十二条八里十七坪 44 十二条八里十六坪 45 十二条八里十五坪 46 十二条八里十四坪 47 十二条八里十三坪 48 十一条八里十八坪 (紙背文書① 年未詳某書状断簡) (本紙欠・裏紙前欠) [ ]こともくるし[ ]□(地カ)蔵の仏供ハセい[ ]してわひし[ ]□さなくは、たひ[ ]やうの御ため、ゆ[ ]くは、なり候らん[ ]へ、御*(意カ)*をもまい[ ]候、このよし□(を)[ ]しさすへく候、 (裏紙ウハ書)「しやうハん」 (紙背文書② 某書状) 乙木庄事、衆議 下知候之間、子細〃〔之〕御 存知候也、被副下 院家御使候事、当寺之法、衆徒下知 上者、不能是非候也、 恐々謹言、 謹上 [ ] (紙背文書③ 大和国乙木荘名主坪付表紙) (表紙ウハ書)「乙木(挿入符)「御庄」名主坪付」 (以下欠) (紙背文書④ 某書状追而書:紙背文書①の追而書か) 追申 就于訴状様、可有 治定候、衆議成敗 題目、不被下 長者 宣等之外、寺家御 治定難事行 候也、 (紙背文書⑤ 某寄進状土代) 寄進 地蔵仏供田参段事 (在大和国山邊郡十二条七里十三坪内壱段自西六[ ] 同□十四坪内壱段西畔[ ]□同条八里廿一坪内壱段自<西五[ ]/日□>、以上44字抹消) 右、件田者、割分(挿入符)「大和国山邊郡」乙木庄内、為故中納言御局、 (行間書)「得於坪付者、[ ]于本寄進状」 本尊千体地蔵仏供料、去仁治年中寄進畢、 其条更不可有相違之處、如今申状者、為彼□ 冨沙汰、下遣使者事、依有其煩、沽却件三□〔子カ〕、 以其直物、仁和寺辺買留便宜田、以其地利、欲□〔供〕 長日仏供云々、早任申請之旨、沙汰替近隣田地、 可備永代仏供之状、如件、 文永二年三月(異筆)「廿」日 在判 (紙背文書⑥ 某書状裏紙) (ウハ書)「□ □□うハんの御はうへ」 (紙背文書⑦ 某書状) 御さたにても候はぬ ことを、かくのミ申候、 わひしく候へとも、又 かく申て、御□うふ 申のところ、かかせをハし ます御事にて候へく候也、 | 奈良県天理市 | 大和郡山・桜井 | 片平博文 「大和国乙木荘の歴史地理学的研究」 人文地理30-2 (1978) 片平博文 「大和国乙木荘における荘園村落の発達過程」 地理学評論53-1 (1980) 西岡虎之助 「中世荘園における土地配分形態」 史苑10-4、西岡『荘園史の研究 上巻』岩波書店、1953に再録 (1937) 石附敏幸 「大和国乙木荘土帳―土帳から見た村落景観―」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) 朝倉弘 (1984) (1976) | 有 |
| ho_57 | 百済庄屋敷田畠差図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/57/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-57 | 大和(奈良県) | 談山神社 | 戦国時代 | 不明 | - | 63 | 117.6 | 紙本 | 墨書 | 近畿二 | 34 | 本絵図の天は、西である。この荘園の東西には川が流れている。東には、曽我川が流れており、南から北へ流れている。西には、曽我川と平行してやはり北に向かって葛城川が流れている。 百済荘は、南北に長く5ヶ条15ヶ里にわたる広大な面積を占めており、その立地は条里遺構にほぼ規定されている。北の四至には「十八条中 一里」(2)と記載されている。この「中」は、十八条を半分にわけるライン以南が百済荘の領域であることを示している。つまり、このラインが百済荘の北の境界となる。東の境界は、十八〜二十二条の一里を中央で南北に区分する線である。西の境界は、十八〜二十二条の三里を中央で東西に区分する線である。南の境界は、二十二条と二十三条の境界である。 このうち、十八条南半部は、一里で東西2坪・南北3坪(二十八〜三十三坪(3〜8))の計6坪、二里で東西6坪・南北3坪の計18坪(四〜九坪、十六〜二十一坪、二十八〜三十三坪(9〜26))、三里で東西3坪・南北3坪の計9坪(四〜九坪、十六〜十八坪(27〜35))に坪表記がなされている。 十八条の南に接する十九条では、一里は西端の6坪(38〜43)、二里は36坪全て(45〜80)、三里は東半の18坪(82〜99)に坪表記がなされている。十九条から二十二条までは、一里・二里・三里とも全く同じ構成になっている。 荘の東西は、川に面した荘園ゆえの特徴がよくでている。葛城川に面した西の四至には「長畔手」(101,230)と記されており、堤を意味していると思われる。同様の氾濫防止施設の存在は、東の四至にも見いだせる。二十条二里九坪には「堤ノウラ」(119)という地名が記されており、その西に接する二十条二里一〜六坪近辺が堤であったことを示している。 なお、曽我川に接する各条の一里は、西部1列ないし2列に何の記載もない。このことは、曽我川に接した部分が、氾濫によって川成になっていることを示している。十九条二里十三坪には「カハラ畠」(57)、二里二十九坪には「カハラ田」(73)という地名が記されている。二里十三・二十九坪はともに、百済荘の東西の幅の中央付近に位置しており、曽我川・葛城川の氾濫が百済荘の中心近くまで至る場合があったことを示す。二十一条二里十五坪には「タカ田」(189)という地名があり、この部分が百済荘でも比較的高い地域にあたる。 二里には、「クマノ」(20)(十八条二里二十一坪)、「小国寺」(25)(十八条二里三十二坪)、「ハヽ堂ノ坪」(68)(十九条二里二十四坪)、「百済寺ツホ」(61)(十九条二里二十坪)、「法永寺」(111)(二十条二里一坪)、「カウヌシ」(125)(二十条二里十五坪)、「延動寺」(139,140)(二十条二里二十九・三十坪)、「唐楽寺」(129)(二十条二里十九坪)、「殿ノ御堂」(130)(二十条二里二十坪)、「当寺ツホ」(210)(二十一条二里三十六坪)、「イワソノ宮」(245)(二十二条二里六坪)、「クワハラ堂」(250)(二十二条二里十一条)といった寺社関係施設がある。また、二里には、住居施設のあったと思われる地名として「イノモトカイト」(16)(十八条二里十七条)、「カナヤ垣内」(55)(十九条二里十一坪)、「堂木垣内」(75)(十九条二里三十一坪)、「賢道ヤシキ」(146)(二十条二里三十六坪)、「トノヽカイト」(143)(二十条二里三十三坪)、「スミノ垣内」(199)(二十一条二里二十五坪)、「クホノカイト」(274)(二十二条二里三十五坪)などが見いだせる。なお、一里には住居・寺社を示す記載は一切なく、三里には「カイト」地名が2カ所、寺社関係地名は4カ所見いだせる。荘内の高地である二里が荘の中心的機能を担った場であることが推測される。 特に二十条二里南部から二十一条二里北部に至るエリアは、荘の中心地域であったと思われる。「トノヽカイト」(143)・「殿ノ御堂」(130)・「延動寺」(139,140)・「唐楽寺」(129)・「当寺ツホ」(210)・「スミノ垣内」(199)・「今イチ」(200)などの地名がこのエリアに集中している。このエリアに「殿」=土豪の屋敷や「殿ノ御堂」=氏寺が建っており、村落成員内部の階層差の存在を物語っている。なお、「今イチ」は、これらの地名の最南端に位置しており、境界領域に立てられる市場の特性を表している。 次に、田畠の立地について述べる。「田」「畠」の記載は、一里には「ヨシナタ」(38)(十九条一里三十一坪)、「タツホ」(107)(二十条一里三十四坪)のみである。三里には「庄田」(91)(十九条三里十坪)、「キヨ田」(156)(二十条三里九坪)のみであるが、二十条三里には「一町上テ」(150)・「二町」(152)・「南へ二町イテ」(160)など水田や用水に関わると思われる記載がみられる。二里には、「カハラ畠」(57)(十九条二里十三坪)、「カハラ田」(73)(十九条二里二十九坪)、「食田」(80)(十九条二里三十六坪)、「エノコ田」(58)(十九条二里十四坪)、「迎田」(52)(十九条二里八坪)、「藤田」(62)(十九条二里十八坪)、「ヲシキタ」(50)(十九条二里六坪)、「カウ田ツホ」(132)(二十条二里二十二坪)、「カラタ」(117,118)(二十条二里七・八坪)、「下ノ田」(175)(二十一条二里一坪)、「ノ田」(176)(二十一条二里二坪)、「油畠」(177,184)(二十一条二里三・十坪)、「タカ田」(189)(二十一条二里十五坪)、「ヤナ井タ」(188)(二十一条二里十四坪)、「クホ田」(206)(二十一条二里三十二坪)、「大ハウタ」(204)(二十一条二里三十坪)、「カワタ」(263)(二十二条二里二十四坪)、「ツクタ」(261)(二十二条二里二十二坪)、「マチヨ田」(253)(二十二条二里十四坪)、「三昧田」(254)(二十二条二里十五坪)、「院田」(269)(二十二条二里三十坪)などがみられ、圧倒的に多い。そして、さきにふれた土豪屋敷、寺院を中心とした集落の周縁に田畠がつくられる傾向がある。なお、寺院の免田も、二十二条二里に多い。 「田」「畠」の記載がない坪に田畠が存在しないとはいいきれないが、田畠が二里に多く、一里に少ないことは想定できる。そして、一里は、住居・寺社・田畠の記載全てが二里・三里に比べて少なく、逆に表示のない坪が多く見出される。これらの事実は、この荘園にとっての最も大きな不安定要素が曽我川であったことを示している。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/57/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/57/y0000001.png | 1 北 2 十八条中一里 百済一庄之内屋敷田畠差図 3 廿八 4 廿九 5 卅 6 卅一 7 卅二 8 卅三 9 四 10 五 11 六 12 七 13 八 14 九 15 十六 16 十七 イノモトカイト 17 十八 18 十九 19 廿 サゝ田 20 廿一 クマノ 21 廿八 コモウ 22 廿九 堂ノ前 23 卅 24 卅一 25 卅二 シコンタウ 小国寺 26 卅三 西コモウ 27 四 トウト 28 五 29 六 30 七 31 八 32 九 33 十六 34 十七 35 十八 36 十九条 37 一里 38 卅一 ヨシナタ 39 三十二 東トンコ 40 三十三 クホ 41 三十四 42 三十五 43 卅六 44 二里 45 一 46 二 47 三 48 四 カワクホ 49 五 50 六 ヲシキタ 51 七 北アタラシ 52 八 迎田 53 九 テウシ 54 十 ヤナソイ 55 十一 カナヤ垣内 56 十二 クロシ 57 十三 カハラ畠 58 十四 エノコ田 59 十五 ヲゝ東 60 十六 ハノツホ 61 十七 小泉 62 十八 藤田 63 十九 コカイト 64 廿 百□〔済〕寺ツホ 65 廿一 木□ 66 廿ニ ニウヤ 67 廿三 シゝトノ 68 廿四 ハゝ堂ノ坪 69 廿五 大北 70 廿六 アシモト 71 廿七 ニウカツホ 72 廿八 木ヘ田 73 廿九 カハラ田 74 卅 二条 75 卅一 堂木垣内 76 卅二 ヲキノ前 77 卅三 タメツホ 78 卅四 ヤナイタ 79 卅五 田中ノ前 80 卅六 食田 81 三里 82 一 井カク 83 二 田中 84 三 山ノヘ 85 四 経蔵 86 五 87 六 ヲウタノカイト 88 七 ミソ□〔ロ〕 89 八 ヲキノニシ 90 九 ヲキノニシ 91 十 □□〔庄田〕 92 十一 ハヲノ井ケ 93 十二 森ノ垣内 94 十三 95 十四 ナカクロ 96 十五 ナカクロ 97 十六 コヒ 98 十七 アヒル 99 十八 ワサ田 100 此ノワサ田町戍亥角石塔アリ 101 長畔手 102 二十条 103 東 104 卅一 105 卅二 106 卅三 ヒノシリ 107 卅四 タツホ 108 卅五 109 卅六 東ウラ 110 二里 111 一 法永寺 112 二 堂ノマエ 113 三 114 四 山サキ 115 五 水カキ 116 六 ミツカキ 117 七 カラタ 118 八 カラタ 119 九 堤ノウラ 120 十 南ナワセ 121 十一 ナワセ北 122 十二 南アタラシ 123 十三 シマタ 124 十四 クノヲツホ 125 十五 カウヌシ 126 十六 127 十七 ヒラタ 128 十八 クノモト 129 十九 唐楽寺 130 廿 殿ノ御堂 131 廿一 田中 132 廿二 カウ田ツホ 133 廿三 大西ニウシ 134 廿四 大西コ□〔ケ?〕ウ 135 廿五 コケウ 136 廿六 カウサウ 137 廿七 イナ井ツホ 138 廿八 タウソ 139 廿九 延動寺 140 卅 延動寺 141 卅一 イタフチ 一町上テ 142 卅二 トウタニ 143 卅三 トノゝカイト 144 卅四 マトハ 145 卅五 三条 146 卅六 ハシツカ 賢道ヤシキ 147 三里 148 一 蓮光寺 149 二 堂ノマエ 150 三 中南北 一町上テ 151 四 中南 152 五 カツラツホ 二町 153 六 東イナハ 154 七 西イナハ 155 八 カキツホ 156 九 キヨ田 157 十 ウスカミ 158 十一 ヲクツホ 一町上テ 159 十二 シカケチ 160 十三 ハタホコ 南ヘ二町イテ 161 十四 小林 162 十五 五ノツホ 163 十六 専タウ 164 十七 布施堂ノマヘ 165 十八 ニシイナハ 166 西 167 二十一条 168 卅一 169 卅二 170 卅三 171 卅四 172 卅五 173 卅六 □□(ヒカ?)シハタ 174 二里 175 一 下ノ田 176 二 ノ田 177 三 油畠 178 四 石ナツホ 179 五 カワサイ 180 六 小ハヤシ 181 七 小ハヤシ 182 八 カワサイ 183 九 小河 184 十 アフラ畠 185 十一 ヨナタ 186 十二 ユキツホ 187 十三 ソネリ 188 十四 ヤナ井タ 189 十五 タカ田 190 十六 小河 191 十七 小河 192 十八 北中クホ 193 十九 カワタ 194 廿 南中ツホ 195 廿一 井ツ坪 196 廿二 中ツホ 197 廿三 今ニシ 198 廿四 カチツホ 199 廿五 スミノ垣内ノ内 200 廿六 今イチ 201 廿七 トクミツ 202 廿八 ウリウタ 203 廿九 カマウツホ 204 卅 大ハウタ 205 卅一 ヒラツカ 206 卅二 クホ田 207 卅三 池□ 208 卅四 小イケ 209 卅五 小イケ 210 卅六 当寺ツホ 211 三里 212 一 池ノシリ 213 二 池ノ内 214 三 池ノ内 215 四 池ノ内 216 五 北ウラ 217 六 タウラ 218 七 西タウラ 219 八 タウラ 220 九 池ノ内 221 十 池ノ内 222 十一 スチカ井池ノ内 223 十二 イナハ 224 十三 田中ツホ 225 十四 池ソイ 226 十五 クソツホ 227 十六 イせツホ 228 十七 229 十八 230 長畔手 231 二十二条 232 卅一 233 卅二 234 卅三 235 卅四 236 卅五 237 卅六 238 一里(ママ) 239 一 240 二 241 三 242 四 243 五 244 六 宮ノウシロ 245 イワソノ宮ノ戍亥ノ角ノハシラ一本クタラ領也、 246 七 宮ニシウラ 247 八 248 九 河内坪 249 十 中ツホ 250 十一 クワハラ堂 251 十二 クロモト 252 十三 中クノ木 253 十四 マチヨ田 254 十五 三昧田 255 十六 フキ 256 十七 ウエノ森 257 十八 ミマサカ 258 十九 259 廿 エノ木ツホ 260 廿一 ミコウ 261 廿二 ツクタ 262 廿三 東クホ 263 廿四 カワタ 264 廿五 クホ 265 廿六 クホ 266 廿七 マエツホ 267 廿八 サカヤ 268 廿九 シキタツホ 269 卅 院田 270 卅一 271 卅二 ヲカ井ノツホ 272 卅三 サカヤ 273 卅四 クホカミノヤシキ 274 卅五 クホノカイト 275 卅六 北クホ 276 二里(ママ) 277 一 クホ 278 二 クホ 279 三 西クホ 280 四 サカヤノニシツホ 281 五 冨ノハカ 282 六 283 七 284 八 285 九 286 十 287 十一 288 十二 南ウラ 289 十三 290 十四 291 十五 292 十六 293 十七 294 十八 295 土庫田中殿、モトハ辻堂アリ 296 トンコ・マツカ・ナカ□ヤウシ、以上三箇郷 297 南二十三条 | 奈良県北葛城郡広陵町 | 桜井 | 西岡虎之助 「中世における条里制にもとづく荘園」 歴史地理80-4号・5号、西岡『荘園史の研究』岩波書店、1953に再録 (1942) 朝倉弘 (1984) | 有 |
| ho_56 | 膳夫庄差図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/56/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-56 | 大和(奈良県) | 談山神社 | 戦国時代 「永正十二年八月廿八日」 | 不明 | - | 82.5 | 115.8 | 紙本 | 墨書 | 近畿二 | 38 | 本図は、南を天にした記載となっている。記載は全て墨書でなされ、絵画的表現は河・門の記載以外見いだせない。絵図作成の具体的な目的については今後の課題である。 本絵図の天の袖部分には「膳夫庄差図」(1)と上書が記され、この差図の記載対象を明示している。料紙の奥には、「永正十二年〈乙亥〉八月二十八日」(102)の年記と、多武峰検校・三綱と一臈・二臈・三臈、および算田衆9名の連署が二段に分けて書かれている。なお、算田衆は、三綱のうち2名を含む。 次に、膳夫荘内の記載内容について説明していこう。膳夫荘の立地は条里遺構の配列に規定されている。荘の南の境界は不整形ではあるが、北・東・西は概ね直線であり、78町強の領域をもっている。なお、荘の南西で「八釣領」(3)、北西で「タカトノ領」(51)、東で「吉備領」(53)に接している。 まず、絵図の向きを規定する条件について説明しよう。この絵図には、2つの川がみられる。一つは南東隅から北に3町ほど流れた後、北西に向かって流れる大きな「河」(80)(米川)と、膳夫荘の南西隅に接する「八釣領」(3)から北に向かって流れる「河」(98)(八釣川・中之川)である。この2つの川は、膳夫荘の西北隅に所在する坪「ヲチ合」(97)で合流する。 第二に、この荘園の立地を示す記載についてふれておきたい。荘の北西隅から南に4坪・東に4坪ずつ進むと「六ノツホ」(60)がある。「六ノツホ」の南隣には「一ノツホ」(44)があり、「六ノツホ」の2坪北には「四ノツホ」(84)がある。つまり、「六ノツホ」は「四ノツホ」を含んだある条里の南西隅、「一ノツホ」は、対面するもう一つの条里の北西隅に位置している。「一ノツホ」から荘の西端まで、「一ノツホ」を含めて4坪、南端まで5坪の距離がある。「一ノツホ」から荘の南端までは、「一ノツホ」を含めて6坪、東端まで7坪となる。なお、「六ノツホ」から東の端までは、「六ノツホ」を含めて東へ7坪、北へ4坪の距離がある。これらの事実から、東西南北の荘境までの距離を考慮すると、膳夫荘は6つの条里にまたがる立地であったと考えられる。 第三に、道の表記について述べる。道は、2本の線によって表現されている。膳夫荘のメインストリートは、荘の中心にある膳夫寺の「南口」(31)と「北口」(31)からそれぞれ南北に伸びている道である。この道は、坪の幅の4分の1程度の幅に描かれている。この道幅は、荘の北西部の境界線の「木本海道」(49)、荘の北部の境界線の「横大路」(100)とほぼ同じである。これら3本の道を便宜的に大道とよぼう。 これら大道の半分程度の道は、3本確認できる。一つは荘の南の境界にあたり、おそらく道を指すと思われる二本線、もう一つは、その2坪北を平行に走り、膳夫寺の南に接する「道」(24)、最後に、荘の東北隅4坪を囲む道のうち、南を画する道である。 更に、大道の4分の1程度の幅で描かれている道もある。「木本海道」から東に伸び、膳夫寺の北口に接する「道」(45)と、荘の北東隅4坪を囲む道のうち、西を画する「ミチ」(77)の2本である。本絵図に描かれた道幅が実際の道幅をそのまま示しているとはいえないが、道が概ね3種の規模に分かれていたことは読みとれる。 第四に、居住地・建造物記載の特徴について述べよう。これらの記載は、河川に近接してあらわれる傾向がある。米川に沿った居住域・建造物地名として、南岸では東から順に「フルカ井ト」(56)・「坊垣内」(68)・「チヤウカ井ト」(96)、北岸では「僧坊」(93)が見いだされる。八釣川の右岸には「東新堂」(86)が面しており、「西新堂」(88)も近い位置にある。これら居住域もしくは宗教施設とおぼしき記載は、川沿いに書かれる傾向が強いといえる。 集落を示すとおもわれる「里」表示も、川の近くに記される傾向がある。荘の西北隅にあたる「出合里」(87)の記載は、八釣川を挟んで東で「東新堂」に接し、西で「出合里」に接している。荘の北東にあたる「出垣内里」(79)の記載もほぼ米川沿いに記されている。この記載は、2つの坪をまたぐ形で記され、かつ「出垣内里」記載を、墨書で囲んでいる。なお、荘の南東にあたる「池尻藪里」(8)の記載位置も米川に近接しており、集落・建造物と河川との密接な関係を想定できる。 次に荘の中心に所在する膳夫寺とその周辺の居住域について述べていこう。膳夫寺の境内は、墨書記載「膳夫寺」(31)にかかる荘中央部の4坪に相当する。寺の西南隅は「里ノ西ワキ」(32)、東南隅は「里南口」(30)、北西隅は「コセノカキウチ 里口西ノワキ」(42)と記されている。「カキウチ」「里」記載からみて、膳夫寺の境内が集落化していたことが想定される。なお膳夫寺の北西部は、「木本海道」(49)から東に伸びる道に接しており、この道は、膳夫寺の南北に伸びる道とぶつかり、T字路をなしている。この2つの道の結節点に「辻堂」(41)が記載されている。なお、膳夫寺の南北にのびる大道は米川に接しており、河川交通と大道の有機的な関係を想定できるだろう。なお、膳夫寺の南には「虚空蔵林」(12)(三柱神社)、西には「蔵ノマチ」(33)が配置されており、膳夫寺周辺が荘の中心地帯であったことを裏書きする。 膳夫寺の西・北は「ヤフ(藪)」で囲まれ、東南は「ホリ」が掘られ、「木戸口」が開かれている。「里南口」にも木戸が記されており、膳夫寺および境内の集落に防御施設が構築されていたことを示す。 「出合里」(87)についても膳夫寺と共通した景観を見いだすことができる。「出合里」の東は八釣川に接しており、西は「ヤフ(藪)」に接している。そして「出合里」の東西にも木戸の記載を確認できる。ただし木戸は、「出合里」に接する「東新堂」(86)もしくは「西新堂」(88)のものであった可能性もある。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/56/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/56/y0000001.png | 1 膳夫庄差図 2 南 3 八鈎領 4 カミ五坪 一町 5 カナヤケ 一町 6 下五坪 一町 北縄本四反切畠 7 ゼントク 一町 8 池尻藪里 9 タワシモト 五段 10 ミカウタ 一町 11 高畠 松木アリ 二段六反切 ワキタ 12 コセタ 七段七反切 虚空蔵林 13 ミヲロシ 一町 14 ユツホ 一町 一段切畠 15 ニシノツホ 一町 東縄本四段切畠 16 アリ井 一町 17 下ツクリ 一町 18 アラハリ 一町 19 カウタウ 一町 20 カワラカマ 五段三反切 21 スキノマチ 一町 九段切畠 22 タチハナタ 一町 23 アヘツホ 一町 24 道 25 河 26 南岸 一町 27 ヒヤクカウシ 一町 28 南クホ 一町 29 道 30 タウノタン 二段半 里南口 東ノワキ 木戸口 ホリ 31 南口膳夫寺北口 32 里ノ西ノワキ 三段六段切田 ヤフ 33 蔵ノマチ 一町 34 ハタウラ 一町 35 大マチタ 一町 36 五段田 井シリトモ云、カミ川原トモ云 同一段半田 37 ホリカワ 一町 38 マトハノクホ 八段之所 六段九反切田 一段一反切川成 39 北キシ 八段四段切田 一段一反切川成 半畠 40 北クホ 一町 一段半畠 八段半田 41 辻堂 東ノワキ 三段半田 42 コセノカキウチ 六段田 里口西ノワキ ヤフ 43 クロタ 一町 44 一ノツホ 一町 45 道 46 ナシモト 一町 47 三段 ノゝシキ 四段六反切田 ノゝシキ 四段切畠 48 上サ井タ 一町 49 木本海道 50 西 51 タカトノ領 52 東 53 吉備領 石ハシアリ 54 天王ノキ 九段 一段荒川成 55 テラシ 八段四反切田 一段六反切川成 56 フルカ井ト 三段七反切田 六段三反切川成 57 カラキタ 一町 58 井ンテン 一町 59 カミヤナキ 一町 60 六ノツホ 一町 61 シマタ 一町 62 コミタ 五段田 二反切畠 コミタ 二段半田 63 下サ井タ 一町 此町セハキニ依テ九段半、東ノ縄木半也 64 クロタ 一町 65 道 66 八条領 一町 67 東クホ 四段田 此外半畠 ニシクホ 三段 68 坊垣内 七段 69 マエタ 一町 70 シモヤナキ 一町 71 タケノマチ 一町 72 カマイタ 一町 73 水池 三段七反切田 三段切畠/水池 三段一反切畠 三段切畠 74 中ノマチ 九段六反切 ヤフ 75 トリカミ 一町 76 モタイタ 一町一段 77 ミチ 78 ウエタ 五段六反切田 79 出垣内里 80 河 81 畠 川成 82 セウチ 九段之所 二段切畠 八段八反切田 83 アラタノツホ 一町 84 四ノクホ 一町 85 ヒワラタ 一町 86 東新堂 五段 87 出合里 88 西新堂 六段九反切 89 アヘツホ 一町 90 イノキ 一町 91 サカノホリ 一町七段切 此内半畠 92 フタイ 一町 六段半田 一段半川成 二段切畠 93 僧坊 一段九反切田 余ハ畠 94 東コニシ 一町 田三段半 畠 95 ニシコニシ 二段六反切田 畠 96 チヤウカ井ト 六段 97 ヲチ合 五段九段切 98 河 99 出合橋ツメ 二段七反切田 余ハ荒畠 100 横大路 101 北 102 永正十二年<乙/亥>八月二十八日 三﨟権律師俊尊(花押) 二﨟権律師頼源(花押) 一﨟権律師明秀(花押) 都維那師権律師澄英(花押) 寺主権律師尊英(花押) 上座権律師英存(花押) 検校法印権大僧都大和尚位定栄 算田衆九人 宿﨟青龍房 権律師英昌(花押) 同舜松房 権律師幸算(花押) 勧進願円房 権律師俊尊(花押) 同長源房 権律師順算(花押) 三綱俊浄房 権律師尊英(花押) 勧進学誠房 権律師頼源(花押) 三綱乗観房 権律師澄英(花押) 勧進乗舜房 俊秀大徳(花押) 同行賢房 公英大徳(花押) | 奈良県橿原市 | 桜井 | 西岡虎之助 「中世における条里制にもとづく荘園」 歴史地理80-4号・5号、西岡『荘園史の研究 上巻』岩波書店、1953に再録 (1942) 池田源太、千田正美 (1962) 朝倉弘 (1984) | 有 |
| ho_55 | 箸喰庄差図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/55/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-55 | 大和(奈良県) | 談山神社 | 戦国時代 「明応六年丁巳十二月」 | 不明 | - | 48.5 | 68.1 | 紙本 | 墨書 | 近畿二 | 43 | 本絵図は、料紙2紙からなっている。なお、端裏書に「箸喰庄差図」(49)と記されている。料紙の地の部分には「明応六年〈〃〔乙〕丁巳〉十二月日 箸喰庄」(48)と記され、本絵図の作成年代を示している。筆は全て墨書である。絵画的表現はなく、全て記号的な表現で示される。 本絵図は、文字記載の向きからみて、南を天として作成された絵図であることがわかる。差図に示された箸喰荘の領域は長方形をなしており、この荘園の領域自体、条里区画に基づいていることがわかる。南北は条里区画が明記されており、南北7町であったことが明確である。そして条里区画の幅からみて、東西6町であったと考えられる。 なお、箸喰荘の南西隅を占める坪は「一ツホ」(11)であり、その北隣の坪が「六ノツホ」(13)である。このことからみて、「一ツホ」と「六ノツホ」は、それぞれ南北で相接する別々の条に属している。条里の里坪表記に則るならば、箸喰荘の西端は、北から「ウエノツホ」(46)・「北浦」(44)・「南浦」(37)・「ヒロヲサ」(30)・「コシハ」(15)・「六ノツホ」の順で数えるべきである。「六ノツホ」は、ある条里の南東隅を占めており、「一ツホ」も、その南の条里の北東隅を占めることになるから、「一ツホ」の東に接する「シヤウキウ」(10)、「六ノツホ」の東に接する「タ井ノカ井ト」(12)も、本来それぞれが属する条里の隅にあたる。つまり、箸喰荘は、四つの条里の境界に立地していたのである。 箸喰荘の東南端から西北端にかけて斜めに貫流する「河」(20・42)すなわち曽我川は、実際の流れも東南から西北へ向かっている。箸喰荘の中で荘民の居住域と思われる曽我川西岸の「タ井ノカ井ト」(12)と東岸の「里」(18)は、ともに「河」に近い立地にある。そして、「タ井ノカ井ト」と「里」は、荘の南堺の2坪北を東西に走って「河」をまたぐ「大道」(9・14)に接している。「河」の流れと荘民の生活や荘経営は密接な関係をもっていたことが絵図の表現に示されている。 次に、荘内の景観を示す記載内容について述べる。まず道の記載の特徴について述べよう。箸喰荘の南・西・東の境界線は道の表現によって区切られている。南の境界は「ミチサイメ(道際目)」(2)、西の境界は「大道」(31)、東の境界は「ミチサイメ」(26)とされている。南・西の境界を示す道は、2本の線で表現される。それに対して東の境界を示す道は、1本の境界線の上に「ミチサイメ」と記載される。荘内の道表現としては、南の境界線の「ミチサイメ」(2)から分かれ、荘の南東隅を占める「山」(3)の裾に沿って南東隅から北に向かって伸びていく「ミチ」(5)と、さきに述べた「大道」(9・14)があげられる。これらは、いずれも2本の線で表現されている。 次に土地利用のあり方を示す表現について述べたい。「河」(曽我川)の東西で、箸喰荘の地形は大きく異なる。よって「河」を基準として本絵図を東西に分けて説明する。その際、条里の方向ではなく、絵図の向きに従って、それぞれ南から北に向かう形で箸喰荘差図の記載内容について述べたい。 まず、「河」の西岸の記載について説明する。南の境界線の「ミチ」(2)を北に越えると、箸喰荘に入る。荘の西端には条里区画に基づいた田畠記載がみられる。西端の田畠は、西の境界線「大道」(31)に接して北に向かって7坪分配置されている。田畠は、南から北へ「一ツホ 一町アリ」(11)・「六ノツホ 一町アリ」(13)・「コシハ 一町アリ」(15)・「ヒロヲサ 三反アリ」(30)・「南浦 三反畠 四反アリ」(37)・「北浦 三反畠 五反アリ」(44)・「ウエノツホ 四反アリ」(46)と記されており、西南端の3坪が、方1町を基準とする条里そのままの区画で記されている。「ヒロヲサ」以北の4坪が1町に満たないのは、「河」(曽我川)によって、その西岸に「アレ(荒)」(21・29・36・43・45)がつくられたことによる。「南浦」(37)・「北浦」(44)は畠地を含んでいる。また、「六ノツホ」(13)と「コシハ」(15)の間は、東西に走る「大道」(14)で区切られている。 第二に、西端の田畠に東接する田地について説明しよう。これらの田地は2坪あり、南から北に「シヤウキウ 一町アリ」(10)・「タ井ノカ井ト 一町アリ」(12)と記された、これまた条里を踏襲した田地である。また、「タ井ノカ井ト」の北には、「六ノツホ」と「コシハ」の間を区切る「大道」(14)が走り、この「大道」は、曽我川を越えて更に東に伸びている。なお、「大道」を挟んで「タ井ノカ井ト」の北には「田半アリ」(22)と記載された田地の小区画が存在する。「シヤウキウ」・「コシハ」の東には、それぞれ「アレ」表記(7・21)が記されている。「河」の左岸は耕作不可能な氾濫原と、その西に広がる耕作可能地によって耕作されていた。 第三に、「河」の東岸について説明しよう。東南端は「山」(3)であり、山裾は「山」の西から北の箸喰荘内の平野部にかけて広がっている。「山」の北には平野部があり、箸喰荘の東北部分を占める「箸喰山」(35)およびその背後の山地と、「山」に挟まれた立地となっている。 南の境界線「ミチサ井メ」(2)から分かれた「ミチ」(5)は、「山」の裾に沿い、箸喰荘の東南から北に向かって湾曲して伸びている。「ミチ」の西側は、「シミツカクホ」(8)、更にその北の「里」(18)に接している。「山」(17)の北側は、「山」と「箸喰山」に挟まれた平地部分であり、田地がつくられている。田地は条里区画に基づいて配置され、「七反田 七反アリ」(28)、その東に「アミタフ(阿弥陀仏) 一町アリ」(27)、「アミタフ」の北に「ミカウタ(神子田) 一町アリ」(33)、「ミカウタ」の西・「七反田」の北に「五反田」(34)という田地区画が記載されている。なお、「山」の東には、「アミタフ」の南に接する「ワキタ 三反アリ」(16)という区画が記載されている。「シミツカクホ」には7反の田地があり、その内2反が神田である。「河」(6)の右岸には仏神田が目立っていることが特徴としてあげられる。 「ミチ」は、「山」裾を北に伸びていく。そして曽我川の西岸から「河」を越えて伸びた「大道」(9)とぶつかり、十字路を形作る。「大道」の南には先述した「シミツカクホ」、北には「里」がある。「里」の東は「ミチ」に接し、西は「二反アリ」(19)と記された田地小区画に接している。「里」の北には「ソウホリ(惣堀)」(25)が掘られ、「里」と「箸喰山」との間を画している。 「ミチ」は、更に「七反田」(28)の西に接して北に伸び、「七反田」の西北隅で東に曲がり、「五反田」(34)の南に接する。更に「五反田」の東南隅で北に曲がり、「五反田」と「ミカウタ」(33)の間を通り、箸喰荘の最北部の山地にあたる「外領入」(39)にまで伸びる。なお、「五反田」の西南隅から北に伸び、西は「箸喰山」の山裾に接する「ミチ」の支線も記されている。 「箸喰山」の北は、「サイメ ホリカキリ」(38)と記された堺堀で北部の「山」(40)・「外領入」(41)と区画されている。「外領入」を絵図内に含みつつ、「外領入」とそれ以南を区別する堺堀が記載されている点、箸喰荘の北部境界部分で権利関係が錯綜している状況を想定できるかもしれない。この点に、本絵図の作成目的をうかがうことも可能だろう。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/55/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/55/y0000001.png | 1 南 2 ミチサ井メ 3 山 4 ミノウタシユク 5 ミチ 6 河 7 アレ 8 シミツカクホ 七反アリ 此内神田二反アリ 9 大道 10 シヤウキウ 一町アリ 11 一ツホ 一町アリ 12 タヰノカ井ト 一町アリ 13 六ノツホ 一町アリ 14 大道 15 コシハ 一町アリ 16 ワキタ三反アリ 17 山 18 里 19 二反アリ 20 河 21 アレ 22 田半アリ 23 東 24 ミチ 25 ソウホリ 26 ミチサイメ 27 アミタフ 一町アリ 28 七反田 七反アリ 29 アレ 30 ヒロヲサ 三反アリ 31 大道 32 西 33 ミカウタ 一町アリ 34 五反田 五反アリ 35 箸喰山 36 アレ 37 南浦 三反畠 四反アリ 38 サイメ ホリカキリ 39 外領入 40 山 41 外領入 42 河 43 アレ 44 北浦 三反畠 五反アリ 45 アレ 46 ウエノツホ 四反アリ 47 北 48 明応六年<〃〔乙〕丁/巳>十二月日 箸喰庄 49 (端裏書)「端喰庄差図」 | 奈良県橿原市 | 畝傍山 | 西岡虎之助 「中世における条里制にもとづく荘園」 歴史地理80-4号・5号、西岡『荘園史の研究』岩波書店、1953に再録 (1942) 千田正美 (1962) 朝倉弘 (1984) | 有 |
| ni_124 | 但馬国神戸郷絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_104ni_/124/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 仁-124 | 但馬(兵庫県) | 神床守直(大阪府豊中市) | 鎌倉時代 | 1988年7月 | 宮本尚彦 | 76.2 | 103.5 | 紙本 | 着色 | 近畿三 | 10 | 本図には方位記載がないが、現地と照合すると、東を天に描かれていることがわかる。出石神社西側近辺を描く本図は、縦横に方格線を描く条里図であるが、図中には絵画的な河や橋の表現、鳥居の描写などがあり、単なる差図ではないところに特徴がある。 現在断簡となり左上1紙を失っているため不明確な部分が残るが、縦に10坪分、横に11坪分を描写しており、おおよそ該当地域における里坪のあり方が理解できる。図の左端より2列目、上から3坪目にある「八坪」(C-12)という表記がその手がかりとなる。この近辺では、北西隅を一坪とし、東へ坪がならぶ平行式坪付けとなっていることが知られているから(『神美村誌』)、絵図に描かれた里坪を詳細に復元しうるのである。 「八坪」の所在から見て、すぐ下の「池野へ」(C-16)が七坪に相当し、その左の空白坪が一坪であるとわかる。縦横6坪ずつから里が構成されていることを踏まえると、この「池野へ」の下部に左右に引かれている線がすなわち里界線である。同様に「八坪」が左から2列目にあることから、6列目の右側にひかれた線がやはり里界線となる。この里界線は図中央の紙継目とほぼ重なっており、本図の中心線として意識されていたことがわかる。また絵図下部の里界線から上へ数えて6坪目、絵図上部から3坪目下に引かれた線がやはり里界線となるから、本図には欠失部分を含め、あわせて6つの里にまたがる空間を描いているのである。 本図を見てもっとも印象的なのは、河川(出石川)と橋の表現であろう。渦巻き文様と波しぶきの表現を巧みに組み合わせて川面を写実的に描きだしている。現在も全体に青く着色されていることが確認できるが、作成当初は現在以上に印象的であったと推測される。なお出石川は南から北へ、すなわち絵図上の右から左へと流れている。出石川にかけられた橋は、右下の里のうち一、二、三坪を使って立体的に描かれている。四坪に耕地の記載があるため橋の全体は描かれておらず、本来4本あるはずの橋脚は3本が見えるばかりで途中で断ち切られたような表現になっている。橋の構造を見ると、対となる2本の橋脚には橋桁直下に1本の横材が渡されて補強されており、上部には橋板が桁上に敷かれているだけで欄干はない。 橋の上下にはそれぞれ道が続いていることがわかる。この道は、条里線と平行し、橋と同幅で表現されている。下(西)から橋をわたり4坪ほど上(東)に進むと出石神社の入り口を示す鳥居にゆきあたる。丁寧に描写されたこの鳥居は4脚をもつ両部鳥居で、笠木、島木、額束、貫、台座がはっきりと描かれている。4脚には擬宝珠のような表現もなされている。この鳥居は貫下が非常に長く、相当程度の高さをもっていたことが窺われる。まさに但馬国一宮にふさわしい鳥居と言ってよいだろう。 田畠に関しては特別な記号・絵画表現は見あたらず、おおむね文字記載によっている。分布を見ると、河川流域に畠が集中し、それ以外の坪では田地が一般でしかも坪内全体が耕地化されている。絵図右上、条里外には「山ニソウ」(A-1)という表記があり、すぐに山地が迫っていることが明記されており、現地形とも相応している。また絵図下部の橋西側には、「ヨナマスノ屋敷」(B-12)や「兵衛三郎屋敷」(B-13)といった記載があり、この付近に集落があったと推定される。 このほか多くの坪々には、それぞれ詳細な情報が記載されており、関連文書や地名と対照することが可能である。それらを通覧すると、絵図に描かれた範囲には、出石神社の所領である「神田」・「社御供田」(A-13)・「御神宝田」(A-18)・「御油畠」といった記載が目に付くほか、国衙領を示す「郷分」もまた多数記されていて、両者が複雑に入り混じった構造であったことがわかる。さらに「公文分」(A-16)・「図師」(B-4)といった職能に応じた給分田や、「ツネミツ」・「ヨナマス」・「武則」・「トモヨリ」・「ムネサネ」・「キヨヤス」・「サタキヨ」・「タメヤス」・「ノリチカ」などの名(みょう)も多く記されており、一宮膝下所領のあり方を知る上で大変興味深い史料となっている。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_104ni_/124/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_104ni_/124/y0000001.png | A 1 山ニソウ 一反 モツタ □段 ツネミツ 2 [ ]□トコノ前 3 ]三方寺之知行 4 一反 トモヨリ 5 一町内 五段 モツタ 五段 ツネミツ 6 黒田 一□□〔町内カ〕 神[ ] 7 ミマヤノ尻 一町 神田 8 コマチ 一町内 五段 ヨナマス [ ]武則□〔内〕也 9 コハシリ 10 庭田 一町内 三反 郷分 六段 神田 11 柳田 一町 神□〔田カ〕 12 ヒロタ 一町内 二反 郷分 八段 神田 13 社御供田 一町 14 サタ 15 六段 新シユリ田 16 上大保 一町田 コレハ公文分田也 17 ハムロ 一町 □□□(百姓□カ) 18 御神宝田 一町 19 一町内 九段小 法師丸 大 神田 20 大□ ウワハ 大 ウワハ 二反 久保垣 糸井畠 二反 同 糸井畠 21 一町内 二反小 新シユリ田 四段大 糸井畠 二反 一宮御油田 一反 糸井畠 22 中大保 一町 武則[ ] 23 下大保 一町 武則之内 雑免也 24 小橋 一町内 □□□ 25 [ ] 大 武□(則カ) 大 武則 一反 武則 26 八段 一反小 三反 一反 27 椙□ [ ] 28 下椙□ 一町内 二反 トモサ□ 大 郷分 七段小 神□(田カ) 29 [ ] 一町 [ ] B 1 [ ]名内 2 一反 御油畠 一反小 武則畠 三反 武則 宗實名内 大 武則畠 大 武則畠 一反 武則畠 3 二反 御油畠 □□内 御油畠 □反 メウラクシ畠 五反 久長垣 糸井 畠 4 ミマチ 四段小 図師給 三反 郷分畠 一反小 一宮御油畠 5 一町 郷分也 6 二反 □□□ 7 三反 一宮御油畠 大 郷分畠 二反 郷分畠 一反 キヨトコロ分ニヨス 畠 大 郷分 8 大 一宮御油畠 大 郷分畠 二反小 糸井畠 9 池内 二反 郷分田 一反 郷分畠 大 サタキヨ名田也 10 □(荒もしくは忌)木 一反半 井田 一反半 イマキラ井田 一反 柳井 田 11 井尻垣 三反 御油畠<ヲウホノ/名付申> 七段 ホリノ中 御油畠 12 福井垣 七反半 御油畠 二反小 郷分畠 四反 糸井畠 四反 一宮御油 畠 13 四反 ヨナマス畠御油 二反 御油畠 大用ト 四反 御油畠 一反大 ク ルヒ□〔須カ〕 大 ヨナマスノ畠 大 ヨナマスノ屋敷<和/田> 14 二反半 兵衛三郎屋敷<御油/畠> 大 ノカセヨナマスノ分 七反半 ヨナ マスノ名田 大 ハラタ畠 大 アフラヤ畠 郷分 C 1 □町内 □反 □反 一反 御油畠 一反 又御油畠 大 郷分畠 2 アカノ 一町内 □□(毘沙カ)門堂田 3 アカノ 一町内 二反 トモヨリ 一反 次郎丸 一反 郷分 六反 神田 4 クマノ坪 一町内 □反 ワカミヤ田 □□郷分 コノホカ神田 5 一町内 一反小 トモヨリ名 二反 キヨヤス名 一反小 神田 一反 御油畠 二反大 神田 6 ノラ田 一町内 二反 ムネサネ名 二反 トモヨリ 六反 神田 7 シイノモト 一町内 三反 毘沙門堂田 七反 神田 8 ホイ爪 一町内 四段 ムネサネ 六反 神田 9 三反 安良御油畠 河頬 10 一反小 神田 大 郷分 五段 御油畠 残 11 シハ原 一町内 五反半内<二反流失 サタキヨ> 半 郷分 半 キヨトコ ロメン 小 次郎丸 小 サタキヨ名 一反小 神田 半 又神田 12 八坪 一町内 二反 郷分 八段 神田 13 六反 長野 14 畠五段 □□□(郷分也カ) 15 カイヤ垣 一町内 七反 スエフサ畠 一反大 八山畠 二反 神田 16 池野ヘ 一町内 六反 郷分 四段 神田 17 畠 一町 18 カイヤ垣 一町二反内 一町 武則分畠 二反 田所ノ畠 19 石坪 一反 一反 タメヤス 郷佃田 半 ノリチカ 郷佃 半 ヨナマス 同佃 小 トモヨリ 同佃 小 トモヨリ 同佃 | 兵庫県豊岡市(旧出石郡出石町) | 江原・出石 | - | 有 |
| ha_305 | 井上庄絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_103ha_/305/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 波-305 | 紀伊(和歌山県) | 高野山宝寿院 | 鎌倉時代 | 不明 | - | 30.8 | 54.1 | 紙本 | 墨書 | 近畿三 | 31 | 本絵図は、白描の簡略な絵図である。方位記載がないが、現地比定によって、北を天にして描かれていることがわかる。 北の山並みは、樹木のない山稜線の連なりであり、「北峯」(4)(葛城)の山地を表現している。絵図面下部(手前)には、「南峯」(10)とあるように紀ノ川南岸の山地が描かれ、松のような樹木がまばらに描かれている。この山並みを注意深く観察すると、その下に河川を表現する波線が描かれていることがわかる。当初の表現としては、「南峯」の山稜線の下には、紀ノ川が描かれていた。「北峯」と「南峯」の山並みは、共に北を天にして表現されており、南岸の高い視点から描かれているのである。 「南峯」の上方に屈曲する二本線で表現されている「大河」(7)は紀ノ川であり、それと「北峯」の間が、本絵図の主題・作成目的に関わる表現である。絵図面左(西)から見ると、まず「小竹中尾」(1)・「松尾池」(2)とあり、波の表現がある不整形な池が描かれている。そこからの溝(?)が、「松尾池」の下に横に引かれている墨線(これも溝か?)につながり、その墨線は流水表現によって描かれている「小竹河」(3)につながっている。しかし、この「小竹河」の流れは途中までしか表現されていない。 「北峯」の下に広がる段丘面にはなんの表現もないが、段丘の末端部分では、墨線が段丘面と「大河」を直線的につないでいて、そこに「上田井東境」(5)とある。 「北峯」とある山地から流下してくる河川が「深田川 新称門河是也」(11)であり、二本線ではなくて、墨で黒々と塗られていて印象的である。また90度の屈曲を2回している。その末端は2つに分かれており、一つは「大河」に合流し、今一つは「池」(15)から流下してくる川と合流しているように描かれている。 「深田川」の西岸には、大きな樹木6本ほどで描かれた森があり、「新号風社是也」(9)とある。但し、社殿は描かれない。森の下には「松井」(8)との記載があり、そこから「上田井東境」(5)の墨線までには、東西(横)に大きな二本線が引かれていて、「大路」と記されている。あるいは南海道を意味するのであろうか。 「深田川」の東岸近くには、縁付きの小型の堂が描かれ、その下に「小川寺」(12)(粉河寺)とある。その西北には段丘があり、そこには北の山地から流下してきた「小河」(13)と「門川」(14)が合流して「池」(15)に流れ込んでいる。この「池」からの流れ出た川は、段丘崖で小さな滝のようになり、さらに流下して「大河」に流れ込んでいる。 「門川」のそばにある1本の大きな木は、この2つの川の合流地点を象徴する樹木なのであろう。その東側には、小さな段丘表現があり、さらにその東側には段丘崖に沿って屈曲した線があるが、その意味するところはよく分からない。また、「小河」「門川」の西側にある段丘崖にも、同様の屈曲線が描かれているが、その意味するところは今のところ不明である。 以上のように本絵図は、西は「小竹河」(3)と「上田井東境」(5)を西境とし、「深田川」を東境としている地域つまり「井上庄」を中心に描いている。端裏書に「井上庄絵図」とあるのに対応する表現であると言えよう。荘園内部の表現としては、「新号風社是也」(9)「松井」(8)「大路」(6)しかなく、基本的には、境界線を示すために河川と崖を中心として描いているのであって、堺相論に関わる絵図である可能性が高いであろう。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_103ha_/305/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_103ha_/305/y0000001.png | (端裏書)「井上庄絵図」 1 小竹中尾 2 松尾池 3 小竹河 4 北峯 5 上田井東境 6 大路 7 大河 8 松井 9 新号風社是也 10 南峯 11 深田川 新称門河是也 12 小川寺 13 小河 14 門川 15 池 | 和歌山県紀の川市(旧那珂郡粉河町) | 粉河 | 水田義一 「紀伊国井上荘絵図の歴史地理学的考察―二枚の絵図をめぐって」 史林69-3 (1986) 水田義一 「紀州の中世庄園絵図―その地図学史的考察」 『紀州経済史文化史研究所紀要』4 (1984) 黒田日出男 「荘園絵図上を歩く」 『姿としぐさの中世史』平凡社 (1986) | 有 |
| ho_49 | 高雄山神護寺領地紀伊国〓(かせ)田庄図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/49/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-49 | 紀伊(和歌山県) | 神護寺 | 鎌倉時代 | 1905年 | - | 95.7 | 115 | 紙本 | 着色 | 近畿三 | 28 | 本絵図は、「桛田庄」(B1-2)の文字が北を上にして記されており、基本的には北を天にしていると判断できる。「北」・「南」・「西」・「東」の4方位は、文字の頭を絵図の中心に向けて記載されている。 絵画として最初に着目すべき表現は山姿であり、墨色の二本線の内部を淡い色で彩色した「紀伊川」(B2-2)(紀ノ川)と、黄土色の線で表現された「大道」(A2-3)を横軸にして、北岸の「葛木山」(A1-2)の山並みや桛田庄内部の「大豆畑中山」(A1-4)の山地と、紀ノ川南岸の「志富田庄」(A2-4)側の山並みとが、互いに向かいあうように描かれており、絵図をまとまりのある景観にしているのである。 山並みの表現であるが、北の「葛木山」の山姿は、山稜線などの線的表現だけで、樹木は一本も描かれていない。遠山の表現と見ることができよう。それに対して、「大豆畑中山」などの桛田庄内部の山姿は、山稜線などの線的表現の上に、広葉樹的な樹林の表現がなされており、南岸の「志富田庄」側の山姿においても、山稜線などの線的表現の上に、広葉樹や針葉樹の樹林の表現がなされている。 樹木の描写としては、山並み以外に、「八幡宮」(B1-3)・「堂」(B1-4)の周囲を囲んでいる樹林や、近世の萩原に相当すると思われる在家の周囲に樹木が描かれている。それ以外の樹木表現として注目されるのは、紀ノ川南岸の段丘崖に沿って描かれている樹林である。そこには、広葉樹的表現のほかに、3ヶ所に竹林も描かれているのである。この東西に伸びる樹林表現によって、河岸段丘の存在が明示されているといえよう。 次は、寺社と在家である。「八幡宮」・「堂」は、現在の宝来山神社がそれにあたると考えられるが、「堂」は縁付きであり、恐らく礎石のあるお堂にふさわしい表現となっている。鳥居が「大道」(A2-3)付近と社殿のそばにあり、「八幡宮」は、千木のついた小さな社殿が描かれている。簡略な表現なので、屋根の葺き方は不明である。それに対して、在家の方は、領主的家が2宇と普通の在家21宇が描かれている。前者は縁付きの家であり、礎石のある家と判断できるが、普通の在家の方は、その表現からすると、掘立柱の建物表現となっている。「紀伊川」北岸の在家は4つのまとまり(集落)となっており、絵図の右側(東)から、近世の中村付近と考えられる在家が5宇、絵図中央の同じく萩原村付近と推定される在家が6宇、左側(西)の山並みの麓の、同じく窪村付近と考えられる在家が5宇、そして「静川」(A1-3)に面した、同じく移村付近と考えられる在家が7宇である。 耕地の表現は、「大豆畑中山」(A1-4)という文字が山間部における焼畑の存在を示唆しているが、それ以外の耕地表現としては、墨筆の×印で井桁状に表現された田地が、「八幡宮」の前面から東側、「桛田庄」の中央部分、「静川」(A1-3)沿い、そして「紀伊川」(B2-2)南岸の嶋地域の4箇所にまとまって表現されている。 本絵図の主眼となる表現は、5ヵ所の黒丸で示された牓示である。「西」(A2-1)の「名手庄」(A2-2)との堺に打たれた牓示、西北の「静川」の屈曲地点に打たれた牓示、東北隅に打たれた牓示、「東」(B2-1)の「大道」の屈曲地点に打たれた牓示、そして紀ノ川南岸の河岸段丘崖のところに「牓示」(B2-3)と記された黒丸がそれである。 文字記載の向きも、基本的には、この「桛田庄」の境界を順に追っていけるように記載されている。例えば、「北」から文字の向きを順に示していくと、まず「静川」(B1-1)は西を上にして書かれており、次の「静川」(A1-3)・「静川庄」(A1-5)・「名手庄」(A2-2)は南を上にしている。そして、「大道」(A2-3)・「紀伊川」(B2-2)・「志富田庄」(A2-4)は、東を上にして記載されているのであり、四至牓示(境界線)に関わる文字記載の向きは、桛田庄をぐるりとまわる円環のように書かれているのである。この文字記載の向きも、5個の黒丸(牓示)と共に、本絵図の作成契機を物語ってくれているのである。 この牓示と文字記載の向きゆえに、本絵図は、従来、「立荘」に際して、ないしはそれに類する時点に作成された「立券絵図」ないし「四至牓示図」の一つと考えられてきたのだが、近年では近隣荘園との間に起こった堺相論において作られた、「四至牓示図」もどきの絵図ではないかとの仮説も提出されている。 なお、桛田荘絵図には、神護寺に所蔵されている本絵図と、桛田荘の地元にある宝来山寺に所蔵されている、前者と極めて似通った絵図がある。前者には裏書があり、「高雄山神護寺領地 紀伊国桛田庄図」と記されている。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/49/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/49/y0000001.png | A1 1 北 2 葛木山 3 静川 4 大豆畑中山 5 静川庄 A2 1 西 2 名手庄 3 大道 4 志冨田庄 5 南 B1 1 静川 2 桛田庄 3 八幡宮 4 堂 B2 1 東 2 紀伊川 3 牓示 | 和歌山県伊都郡かつらぎ町 | 粉河 | 木村茂光 「荘園四至*示図ノート(Ⅰ)―紀伊国*田荘絵図を中心に」 東京学芸大学紀要 第三部門社会科学37集 (1985) 木村茂光 「荘園の四至と*示―紀伊国*田荘絵図」 小山靖憲・佐藤和彦編『絵図に見る荘園の世界』東京大学出版会 (1987) 小山靖憲 「*田庄絵図と堺相論」 渡辺広先生退官記念会編『和歌山の歴史と教育』、小山『中世村落と荘園絵図』東京大学出版会、1987に再録 (1979) 小山靖憲 「紀伊国*田荘絵図の変遷」 葛川絵図研究会編『絵図のコスモロジー 上巻』地人書房 (1988) 鈴木茂男 「紀伊国*田庄図考」 東京大学史料編纂所報9 (1974) 大覚寺聖教文書研究会 「大覚寺聖教函伝来文書」 古文書研究41・42合併号 (1995) 服部英雄 「紀伊国*田庄絵図の受難」 国立歴史民俗博物館編『描かれた荘園の世界』新人物往来社 (1995) 水田義一 「紀州の中世庄園絵図―その地図学史的考察」 『紀州経済史文化史研究所紀要』4 (1984) 小山靖憲 「紀伊国*田荘絵図(神護寺図)・紀伊国*田荘絵図(宝来山図)」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 黒田日出男 「荘園絵図の土地意識―神護寺領紀伊国*田荘絵図の表現から―」 歴博81 (1997) 黒田日出男 「荘園絵図と*示―神護寺蔵「紀伊国*田荘絵図」の読解から」 皆川完一編『古代中世史料研究 下巻』吉川弘文館 (1998) 松井吉昭 「歴史教育における荘園絵図ノート―紀伊国*田荘絵図の研究史から―」 日本史攷究25 (1999) 前田正明 「『紀伊国*田荘絵図』に描かれた「島」の領有問題―中世から近世にかけての渋田・島地域の開発史―」 和歌山県立博物館研究紀要4 (1999) 土屋伸也 「紀伊国*田荘絵図―在地社会を描く―」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) 京都国立博物館 「紀伊国*田荘絵図」 展示図録『古地図の世界』 (1984) 飯沼賢司 「環境歴史学序説」 民衆史研究61 (2001) 海津一朗 「中世*田荘研究の現状と争点」 和歌山地方史研究33 (1997) 額田雅裕 「*田荘の立地に関する地形地理学的検討」 和歌山地方史研究33 (1997) 竹中康彦 「「*田荘絵図」の世界を歩く」 和歌山地方史研究33 (1997) | 有 |
| i_335 | 紀伊国井上本庄絵図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_101i_/335/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 以-335 | 紀伊(和歌山県) | 随心院(京都市山科区) | 南北朝時代 | 不明 | - | 65.4 | 53.3 | 紙本 | 着色 | 近畿三 | 32 | 本絵図は、絵画表現と文字の向きから、北を天にして描かれていることが明瞭である。「北」・「南」・「東」・「西」の文字は、それぞれの方位を上にして記載されている。 この絵図は小型であるが、緑青・白緑・薄茶色(茶系統の色)・朱色・青(松煙墨カ)・墨色などを用いて描かれた彩色豊かな絵図であり、荘園絵図のなかでは最も絵画的な絵図の一つである。まず、この彩色に着目すると、遠山の表現は緑青と白緑そして茶系統の色で彩色され、井上本荘内の山地表現も同様であり、「吉野河」(A2-17)の南岸の山地も、緑青と茶系統の色で彩色されている。建物の表現では、神社の社殿には朱色が、寺院の堂には茶系統の色が、そして在家にも同じく茶系統の色が塗られている。樹木は松と杉が描かれているが、樹幹は茶色、葉が緑青である。斜めの青い線を交差させて表現された水田には白緑で稲が描かれており、平地の表現としては、在家や社殿の下に白緑が横方向に塗られている。田の記号表現とともに、井上本庄内の寺社や集落の立地条件が表現されているのである。また、青い線は、南北に走る境界線にも用いられている。15も描かれている池には薄茶色が塗られ、井堰や河川も同じく薄茶色の線で表現されている。そして、井上本荘に関する記載や方位、河川名などは、ほとんど墨筆で記されており、他領に関する記載は朱筆でなされている。 本絵図は、料紙の縦横をそれぞれ4分の1ずつに等分割することによって井上本荘とその周囲が描かれており、極めてバランスの良い構図となっている。すなわち東西方向では、真中の2分の1が「井上本庄」内とされ、東の4分の1が「粉河寺領」(B1-17,B2-10)、西の4分の1が「新庄」(A1-6,A2-7)領とされているのであった。 絵図の絵画表現としては、北の奥山と「吉野河」の南岸の山地が向かい合って描かれており、絵図の南北の境界表現となっている。この向かい合った奥山と南岸の山地には樹木表現が一切見られないのに対して、「井上本庄」の北側の里山的な山並みや荘内の丘陵や迫の縁辺の山地には松や杉の樹林が表現されており、両者の違いが読み取れる。但し、奥山の一部が開発されていて、そこも「井上本庄」の所領であったらしいことは、東北端の「瀧谷池」(B1-2)の上(北)に描かれている「田」(B1-1)の表現から判断できる。そこには「田」という記載があり、斜めの青線を交差させた田の記号表現に、白緑で描いた稲が描かれている。また、西北端の「志野河」(A1-3)の上流の奥山も、山地表現に隙間(空間)があり、上流部分が想定されているのである。 それでは、荘内の表現の密度が濃いので、河川や池の表現から逐次記述していくとしよう。 絵図の左上端の奥山より流れ出る「志野河」(A1-3,7,13)は、井上本庄の中央部分を貫流し、東の粉河寺領と接する地点で名前を「深田河」(B2-6,8,16)と変えて、東南へ流下する。そして西北の「粉河寺領西堺」(B2-15)を越えると、「門河」(B2-20)と名称を変えて「吉野河」(紀ノ川)へと合流している。「志野河」によって、井上本荘の中央には「大迫」(A1-20,B1-25・27)(谷)ができており、その北側の縁は小さな山並みで表現され、「号三百余所社」(A1-16)の社殿が垣間見える。また、その北側には「大迫畠」(A1-15)が広がっている。池はほぼ円形で表現され、全ての池名が記載されている。同荘西部には、上から「西谷池」(A1-5)・「道池」(A2-1)・「蔵人池」(A2-8)・「柿谷池」(A2-12)・「小池」(A2-9)・「新池」(A2-10)・「金剛谷池」(A2-11)といった池が描かれおり、「道池」以外は、南北に伸びる小さな山並みで表現された小丘陵の両側の池であることがわかる。また東部には「瀧谷池」(B1-2)・「上池」(B1-6)・「下大池」(B1-7)・「林池」(B1-8)・「聖池」(B1-15)・「堺池」(B1-11)・「堺池」(B1-13)・「土呂々々池」(B1-18)があり、東側の粉河寺領との境界線ともされている「堺池」からは直線的な井手が伸びており、4本の「コ河井テ」(B1-16ほか)がそこから引かれている。また、絵図の下部には、薄茶色の「吉野河」(A2-17)が東から西へと流下している。 次に、建物や集落の表現である。寺院は「観音堂」(B1-9)・「アミタ堂」(B1-20)・「薬師堂」(B1-26)・「観音堂」(森前田)(A2-5)・「帝釈堂」(B2-12)が描かれている。いずれも縁付きの、藁葺屋根のお堂である。後2者は、前3者の半分の大きさの粗末な堂であるが、しかし、側らには竹林らしき樹木が描かれていることに注目しなければならない。森前田の「観音堂」(B1-9)と「帝釈堂」(B2-12)の文字記載は擦り消したような痕跡があり、「志野河」(A1-13)の北岸と南岸では、お堂の性格が異なっている可能性もあると思われる。 神社は、北側の山並みに「北山鎮守」(A1-4)と「山神」(A1-2)の社殿があり、「大迫」(B1-25)に「号三百余所社」(A1-16)の社殿がある。西の境界の定点となる「北山鎮守」の場合、その周囲には立派な松の木が描かれている。また、東側境界線の東南端には、紀ノ川を挟んで、北岸には朱色の社殿が二つ並んだ「風森」(B2-19)の神社、南岸にはこれまた朱色の社殿が2つ並んだ神社が描かれており、この2つの社殿の間が、粉河寺領と井上本庄の境界線を決定しているのである。東の境界の定点となる「風森」社の場合も、周囲は松の木に囲まれ、前面には杉の樹林が描かれており、特別な場所であることが表現されている。 在家の表現はいずれも掘立小屋であり、合計46宇あるが、領主的な家は一つも描かれていない。どの在家も集落的なまとまりをもっており、「北村在家」(A1-11,B1-21)とあるのが2カ所(8宇と7宇)、「森前田」(A2-6)(7宇)、「荒間在家」(B2-1)(6宇)、「嶋村在家」(A2-14,B2-18)とあるのが2カ所(6宇と7宇)、「古垣内」(6宇)がある。どの在家のまとまりも8〜6宇であるが、そうした在家数が実態をどの程度反映しているかの判断は、今後の研究にかかっていると言えよう。とくに注目すべきは、「古垣内」に「近末作」(B2-14)とあることであり、「粉河寺領」の在家と隣り合っている在家なのかも知れない。 耕地に関する記載としては、「観音田」(B1-10)・「宮荒間田」(A1-12,B1-5・14)・「大迫畠」(A1-14・15,B1-19)・「荒間田」(B2-4)・「森東田」(A1-19)・「森前田」(B2-6)・「フケ田」(B2-2,5,13)・「田」(B2-4,11,17)・「田畠」(A2-13)が、田の記号表現などと共に記載されており、在家との関係を考慮しつつ検討すれば、耕地の性格と広がりなどを研究することが可能になるだろう。 では、本絵図の境界表現はどうなっているのであろうか。 「井上本庄」の境界の特徴は、南北に直線的に引かれた境界線である。西側の境界線の定点となっているのは「北山鎮守」(A1-4)と「道池」(A2-1)であり、両者を結ぶ直線が南に延長された紀ノ川南岸の地点には「井上庄内」(A2-16)とあるのであるが、この西南端の境界がどこかについては何の記載もなされていない。「井上本庄」と「新庄」との境界に関する記載は、墨書された「井上本庄西堺」(A1-9,A2-2)と朱書された「新庄東堺」(A1-10,A2-3)が基本であるが、その他に「新庄」(A1-6・8・17,A2-7)という朱字が4カ所に記載されている。そのうちの1カ所は「志野河」(A1-13)と西側境界線に挟まれた部分が「新庄」に属することを明示しているものである。 東側の境界線も直線的である。それは、紀ノ川両岸に向かい合っている「風森」社(B2-19)と南岸の2つの社殿の真中を定点として、「古垣内」(B2-7)・「近末作」(B2-14)の東側を通って、「深田河」(B2-8)と薄茶色の井手本線の接点まで至り、その井手本線を遡って2つの「堺池」(B1-13)と「柳谷」(B2-3)にまで至っている。つまり、井上本荘の東西の境界線は、南北に伸びる直線として表現されているのである。この「井上本庄」と「粉河寺領」との境界に関する記載は、墨書された「井上本庄東堺」(B1-4,B2-9)と朱書された「粉河寺西堺」(B1-12)・「粉河寺領西堺」(B2-15)であるが、その他に「コ河ノ井テ」(B1-16・23・28,B2-3)という朱字が4カ所に記載されている。それだけでなく、「柳谷」(B1-3)・「堺池」(B1-11,13)・「深田河」(B2-8)・「古垣内」(B2-7)・「近末作」(B2-14)・「風森」(B2-19)といった墨書が、「井上本庄」の領地を明示している文字記載である。 全体的に見て、本絵図の境界表現は、北側の奥山についてはほとんど見られず、南側の紀ノ川南岸についても「井上庄内」(A2-16,B2-21)と2カ所にあるだけである。また、西側の井上新荘との境界も、基本的には「北山鎮守」(A1-4)と「道池」(A2-1)だけの単純なものである。それらに対して、東側の「粉河寺領」との境界表現は質量ともに違っているのであり、本絵図の作成目的についての解明も、この部分の表現と文字記載に関する十分な検討が不可欠である。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_101i_/335/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_101i_/335/y0000001.png | A1 1 北 2 山神 3 志野河 4 北山鎮守 5 西谷池 6 (朱筆)「新庄」 7 志野河 8 (朱筆)「新庄」 9 井上本庄西堺 10 (朱筆)「新庄東堺」 11 北村在家 12 □〔宮〕荒間田 13 志野河 14 大迫畠 15 大迫畠 16 号三百余所社 17 (朱筆)「新庄」 18 西 19 森東田 20 大迫 A2 1 道池 2 井上本庄西堺 3 (朱筆)「新庄東堺」 4 荒間田 5 観音堂 6 森前田 7 (朱筆)「新庄」 8 蔵人池 9 小池 10 新池 11 金剛谷池 12 柿谷池 13 田畠 14 嶋村在家 15 田畠 16 井上庄内 17 吉野河 B1 1 田 2 瀧谷池 3 柳谷 4 井上本庄東堺 5 宮荒間田 6 上池 7 下大池 8 林池 9 観音堂 10 観音田 11 堺池 12 (朱筆)「粉河寺西堺」 13 堺池 14 宮荒間田 15 聖池 16 (朱筆)「コ河井テ」 17 (朱筆)「粉河寺領」 18 土呂々々池 19 大迫畠 20 アミタ堂 21 北村在家 22 井上ノ井テ 23 (朱筆)「コ河ノ井テ」 24 井上ノ井テ 25 大迫 26 薬師堂 27 大迫 28 (朱筆)「コ河ノ井テ」 29 井上ノ井テ 30 七段田 31 東 B2 1 荒間在家 2 フケ田 3 (朱筆)「コ河ノ井テ」 4 田 5 フケ田 6 深田河 7 古垣内 8 深田河 9 井上本庄東堺 10 (朱筆)「粉河寺領」 11 田 12 帝釈堂 13 フケ田 14 近末作 15 (朱筆)「粉河寺領西堺」 16 深田河 17 田 18 嶋村在家 19 風森 20 (朱筆)「門河」 21 井上庄内 22 南 | 和歌山県紀の川市(旧那珂郡粉河町) | 粉河 | 黒田日出男 「荘園絵図上を歩く」 『姿としぐさの中世史』平凡社 (1986) 黒田日出男 「古地図の読み方―紀伊国井上本荘絵図の世界を歩く」 『週刊朝日百科 日本の歴史 四』朝日新聞社 (1987) 小山靖憲・水田義一 「井上本荘絵図現地調査報告」 高橋昌明代表『文部省科学研究費調査報告書 荘園絵図の史料学および解読に関する総合的研究』滋賀大学教育学部 (1985) 高木徳郎 「『紀伊国井上本荘絵図』と粉河寺」 民衆史研究51 (1996) 額田雅裕 「井上本荘の絵図とその地形環境」 和歌山市立博物館研究紀要9 (1994) 水田義一 「紀伊国井上本荘絵図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 藤田裕嗣 「紀伊国井上本荘絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 松井吉昭 「紀伊国井上本荘絵図について」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) 額田雅裕 「井上本荘絵図の水系と地形表現」 和歌山市立博物館 研究紀要12 (1998) 水田義一 「紀州の中世庄園絵図―その地図学史的考察」 『紀州経済史文化史研究所紀要』4 (1984) | 有 |
| ho_66 | 紀伊国神野真国御庄絵図 康治二年 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/66/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-66 | 紀伊(和歌山県) | 神護寺 | 平安時代 「康治二年五月廿五日立券」 | 1904年11月 | - | 90.2 | 100 | 紙本 | 着色 | 近畿三 | 33 | 本絵図は、代表的な四至牓示図ないし立券図である。その方位記載は「東」(A2-1)だけにあり、東を天(上)にして描かれている。絵図の構図の骨格をなしているのは河川であり、その流れが絵図の上下を決定しているのである。 「神野川」(B2-4)(現・貴志川)・「真国川」(B2-16)(現・志賀野川、上流真国川)と、合流して「佐々小河」(B2-6)となる「早飯河」(B2-1)(現・坂本川)、「牛防河」(B1-3)(現・梅本川)、「中津河」(B1-1)(現・中津川)、「西河」(B1-2)(現・西川)、「星河」(B2-7)(現・福井川)の五川、すなわち合計七川が描かれている。「神野川」と「真国川」が神野真国荘の荘内を貫流している河川であり、そのうち前者が主要河川として描かれている。「神野川」は東の「丹生社領毛无原」(A2-2)から流下してきており、そこに「真国川」が合流し、さらに下流では西南の五川が一流となって合流するのである。 周囲の山並みは、細めの墨筆で山稜線が引かれ、その山腹には側筆の荒々しいタッチで樹林が表現されており、黒々とした印象を与えている。また、山地には薄墨色系統の彩色がなされており、全体として山がちな山間の荘園であることが表現されていると言えよう。 無色の平地は、山麓線の凹凸によって表現され、山麓線の引っ込んだ部分が谷々となり、そこに掘立柱の在家の集まった小さな村(集落)などが分布しており、そこには斜線を交差させて描いた田地も描かれている。村ないし集落は、a,村名ないし村落名の記載、b,在家、c,田地の3つの表現によって示されており、「神野河」の流域では、在家3宇が描かれた「猿川村」(A2-7)、在家1宇の「猿川」(A2-5)、地名だけの「津河」(A2-13)、在家2宇の「神野」(A2-9)がある。中心となる集落は、鳥居と社殿の描かれた「十三所大明神」(A2-10)と、対岸に鳥居の描かれている「熊野新宮」(A2-11)があり、在家3宇と田地の描かれた「神野」(B2-2)である。その他に、在家3宇と田地が描かれた「粟田村」(B2-11)もある。 「真国河」(B2-16)の流域には、在家1宇の「石走」(A3-4)が2カ所、在家3宇の「石走村」(A3-5)、在家3宇に田地がある「真国村」(A3-7)、そして在家3宇に田地のある「志加野」(B3-1)がある。 四至牓示は合計7カ所に打たれている。それは墨で○(丸印・圏点)で示され、該当部分のそれぞれの裏には「御庄公文僧」・「下司僧」・「国使郡使」・「御使公文左史生」らの署判が加えられている。南の脇牓示は「寂楽寺領阿弖川庄」(A1-1)との境界に打たれた「南境牓示 阿弖川庄領黒山峯」(A1-4)である。東側には4カ所に牓示があり、東南には正牓示の「辰巳牓示 毛无原并阿弖川両庄境黒山峯」(A1-3)がある。次に東には、「丹生社領毛无原」(A2-2)などとの境界を示す脇牓示の「東境岫峯牓示」(A2-4)と「加天波横峯猿首牓示」(A2-14)があり、東北の「八幡宮寺鞆淵御薗」(A3-1)との境界には、正牓示の「艮牓示 藤多和西去拾町余、立加天波横峯此曾原」(A3-2)がある。北の「荒河御庄」(B3-6)や「貴志庄、御室御領」(B3-5)との境界をなす西北の「伯父峯」(B3-3)には、正牓示の「乾牓示 向荒河御庄牓示立之」(B3-2)があり、その地点の荒川荘側には「荒河御庄古牓示」(B3-4)がある。この2つの牓示表現を信じれば、それぞれの立荘に際して別々に牓示が打たれたのであり、両者の間には一定の空隙が存在したことになるだろう。 問題の地点は西側の境界であって、「八幡宮寺領野上御庄」(B2-15)との境界をめぐって複雑な記載がなされている。まず、神野真国荘側の主張する牓示は絵図の西端であって、「神野御庄申往古牓示所佐々小河西峯」(B2-10)とある。それに対して野上荘側の主張する牓示は、「野上御庄延久四年官符云、限東佐々小河」(B2-8)であった。 「神野川」に「真国川」が合流する地点から「佐々小河」の合流地点までの間の北岸には樹林が描かれており、そのうち一番大きく描かれた樹木には「野上御庄云神野牓示所之木、但、当時無銘」(B2-19)とあり、その木には別に「木与佐々小河流合東西間壱町余」(B2-14)との記載もある。また、5川合流地点には「五川混一流、其末云佐々小河〈源有五名、自其流合下佐々小河一名也〉」(B2-6)とあって、結局、野上荘が主張した東堺を佐々小河とする延久四年官符に従った決着を見たようである。のみならず、野上荘側の領域が「佐々小河」の東岸にまで及んだことを、円い印の「西牓示」が明示している。 なお、本絵図の画面情報は、原本によって記述している。というのは、この「紀伊国神野真国御庄絵図」については、史料編纂所本も西岡本も、あまり良質な模写図とは言い難いからである。すなわち、両本共に、真国川流域の村と田地に大きな写し間違いを犯している。史料編纂所本と西岡本のいずれを利用する場合でも、真国川流域の描写・記載を利用することが出来ないということを強調しておく。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/66/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/66/y0000001.png | A1 1 寂楽寺領阿弖川庄 2 志加良横峯 3 辰巳牓示毛无原并阿弖川両庄境黒山峯 4 南境牓示阿弖川庄境黒山峯 A2 1 東 2 丹生社領毛无原 3 岫峯 4 東境岫峯牓示 5 猿川 6 田 7 猿川村 8 尾切峯 9 神野 10 十三所大明神 11 熊野新宮 12 田 13 津河 14 加天波横峯猿首牓示 A3 1 八幡宮寺領鞆渕御薗 2 艮牓示藤多和西去拾町餘、立加天波山横峯比曽原 3 石走 4 石走 5 石走村 6 田 7 真国村 B1 1 中津河 2 西河 3 牛防河 B2 1 早飯河 2 神野村 3 田 4 神野河 5 西牓示 6 五川混一流、其末云佐佐小河〈源有五名自其/流合下佐々子河一名也〉 7 星河 8 野上御庄延久四年官符云、東限佐々小河 9 佐々小村 10 神野御庄申往古牓示所佐々小河西峯 11 粟田村 12 田 13 田 14 木与佐佐小河流合東西間壱町余 15 八幡宮寺領野上御庄 16 真国河 17 田 18 田 19 野上御庄号神野牓示所之木、但当時無銘 B3 1 志□(加)野 2 乾牓示向荒河御庄牓示立之、 3 伯父峯 4 荒河御庄古牓示 5 貴志庄御室御領 6 荒河御庄 (裏書) 「紀伊国神野真国御庄絵図<康治二年五月廿五日立券>」 「案料」 「南牓示 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 「巽牓示 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 「西 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散 位紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 「御庄公文僧僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位 紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 「乾牓示 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位紀朝臣(花押) 御使公文左牓牓牓(花押)」 「(御使公文某花押)」 「艮牓示 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 「東境猿首牓示 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 「岫峯牓示 御庄公文僧(花押) 下司僧(花押) 国使郡司散位秦宿禰(花押) 散位紀朝臣(花押) 御使公文左史生牓(花押)」 | 和歌山県海草郡紀美野町(旧美里町) | 動木・丸栖・田・龍門山 | 黒田日出男 「黒山の絵図を読む 上・下」 UP181、182、黒田『中世荘園絵図の解釈学』東京大学出版会、2000に再録 (1987) 西岡虎之助 「神護寺領荘園の成立と統制」 史学研究1-3、西岡『荘園史の研究 下巻一』岩波書店、1956に再録 (1931) 額田雅裕 「荘園絵図の世界を歩く―紀ノ川流域を中心として」 和歌山市立博物館編『荘園絵図の世界―紀ノ川流域を中心として』 (1990) 服部英雄 「未来年号の世界から―日付に矛盾のある文書よりみた荘園の様相」 史学雑誌92編8号 (1983) 松井吉昭 「紀伊国神野真国庄絵図について―絵図作成年代に関する所論をめぐって」 竹内理三先生喜寿記念論文集刊行会編『荘園制と中世社会』東京堂出版 (1984) 水田義一 「神護寺領紀伊国神野真国庄絵図について」 藤岡謙二郎先生退官記念事業会編『歴史地理研究と都市研究 上巻』大明堂 (1978) 小山靖憲 「紀伊国神野真国荘絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 吉田敏弘 「四至*示絵図考」 歴史地理学144 (1989) 西岡虎之助 「古代における寺院の荘園」 歴史と地理29-2、1932、西岡『荘園史の研究 下巻一』岩波書店、1956に収録 (1932) | 有 |
| i_328 | 揖保川筋堰図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_101i_/328/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 以-328 | 播磨(兵庫県) | 佐々木勝美 | 戦国時代 「文禄四年五月吉日」 | 1971年 | 宮本尚彦 | 168.5 | 61.3 | 紙本 | 着色 | 近畿三 | 41 | 本絵図は、「北」(A1-1)を天にして描かれており、主題は揖保川に築かれた多数の井堰とそこからの用水がどの村々に引かれているかを図示したものである。したがって、描かれているのは主として川・中州と堰堤と用水路であ。河川は太さを変えずに描かれているのに対して、「井」(用水路)は、堰堤と接合している部分が一番太く、末端にいくにしたがって細くなり、その多くが枝分かれしていく。また、堰堤は、河川の両岸を結ぶ墨点の連なりで表現されており、そして井堰から引水している集落ないし村は、例外を除き、俵形ないしそれに類する円(丸)のなかの村落名で示されている。それ以外の表現としては、まず四方を取り囲むように山並みが描かれている。山地には樹木の表現もあるが、点描などによるかすかな表現となっており、東南隅の「網干」(B4-24)と記された小山だけに、常緑樹林が表現されている。 北から南へと流れる太い川筋が「大川」(A2-9)(揖保川)であり、上から3分の1のところで「西」から合流しているのが「くろす川」(A2-2)であり、下から8分の1ほどのところで東から合流しているのが「安志川」(B3-1)である。主流である「大川」には、合計15カ所の堰堤が設けられており、絵図に描かれた範囲でのことだが、上流の「くろす川」の合流地点までは、西岸を上位にして、交互に8つの堰堤が築かれている。一番上の井堰が西岸の「新宮井」(A1-4)、次が東岸の「さゝ井」(B1-3)、その次は西岸の「こしべいの原井」(B1-1)、東岸の「さふがい井」(B1-4)、西岸の「はしざきさの井」(B1-2)と続く。「はしざきさの井」からは「北村」(A1-5)と「はしざき」(B1-5)の集落が引水している。次には東岸の「むかい宿井」(B1-7)・「しま田井」(B2-1)・「小宅井」(B2-2)が続く。「小宅井」は、「上堂本」(B3-3)・「下堂本」(B3-5)・「高だ」(B3-6)・「井上」(B3-7)の集落に伸びているだけでなく、「安志川」へと水を流し込んでおり、同川に築かれた堰堤によって、「安志川」の東岸の田地を灌漑しているのである。 「くろす川」(A2-2)では、「大川」との合流地点に2カ所の井堰がある。上の「こぜが瀬」(A2-4)は堰堤表現だけであるが、下の「半田井」(A2-5)の方は、「北だつの」(A2-8)から下流の「御城山」(A2-10)の下辺りで一時太くなり、「ひ山」(A3-3)を通って「半田村」(A3-6)に至っている。 「大川」は「くろす川」の合流地点から「安志川」の合流地点までの間では、東岸の引水する権利の方が上位にあり、東岸には「岩見井」(A2-12)と「浦上井」(A3-2)が築かれている。そして、その下流の西岸に「野田井」(A3-8)・「川内井」(A4-4)が位置する。東岸の「岩見井」は、同じく東岸の「小宅井」(B2-2)と同様に「安志川」に流れ込んでおり、そこに築かれた堰堤によって、さらに「安志川」東岸の「岩見郷」(B4-2)の諸村や、さらにその東側に位置する「福井庄」(B4-12)の諸村へも用水が供給されていた。 すなわち、「岩見井」の末端で「安志川」へと流された用水は、「安志川」に設けられた堰堤で同川の東岸へ取水されるのであるが、そのうち主要な井筋は、「岩見郷」の7つの村々や「福井庄」の6つの村々で引水されている。 それに対し、「岩見井」の分水と「浦上井」の末端からの用水の両方を受けている井筋がある。それは「片吹」(B3-8)の小山を廻って「安志川」に流れ込んでいるのであるが、その用水は、「岩見井」の末端の用水をうけている「安志川」の堰堤よりも一つ下の堰堤から取水され、同じく「岩見郷」内の4つの村々で利用されている。但し、この井筋の方は、青い色ではなく、茶系統の色が塗られており、用水が跡絶えがちであったことを示しているのであろう。 「浦上井」(A3-2)の方は、4つの村に水を分けているだけでなく、前述の「岩見井」の副次的な井筋へも若干の用水を提供していることがわかる。 また、「こんけん山」(A3-9)の西側には、「大川」からは引水していない「いな井」(A3-14)と名付けられた用水が書かれているが、この「井」は湧水によるものであろうか。その「いな井」の対岸には、「野田井」(A3-8)と「川内井」(A4-4)があり、前者は「のだ村」(A3-12)・「新在家村」(A3-13)・「正条村」(A4-1)などに用水を提供しており、後者は引水する村名が書かれていない。 次に、「安志川」の井堰を見ると、「大川」との合流点までに、合計6カ所の井堰が墨点とそこから引かれる「井」の表現があるが、いずれの「井」にも名前が書かれていないのは、何を意味するかが問題となるだろう。また、「安志川」西岸(右岸)にある堰堤は「真砂」(B4-6)を潤しており、この堰堤だけが「安志川」西岸の田地に引水されていることがわかる。 「安志川」との合流地点より下流の「大川」では、川の真中の中嶋との間に3つの堰堤が築かれており、「大川」右岸では「中嶋塩屋井」(B4-22)と「浜田井」(B4-23)が、同左岸では「網干井」(B4-21)がある。なお、この中嶋は砂地を意味するであろう墨の点々と茶色の彩色があり、「上川原」(B4-19)と「上余部」(B4-20)という2つ地名が俵形のなかに書き込まれている。 集落ないし村の記載は、「はしざきさの井」(B1-2)・「小宅井」(B2-2)・「岩見井」(A2-12)・「浦上井」(A3-2)・「半田井」(A2-5)・「野田井」(A3-8)そして無名の堰堤の合計の7つの井筋だけに書かれており、とくに「岩見井」の村々が際立って多い。この絵図が岩見井組に伝来したことと対応している記述と言うべきであろう。「岩見郷」(B4-2)と「福井庄」(B4-12)は、その領域を区別するような墨線で囲われている。この墨線が何を意味するかは今後の検討を必要とするであろう。 こうした用水関係とは別に、本絵図の記載でとくに注目すべきは、「御城山」(A2-10)とその付近であろう。北を天にして「龍野」(A3-1)と書かれており、「ひ山」(A3-3)と書かれた小山までの間に16宇ほどの藁葺屋根で表現された町が描かれている。「御城山」には、松のような常緑樹が一面に描かれており、「大川」と「半田井」(A2-5)の間にも、小山とおぼしき線描があり、そこにも松のような常緑樹が一面に描かれている。 周囲の山並みは、遠山と「大川」に近接した山の2種類が描かれており、遠山はおおむね山稜線に沿って青い色が塗られているだけであるが、若干の山では、点々で示された山林の表現が見られる。それらの遠山は、「西」・「北」・「東」に連なる山々であり、「大川」を中心とした3つの流れとその流域の平地を取り囲むように、したがってそれらの山々の向きはみな絵図の中心のほうを向いて描かれている。これらの遠山には、山名記載は3つだけあり、「北」の山に「下番山」(A1-2)、「西」の山に「八のす」(A2-6)と「大山」(A2-7)という山名が記載されている。 それに対して、「大川」に近い山としては、a,絵図中央左側の「御城山」(A2-10)と「半田井」を挟んで描かれている小山、b,「半田井」の末端にある「半田村」(A3-6)の背後の山、c,その南側の「ひへかわ村」(A3-11)、d,そしたさらに南にある「山津屋村」(A4-3)の背後の山並みであり、この4つの山々は、「北」の方を向いて描かれている。e,絵図の下4分の1の辺り、「大川」と「安志川」に挟まれたところには、「こんけん山」(A3-9)と記載された山と「片吹」(B3-8)と記載された小さな山が描かれている。f,「南」では「大川」の右岸に接して「かぢよ山」(A4-5)と記載され山が大きくかつ全体を青く塗って描かれている。また、g,絵図の東南隅には、常緑樹林が描かれた山があり、「網干」(B4-24)という文字記載がある。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_101i_/328/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_101i_/328/y0000001.png | A1 1 北 2 下番山 3 文禄四年五月吉日 4 新宮井 5 北村 A2 1 西 2 くろす川 3 佐野 4 こぜが瀬 5 半田井 6 八のす 7 大山 8 北だつの 9 大川 10 御城山 11 日飼村 12 岩見井 A3 1 龍野 2 浦上井 3 ひ山 4 小神村 5 大道村 6 半田村 7 山下村 8 野田井 9 こんけん山 10 中陣村 11 ひへがはな 12 のだ村 13 新在家村 14 いな井 A4 1 正条村 2 きびた村 3 山津屋村 4 川内井 5 かぢよ山 B1 1 こしべいの原井 2 はしざきさの井 3 さゝ井 4 さふがい井 5 はしざき 6 ぢざふが瀬 7 むかい宿井 B2 1 しま田井 2 小宅井 3 東 B3 1 安志川 2 長真 3 上堂本 4 上仲 5 下堂本 6 高だ 7 井上 8 片吹 9 常金 10 せ(をカ)原 B4 1 宮本 2 岩見郷 3 蓮常寺 4 舟代 5 福地 6 真砂 7 かまへ 8 福地波多 9 竹広 10 原井 11 高田 12 福井庄 13 吉福 14 和久波多 15 吉福出屋敷 16 坂上出屋敷 17 坂上 18 津市場 19 上川原 20 上余部 21 網干井 22 中嶋塩屋井 23 浜田井 24 網干 25 南 | 兵庫県たつの市(旧揖保郡新宮町・揖保川町・御津町、龍野市)・揖保郡太子町、姫路市 | 網干・龍野・安志 | 小林基伸 「平野部の水利と荘園―揖保川下流平野調査リポート」 国立歴史民俗博物館編『荘園絵図とその世界』 (1993) 小林基伸 「水利と荘園」 国立歴史民俗博物館編『描かれた荘園の世界』新人物往来社 (1995) 八木哲浩 「近世的村の展開とその生産環境」 『太子町史 第一巻』第5章第5節 (1996) 大阪人権博物館 「『絵図に描かれた被差別民』」 『絵図に描かれた被差別民』大阪人権博物館 (2001) 高尾一彦 (1975) 八木哲浩 (1996) | 有 |
| ni_108 | 伯耆国河村郡東郷庄之図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_104ni_/108/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 仁-108 | 伯耆(鳥取県) | 柳沢真次郎(東房経旧蔵) | 鎌倉時代 「正嘉二年十一月」 | 不明 | - | 125.6 | 105.1 | 紙本 | 着色 | 西日本一 | 1 | 本絵図は、文字記載の基本的な向きからすると、南を天にして描かれており、「南」・「北」・「東」・「西」の4方位の文字は、いずれも絵図の中心から読めるように墨書されている。 中央には、大きな池(東郷池湖)があり、北側の河川(橋津川)によって海(日本海)につながっている。その周囲には東郷庄が広がっており、4つの地域によって構成されている。同荘の中心地である第一の地域は池の南側部分であり、神社では「松尾社 西分」(C2-7)・「長智宮 西分」(C2-8)・「土海宮 西分」(C2-5)・「桂尾宮 東分」(B2-6)・「守山宮 東分」(B2-4)・「志津宮 東分」(B2-5)・「加那子 東分」(B2-7)が描かれている。また、「耳江」(C2-9)には朱色の鳥居があり、神社らしき表現も見られるので、ここにも神社があったようである。寺院では「木谷寺 西分」(C2-3)・「置福寺」(B2-1)が描かれている。在所名としては、「長和田 西方」(C2-2)・「耳江 西分」(C2-9)、「倉渕 東方」(C2-1)・「西別所 東分」(B2-2)とあり、格子状に表現された田地と礎石つきで縁のある領主の家と掘立柱の在家などが数十宇描かれている。第二の地域は、池の西側の「伯井田 東分」(C3-1)・「伯井田 西分」(C3-7)であり、格子状の田地が広がり、在家が散在する。第三の地域は、「東小垣 東分」(C3-9)・「西小垣 東分」(C3-13)であり、格子状の田地が少しある。そして第四の地域は、「馬野 東分」(B3-2)・「馬野 西分」(B4-1)であり、12頭の馬と「大湊宮 西分」(C4-2)が描かれており、礎石つき縁のある領主の家と掘立柱の在家、格子状の田地などが描かれている。 本絵図にはそれ以外に、東側中央部分に「一宮」(B3-1)が鎮座し、西側の対岸にも「一宮領長江」(D2-1)が、海岸には「一宮領宇野」(B4-3)が、東北のはずれには「一宮領那志多」(A3-3)が描かれており、本絵図には「一宮」とその領地がかなりの比重で描き込まれていることに留意しなければならない。 次に東郷荘の境界表現であるが、まず南側の堺は「三朝」(C1-2)との間にある。奥深い山地であり、深山であることを示すために、濃い緑青色の山々とその周囲に棚引く霞によって表現されている。西側の堺は「西郷」(D3-1)と「北条郷」(D3-3)と接しており、北条川(天神川)が南から北へと流下して、橋津川に合流して日本海に注いでいる。東郷荘と「西郷」は、山稜線と「広熊路」(C3-6)によって隔てられており、「北条内長瀬村」(C3-11)とは北条川(天神川)で隔てられいる。また、西北部の海岸地域では、砂丘上に立てられた朱色に塗られた杭状の牓示で「東郷内」(C3-14)と北条郷の堺が示されている。次に北側部分では、「領家分馬野」(B4-1,2)と「一宮領宇野」(B4-3)が山稜線によって隔てられている。そして東側部分では、山々(山稜線)が西を天にして描かれており、そこに記されている「笏賀」(A3-1)・「野方」(A2-1)の地が他領であることを表現している。 絵画的(ないし絵画記号的)表現として第一に注目されるのは、池面に描かれている2隻の舟であり、「長江」(D2-1)の前面に浮かぶ小舟に乗っている人物は笠を被っており、絵巻に描かれた漁民(漁師)の姿と同様である。池面の中央のもう1隻の舟には櫓櫂をあやつる2人の男が描かれており、同荘の中心地から船津へと向かっている。2人は烏帽子を被っている。それとの対比で注目すべきは、日本海を走る3隻の帆掛船であり、筵帆を張り、いずれも西へと向かっている。池・河川・海はみな薄目の紺青色である。なお、「北」(C4-3)の北側に描かれている岩は、実際のそれよりも大き目に描かれており、船津の目印として機能している岩であると考えられる。第二に、寺社や在家の表現である。寺は板葺きの屋根で、縁付きの建物である。神社は朱塗りの鳥居のあるものと、ないものとがあり、社殿は朱塗りで、基本的には千木つき檜皮葺きの屋根である。「大湊宮」(C4-2)だけが例外的にそうした表現がなされていない。それに対して領主的な家としては、池の南側の朱線を挟んで、礎石つきで縁がありものが2宇描かれている(うち1宇は板葺屋根と思われる。)。また池の西側の「一宮領 長江」(D2-1)にも1宇、池北側の「馬野」にも、馬野の中分線を挟んで2宇の領主的な家が描かれている。一般在家の方は、藁葺き屋根で掘立柱の家である。なお例外的なものとして、池南側部分の東南奥にある「西別所 東分」(B2-2)の2宇は、板葺きの掘立柱となっている。第三は、山並みの表現であり、南の深山を除いて、山並みの表現はゆるやかであり、淡い緑青や紺青に彩色されている。そして第四は、要所要所に描かれた樹木の表現である。南部の深山の樹木を別にすると、寺院・神社・道・池岸などに樹木が数本描かれる程度であり、例外は池の西南部分の「耳江」(C2-9)と「一宮領 長江」(D2-1)の間には巨大な一本杉であり、境界を明示している。 ところで、本絵図の作成目的は、下地中分(和与中分)であり、地頭(原田氏カ)と領家(松尾寺)の間で、東郷荘の下地が分割された。既述したように荘地は、池の南側、池の西側(「伯井田」)、西北の「東小垣」・「西小垣」、東北の「馬野」の4つの地域によって構成され、そのそれぞれが朱色の線によって2分割されたのである。この朱線で設定された境界線4本のそれぞれの両端には花押が捺されている。したがって、「領家方」となるのは、池南側の「長和田」(C2-2)より西側地域、「伯井田」(C3-7)と「馬野」(B4-1)の北側地域であり、「地頭方」となるのは、池南側の「倉渕」(C2-1)より東側地域、「伯井田」(C3-1)と「馬野」(B4-1)の南側地域、そして「東小垣」(C3-9)・「西小垣」(C3-13)の「地頭分」となる。 絵図の裏書きによれば、領家と地頭の和与中分は、道路のあるところは道路を堺とし、堺となるもののないところは、絵図上に朱線を引き、その現地に両方が寄り合って堀を掘り通したとある。南方の堺については、「置福寺」(B2-1)と「木谷寺」(C2-3)の中間に朱を引いてある地点までは堀を掘り通したが、その先は深山となるのでまっすぐに見通した直線を境界とするとある。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_104ni_/108/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_104ni_/108/y0000001.png | A1 A2 1 野方 A3 1 笏賀 2 東 3 一宮領那志多 A4 1 (花押影・北條長時) (花押影・北條政村) B1 B2 1 置福寺 2 西別所 東分 3 地頭分 4 守山宮 東分 5 志津宮 東方 6 桂尾宮 東分 7 加那子 東分 B3 1 一宮 2 馬野 東分 3 地頭分 4 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) 5 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) B4 1 馬野 西分 2 領家分 3 一宮領 宇野 C1 1 南 2 三朝 3 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) C2 1 倉渕 東方 2 長和田 西方 3 木谷寺 西分 4 領家分 5 土海宮 西分 6 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) 7 松尾社 西分 8 長智宮 西分 9 耳江 西分 C3 1 伯井田 東分 2 地頭分 3 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) 4 紫縄手 5 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) 6 広熊路 7 伯井田 西分 8 領家分 9 東小垣 東分 10 (花押影・北條政村) (花押影・北條長時) 11 北條内長瀬村 12 地頭分 13 西小垣 東分 14 東郷内 C4 1 地頭分 2 大湊宮 西分 3 北 D1 1 竹田 D2 1 一宮領 長江 D3 1 西郷 2 西 3 北條郷 D4 (裏書) 「伯耆国河村郡東郷庄絵図也、 領家地頭和与中分之間、自是有道路之所々者、以其路為堺、無堺之所々者、其(花押影)際目仁引朱畢、朱之跡者、両方寄合天令堀通畢、如此志天、東西両方仁中分既畢、但田畠於等分之間、伯井田者、雖為西方、以此田内天、猶所割分于東方也、是故仁馬野並橋津及伯井田等者、東西仁所相交也、至小垣者、北條河能東西共以東分也、仍此絵図仁東分西分登各所書其銘也、抑当于南方之堺天、置福寺木谷寺此両寺能中間仁引朱天、堀通畢、而件堀之末依為深山天、有峯有谷之間、不能堀通、然者、其際目能朱与利三朝郷之堺仁至万天者、只朱能通於端直仁見通天、東西能分領於可令存知之状如件、 正嘉弐年十一月 日 沙弥舜― 散位政久(花押影) 正嘉貮年ニ東西○南申分(ママ)之絵図也、正嘉弐年カラ貞和二年迄八拾八年歟、右、正嘉ノ年号ヨリ元和マテ三百六十三年歟」 | 鳥取県東伯郡湯梨浜町(旧東郷町・羽合町・泊村) | 倉吉・青谷・松崎・関金宿・三朝 | 太田順三 「伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 小川都弘・久武哲也 「中世荘園絵図の作図法―伯耆国河村郡東郷荘絵図の地図的編成法と訴訟資料としての性格」 甲南大学紀要 文学編79 (1991) 黒田日出男 「荘園絵図の世界―伯耆国河村郡東郷荘下地中分絵図」 月刊百科244、黒田『姿としぐさの中世史』平凡社、1986に再録 (1983) 黒田日出男 「荘園の境界と朱色の*示」 UP135、黒田『境界の中世 象徴の中世』東京大学出版会、1986に再録 (1984) 黒田日出男 「荘園絵図上を航行する帆掛船」 UP136、黒田『姿としぐさの中世史』平凡社、1986に再録 (1984) 谷田亀寿 「東郷荘絵図」 『羽合町史 前編』羽合町 (1967) 西岡虎之助 「絵図から観た荘園の話」 国史回顧会紀要15,荘園研究会編『荘園絵図の基礎的研究』三一書房、1973に再録 (1933) 三木靖 「伯耆国河村郡東郷荘下地中分図」 歴史と地理325 (1982) 渡辺久雄 「松尾神社領伯耆国東郷庄の一考察」 歴史地理学紀要10 集落の歴史地理 続 (1968) 松尾容孝 「伯耆国東郷荘下地中分絵図(東大 模写本)」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 錦昭江 「伯耆国東郷荘絵図―湖の荘園―」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) 水藤真 「二つの荘園絵図―播磨国鵤荘絵図の嘉暦図と至徳図の前後関係」 国立歴史民俗博物館編『描かれた荘園の世界』新人物往来社 (1995) 西岡虎之助 「絵図からみた荘園の話」 荘園研究会編『荘園絵図の基礎的研究』三一書房 (1973) | 有 |
| ho_38 | 足守庄図 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/38/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-38 | 備中(岡山県) | 神護寺 | 平安時代 「嘉応元年十二月 日」 | 1905年5月 | - | 161.7 | 88.5 | 紙本 | 着色 | 西日本一 | 6 | 本絵図は、山地や樹木・寺社・在家の表現及び「北」・「南」などの大半の文字記載の向きからすると、基本的には北を天(上)にして描かれている。しかし、「東」と「西」及び4カ所の牓示の文字記載の向きは東を天にして読まれた。前者が絵図作成に際しての向きであり、後者は牓示設定つまり立荘に際しての記載がなされた向きと思われる。 四隅に打たれた牓示は黒丸で表現され、その脇には牓示名と牓示地点の地名が記載されている。但し、それら牓示間を直線的に結ぶと境界線となるというわけではなく、絵図内に表現されている事物は、同荘内ということになろう。 この絵図の構図がいかに構想され、どのように描かれたかは極めて微妙な問題を孕むが、その手がかりは、条里線内部に描かれている「八幡山」(B1-5)、「福岡山」(B2-1)、小山、「延寿寺」(A2-1)であろう。それらをランドマ-クとして、方格線がフリ-ハンドで引かれたと思われる。一部に東の山地と条里方格線が重なっているところがあり、この条里方格線がどの程度現地地形と整合性があるかは、現地調査によって検討されるべき問題である。 山姿の表現は極めて絵画的であり、山腹には側筆でこするように表現されている。北端中央の山の場合には西に曲がっているように誇張して描かれており、そこが境界の山であることを示している。南北に伸びる山地は、山並みが積み重ねられるような独特の表現によってなされており、その間に何本かの谷の線が東西にながく引かれ、そこに寺院や在家が表現されている。 樹木表現には2種類の方法が用いられている。一つは遠景となる絵図上部(北側)の山々に描かれた常緑樹を思わせるもので、もう一つは幹と枝のみを描く広葉樹の表現である。後者は、耕地を囲む山地・丘陵部に配置されており、使い分けがなされていると思われる。 また条里耕地の中に所在する「延寿寺」(A2-1)の周囲には竹林の表現もなされている。 河川は、太い二本線で表現されている「大井川」(B1-1)のみであり、西の境界線の過半となっている。道は、河川と同じく二本線で表現され、2本が描かれている。荘外から東北の山地に入り、東側に南北に伸びる山並みの山裾を伝うように伸びて南の境に至り荘外へと続いていく道と、大井川と交差しつつ北から西南隅へと伸びている道である。その表現からすれば、道は絵画表現の最終段階に引かれたものと思われる。 池は東半分に南北に連なる山並みと八幡山の間に1カ所ある。その表現上の特色は、その周囲を何本もの水紋線で、池水の打ち寄せる様を表現している。 耕地は、条里線(方格線)が引かれているだけで、田畠がどこにどのように分布しているかを示す絵画表現も文字記載も存在しない。四至を堺し牓示を打つことに主眼がおかれたことを示唆する。 それに対して、荘園内部の表現として注意深く表現されているのは建物である。建物は、いくつかに記号化されており、大別すれば、寺院、神社、在家に分けられるだろう。それぞれの違いは、屋根の表現によって示されており、在家は草葺きの屋根であるのに対して、寺院と神社は、どのような葺き方かは判別できないにせよ、草葺き以外であることが明瞭であり、檜皮葺などの葺き方が想定しうる。屋根の構造上でも、寺院は入母屋や寄棟で表現されている。また、とくに「延寿寺」(A2-1)は9坪ほどの敷地で表現され、周囲を竹林で囲み、その内部中央には、礎石をもつ縁のついた入母屋の立派な堂1宇がある。敷地の西北隅には小さな草葺き小屋1宇が描かれて、またその周囲には3宇の在家が描かれており、この寺が足守荘の中心的な寺院であることを物語っている。それ以外の寺院で、礎石表現があるのは「王子堂」(C1-8)のみであり、寺院の共通する特徴としては、寄棟的な堂の表現プラス寺院名で表現されていることであろう。「福岡山」(B2-1)とある建物も寺院であると判断するとすれば、寺院は合計9寺である。なお、「王子堂」の東南山中にある小さな家は草葺きではない。そばに草叢が表現されているので、あるいは荒れた小堂であろうか。 神社で「延寿寺」に匹敵するのは、東脇に「半刀池」(B1-6)がある八幡山であり、山上に鳥居と社殿があり、山裾にはこれまた3宇の在家がひかえている。それ以外の神社としては、「穂本山」(C1-6)付近の1宇しかない。 それに対して在家は、合計28宇描かれている。大井川以西に11宇がまとまっているのに対し、大井川以東では、寺院や神社の近辺に在家が存在しており、在家だけで描かれているのは1カ所(2宇)しかない。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/38/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/38/y0000001.png | A1 1 阿宗郷堺大横山戌亥牓□(示) 2 田福寺 3 吉田山 4 □〔田カ〕□寺 5 西 A2 1 延寿寺 2 生石御庄堺堤田一条六丁 作人永宗坪 未申牓示 B1 1 大井川 2 北 3 吉福寺 4 八幡宮 5 八幡山 6 半刀池 B2 1 福岡山 2 南 C1 1 脇牓示 2 畏坂山 3 大井御庄堺 4 大井御庄堺藤木山 □□〔牓示カ〕 5 清水寺 6 穂本山 7 東福寺 8 王子堂 9 三井寺 10 東 C2 1 水田山 2 辰巳牓示 備前国堺石畳山 (端裏書)「足守庄絵図」 (裏書)「足守庄絵図 嘉応元年十二月 日 庄官 田所 案主散位賀陽朝□〔臣〕 下司散位藤原朝臣 国使 田所橘朝臣(花押) 案主散位弓削(花押) 官人散位藤原朝臣(花押) 御使 左弁官史生紀(花押」 | 岡山県岡山市 | 総社東部 | 青山宏夫 「足守庄絵図における二つの境界表示」 水津一朗先生退官祈念事業編『人文地理学の視圏』大明堂 (1986) 青山宏夫・山陰加春夫 「足守荘絵図現地調査報告」 高橋昌明代表『文部省科学研究費報告書 荘園絵図の史料学および解読に関する総合的研究』滋賀大学教育学部 (1985) 岡山市教育委員会 「『足守庄荘園遺構緊急調査 延寿寺跡第二次発掘調査概報』」 (1979) 草原孝典 「備中国足守庄の開発と条里遺構」 条里制研究11 (1995) 出宮徳尚 「備中国足守庄荘園遺構の発掘調査―岡山県岡山市」 斉藤忠編『中世の考古学―遺跡発掘の新資料』名著出版 (1983) 吉田敏弘 「四至*示絵図考」 歴史地理学144 (1989) 青山宏夫 「備中国足守荘絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 出宮徳尚 「足守荘荘園遺構緊急調査 延寿寺跡第2次調査概報」 岡山市教育委員会 (1979) 出宮徳尚・神谷正義 「足守庄荘園遺構緊急調査 *示比定遺構発掘調査概報」 岡山市教育委員会 (1980) 草原孝典 「足守庄(足守幼稚園)関連遺跡発掘調査報告」 岡山市教育委員会 (1994) 飯沼賢司 「環境歴史学序説」 民衆史研究61 (2001) 中野栄夫 (1988) 中山薫 (1998) 中野栄夫 (1989) | 有 |
| ho_167_1 | 長門二宮絵図1 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/167-1/r00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-167-1 | 長門(山口県) | 忌宮神社 | 鎌倉時代 | 不明 | - | 101 | 101.6 | 紙本 | 着色 | 西日本一 | 14 | 本絵図は、「北」を天にして描かれており、「北」・「南」・「西」・「東」の4方位の文字が頭を外側に向けて記されている。その表現は、神社と寺院の建物や在家、山並みと樹木、そして帆掛船などが絵画的に描かれており、海は青く(藍色カ)彩色されており、鳥居は朱色に、檜皮葺の屋根は茶色に塗られている。 石垣で囲まれた忌宮神社は、料紙の縦の中心軸よりも右(東)に寄って描かれている。また、同社の描写は、「西」を上にして見ると、同じく右(北)にずれて描かれている。このことは、同社の3つの鳥居のうち、南面した鳥居が最も重要な入り口であることを明瞭に示している。一方、東面する鳥居にも「豊浦」(D2-1)という文字記載があり、その方向には「平津乾珠」(D2-3)と書かれた嶋とその脇の「皮籠石」(D2-4)、そして東北方向に「興津嶋満珠」(D1-2)と書かれた嶋が描かれている。「平津乾珠」と「興津嶋満珠」の両嶋には忌宮神社と関連する神話的伝承が存在していると考えられるから、この「豊浦」の鳥居も南面の鳥居に次ぐ重要性を帯びていると思われる。また、「西」には山並みが描かれ、「東」には瀬戸内海が広がることから、この「西」を天にする向きも、本絵図の主要な向きの一つであったと判断できる。 忌宮神社の境内は二重構造になっていて、内側は「回廊」(B2-4,C2-5)で囲まれており、主要な社殿が描かれている。茶色に塗られた檜皮葺の屋根の本殿には「神功皇后」(C2-3)とあり、背後には「今□(宮カ)」(C1-5)とある小さな社殿と、「回廊」に囲まれた一画の石積の上に小さな建物があり、「六十六部経塚」(C1-4)と記されている。「神功皇后」の本殿の前には板葺の屋根で板敷・縁付きの「拝殿」(C2-4)があり、本殿の左側には板葺屋根の「若宮」(C2-2)がある。その「若宮」の横には「武内」(B2-3)とある小さな社が、背後には「宝蔵」(C2-1)がある。 外側には周囲を囲む石垣がめぐり、南には朱塗りの鳥居、東にはより小型の朱塗りの鳥居、北にはさらに小振りな鳥居が描かれている。石垣の内側には、幾つかの樹種の樹木が描かれると共に、「神宮寺」(C1-3)・「御供所」(B2-2)・「拝殿」(C2-6)・「浜太夫」(D2-5)・「鐘楼」(C2-7)・「大将軍」(B1-6)などの小社殿などが四方に描き込まれている。 境内の外側の入り口にあたる南の朱塗りの鳥居を出ると「鯉河橋」(C2-9)という橋がある。その橋を渡ると巨大な赤鳥居があり、「五百壇」(C3-1)と書かれている。その大鳥居を抜けて橋を渡ると、その正面に松が2本描かれた小山があり、「□□□〔仲哀天〕皇陵松」(C3-5)と書かれている。 「西」(A2-1)には、山々が描かれている。左上(北西)には「四王寺」(A1-1)と書かれた山が、その南には杉のような常緑樹が山稜線に描かれた山がある。そして西南には、葉の表現が少ない樹幹と枝が目立つ樹木が山稜線に描かれた「守護館」(A3-1)の裏山と、その中腹に描れた「守護館」(A3-1)、そして山稜線には常緑樹が描かれ、社殿の周囲に樹幹と枝の目立つ樹木が描かれている「惣社」(A3-2)がある。 北には、境界を区切るような目立った表現は見られないが、右上(東北)方向には、「守護代所」(C1-1)の縁付の建物や「厳嶋社」(D1-1)の背後に樹木がある社殿が描かれている。 「南」には、関門海峡をはさんだ対岸の「門司関」(D3-3)と「引嶋」(C3-8)を描くことが、忌宮神社絵図にとっては不可欠であったようである。「引嶋」には、5〜6宇の在家が描かれ「地頭分豊州」(B3-5)と「国衙分長州」(B3-6)という記載がある。「門司関」には、6宇ほどの在家が描かれている。その背後にはまばらに樹木が描かれた山並みが連なっているが、これは九州を表現しているのである。海峡の手前に視線を移すと、東南端には2宇の在家がある「串崎」(D3-2)、次には9宇ほどの在家が描かれている「赤間関」(C3-7)、その手前(北側)には「極楽寺」(C3-6)の堂、真中の小山には「□□□〔仲哀天〕皇陵松」(C3-5)がある。さらに西へ行くと、背後に杉林の描かれた「下山西福寺」(B3-3)、そして西南端の「惣社」(A3-2)に至る。 建物の表現を屋根についてみると、a,忌宮神社本殿などが茶色で描かれた檜皮葺、b,堂や領主的屋敷などが板葺、c,その他が在家などの葺き方不明のもの、に分類することができる。檜皮葺の建築は、「神功皇后」(C2-3)とある本殿、「惣社」(A3-2)(社殿が赤く塗られている)、「極楽寺」(C3-6)、「鯉河橋」脇の「南太夫殿」(C2-10)、「下山西福寺」(B3-3)などである。次に、板葺屋根は、忌宮神社の「若宮」(C2-2)・「拝殿」(C2-4)などの社殿や、巨大な「守護館」(A3-1)と「守護代所」(C1-1)の2宇の縁付建物などである。在家は道の方に面して描かれており、区画ごとの在家数は最多でも11宇程度である。在家数が何を意味するのかは今後の検討課題である。 忌宮神社の周囲には、薄い黄土色ないし黄色の線で囲まれた区画などが三方にあり、その黄色の線に沿って在家や樹木などが描かれている。この黄色の線は、区画を表現していると同時に、道をも表現していることになる。これらの在家には、「二宮領」・「国分寺」・「守護領」の3種類の領地名が記載されており、それらの領地の境界線として朱線が要所要所に引かれているのである。朱線の引かれているところは合計5カ所あり、次のような特徴を示している。すなわち、西北部分の朱線は、「国分寺」(A1-2)の傍らにある「二宮領」(A1-3)の三方を囲んでいる。西南部分の朱線は、「二宮領」(B3-1)の四方を囲み、その中を南北に2分割している。もう一つの朱線は「二宮領」(B2-7)とその区画の一角にある「守護領」(B2-6)の間の境界線である。南側では、「五百壇」(C3-1)鳥居西側に朱線が「二宮領」(B3-2)の南側に引かれており、同領の境界を強調している。「五百壇」鳥居東側では、二本線の朱線が鳥居脇に描かれた立石まで引かれており、「二宮領」(C3-2)と「守護領」(C3-3)の境界線を強調している。そして北側では、「守護代所」(C1-1)と「国分寺」(B1-3)の間が朱線で仕切られている。 このように見ると、この朱線の狙いは「二宮領」の領域確保にあり、そうした境界線を引くに至ったのは守護や守護代の領域侵犯の動向があったことを示しているであろう。 それぞれの領地の分布を見ると、「守護領」は「守護館」(A3-1)のある忌宮神社の西側と、「五百壇」(C3-1)大鳥居の東側の部分、そして東北部分の「守護代所」(C1-1)にあり、「国分寺」の領地は、西北部分にまとまっている。それに対して「二宮領」は、忌宮神社の北側と南側にまとまって存在することがわかる。 海には、絵画的に波が表現されており、青色で彩色されている。加えて筵帆の帆掛船なども描かれており、関門海峡の帆掛船は3隻、いずれも瀬戸内海へと向かっている。また、瀬戸内海側の帆掛船は2隻、これも畿内方向に向かっている。そして、「串崎」(D3-2)に停泊している2隻は、『一遍聖絵』にも描かれているタイプの舟である。すなわち苫(とま、菅や茅などを菰のように編み、和船の上部の覆いとした)で葺かれた家船(えぶね、船を住まいとしている水上生活者の船)ではあるまいか。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/167-1/r00000001?m=limit&f=r00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/167-1/y0000001.png | A1 1 四王寺 2 国分寺 3 二宮領 A2 1 西 A3 1 守護館 2 惣社 B1 1 国分寺 2 国分寺 3 国分寺 4 二宮領 5 守護領 6 大将軍 B2 1 守護領 2 御供所 3 武内 4 廻廊 5 守護領 6 守護領 7 二宮領 B3 1 二宮領 2 二宮領 3 下山西福寺 4 □□□〔領もしくは館〕 5 地頭分豊州 6 国衙分長州 C1 1 守護代所 2 二宮領 3 神宮寺 4 六十六部経塚 5 今□〔宮カ〕 C2 1 宝蔵 2 若宮 3 神功皇后 4 拝殿 5 廻廊 6 拝殿 7 鐘楼 8 二宮領 9 鯉河橋 10 南大夫殿 C3 1 五百壇 2 二宮領 3 守護領 4 立石 5 □□□〔仲哀天〕皇陵松 6 極楽寺 7 赤間関 8 引嶋 9 南 D1 1 厳島社 2 興津嶋満珠 D2 1 豊浦 2 東 3 平津嶋乾珠 4 皮籠石 5 浜大夫 D3 1 □河橋 2 串崎 3 豊前国門司関 | 山口県下関市 | 下関・安岡 | 山村亜希 「南北朝期長門国府の構造とその認識」 人文地理52-3 (2000) 小川信 「長門府中の空間構成と守護所および二宮忌宮社」 国史学127、1985、のち『中世都市府中の展開』思文閣出版、2001に収録 (1985) | 有 |
| ho_167_2 | 長門二宮絵図2 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/167-2/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-167-2 | 長門(山口県) | 忌宮神社 | 江戸時代初期 | 1911年10月 | - | 139.4 | 115.3 | 紙本 | 着色 | 西日本一 | 15 | 本絵図は、ほぼ北北西方向を天にして描かれており、「北」・「南」・「西」・「東」の方位記載は、中心に描かれている忌宮神社の方向に頭を向けている。 本絵図の最大の特徴は、忌宮神社が料紙の上半分中央に描かれており、しかも神社の中心軸(南北軸)が料紙の左下隅に向いていることである。そのため、「南」(A2-25)の文字は左下隅に記され、残りの「東」(B2-6)・「北」(B1-29)・「西」(A1-24)の文字は上半分に寄って記載されることになった。すなわち、「東」は絵図の右端中央なのだが、「北」は右上端近くに寄り、「西」も左上端近くの記載となっている。 絵図製作の関心は、忌宮神社とその社領を描くだけではなく、「南」では「門司関」(A2-24)・「引嶋」(A2-23)、「東」では「松崎八幡宮」(B2-5)、「北」では「宇都宮」(B1-10)・「一之鳥居跡」(B1-9)・「長浜」(B1-11)まで、「西」では「四王寺山」(A1-1)までを描き込んでいる。その結果、忌宮神社の表現は、必然的に絵図の大きさと比べると小さくなった。 忌宮神社の境内は二重構造となっている。まず内側の境内は一段高くなっており、その中心には「本社」(B1-16)があり、その前の「拝殿」(A1-15)は「幣殿」(A1-13)で繋がっている。その右(西)側には「若宮」(A1-12)があって、それも「廊」(A1-25,26)で繋がっている。境内には、樹種不明の木が9本が描かれ、「井」(A1-16)が1つ、手水鉢が境内左右に1つずつある。正面(南)には、石段の上に堂々とした「楼門」(A1-17)があり、その左右には「回廊」(A1-18,19)が存在する。それに対して東・北・西側は築地塀で囲まれており、それぞれの中程に「東門」(B1-21)・「北門」(B1-15)・「西門」(A1-14)がある。次に外側の境内地には、諸社などが立ち並んでいる。南側の正面には、石段の前に小さな円状の石のようなものがあり、石段を下りると鳥居がある。鳥居をくぐって南の道を行くと、2つの小さな〇で示された「二鳥居跡」(A2-14)がある。南の「楼門」(A1-17)下の左側には「鐘楼」(A1-21)と「祇園社」(A1-20)が、右側には「楽屋」(A1-22)がある。「東門」(B1-21)の前には急な石段があって、それを下りると鳥居がある。その鳥居の先は海となっており、「二鳥居跡」(B1-25)・「東一鳥居跡」(B1-26)がそれぞれ2つの小さな〇で表現されている。その先に描かれている2つの島には「干珠平津」(B1-27)・「満珠沖津」(B1-28)とあり、神話的な伝承を伴う島と見られる。「東門」(B1-21)の左右には、右側に「頓宮」(B1-22)と「蛭子社」(B1-23)が、左側には「稲荷」(B1-17)・「両所明神」(B1-18)・「松尾」(B1-19)と「弁財天」(B1-20)がある。「北門」(B1-15)の前には「霊社」(B1-14)が、左側には「大将軍」(A1-11)が描かれている。「西門」の前には建物はなく、森が広がっている。 忌宮神社の周囲には二本線の道で区画された町が広がっているが、町家の表現は、基本的に、道に沿って屋根だけを連ねたものとなっており、町家がどのような建物であったのかは分からない。町屋のなかには、幾つかの神社や寺院などが描かれており、忌宮神社の北側の町屋の一角に「貴船社」(A1-10)が、東北方向の町屋には「大宮司」(B1-13)の屋敷が、南側の町屋には、「宮司坊」(A2-1)・「長願寺」(A2-2)・「神宮」(A2-3)・「南太夫」(A2-5)と「池」(A2-6)や「春日社」(A2-15)・「壇具石」(A2-16)・「守宮司社」(A2-11)などが書かれている。また、忌宮神社の南北には、それぞれ河が流れており、南側に「壇具川」(A2-19)と「鯉川」(A2-4)の2本が、北には、「万年橋」(A1-9)がかかっている無名の川1本と「放生川」(B1-7)が書かれている。 社領は、北側に集中しており、水田と思われる耕地が畔道によって示され、そこに「社領」という文字が14カ所に記載されている。地積や小字などが記載されているわけではないので、そこに忌宮神社領があることの図示にとどまるであろう。 この町屋や「社領」(A1-3〜8,A1-23,B1-1〜6,B1-8)の外延部には、忌宮神社領の境界にかかわる表現と文字記載がなされている。すなわち、北側の「長浜」(B1-11)には、小さな〇が2つ記され「一之鳥居跡」(B1-9)とあり、そこに「宇都宮」(B1-10)と「厳嶋」(B1-12)の2つの社がある。ここが北の境界を示していよう。東では、「干珠平津」(B1-27)・「満珠沖津」(B1-28)が境界となっているであろう。東南では岬状につきでたところに位置する「松崎八幡宮」(B2-5)が境界に位置する神社であり、「本社」(B2-3)と「拝殿」(B2-4)が描かれている。南には「惣社宮」(A2-8)・「弁財天」(A2-7)・「豊浦池」(A2-9)があり、その先の道には小さな2つの〇印と「大鳥居跡」(A2-20)の記載と「一本松」(A2-21)の木が描かれている。さらに南端には「門司関」(A2-24)と「引嶋」(A2-23)が描かれているが、この2つの地と忌宮神社の関係については、本絵図では判断できない。 なお、本絵図の表現で極めてユニ-クなのは山の描き方である。南側手前の山々は真上から描かれており、その表現上の工夫として、山頂部分を小さな〇で示し、そこから四方に稜線を伸ばしている。そして山裾ないし山麓部分のかたちを不整形な線で囲んで、そこに山塊ないし山地があることを表現している。現実の山地にこのような山稜線が伸びているはずはなく、明らかに記号的表現となっているのである。また、海には、木綿帆と思われる帆掛船が2カ所に3隻ずつ描かれていて、瀬戸内海に面している忌宮神社の位置を表現しているのである。 長門一宮絵図 一 本絵図は、「北」を天にして描かれており、「北」「南」「西」「東」の四方位の文字が頭を中心に向けて記されている。 石垣で囲まれた忌宮神社は、料紙の縦の中心軸よりも右(東)に寄って描かれている。また、同社の描写は、「西」を上にして見ると、同じく右(北)にずれて描かれている。このことは、同社の三つの鳥居のうち、南面した鳥居が最も重要な入り口であることが明らかであるが、東面する鳥居には「豊浦」という文字記載があり、 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/167-2/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/167-2/y0000001.png | A1 1 四王寺山 2 諏訪社 3 社領 4 社領 5 社領 6 社領 7 社領 8 社領 9 万年橋 10 貴船社 11 大将軍 12 若宮 13 幣殿 14 西門 15 拝殿 16 井 17 楼門 18 廻廊 19 廻廊 20 祇園社 21 鐘楼 22 楽屋 23 社領 24 西 25 廊 26 廊 A2 1 宮司坊 2 長願寺 3 神宮 4 鯉川 5 南大夫 6 池 7 弁才天 8 惣社宮 9 豊浦池 10 町 11 守宮司社 12 町 13 町 14 二鳥居跡 15 春日社 16 壇具石 17 町 18 町 19 壇具川 20 大鳥居跡 21 一本松 22 仲哀天皇仮陵 23 引嶋 24 門司関 25 南 B1 1 社領 2 社領 3 社領 4 社領 5 社領 6 社領 7 放生川 8 社領 9 一之鳥居跡 10 宇都宮 11 長浜 12 厳島 13 大宮司 14 霊社 15 北門 16 本社 17 稲荷 18 両所明神 19 松尾 20 弁財天 21 東門 22 頓宮 23 蛭子社 24 浜大夫 25 二鳥居跡 26 東一鳥居跡 27 干珠平津 28 満珠沖津 29 北 B2 1 町 2 町 3 本社 4 拝殿 5 松崎八幡宮 6 東 | 山口県下関市 | 下関・安岡 | - | 有 |
| ho_313_1 | 薩摩国日置北郷下地中分絵図(表) | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/api/image/idata/0M0/_105ho_/313/1/00000001.tif/full/400,/0/default.jpg | 保-313-1 | 薩摩(鹿児島県) | 東京大学史料編纂所 | 鎌倉時代 (元亨四年) | 1944年 | 護城鳳山 | 126.2 | 64.1 | 紙本 | 着色 | 西日本二 | 14 | 本絵図は、東を天にして描かれている。「東」・「西」・「北」・「南」の文字は、それぞれの方位の方向を上にして記載されている。 この絵図には、上(東)の山並みと下(西)の「海」の間に広がる日置北郷の耕地(田畠・薗・野畠)や寺社・領家政所・地頭所・屋敷などが、下地中分するために描かれている。山並みは、山稜線と常緑樹的な樹林によって美しく表現されており、山腹には薄い鼠色の彩色がなされ、山裾部分には、描写にあたっての位置指定のためにつけられたと見られる小さな墨点がある(11カ所)。海のほうも、大海の波や浜に打ち寄せる波が極めて絵画的に表現され、薄い青の彩色がなされている。この絵図が絵師の手によって描かれたことを窺わせる。 但し、本絵図は、日置北郷の耕地(田畠)や屋敷などを表現してから、上(東)の山並みと、下(西)の海を描いたのではない。日置北郷の耕地(田畠)や屋敷を描くスペ-スを想定しつつ、まず上の山並みと下の海を向かい合うように描いた。そのことを示すのが、山並みと河川や耕地との間の空隙と、海と耕地の間の空隙の存在である。山並みと河川や耕地との間については、「マキノ原」(B1-8)・「吉利原」(B1-6,B1-17,B2-16)といった原の文字記載によって連続的な表現とされている。 日置北郷を表現する上での東西の軸となっているのは、上の「山里田」(A1-7)から西へ流下する川であり、「ホノミナツ 吉利田」(A2-17)のところで海に注いでおり、その川には「弥勒寺領」(A2-6)と「新御領」(A2-7)の西側を流れる川が合流している。川も海と同じ薄い青で彩色されている。 それに対して南北の軸となっているのは道であり、左(北)の「古墻名」(A2-12)の辺りから、「ハシロハシ」(A2-13)の板橋を渡って右(南)へと伸び、「吉利原」(B2-16)へと向かっている道が主要道である(a道とする)。その上(東)に「弥勒寺領」(A2-6)と「新御領」(A2-7)の東側を走る道がある(b道とする)。この道は「ニカタハシ」(A2-5)の板橋を渡り、日置北郷の中心となる丘陵へと向かい、「千手堂」(B2-2)のところで直角に曲がっている。さらに「吉利」(B1-11)・「下司薗」(B1-12)が一区画となっているところで、南北方向に走る道と合流する。この道は「若松田」(B2-13)の地点でa道から分かれて丘陵を上がり、「吉利大夫入道跡」(B1-14)の地点で北へ曲がって合流点に至る。その後、「山里田」(A1-7)へと向かっている(c道)。これ以外にも、「カリヤサキ」(A2-10)と「畠 吉利」(A2-9)の間(d道)や、丘陵部分に薗や屋敷の間に短い道が描かれている(e道)。道はいずれも黄土色に近い茶色である。 このように青い色の川と茶色の道が、日置北郷とその周囲の空間の骨格ないし座標となっているのである。 日置北郷の耕地・屋敷や地形表現としては、a,薗名や地種などを記した文字記載、b,耕地や屋敷を区画・分割する墨線、c,寺社・地頭所・領家政所などを表現する家の表現、d,丘陵縁辺の山地的絵画表現、e,田の記号表現と彩色、そして、f,要所に描かれた樹木、がある。 田地は薄墨色(灰色)に彩色され、斜めに交差させた線によって表現された井桁状の田の記号に、稲が描かれている。とくに南半分に描かれた田地(「内田」(B2-11)・「千手堂」(B2-3)・「若松田」(B2-13)・「恒吉田」(B2-14)など)はいずれも帯状に伸び、「恒吉田」の一つは「井カミノ山」(B1-15)にまで伸びている。これらは田地が谷戸田(谷田)であることを示し、この田地表現によって、地形が明瞭に描かれているのである。また、海岸などの広々とした平地ないし平野に描かれている田地記号も散在して表現されており、そうした平地が全面的に水田化されているわけではないことを窺わせる。 次に、薗や畠の表現であるが、「畠」・「薗」などの文字記載と区画線によって表現されている。日置北郷の集落は小さな山地表現で示された丘陵上にあり、b道の屈曲点である「三宮 千手堂」(B2-2)・「明性房」(B1-24)(この一画を現・吉利神社とする説あり)、ランドマ-クとして描かれた三本の樹木(この地点を現・吉利神社とする説あり)、「地頭所」(B1-20)、「領家政所」(B1-21)などを中心としている。 薗や畠は、墨線で区画され、「吉利 寺薗」(B1-25)・「吉利 公文分薗」(B1-18)・「吉利 上家分薗」(B1-19)・「吉利 上家分舟藤二薗」(B1-22)・「吉利 大夫入道跡」(B1-14)・「恒吉薗」(B1-28)・「吉富内正富薗」(A1-9)・「吉富内正富」(A1-10)などと記されている。 山地表現以外に描かれた樹木と草叢は、2カ所のみであり、1カ所は「千手堂」(B2-2)の前(西)に描かれた3本の樹木であり、今一つは西南隅に描かれた2本の松と3つの草叢である。前者は、「三宮」(B2-2)という神社が側に別に記載されているので、屈曲点でしかも崖となっている当該地点のランドマ-クであり、後者も樹木だけでなく、草叢との集合体として描かれているから、境界をなす「吉利」(B2-21)の砂丘地のランドマ-クであり、記号表現であると見るべきであろう。また、原は「マキノ原」(B1-8)・「吉利原」(B1-6,B1-17,B2-16)が日置北郷の南部に集中しており、同郷の地形条件を示している。 では、下地中分のための表現にはどのようなものがあるかと言えば、第一に朱色(丹)で引かれた中分線(朱点)がある。それは、まず「ホノミナツ 吉利」(A2-17,18)のある川口から引かれはじめ、川を遡って「ニカタノハシ」(A2-5)を右折し(南に曲がり)、bの道を行く。bの道を丘陵へと向かい、「三宮 千手堂」(B2-2)・「明性房」(B1-24)と3本の樹木のところで左折する(東に曲がる)。あとはbの道とcの道のぶつかるところまで行き、その先は「吉利 下司薗」(B1-11,12)を分割して、東の山地に向かって「吉利原」(B1-6)・「胡桃野大せタワ」(B1-5)・「吉利」(B1-4)・「ナヽマカリ」(B1-1)へと直線的に引かれている。第二に、その中分線に関する注記として、海のところに、中分線を挟んで北側に「領家方」(A2-19)、南側に「地頭方」(A2-20)という文字が向かい合って記載されており、山の東側には、同じく北側に「領家方」(B2-2)、南側に「地頭方」(B2-1)という文字が向かい合って記載されている。また、西北部分と東南部分には「朱点者、両方之堺注也、但此絵図者、堺一段也、自余両方不及委細也」(B2-7,A2-15)と同文が記載されている。なお、絵図には裏書があり、中分線の西端と東端には、雑掌と地頭代の署判が「雑掌左衛門尉憲俊(花押)」と「地頭代沙弥道慶(花押)」とあり、また中分線の屈曲点である「ニカタノハシ」(A2-5)と「千手堂」(B2-2)の屈曲部分には、雑掌の花押が据えられている。そして裏書の中央部分には、「伊作庄内日置北郷堺絵図」と書かれてある。 ところで、日置北郷がいかに中分され、どのように中分線が決定されたのかを示唆するのが、所領を構成する耕地(田畠・薗・野畠)や寺社・領家政所・地頭所・屋敷などの文字記載の向きである。それらの文字は、一方向から機械的に記載されたのではなく、方位の文字や「領家方」・「地頭方」の文字の向き以外に3つの向きで所領を構成する田畠・薗・野畠などの文字記載がなされており、それは日置北郷の下地分割になんらかの関係があると見られるのである。すなわち、第一に、東の山地を上にした文字の一群、第二に、北を上にした文字の一群、第三に西を上にした一群があり、基本的には第一と第二の文字の向きを中心として下地中分の交渉がなされたと考えられる。そして、c線の東側の4つの「吉利」(B1-9〜12)の分割については、右から二番目の「吉利」(B1-11)を「吉利」と「下司薗」の間に中分線を引くことで、下地中分作業の最終段階に至って決着したのだと見られる。 こうした文字記載の向きは、とくに「千手堂」(B2-2)などを中心とした丘陵上の地域でぶつかりあっており、下地中分はこの部分でさまざまな分割の可能性が検討されたものと思われる。 なお、山地の表現は現地の景観を的確に描写している。代表的な表現としては「胡桃野大せタワ」(B1-5)の鞍部は、現在でもこのような景観であり、また、例外的表現として、東南隅の「マキノ原」(B1-8)の山並みだけが北を天にして描かれているのだが、ここも現地で山並みを見ると、現在でも絵図と同様の山姿が確認できる。本絵図の表現全体が現地地形を極めてよく写していると言えるだろう。 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/0M0/_105ho_/313/1/00000001?m=limit&f=00000001 | https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/0M0/_105ho_/313/1/y0000001.png | A1 1 古墻 2 吉利 3 ハメヤノ 4 東 5 イワヤタ 6 山里田 7 山里名 8 吉富内正富田 9 吉富内正富薗 10 吉富内正富 11 吉富内正富 A2 1 北 2 吉富名 3 吉利田 4 吉利 上家分薗 5 ニカタノハシ 6 弥勒寺領 7 新御領 8 田 吉利 9 畠 吉利 10 カリヤサキ 11 吉利 12 古墻名 13 ハシロハシ 14 吉利田 15 朱点者、両方之堺注也、但此絵図者、堺一段也、自余両方不及委細也、 16 山田名 17 吉利名 18 ホノミナツ 19 領家方 20 地頭方 B1 1 ナナマカリ 2 領家方 3 地頭方 4 吉利 5 胡桃野大せタワ 6 吉利原 7 朱点者、両方之堺注也、但此絵図者、堺一段也、自余両方不及委細也、 8 マキノ原 9 吉利 10 吉利 11 吉利 12 下司薗 13 吉利 14 吉利 大夫入道跡 15 井カミノ山 16 田 17 吉利原 18 吉利 公文薗 19 吉利 上家分薗 20 吉利 地頭所 21 吉利 領家政所 22 吉利 上家分 舟藤二薗 23 寺薗 吉利 24 明性房 25 吉利 寺薗 26 吉利 上家分薗 27 吉利 上家分薗 28 恒吉薗 29 南 B2 1 寺薗 吉利 2 三宮 千手堂 3 千手堂田 4 カリヤサキノ畠 5 吉利 6 内面野畠 7 吉利 8 野 9 吉利 10 若松薗 11 内田 12 吉利 13 若松田 14 恒吉田 15 吉田 16 吉利原 17 若松田 18 恒吉 19 恒吉田 20 恒吉田 21 吉利 22 西海 (裏書) 1「伊作庄内日置北郷堺絵図」 2「雑掌左衛門尉憲俊(花押)」 3「地頭代沙弥道慶(花押) 雑掌左衛門尉憲俊(花押) 地頭代沙弥道慶(花押)」 | 鹿児島県日置市(旧日置郡日吉町) | 長里・伊作・春山 | 奥野中彦 「薩摩国伊作荘内日置北郷下地中分図」 荘園絵図研究会編『絵引荘園絵図』東京堂出版 (1991) 黒田日出男 「領主の争いと荘園の分割―薩摩国伊作荘日置北郷下地中分絵図」 小山靖憲・佐藤和彦編『絵図に見る荘園の世界』東京大学出版会、黒田『中世荘園絵図の解釈学』東京大学出版会、2000に再録 (1987) 高島緑雄 「辺境庄園の領主と農民―薩摩国伊作庄・日置北郷」 西垣晴次編『地方文化の日本史三 鎌倉武士団西へ』文一総合出版 (1978) 高島緑雄 「薩摩国日置北郷下地中分の研究―中分線の現地比定・西海から下司薗まで」 明治大学人文科学研究所紀要39 (1996) 高島緑雄・小国浩寿・葛生雄二 「元享四年『薩摩国日置北郷下地中分絵図』の現地調査―中分泉・地頭所・領家政所・寺薗・下司薗」 駿台史学97 (1996) 三木靖 「薩摩国伊作荘内日置北郷下地中分絵図の問題点」 鹿児島短期大学研究紀要7 (1971) 三木靖 「島津荘薩摩方伊作荘日置北郷の下司と地頭―下地中分図の位置づけについての覚え書き」 竹内理三編『荘園絵図研究』東京堂出版 (1982) 山口隼正 「薩摩国日置北郷下地中分研究の一検討」 九州史学109 (1994) 高島緑雄 「薩摩国日置北郷下地中分堺絵図」 小山靖憲・下坂守・吉田敏弘『中世荘園絵図大成 第一部』河出書房新社、1997 (1997) 堀内寛康 「薩摩国伊作荘日置北郷下地中分絵図―伊作島津氏の絵図―」 奥野中彦編『荘園絵図研究の視座』東京堂出版、2000 (2000) 西岡虎之助 「中世荘園における地頭領主化の契機としての下地中分」 『荘園史の研究 下巻二』岩波書店、1956 (1956) | 有 |