(1)佐竹本といわれる唯一の伝本が千秋文庫に、同本の影写本が東京
大学史料編纂所に架蔵されている。
(2)増田欣氏「太平記巻三十二と源威集」(『国文学孜』二〇号、一九
五八年)、「源威集の成立について」(『中世文芸』一五号、一九五八年)。
(3)加地宏江氏「源威集の作者について」(『高野山大学論叢』二一巻、
一九七七年)、「源威集の構成をめぐって」(『関西学院大学創立百周年
記念論文集』、一九八九年)、「源蔵集における説話」(『関西学院大学
文学部六十周年記念論文集』、一九九四年)。
(4)東洋文庫六〇七『源蔵集』、一九九六年。以下、東洋文庫本という。
(5)東洋文庫本一一五頁。
(6)東洋文庫本 解説。一六頁。
(7)東洋文庫本解説。一一頁。
(8)東洋文庫本解説。二一頁。
(9)吉川弘文館『国史大辞典』第一一巻(一九九〇年)
「鳩の杖」の項。杉本一樹氏執筆。
(10)東洋文庫本二一九頁。
(11)東京大学史料編纂所架蔵。二〇七五-一七二。
(12)東洋文庫本解説。一〇頁。
(13)以下の小山義政の乱については、『小山市史通史編一』(一九八二年)に
詳述されている。
(14)至徳四年(H嘉慶元年)八月五日、結城基光軍勢催促状、下野島津文書。
(15)前注に同じ。
(16)『結城系図』、『結城家譜』(ともに『続群書類従』所収)。
(17)前注に同じ。
(18)基光在職の明証は応永六年八月五日、管領上杉朝宗施行状案(皆川文書)が
もっとも早いが、前任者上杉憲方の明証も至徳」一一年(『頼印大僧正行
状絵詞』)で終わる。
(19)前注に見る史料の在り方から、『小山市史通史編1』は基光の守護就任を
嘉慶年間ごろに求めている。
(20)『空華日用工夫略集』永徳二年一〇月一一日、同月二九日。
(21)結城宗広および宇都宮公綱が、南朝方に終始したことは有名である。
(22)小山氏は義政が乱を起こし、宇都宮氏綱も足利基氏、氏満と戦っている。
(23)上杉氏は憲顕が足利尊氏と戦い、雌伏一〇年の後に許された。畠山国清
は伊豆に立て籠もって基氏の軍と戦うも敗れ、南朝に降る途中で窮死を遂げる。
(24)前注の上杉憲顕は一〇年を戦い抜いて関東管領職と越後、上野守護職を回復
した。中国地方の雄、山名氏、大内氏は幕府に帰順したものの・勢力圏の守
護職はすべて安堵条れた。組川頼之なども原暦の政変で下野すると早速伊予
の河野氏を討ち、河野氏くの伊予守護幟の逃還を条件に、自身の赦免を獲得
している。
(25)『吾妻鏡』宝治二年閨二一月二八日条。
(26)北条氏は源氏を擁護する立場になかったから、源氏一門がその血統を以て他氏
より重んじられることはなかったと思われる。
(27)『建内記』正長元年五月一四日条。
(28)耳慣れない言葉なので加地氏は「首領」か、と注を付されている。しかし原本の
字は「頂」であるし、「大唐より是書房と中大天狗の首頂、日本へ来れり」
(『御伽草子是善房絵』)などの用例もあるので、一応この言葉を期いることにした。
(29)私は織田信長も豊臣秀吉も、将軍になれなかったのではなく、ならなかったのだ、
と考えている。この点については別に論文が必要であるかもしれない。
(30)私は鎌倉攻撃の司令官は新田義貞ではなく、千寿王であるとする説に賛意を表する。
(31)北陸地方などでは早くから在庁官人の反平氏行動があったが、それが外部に対する
勢力としてまとまるのは、木曽義仲を迎えて以後であった。
(32)儀式などにおいて、両氏はしばしば御家人の最上位に置かれている。
(33)平賀義信は平治の乱において義朝に最後(青墓の宿)まで付き従っていたし、足利義康
は義朝とともに熱田大宮司家から妻を要っている。
(34)足利泰氏は、将軍頼嗣の京都送還の際に籠居しており、足利家時は、おそらく、
霜月騒動に関係してのことといわれるが、自害している。
(35)たとえば、小山氏などは、鎮守府将軍藤原秀郷の直系の後商であることから、
平将門の乱を舞台とする英雄謂などの流布が求められよう。
(36)『後醍醐と尊氏』(朝日百科日本の歴史一二、一九八六年)。