4、足利尊氏と『源威集』

 正長元年五月、還俗して幕府の主となった足利義宣(のち義教)は、直ちに政務に当たろうとし
た。この時点で、髪が生え揃わぬという形式的な理由を以て官位昇進は遅れ、、将軍宣下は為され
ていなかった。武家伝奏万里小路時房はこの事態に懸念を表明し、大儒清原良賢の言を借りて次の
ように説く。「義宣殿は将軍宣下後に政務を執り行うべきである。ひとたび将軍でない身で政治を
行ってしまえば、万が一にも実力を蓄えた何者かが出現して政務の権を奪わんとしたときに、その
者の存在を否定する根拠を失うではないか(27)。」

 むろん時房や良賢の提言は将軍位を授与する朝廷の威を示すために為されている。だがそうした
意図とは別に、彼の論理には、図らずも当時の足利将軍家の存在を規定する二つの要素が示されて
いるように思う。一つは言うまでもなく征夷大将軍、将軍であること。もう一つは、事実上の武家
の第一人者であり、実力を以て政務を執る者であること、である。本稿では問Aの文言を借りて、
仮に後者を「首頂(28)」である、と表記する。

将軍と首頂と。いま無理やり行った二形態の分類が実効性を保ち得るためには、これらが想念の
中の産物として終始するのではなく、当時の武家社会の実態を反映していなくてはならない。そこ
で足利将軍家以前の歴史の中に、試みに二形態の具体例を探してみたい。その上で理念型たる二形
態の内容を充実させていこう。

将軍に当てはまるのは、当然であるが鎌倉時代の源氏三代将軍である。将軍は武士と主従の関係
を結び、武士たちの主人として立ち現れる。将軍位は官職であるから、既存の朝廷勢力との関係を
持たざるを得ない。

 かたや実力を以て政権を維持する首頂の事例は、北条得宗家に求められる。承久の乱時、追討宣
旨を蒙った北条義時の地位が揺らがなかったように、首頂は本質的には朝廷とは関係をもたない。
また足利氏前の首頂たる北条氏の特徴として、形式的には他の御家人と主従の関係を設定しなかっ
たことが挙げられる。

 将軍  〇実例は源氏将軍
     〇官職でもある
     〇武士たちの主人
 首頂  〇実例は北条得宗家
     〇実力によって維持される
     〇北条氏は他の御家人とは横並びであった

   将軍と首頂、両者相互の関係にも簡単に触れておこう。大まかに言うと、未だ朝廷の権威が盛
んであった中世初期にあっては、武士が将軍になるためには首頂であることが必要条件とされた。
ところが中世後期になると将軍位は名目的なものとなり、やがてそれは首頂である者の装飾にす
ぎなくなっていく。極端な例として近世を参照すれば、徳川将軍家は将軍位の威光などに依らず、
首頂たる実力で君臨している。豊臣秀吉が源氏でないから将軍になれなかった、などという説明
も全くの的外れであろう(29)。とまれ、この二形態を分けて考えたとき、源氏将軍家、北条得宗家の
あとを受けて足利将軍家を創始した足利尊氏の足跡は、いったいどうのように跡付けることがで
きるだろうか。

 元弘三年四月、足利尊氏は時流を捉えて北条氏追討に立ち上がった。北条氏の専制に不満を抱い
ていた全国の武士たちは実力者足利氏の呼びかけに応じ、次々に挙兵した。関東でも事態は同様で、
武士たちは尊氏の子の千寿王のもとに馳せ参じ(30)、尊氏挙兵からわずか一ヶ月後、北条氏政権は倒壊
する。この時点において、尊氏は広範な武士の支持を得て、北条得宗家に代わる首頂になったと考
えられる。

 ここで留意すべきは、首頂となり得たのが足利氏だけだったのか、という問題であろう。足利氏
はたしかに有力な名門であった。上総・三河二カ国の守護職をはじめとして全国に多くの所領を有
し、その統治形態は得宗家に似た整合的なものであった。婚姻を以て代々北条氏中枢と深く結び、
諱も得宗家にならって名乗られた。

 しかしこうしたことだけでは、足利氏が唯一の候補者であった証明にはなり得ない。むしろ前章
で見た『吾妻鏡』の記事からすると、かつての所謂「豪族的領主」の系譜を引く家々、たとえば足
利氏を抑えて下野守護職を独占していた小山氏や下総守護千葉氏、結城氏、宇都宮氏、源氏の名流
武田、小笠原、佐竹氏などは、もちろん時流に乗ることができたなら、という条件は付随するもの
の、首頂になることが可能だったのではないか、と私は考えている。彼らは足利氏と我が家は同等
であったとの想いを内包しており、条件さえ整えば足利氏への支持を容易に覆す可能性を秘めていた。

 半ば仮定の話はさておいて、建武政権が発足すると、足利尊氏は将軍の地位を欲した。私たちは
今までこの史実に対し、さしたる政治的意義を認めてこなかった。それは室町・江戸時代の経過を
知る私たちが、武家の棟梁=源氏=将軍、という図式に馴らされてしまったからに他ならない。あ
らためて建武年間に立ち戻ってみると、そこには北条氏の百年にわたる施政の伝統があり、北条氏
は親王を推戴して将軍にならなかったのである。だとすれば、尊氏が将軍位を望んだのは、決して
自然な成り行きでなく、尊氏の政治的な判断の結果であったというべきだろう。

 尊氏はなぜ将軍位を望んだのであろうか。直ちに想起される理由の一は、護良親王の存在である。
親王は自らの功績への賞として将軍位を望み、しかも当時としては親王が将軍になることが自然で
あった。この親王に対抗するため、尊氏は将軍位に就かねばばならなかった。

 加えてもう一つ、やはり鎌倉幕府のもとで同輩であった有力武士たちの存在は無視できまい。同格
であることを強く主張する彼らと一線を画するために、彼らの主人の指標たる将軍位を得よう。かか
る計算が尊氏にあったのではないか。

ここで『源威集』の論理をもう一度確認しておこう。
@源氏は奥州征伐などを通じて武家の棟梁となった。
A「いま」源氏の正統は足利氏である。
Bそれゆえに、足利氏こそが武家の棟梁にふさわしい。
作者の結城直光の意図は、前章で見たように、結城家中に足利氏への服属を納得させることで
あった。本来この命題を満足させるには、他にいくつものより簡単な手段があったはずである
。にも関わらず彼は三百年も昔の平安時代から、壮大なスケールで話を説き起こす。

 直光が格別に好学の誉高い人物であった徴証は無いし、宇都宮氏などとは違い、結城氏自体
が文の道とは遠い家であったようだ。また彼は足利氏に特別の恩義があったわけではないし、
自身が源氏の一族でもない。つまり彼には足利氏ならびに源氏の栄光をかくも理路整然と叙述
する義務はなく、またそれを独創的に行う才能も環境もおそらくは持ち合わせていなかったであろう。

 右のことを考え合わせると、次のような推論に到達する。すなわち@などは、決して直光個人
が構築した論理ではなく、この当時の武家社会の「共通認識」だったのではないか。そういえば
早くも源平合戦時、挙兵する勢力は必ず然るべき源氏を奉戴していた。木曽義仲、志田義広、義
円等々である(31)。また北条時政が乱を画策したとき、新将軍に擬されたのは源氏の平賀朝雅であっ
た。奥州征伐の物語、加えてそこから生じる源氏の正統こそが武家の棟梁であるという観念は、
直光が案出するまでもなく、すでに武士たちの間に浸透していたのであろう。

 次いでAであるが、こうした認識も、かなり広範に存在したのではないだろうか。『吾妻鏡』を
読んでいくと、前章の記事とは矛盾するが、実際には頼朝は大内氏(平賀氏)と足利氏をとくに厚
遇していた様子が各所に見てとれる(32)。両氏は早く義朝とも密接な関係にあった(33)。同じ源氏名家の
内で、頼朝の討伐の対象になった佐竹氏、粛清者を出した武田氏、遅参が不興をかった新田氏など
に比べ、両氏は明らかに上位にあったようである。頼朝以後、大内氏は北条義時と対立して承久の
乱で滅亡。一方の足利氏は北条氏と姻戚関係を結び、所領を集積していく。何度かの政治的な危機(34)
を乗り越え、ついに幕末まで勢力を保つ。こうした歴史的経過を踏まえると、御家人社会における
Aの観念の生成と定着こそが、『源威集』における直光の叙述を規定しているように思うのである。

 そこで問題になるのがBである。繰り返し言うが、作者直光は単に現時点の利害から、結城家中
を足利氏支持で結束させたいだけである。足利氏の正統性を過去に遡ってまで立証する必要性など、
彼は全く有していない。とするならば、想像になってしまうのであるが、@とAをふまえて自己を
頼朝の後継者として演出し、Bを強くアピールしたのは足利尊氏その人だったのではないか。尊氏
と彼の周囲は「尊氏=頼朝の再来」の論理を組み立て、元来一御家人であった足利氏が将軍位を獲
得し、すべての武士の主人となることを正当化するのではないか。

 足利氏支持を訴える直光は、家中説得の手段としてこのBの論理を受容した。彼はB と当時の
源氏への共通認識@、広く存在したAを併せ捉え、本書の骨格を構想する。@、A、Bはやがて整
然と配置され、かくて『源威集』が誕生する。

尊氏が唱えた、と私は考えたわけだが、@、Aをふまえての自己=頼朝の再来説は、たいへん説
得力に富んでいる。たしかに当時にあって、尊氏は最も頼朝を想起させやすい人物であった。先に
首頂になり得たであろう人は足利氏のほかにも存在した、と私は述べた。では彼らはそのまま将軍
になれたか、というと、それはかなり難しかったのではないか。小山も宇都宮も結城にしても、自
らを将軍頼朝と関連づけるのは容易ではない。そして頼朝の先例を踏襲できぬ彼らの前には、執権
であることに終始した北条氏の伝統が立ちはだかる。源氏ではない、あるいは源氏の名家ではない
家々が将軍位を得、なおかつ武士たちの支持を得るには、「源威集」の論理を遙かに超える、余程
よくできたストーリーが必要になる(35)。

 反対に、では@の共通認識を想起させる人ならば、具体的にいうと源氏の名家などならば、将軍
として安定しただろうか。これもまた困難ではなかったかと私には思える。親王や摂関家の貴公子
ならば知らず、武士が将軍になるには、この時期では先に述べたように首頂と仰がれることも求め
られる。つまり他の武士から抜きんでた実力を有していなければならなかったのである。とくに先
例を重んじる朝廷がたとえば新田義貞を将軍に任じるようなことはあり得たであろうが、彼は武士
たちの服従を獲得できず、自滅するほかはなかったであろう。

 このように考えていくと、足利尊氏という人物は首頂にも将軍にもなり得る、極めて稀有な存在
であった。彼は鎌倉に居を定めるように進言する弟直義の意見(36)を斥け、積極的に京都に進出する。
おそらくは潜在的な対抗者が多くいる東国を忌避し、新しい政権の基盤を西国に求めたのであろう。
そして自らの血統を活用し、親王を戴く首頂ではなく、直接天皇を奉じる将軍として、天下の政務
を掌握するのである。

『源威集』において結城直光は尊氏=頼朝の再来=源氏の正統 、の説を受容し、孫や曾孫に足利
氏への従属を説く。それが「いま」の結城家を最も益するからである。しかし結城家中は、かかる
書物を残しながら、決して足利氏に心服はしなかった。それは本書成立の五十年後、結城合戦の生
起によって雄弁に証明されるのである。

おわりに

 本稿は『源威集』を読み進みながら、最後は足利尊氏と将軍位のことに言い及ぶことになった。な
ぜ足利氏が将軍になったのか。なぜ他氏はならなかったのか。もしくは、なれなかったのか。そして
本書にいう問A、なぜ源氏だけが武家の棟梁となるのだろうか。こうした主題は歴史的な仮定を伴う
せいか、なかなか研究論文としては考察されてこなかった。通常の手順では歴史学の範疇から逸脱し
てしまう。実証的に論証するには、別に有効な方法を見出すことが必要だったからである。

 私は初めて問Aを掲げる『源威集』に接したときに、本書を以て当時の武士の意識を復原できない
か、と考えた。もしそれが可能であるなら、彼らの目に映じた足利尊氏を論じられるではないか。そ
れこそが右の「有効な方法」ではないか。かかる思いが、実は本稿の出発点であった。

 けれども結局は推測に推測を重ねる仕儀となり、私は実証の難しさと自らの力不足とを痛切に感じ
ている。様々に論じてみても、足利尊氏は将軍になる。この史実は動かしようがない。はじめに結論
ありき、ともいうべき問題を、あるいはともすると歴史小説的になってしまうような問題を、いかに
客観性を保ちつつ論じるか。どのような工夫を凝らすことが真に効果を挙げるのか。それは今後ひき
つづき考えるべき問題であろう。大きな課題はそのまま残されてしまったが、いまはとりあえず以上
をもって、拙い文章を閉じることとしたい。

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