通航一覧琉球国部テキスト

重点領域研究「沖縄の歴史情報研究」

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通航一覧巻之一
 琉球国部一
   目録
 一平均始末

通航一覧巻之一
 琉球国部一
按するに、国名の字、中山世鑑に流〓と書し、隋の時羽騎尉朱寛をして、其国に至らしめ、万涛の間にをいて、地形を見るに、〓龍の水中に浮へる如きをもて、始て流〓といふと記し、隋書には流求と書す、宋書これに従ふ、「南島志に、我永万中源為朝流れに従ひて、求め得し国なれハ、流求と名付しといへるハ、附会に似たり、」新唐書には流鬼、元史にハ琉球に作る、本邦の書にハ、龍宮、留求、琉〓なとの文字も記せり、「今俗に、海中龍宮城ありといへるハ、即ち琉球なりとの説あれとも、姑くこれを舎く、」中山伝信録に、今の文字に改めしハ、明の洪武中よりの事とせり、然れとも宇治大納言か今昔物語に、仁寿三年宋の商人良暉か、琉球に漂流の事を載せて、既に琉球と記したれハ、洪武以前今の文字を用ひし事知るへし、南島志に、此国地形南北長く、東西狭くして周廻凡七十四里、「大島筆記にハ、南北四十里許、東西十里許と記し、琉球談にハ、南北六十里東西十四五里に作る、みな本邦の里数をもて算ふ、」王府ハ国の西南にありて、首里(シホリ)といふ、海港二所、東北にあるを運天といひ、西南に在るを那覇(ナハ)といふ、また間切といへるあり、「猶郡といふかことし、」其数三十六、即ち今帰仁(イマキニ)、浦添(ウラゾヘ)、大里(オホサト)等なり、此他海島三十六ありて、皆此国に属すと記せり、大島筆記に、方位は本邦薩摩の南鄙二百四十里余の海中にあり、「八丈筆記にハ、二百三十里、琉球談にハ百四十里とあり、」漢土へは、福州へ西行四百里許といふ、「本国を大琉球といひ、大島を小琉球とも称せるよしもみゆ、されとも、琉球事略、中陵漫録に、其然らさるを論せり、其実今究めかたし、大島今ハ薩摩に属すと中陵漫録に記し、枯木集には琉球領とあり、彼大島筆記ハ、宝暦十二年同島に漂着せし琉人の話を記したるものにして、島津家にて扶助ありし事も見えたれハ、薩摩領とせるを得たりとすへきか、」国統ハ、中山伝信録、琉球国志略等によるに、始祖を天孫氏といふ、相伝ふる二十五世、逆臣利勇といふもの、其君を「其名考ふる所なし、」弑して自立す、浦添按司舜天これを討せしにより、国人推て王となし天孫氏に代る、こハ日本人皇の後裔、大里按司朝公の男子なり、「保元紀事、琉球事略に、我永万中鎮西八郎為朝、琉球国に渡り、大里按司の妹に婚して舜天を産む、されとも故土を思ふ事切にして、遂に日本に帰り、嘉応二年平家の為に自殺せしと記す、琉球談に、大里按司ハ為朝の舅なり、もしくハ為朝に其官を譲りしものか、然れハ朝公ハ、即ち為朝の為を省きて称したるなるへしといへり、定西法師琉球物語にも、彼国氏神の社は、鎮西八郎為朝を崇めたり、其弓矢今に存すと見えたれハ、此説其実を得たるなるへし、」三伝して義本にいたり、また天孫氏の裔英祖に位を譲れり、英祖四代王城の時、国内乱れ、大里按司山南王と称し、今帰仁按司山北王と称し、玉城ハ惟首里等の数所を有ち、自ら中山王と称す、遂に国分れて三部となり、互に相攻伐せしか、中山王尚巴志にいたり、山南山北を并せて一に帰す、されとも猶中山の号を改めす、是より尚氏伝えて今にいたれり、「明史にハ、中山、山南、山北ともに、尚をもて姓とすといひ、琉球属和録にハ、英祖即位の時、国人殊に尊敬し、其尚ひし事をしらしめんとて、尚の字を加へ称し、終に尚をもて氏とすと記し、中山聘使略には、巴志三山を一統して、明主より尚氏を賜ふ、我応永中にあたれりとあり、使琉球録及ひ琉球国志略によるに、巴志か父思紹より、尚氏を称せしなり、」本邦に通せし事は、南島志及ひ琉球属和録に、国史を引て、推古天皇二十四年南島の掖玖(ヤク)人来朝尋て、多祢阿麻彌度惑(タネアマミトクシマ)等の人朝貢す、禄秩を賜ふ事各差ありと記し、阿麻彌ハ今の大島、度惑は徳島にて、琉球の来朝を王代よりの事とせり、其後天朝遠略を事とし給ハす、此間に琉球藩を漢土に称し、其冊封冠服を受く、時に明の洪武五年、我応安五年なり、尓来清朝にいたりて朝貢猶絶えす、「漢土朝貢の事ハ、唐国往来の条に弁す、」太田筆記に、足利将軍義量の時、応永二十二年十一月廿五日、義量より琉球王に贈りし返簡をのせて、文中進物等の事も見えたれハ、其頃また来朝せし事知られたり、室町紀略、分鶴年代記等に、永享十一年また入貢の事を記し、公私雑翰に、将軍義教よりの返簡も載す、貴久記、島津家譜に、嘉吉元年三月十二日義教嶋津陸奥守忠国に命して、大覚寺大僧正尊看を誅せしめ、「尊看ハ、義教の舎弟にして義昭と称す、」其賞として琉球国を授けし事みゆ、こハ彼国薩摩の方向たるをもて、たゝ附属せしまてにて、今のことく附庸君臣の姿にハ、あらさりし事必せり、官本当代記、慶長年録等に、先年より綾船と称して、毎歳薩摩に貢物を納ると記せしハ、此時よりの事なるへし、また室町紀略、分鶴年代記に、文安五年入貢の事見え、将軍義政家譜に、宝徳三年七月来貢す、九月其献する所の鳥目一千貫を、禁中に進らすとあり、康冨記同年八月十三日の下に、或説を引て、琉球の商船去月末摂津国兵庫に着津せしか、守護細川右京大夫勝元、早々人を遣ハし彼商物を撰ひ取りて、未た料足を渡さす、先々年々の料足等四五千貫に及へとも、返弁なく、また売物を抑留して、島人難渋たるの旨申すにより、公方より奉行三人を遣ハされて、糺明せられしかとも、抑へ取れる物、京兆より未た返し遣ハさゝるにより、奉行未た上洛せすと記し、また斎藤親基日記に、六月廿八日琉球人参洛、当御代六ケ度目なり、長史と号す、御寝殿の庭前に於て三拝、庭に席を敷とあり、「こハ、宝徳以前の事か、こゝに当御代六ケ度目といひ、康冨記に、先々年々とあるをもてしハしハ朝貢せし事、及ひ其朝見の式、ならひに兵庫にて、貿易ありし事推て知るへし、」また親基日記に、文正元年七月来貢の事見え、異国来往記に、天正十一年人貢すとあり、別本異国近年御書草案に、同十八年豊臣太閤天下統一の賀儀として来朝、書儀を捧け、太閤より贈りし返簡も見ゆ、また南島志、及ひ異国来往記に、同十九年明年太閤朝鮮を征せんとして、先書簡を琉球に贈りしに、国王尚寧大に驚き、事を明朝に告て返簡にも及ハす、是より慶長十四年まて、其来貢中絶すと記せり、「異国日記に、慶長九年九月廿七日、島津宰相入道惟新より、中山王尚寧に答ふる書を載せ、文中羽林次将忠恒知国者殆于十余年矣、自今以往書音無絶、永不爽旧約云云とありて、其歳貢を諭すかことし、また同十一年九月、其頃琉球に渡来せし明の冊封使に、惟新より贈りし書をのせ、明朝の商船薩摩に通商あらん事を、はかりし事見ゆ、さてハ薩摩にハ、猶希に書信及ひ商船等来りしか、たゝ其歳貢を絶ちしなるへし、」また大嶋筆記に、国王の母后を聞得大君(キコエオヽキミ)と称し、王后を王妃と号すと、其官制ハ、品位の正従各九等あり、王の子弟を王子(ワンス)と称し、正一品なり、領主を按司(アンズ)と称し、従一品なり、天曹司、地曹司、人曹司とて、国家の政務を司る大臣を、三司官親方(サンクスハンオヤカタ)と称す、正二品なり、夫より以下の大臣を親方と称す、従二品なり、親雲(バイキン)上と称せるものハ、武官にして三品より七品まてあり、里之子といへるハ、扈従の小童にして八品なり、筑登之と称せるハ九品なり、其冠服は、君臣ともに明朝の制にして、清朝の冊封を請るにいたりて、猶古を改めす、礼典ハ、元旦国王冠服を改て、先年徳を拝し、それより群臣の賀礼を受く、同十五日の式これに同し、冬至及ひ四時の佳節ならひに、朔望また冠服にて朝賀あり、世子の冠礼、冠ハ烏紗帽を以てし、王子按司の子ハ朝堂に冠す、昏(マヽ)礼ハ、粗本邦の俗に同し、また父母の喪に職あるものハ、給暇五十日にして復りて職に就く、然れとも慶賀宴会等には、公私ともにかハらす、三年の後すへて初に復るとそ、これ南島志、琉球談等を併せ記せる所なり、楽曲ハ、漢土の楽、及ひ其国楽もあり、漢土の楽は、唐以来日本に伝ハりしものと異にして、後世の楽と聞ゆ、其楽器ハ、笙、篳篥、笛、喇叭、大鼓なとのよし大島筆記に見ゆ、「中山伝信録に、笙ハなしと記したれとも、漂着の琉人に問ふに、ありしよし答へしと同書に記す、」刑典ハ、南島志に笞杖徒流大辟絞斬梟首等の法ありしよし記す、宮室の制、王府首里ハ平城にして山を背にす、四辺高く石垣を築きて、城門三所にあり、其宮殿ハ、唐造りにして畳を敷事日本のことし、王子、按司、親方、親雲上等の家作も、各自皆石垣を築き、樹木屏墻を廻らして、其末に湟を堀る、たゝ工商の家は櫛比せり、那覇にハ薩摩より在番の家居あり、風強き所なるをもて、家屋卑く造りて柱数最多しと、大島筆記に載せ、定西法師琉球物語、及ひ琉球属和録に、那覇には、日本町といふもありしよし見ゆ、其伎芸文学ハ、中山王察度より始る、自後王の子姪、臣下の子弟をして、遠く漢土の国学に入れ、其業を肄ハしむ、我延宝の頃、聖廟を創し、尋て学校の設あり、其いまた漢土に通せさりし前ハ、国僧多く日本に遊学し、帰りて其国の子弟に教へ、十三四歳よりして皆これに従ひ、字を習ひ書を読む、其国の文字とてハなく、舜天の時より、いろはの字母を用ひて諸事を通す、今にいたりて、書法ハ多く日本の大橋流、玉置流を学ひ、片仮名、平仮名全国の貴賤通し用ふ、薩藩往来の書式本邦に異ならす、弓矢刀鎗、また日本の製を用ふ、また和歌を詠し、茶湯囲碁なとの遊芸も、粗本邦に相似たり、三絃を歌に合せて弾く事ハ此国より始り、鼓弓といふも此国にて造り出せしよし、これ琉球国史略、南島志、大島筆記、琉球談、中村氏筆記、落穂雑談、一言集、温蔵秘策等に、散見する所なり、其人物風俗のこときハ、隋書及ひ文献通考等に、国人大要深目長鼻にして驍健なりと見ゆ、八丈筆記に、子生るれは、官人の家は、七日にして久米村の学士に名を求む、「大島筆記に、明の世福州の学士三十六人琉球に渡りて、久米村に永住すとあり、然れハ其子孫今猶文学を専らとせるによて、此事ありしなるへし、」其名日本の名乗に異なる事なし、童名を男子ハ思徳思(ヲイドコヲモ)次郎なとよひ、女子ハ松金玉鶴(マツカネタマヅル)なと呼へるよし記す、琉球談、及ひ琉球人漂流聞見図説によるに、男子元服以前ハ、髻を蛇蝮の蟠れることくにし、長簪を下より上にさかしまに挿て、其末額に至れり、成人して冠する時は、頂の髪を剃りて髻を小にし、短簪にて留置なり、明朝の時は、髪を剃る事なかりしに、清の冊封を受しより此事始れり、こハ清朝革命の時、鼠弁の俗に改むへしと厳令あるにより、止事を得す僅に中剃せしよし、かつ男歳二十五以上は髭を置、二十五以下は髭を剃る事なり、また大家の女子ハ、金銀の簪を用ひ、農商の婦女ハ玳瑁にて作りたるを挿せるのみにて、他の首飾なく、脂彩をも施さゝりしとそ、「大島筆記にいふ此国の婦女、歯を染る事なし、諸島の婦女ハ、手甲に黥するときゝしか、文献通考なとに文身の事を記せり、中山にても此事ありやと漂流の琉人に尋ねしに、さる事なしと答へしよし見ゆ、されとも女子の手に彩を入るゝ事ハ、中山伝信録にも記したれハ、こハ古代の事にして、今ハ諸島にのみ其遺風存せるにや、」また琉球談、大島筆記等に、国人最神を敬す、其神に海神あり、天神あり、天妃あり、巫女数十人これに仕ふ、其他伊勢、熊野、八幡、天満宮等本邦の神社もありしといふ、宗派ハ中山伝信録に、臨済宗と真言宗のみとあり、此国気候暖和にして、中山伝信録、琉球国志略に、北極地を出る事二十六度二分三釐とあり、大島筆記に、隆冬雪氷なく、十月より三月まて冬衣、四月より九月まて夏衣を用ふと、琉球談に、耕作ハ九月十月の間に稲種を下し、十月十一月の頃、本田に移し植へ、明年五月穫り収むるよし見ゆ、夏山雑談、有斐斉箚記にハ、一歳中五穀再熟すといへり、産物ハ清一統志、中山伝信録、南島志等に詳なり、就中綿、苧、芭蕉を第一とし、其他酒、黒砂糖、蕃薯、蘇鉄、畳、薬種、青貝細工、朱塗細工等なるよし、華夷通商考、万国夢物語、大島筆記、官本要録等に見えたり、
 ○平均始末
「按するに、隋書に煬帝大業六年、武貫郎将陳稜をして兵を率ゐて渡海せしめ、男女千人を擒にして帰る、猶朝せすとあり、これを琉球を征するのはしめとす、元の至元中、及ひ成宗元貞の初、また使を遣ハし招諭ありしに、従ハさりしかハ、兵をもてこれを征せしかとも、功なくして帰り、終に通せさりしよし、清一統志、琉球国志略等に見ゆ、本邦にてハ、文亀永正の頃にや、備中国連島の住人三宅和泉守某、此国を取らんとして、兵船十四艘を艤し、薩摩国坊津まて来りしを、島津陸奥守忠隆遮りてこれを却くと、島津家譜に記し、また天正十年豊臣太閤備中国高松より、播磨国姫路に帰城し、将士の戦功を論して、亀井武蔵守茲矩に、因幡半国を与へんとありしに、茲矩いふ我日本の内にて望所なし、琉球を賜ハらハ、渡海して伐取らんと、太閤これを壮んなりとし、腰の団扇を把て、表に亀井琉球守殿、裏に秀吉と書て判形を加へこれを与ふ、文禄元年朝鮮征伐の時、茲矩ハ琉球を征せんと望み、艨艟五艘士卒三千五百を率ゐ、肥前国名護屋に着して太閤に謁す、こゝにおいて太閤のいふ、朝鮮と琉球と兵を分て征伐せハ、兵もまた足るへからす、かつ朝鮮を征する妨とならん、先朝鮮に赴くへしと命す、茲矩止事を得す、朝鮮に渡海せしよし、寛永亀井茲矩譜、参考諸家伝等に載せたり、然るに島津家久僅三千の兵を遣し、不日にして闔国平均に属し、永く其附庸たりし事、此条に挙るかことし、これ島津氏の武功大なりといへとも、其実は、東照宮神威の遠く及はせ給ふ所なるへし、」
●慶長十一丙午年六月十七日、嶋津少将忠恒山城国伏見城にて、東照宮に拝謁し、御諱の字を下され家久と改め、また腋刀を賜はる、時に琉球国は祖先以来毎歳来貢せしに、近年其事なし、しハしハ諭すといへとも肯ハさるにより、征伐すへき旨を請ひ奉る、よてこれを許し給ふ、「此事、寛永島津家久譜にハ、九月朔日とし、同日御称号も賜ハりしとあれとも、貞享松平大隅守書上、島津家譜ともに、六月十七日とし、御称号は元和三年九月朔日賜ハると記す、此後家久に賜ハりし御書、及ひ執政等の奉書にも、猶羽柴或ハ島津と記されたれハ、寛永譜載る所うけかたし、よて貞享書上、島津家譜に従ふ、」
▲慶長十一丙午年六月十七日、島津少将忠恒、於伏見御城御諱之字を被下、家久と改、太秦長光之御腰物頂戴仕候、琉球国は家久十代之祖陸奥守忠国代に、普広院殿より、「按するに、京都将軍義教の謚号なり、」致拝領、永享年中より薩摩に相従候処、「按するに、此書前文十代陸奥守忠国伝に、忠国事ハ義教将軍の貴命に応し、其御舎弟大覚寺門跡義照大僧正尊看を討申候様子は、尊看事義教卿に対し、逆意有之段露顕いたし、日向国福島に落下り、野辺氏を頼み隠れ居られ候を、将軍家に聞え候て、忠国に早速誅伐いたすへきよし御内書到来仕候に付、一族新納近江守、樺山美濃守、北条讃岐守、家老本田信濃守、肝付三郎と相議し、此等に人数を与へ、福島に差遣し僧正を福島永徳寺へ招寄切腹いたさせ、一族山田式部少輔斬首仕候、即ち其首を将軍家に献上候処、義教卿御自筆の御感状、名物之御太刀、御腹巻、御馬、かつ琉球国、忠賞として拝領いたし候、是より琉球国は当分船を以年貢仕候、其以後福島に於て、僧正之社を建立いたし、福島大明神と号し、将又菩提所として、鹿児島城下へ大興寺といふ寺を建立いたし、僧正之位牌を置、琉球島毎年之貢物、先此寺へ遣し申儀に候と記して、義教より授けし感状二通を載す、一通ハ嘉吉元年四月十三日、一通ハ同年六月十七日なり、貴久記にも、嘉吉年中より琉球国島津に属せしよし載せたれハ、永享年中よりとあるハ誤りなるへし、」近年致懈怠候、殊更権現様に御礼可申上之旨、使札を以申付候得共、不致領掌候間、人衆を差越可致退治之旨、山口駿河守直友を以致言上候処蒙御免候、
▼貞享松平大隅守書上、
▲夫琉球国者、自往古嘉吉年中属我国矣、雖然背旧規不進貢、自薩摩再三遣使、以誘之不肯聴、故相国家康公請伐之、家康公許之、
▼貴久記、
▲慶長十一年九月一日、島津忠恒伏見にありて、大権現台徳院殿に拝謁す、「按するに、ことし台徳院殿ハ、江戸に御座なれハ、台徳院殿に拝謁とあるは誤りなり、下これに同し、」時に松平氏になされ、御諱の家の字を賜り家久と号す、まことに家の名誉といふへし、琉球国むかしより島津に属する事ひさし、然るに近年来貢せす、家久再三人を遣して、此事をはたるといへとも、敢て承引せす、すなハち此旨を大権現へ言上して、これを討ん事をこひけれは、則ちゆるし給ふ、
▼寛永島津家久譜、
▲琉球国之儀、五常之道ハそなはりたる国にて候得とも、往古は唐にも、日本にも隨はす、一国限に暮来候処、千百年以後、隋の煬帝の時、大唐に隨ひ初候よし、何の頃よりか、あや船と申候て絹巻物なと積載たる船、琉球より薩摩へ毎年参り、時之太守へ御礼申たる由候処、吉貴様より十二代の御先祖、陸奥守忠国様へ、永享年中に、普広院義教公より琉球国を御拝領、其以来御家に吃と相随ひ候、永享年間より正徳四午年頃迄は、弐百七十年の御領国にて御座候、琉球の王号を中山王と申候、右之通候処に、東照宮御代始に、中山王東照宮へ御礼可申上旨、吉貴様より三代之御先祖中納言家久公より被仰付候処、領掌不仕候に付、慶長十四年三月琉球へ軍兵を御渡被成候、
▼薩州旧伝記、
▲琉球国ハ、忠国公御代大学寺殿を「按するに、大学寺ハ大覚寺と書するを是なりとす、」御討被成候忠賞として、将軍家より御拝領有之、年々進貢怠りなかりし処に、貴久公の御代に至り、「按するに、貴久ハ家久か曽祖父にして陸奥守と称す、」諸国大乱に及ひけるより、進貢断絶しける、夫より西国太平に成て、将軍家に御披露被成、家康公之命を得給ひ、琉球国へ古の如く来貢すへきよし、使として龍雲和尚を被遣けれとも、不従によつて龍雲彼国の図を察し、其上彼国王の信せられける浪の上の弁才天は、隅州国分の日秀上人の作なりけるを奪取、簀板を以棚として其上に安置し帰帆致し、太守公へ其段被申上ける、琉球王ハ忠国公御時より、御当家にかなひ「按するに、かなひとハ納貢のことにや、」致来り候処、誰那(ジヤナ)といふもの、「按するに、定西法師琉球物語には誰那を若那に作り、琉球談等にハ、多く邪那とあり、大島筆記によるに、こハ宜野湾(キヤワン)間切に属せし村名にして、謝名に作るを是とす、彼か官職は按司親方なとにて、謝名は即其采地なるへし、」鹿児島へ来り様体を窺ひ、ひそかに唯壱人小舟に乗り帰帆いたし、かなひをやめ、那覇の湊に城をかまへ、湊口に忍かねのくさりをはり、是に舟のかゝりたる時、上より目の下に見おろし射るへき手たてを拵へ、島々にも其用意して待かくるよし聞へけれは、家久公征伐御願あり、家康公の御ゆるしあり、
▼薩州旧伝記、
▲惣別琉球より、島津方へ毎年綾船と名付進物有しを、近年唐へ相談、日本へ之音問不入事之由を、琉球之ジヤナ達て申、島津へ令無音、依之島津琉球へ働く、
▼官本当代記、▼慶長年録、
▼琉球事略、
▲初中山与薩摩州世有隣好、天正十九年以来二国交悪、使命遂絶、州守源朝臣家久、以告我神祖乃発兵撃之、
▼南島志、
▲琉球国ハ、薩摩国と隣国たれは、深く好を通し綾船と名付て、年毎に音物を贈りしか、慶長年中彼国の三司官邪那といふもの、大明と議りて国王をすゝめ、日本への往来をとゝめけるゆへ、薩州の大守島津陸奥守家久使を遣ハして、故を糺すに、邪那使に対して、種々の無礼を振廻けれは、家久大に憤り、同十三年駿府に赴き、神君に見え奉り、兵を遣して誅伐すへき旨を請ふ、神君家久か所存にまかすへきよし鈞命あり、
「▼琉球談、 按するに、此書慶長十三年とし、かつ駿府にての事とせしハ、ともに誤りなり、」
▲慶長十四年二月廿一日、それ琉球国ハ、室町将軍義教の時、家久十代の祖島津薩摩守忠国へ与へ領せしめ、永享年中より進貢す、豊臣大閤の時に及んて、琉球よりの交易の為め、薩州へ渡海して朝貢す、大明帝是を聞き、琉球を責め我邦へ通貢するを絶しむ、夫より十余年薩摩へ貢を納れす、家久神祖の威徳広大にして海内昇平す、神祖へ奉賀を述へしと、家久より命するに従ハす、然らハ兵を出し是を討んと欲す、因て島津惟新及ひ家久、山口駿河守直友を以て是を告く、是日両公より惟新、家久へ、琉球を討つ事其意に任すへしと命せらる
▼大三川志、 「按するに、惟新にも此命ありし事他に所見なし、」
●慶長十三戊申年八月十九日、及ひ九月五日、両度に山口駿河守より、島津少将家久の許に書牘を贈り、琉球国の事、ならひに唐船着岸の事によりて達する旨あり、
▲慶長十三戊申年九月、尚々御人数を被催、先御使者を御渡被成、渡海仕候様可被仰遣事専一存候、其上ニ而相済不申候ハヽ、被得御諚御人数計御渡被成尤存候、不及申候得共、御人数も不及御渡、渡海仕候様御才覚専一存候、尚追而可得貴意候、以上、
好便之条令啓上候、仍爰許相替儀無御座候、然者当城御番衆関東より被罷上候、就は此中在番之衆、銘々駿府へ被罷下候、拙子も来月は当地罷立駿府江被下候、猶追而可得御意候、将又琉球之儀、去六月之時分御礼可申上候様ニ、和久甚兵衛罷上候へき、如何御座候哉、今度本上州より「按するに、本多上野介の略文なり、下再ひ注せす、」令申上せ候琉球人、上様江御礼申上候様ニ御才覚可然由、自拙者可申入通被申越候、若于今渡海不仕候は、御使琉球江被遣、被成御究可然存候、兎角琉球人渡海不仕候は、御人数計可被渡様被仰遣可然候哉、何様彼方より之返事之様子、被成御注進被得御意尤存候、猶惟新様江迄申入候、恐惶謹言、
  慶長十三年
             山 駿河守
    八月十九日
                直友判
   薩摩
    少将様
      参人々御中
 以上
急度令啓上候、仍而硫砿蘭被成御進上候、本上州披露被申、則御黒印弐通持せ還上申候、「按するに、此御印書壱通ハ、此年七月廿一日に出され、壱通は八月十日に出されしなり、」然は先度御国元江唐船着岸之由、御注進之通、是又本上州披露被申候処、一段之御機嫌之由被申越候、然は御用之御薬種々書立進上申候、御取被成早々御上御尤存候、御油断被成間敷候、就中先度惟新より為御使、本田助丞方被罷上候砌、琉球之儀申入候、到唯今琉球より無音之仕合ニ候哉承度存候、于今難渋申候は、御人数を可被渡旨、再三彼方江も被仰遣、其上難渋申候は、様子可被仰越候、披露可申候、先御人数を被催可被相渡御用意御尤存候、上様御礼申上候様ニ御才覚専一存候、何も追而可得御意候、将又我等事、明日六日ニ駿府江罷下候、先度より以後着岸之唐船ニ御注進、幸拙者罷下候間、御念之御入被成候段、具可申上候、御心安可被思召候、尚重而可得貴意候、恐惶謹言、
  慶長十三年
             山 駿河守
    九月五日
                直友在判
   薩州
    少将様
      参人々御中
▼貞享松平大隅守書上、
●慶長十四年己酉二月廿一日、少将家久、老臣樺山権左衛門、平田太郎左衛門を将として、軍卒三千、兵船百余艘を琉球国に発向せしむ、頓て先大島を攻取、徳島を抜、また永良部与論(エラフヨロン)等の諸島を平らく、よて此よし家久より本多上野介正純の許に告く、「これらの事、月日詳ならす、同年六月廿六日正純より返簡を贈れり、」
▲慶長十四年己酉の春、樺山美濃守「按するに、権左衛門か後称なり、」久高を大将とし、平田太郎左衛門尉を副将として、三千人の軍卒を引ゐて、兵船一百余艘二月十一日に、「按するに、廿一日の誤なるへし、」ともつなをとひて琉球に発向し大島に着、それより徳島に「按するに、琉球国全図に渡姑島とあり、薩州旧伝記には、湛之島と記す、大島と永良部島との間にあり、」赴く、島人これをふせくもの一千人はかり、これと戦て三百余の首を得たり、其余党皆降人となる、
▼寛永島津家久譜、
▲慶長十四年春、以椛山権左衛門尉久高為大将、平田太郎左衛門尉増宗為副将、専兵器者平田民部左衛門尉、長谷場十郎兵衛尉、児玉四郎兵衛尉、或山鹿越右衛門尉為船大将、其外佐多越後守、川上掃部助、本田弥六、市来八左衛門尉、本田伊賀守、頴娃主水助、匂坂式部少輔、伊集院伴右衛門尉、有馬次右衛門尉、毛利内膳正、栢原周防守、村尾源左衛門入道笑栖、市来備後守、東郷阿波入道休半、伊地知四郎兵衛尉等為卒将、都合其勢三千余人、整兵船一百余艘、「按するに、慶長日記にハ、椛山権左衛門久高、平田太郎左衛門、新納刑部、松浦筑前、鎌田出雲、木入摂津、田村大和、加沼弾正、野村監物、本郷、蔵指、菱刈、肝属、梅北、冨永、兵士三千余騎、雑兵八千余人、兵船百余艘と記す、」而二月廿一日発舟、已著大島、振威赴徳嶋、島郎出応而防戦者、殆千有余人、其中斬首三百余人也、故残党不日属于旗下、而悉定焉
▼貴久記、
▲慶長十四年兵船数艘を催し、大将椛山権左衛門殿、副将平田太郎左衛門殿にて、諸軍勢乗船之時、新納拙斎老樽肴を持せられ、祇園之渕まで見送にて候、其外にも送酒いたされ候衆多かりける、諸軍勢並居ける時、権左衛門殿座敷の辞宜いたされ候ニ付、拙斎老被申候は、此節琉球征伐の大将被仰付、渡海被致候ハ、家久公之御名代なり、早々大将の座に直り被成候へと有之候得は、無異儀上座被致候よし、権左衛門殿大将分を諸軍勢不足に存、なにとか底意有之候処に、拙斎老の言葉を聞、致納得けるとなり、夫より乗船にて、山川の湊より順風に帆を揚け、大島に着船、彼島広しといへとも無異儀責取、鬼界ケ島も手に附け、湛之島へ着船、此島の者とも防戦候ニ付、鉄炮をうち懸候得は、棒の先より火を出し人を殺すとて逃けるとなり、「按するに、此頃島人松火砲をしらさりしことと記せしハ不審なり、」手向ひいたす者を討取、かまへたる所を蹈つふし、沖の永良部と与論嶋をも責取ける、
▼薩州旧伝記、
▲慶長十四年、島津琉球へ百余艘を以相働也、琉球へ着岸の時、ジヤナ帥人数於七島防戦す、「按するに、七島ハ大島の誤写なるにや、下同し、」于時野郎「自注野郎とハ、無足にて島津被官なり、」後へ廻り責の間、ジヤナ敗北、琉球人或ハ討死、或は被疵、則七島毒島へ「按するに、毒ハ徳の仮字なるへし、」打入、ジヤナと云ハ、琉球にて武者大将なり、彼ジヤナ日本を嫌て、唐へ可属との企なりしか、果して如斯、
▼官本当代記、▼慶長年録
▼琉球事略、
▲慶長十四年三月上旬、「按するに、諸記二月廿一日とあれハ、こハ誤りなるへし、」家久家老椛山権左衛門久高、平田太郎左衛門増宗に申付、人衆三千、兵船百余艘差渡、家久も山川と申湊迄、致出馬下知仕候、権左衛門太郎左衛門、先大島と申島に致着船、大島を手に付候て、徳の島に参候へハ、島の者とも防申候故、数百人討取申候によりて、永良部島無異儀相従申候、夫より琉球の地に押懸申候、
▲貴札致拝見候、仍去頃琉球江為御手遣御人数被指渡候処ニ、無相違大島と申島へ御着船候而、彼島之儀思召儘ニ被仰付、其より琉球国主被居候処江御人数赴被申、琉球之儀も漸相済可申之由、御紙面之趣存其旨候、則右之趣達上聞候処、一段御機嫌共御座候間、御心易可被思食候、追々彼地之様子可被仰上之由御尤存候、然は駿府御移徒為御祝儀、此地御上被成儀、琉球相済候而より御上可被成之由、令得其意候、先書にも如申入候、弥琉球之儀相済候而、其上被成御上御尤存候、将又爰元相替儀無御座候、猶此表相応之御用等御座候ハヽ、不被御心置可蒙仰候、不可存疎意候、何も期来音之時候、委細は御使者可被申上候、恐惶謹言、
  慶長十四年
             本多上野介
    六月廿六日
                正純判
   羽柴陸奥守様、
        貴報、
▼貞享松平大隅守書上、

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