モノを介する吉書

                              遠藤基郎

はじめに

 中世吉書論の到達点は、故中野豈任の「吉書と在地支配」(『祝儀・吉書・呪符』吉川弘文館、一九八八年)である。中野の研究は、種々ある吉書うちとりわけ三箇条吉書に注目した。三箇条吉書は、仏神事興隆・勧農励行・年貢進納の三箇条からなる。これらの条目は、領民・領地に対する領主としての務めと領民の務めを示すものであった。また吉書儀礼は饗宴・贈答などを伴い、領主と領民との濃密な互酬性に満ちている。こうした互酬の空間において、三箇条吉書は読み上げられる。吉書儀礼の場とは、領主と領民の間での誓約の空間であって、そこでは領主支配の正当性が領民の合意のもと再生産されたのである。こうした中野の理解は、藤木久志(「荘園の歳時記」『週刊朝日百科日本の歴史別冊 歴史の読み方9 年中行事と民俗』朝日新聞社、一九八九年)・井原今朝男(「中世の五節供と天皇制」『日本中世の国政と家政』校倉書房、一九九五年、初出一九九一年)・薗部寿樹(「村落の歳時記」『日本村落史講座』第六巻、雄山閣出版、一九九一年)などによって継承され、吉書研究は一層の深化を見ることになった。
 中野の研究は基本において首肯されるべきものである。ただ細部については異論がない訳ではない。それは、三箇条吉書に問題を絞り込んだ結果、中野自身がその存在に言及した返抄吉書あるいは若菜催進吉書の問題が、やや等閑視されることとなった点である。これらの吉書は、進上物ないし儀礼的な進上行為を要素とする点で共通性がある。小論の目的は、こうしたモノを介する吉書について論ずることにある。
 なお吉書は、様々な代始―将軍家・摂関家氏長者・各寺院別当など―にも行われた。これについては、田中稔・本郷恵子の研究がある(田中「儀礼のために作られた文書」『中世史料論考』吉川弘文館、一九九三年、初出一九九〇年。本郷「中世文書の伝来と破棄」『史学雑誌』一〇七―六、一九九八年六月)。ただここでは年中行事化した正月吉書に限定しておく。さらに正月吉書のうちでも、領主―領民、あるいは荘園領主―荘家という関係で表れるものに対象を絞り込むこととする。したがって、ここでは摂関家氏長者―春日社の間のような事例は一応除外される。
 

一 モノを介する吉書の事例

(一) 七種若菜催進吉書

 一五世紀後半に大乗院尋尊の編んだ『三箇院家抄』巻一は、大乗院年中行事としての正月吉書について記す。「三ヶ院家等庄々吉書成事、三ヶ日中以吉日、切符下文成之、召著(若)菜、載祝言也」(正月一一日)、とあるのによれば、正月三が日の吉日を選び、荘園に若菜を召す切符下文を発給している。この吉書には饗宴が伴っており、「鏡一面、菓子八種、各絵懸盤、肴一前、酒一瓶三升」(正月二日)と見える。この記述による限り、この饗宴はかなり小規模なものであったかに考えられる。「切符下文」は、次のようなものであった。
 大乗院政所下 古川御庄
 可早任例催進七種若菜等事
 右、件若菜者、任例来六日可沙汰進、兼又御庄泰平、百姓安穏、田畠満作、五穀能熟、此外恒例吉事等、殊任先規、可致其沙汰之状如件、以下、
 元弘二年正月三日
 寺主法眼和尚位(花押)
  (唐招提寺文書、『鎌倉遺文』四一巻三一六三七号。以下「鎌四一―三一六三七」と略す。)
ここでは本下文の文言に従って、このタイプの吉書を「七種若菜催進吉書」と称する。政所が発給した吉書は、その後、大乗院坊官の「賦」が荘園の給主のもとに持参し、給主から荘園現地へと定使が派遣される(『大乗院寺社雑事記』文明一〇年〔一四七八〕正月四日)。この際、給主・預所の下文が添えられる場合もあった(寺院細々引付応安二年〔一三六九〕正月五日、『大日本史料』六編三一、二四五頁)。興福寺寺務方別会所においても、七種若菜催進吉書が行われた。『政覚大僧正記』文明一八年(一四八六)・同一九年、長享二年(一四八八)の各正月五日条には、狛野荘に吉書・檀紙・扇を遣わしたこと、翌六日条には、沙汰人・下司代などが七種若菜あるいは「円鏡(鏡餅)・小餅・ホテ・カカリ菜・タハ子菜」を持参して参上したこと、そして彼らに対して飯・酒を振る舞ったことを記す。ここでは吉書そのものの内容を窺い知ることはできない。ただ前掲の七種若菜催進吉書の内容との類推、さらに長享三年正月五日条に、「明日彼庄沙汰人等罷上間、其以前可罷下」として、吉書を狛野荘に伝えたと考えられる定使が下されている点からも、これも七種若菜催進吉書と考えるのが妥当であろう。また黒川直則の紹介によれば、興福寺東院領田辺郷豊田荘・高松荘では、正月五日に領主東院より吉書が下され、翌六日には両荘より若菜進上があった(「中世の田辺郷について」(『資料館紀要』一七、京都府立総合資料館、一九八九年)。ここでの吉書も七種若菜催進吉書と比定できよう。
 七種若菜催進吉書は、領主による吉書作成・定使による荘家への伝達と荘家の文書請取・荘家による七種若菜進上と領主側の請取、という一連の過程である。この過程で、贈与・饗宴が生じる局面としては、吉書作成(領主側)・吉書請取(荘家側)・進上物請取(領主側)が大雑把に想定される。先述の『三箇院家抄』の記述による限り、吉書作成時の饗宴はさほど規模の大きいものとは考えがたい。また吉書請取時に定使を主賓に据えた饗宴の有無については未確認である。一方、進上物請取時には饗宴あるいは饗応料代銭下行があった。また狛野荘の事例では、吉書伝達時に檀紙・扇が下行されており、〈檀紙・扇―七種若菜〉なる互酬関係が成立していた。
 

(二)返抄吉書・請取吉書・万石米吉書

 石清水八幡の年頭行事として、「政始」なる儀礼がある。『宮寺縁事抄 政次第』はその詳細を記す。政始においては、宮寺と極楽寺でそれぞれに吉書があり、宮寺は万代別宮・延命園の年貢、伊与の封戸(治承四年〔一一八〇〕の例)、極楽寺では松原・平・加賀島各荘の年貢(寛喜四年〔一二三二〕の例)について、請取の返抄が書かれている。一例を掲げる。
 宿院極楽寺
  検納米参百斛事
 右、松原庄所当米、検納如件、
      寛喜二二年正月二日
 院主兼宮寺別当ゝゝゝ
本吉書は政始の一環ではあるが、宮寺別当以下・祢宜など、僧侶・神官を交えた饗宴があったようである。このタイプの、いわゆる返抄吉書は醍醐寺にも類例がある(暦仁二年〔一二三九〕正月八日醍醐寺吉書返抄、寺家雑筆至要抄、鎌八―五三七三)。東大寺尊勝院の宗性による寛元四年(一二四六)正月二日吉書には、院家庄々所当として「能米十万石、美絹一千疋、金銀類一万両」を収めた旨が記されている(春華秋月抄草一七裏文書、鎌九―六六〇六)。本吉書は、宗性自身の聖教の紙背文書であるから、儀礼的に作成された上で、直ちに廃棄されたものと考えられる。以上、石清水八幡と東大寺尊勝院の事例は、実際の進納物を伴ったかは定かでない。特に尊勝院ではなかったと見るのが自然であろう。
 ところで尊勝院の吉書で、「十万石・一千疋・一万両」なる祝言風の言い回しがなされている点に注目したい。ここから稲葉継陽が紹介した、「鵤御庄当時日記」(『太子町史』第三巻)に見える「万石米」を想起することは容易い(「法隆寺直務代官の儀礼と収取」『遙かなる中世』一六、一九九七年)。
 一五世紀の法隆寺領播磨鵤荘では、正月一一日に荘内平方条下司・東方公文代・西方公文代の三方より、「万石米・万端布・万帖紙」の費目で代銭が、寺家預所に進上された。進上に際しては、送状とともに、「上方御寺門弥御繁昌、御庄家安穏泰平・田畠満作・五穀成熟・万菓豊饒」との予祝文言を盛り込んだ下司・公文代の書状が副えられる。これに対して寺家預所よりは、次の請取が下される。
  納 鵤御庄平方条万石米事
      合
 一万石米 旦(且)壱斗    代百文
 一万端布 旦壱切    代参百文
 一万帖紙 旦拾帖    代五十文
 右、任先例之旨、以富永夫丸、所被進納之状如件、
    長禄二年(一四五八)正月十六日    預所一臈 良快判
これとともに「田畠満作・五穀成熟・万菓豊饒・諸人快楽・所願成熟円満」との文言を載せた預所書状が、下司・公文代に下された。この一連の文書あるいは進上行為について、史料上には「吉書」との表記は見えないものの、年頭儀礼であること、またその予祝文言から判断して、稲葉の言うとおり、吉書儀礼とするのが妥当である。
 鵤荘以外でも、吉書と万石米進上をリンクさせる事例は他にもある。公家山科家では、「細川ヨリ吉書、万石米、銭布代二百、米二斗且到来、」「細川ヨリ吉書米〈二斗〉、万石米内云々、二百文布代云々、」(『教言卿記』応永一五年〔一四〇八〕正月一四日、同一六年正月一四日)とあった。永和五年(一三七九)東大寺造営料国周防より送られた「国司得分」の送状には、「吉書箱」(この中には銭二貫文と白布二端が納められた)とともに、「万石米袋」(白米一斗を納める)が書き上げられている(『大日本古文書東大寺文書』之九 八一五号)。また興福寺大乗院では、「豊浦庄定使吉書成物、万石米十万石一斗、銭十一万貫一貫五百、当庄指図一帖持参、彼庄百姓同罷上云々、」(『大乗院寺社雑事記』延徳四年〔一四九二〕正月一一日)と見える。
 先述の石清水八幡・東大寺尊勝院などの場合と、万石米吉書の差違は、在地(荘家・国衙)と領主の間で実際のモノが動いている点であった。万石米吉書は、理念的儀礼に留まらず、現実の領主―在地関係を有機的に連係する吉書儀礼であったと言わねばならない。
 こうした実際にモノを介する吉書は、万石米に限定される訳ではない。たとえば明応五年(一四九六)の松尾社領丹波雀部荘では、正月四日に米二斗三升と「さつし」(雑紙)一束が公文・下司・政所三名連署の送状とともに、社家に納められた。「此初納以下ニハ請取不出、此時吉書下事」とあって、社家側では通常の請取ではなく、吉書を下したとある(『松尾大社史料集』文書編七、一七〇八号)。この吉書の様式は不明であるが、返抄吉書・請取吉書に類するものであった可能性は高い。あるいは鵤荘のように予祝文言を載せた書状であったかもしれない。
 こうした請取吉書は、村落のみではなく、都市民との間でも交わされた。すでに中野は、六角供御人と山科家との間の事例を紹介している。『山科家礼記』寛正四年(一四六三)正月一一日には、「六角町へ弥六下、以前おはおき候て、当年正月の請取出候也、あきの方へ向、かき候也、」とある。大意は、六角町すなわち六角供御人のもとに弥六を遣わすことになり、そのために正月の請取を書いた、となろう。同日条にある「本所吉書」の儀においても、当主が「あきの方へ御向候」とあるから、この請取も吉書であった。なお「あきの方」については、中野は「吉方」との注記を施す。基本的には妥当と思われるが、「秋」には「収穫の時期」の意がある。また四季と東西南北との対応関係では秋は西に充てられ、また「収穫」を意味する「西収」なる言葉もある。これらを勘案するならば、豊作祈願を込めて西に向かって書いた、という解釈もあり得よう。ともあれ、「六角町より百九十文到来、吉書請取」とあるように、百九十文が山科家に到来した。ちなみに「吉書請取」は文字通り、「吉書は請取」、すなわち請取吉書であったことを指している。
 時代はやや遡及するが、すでに『小浜市史』に紹介のある、宝治年間に生じた東寺領若狭太良荘の次の事例も興味深い(宝治元年〔一二四七〕一〇月二九日関東下知状案、東寺百合文書、鎌九―六八九三)。東寺雑掌定宴は、地頭が私的借銭の返済のために年貢を横領したと主張した。これに対して、地頭若狭忠清は、若狭国衙領では「吉書来納之徴符」を受けて、銭を納めるのが慣例である。返抄によって、借銭返済か吉書かを明らかにしてほしい、と陳弁した。幕府の裁定は、返抄が借銭返済に関わるものではないとして、地頭の主張を容れている。国衙の吉書は、国司初任庁宣における三箇条吉書があまりにも有名であるが、こうしたモノを介する吉書が存在したことも留意すべきであろう。
 さて、ここではひとまず請取吉書としたが、鵤荘の事例のように在地での送状も吉書の意味合いを帯びていることは十分に考えられる。したがって請取吉書では、送状―請取の過程として吉書儀礼が構成されると見ておく。さらに若狭国衙の場合、国衙による吉書徴符発給・在地での吉書請取と銭進上(送状)・国衙での銭請取(返抄)・在地への返抄到来、なる一連の過程が吉書儀礼であった。いわば前述の催進吉書と請取吉書を複合した形態と見なせる。こうした複合形態はあるものの、原則として請取吉書において贈与・饗宴が生じる局面としては、送状吉書作成(荘家側)・請取吉書作成(領主側)・吉書請取(荘家側)が一応想定される。この点についての詳細は、次の吉書銭・吉書紙などの問題を論じた後、改めて検討する。
 

(三)吉書銭・吉書紙・吉書鏡餅

 吉書関連の史料のうちには、単に「吉書銭」「吉書紙」と表記されるもの、あるいは算用状・得分注文などの類に費目として「吉書」と記されたものが少なからず存在する。これら「吉書銭」などについては、荘園領主側での吉書用途が荘園に課されたものと理解する説がある。薗部寿樹はこの理解に基づき、吉書銭・吉書紙の性格について次のように論じた。吉書始に際しては主催者に対して引出物を贈与する慣例があり、その贈与が貢納物化したものが、吉書銭・吉書紙・吉書鏡餅であった、と。確かに正月吉書儀礼においては、三箇条吉書であれ、ここで扱ったモノを介する吉書であれ、なんらかの饗宴を伴う場合があり、そのための用途が在地・荘家に課された可能性が全くないとは断言できない。ただし一方で、それが吉書用途のための費目であると断定できる根拠もまた弱いように思われる。銭・紙などは、すでにここで論じたモノを介する吉書の進納物として見える。とすれば、吉書銭も請取吉書などと関連して解した方が、より整合性が高いのではあるまいか。
 寛元四年(一二四六)三月日紀伊阿弖川荘預所得分注進状案(高野山文書又続宝簡集五六、鎌九―六六五九)には、預所得分として、御綿交分・佃所当・引出物・厨・在家布などともに「吉書銭一貫」があり、文永八年(一二七一)四月二日定成犬丸方預所得分米送状(醍醐寺文書第五函、鎌一四―一〇八一三)には、「吉書紙八帖代米四斗八升」が見える。すでに万石米吉書を論じた部分で確認したように、鵤荘では預所が万石米を受け取っていた。また周防国衙では「吉書箱」に納められた白米・布および万石米が「国司得分」(具体的には戒壇院の得分)となっていた。あるいは次の事例も参考となる。嘉暦元年(一三二六)一〇月八日某所公事注文(摂津井形正寿蔵長福寺文書、鎌三八―二九六二六)には、正月分の進納物として、「万石米三升・若菜七籠内〈五籠上分、二籠預所分〉・十五日粥小豆五升〈三升上分、二升預所分〉」とあって、若菜七籠のうち二籠が預所得分となっていたことが知られる。本件では、万石米が見えるから万石米吉書のみの可能性があり、その場合、若菜は吉書儀礼とは無関係との理解も成り立つ。ただし仮に万石米と若菜をセットにすることが許されるならば、モノを介する吉書儀礼の一環としての進納物が、上級領主間で得分として分配されたことの傍証となろう。
 以上によれば、得宗家公文所が「年始御吉事為恒例所役之間、如元可進関東」と、多田院に命じた「吉書銭」も(文永一〇年〔一二七三〕一二月一七日得宗公文所奉行人連署奉書、多田神社文書、鎌一五―一一五〇二)、あるいは正和二年(一三一三)二月日山城革島荘年貢注進状(革島文書、鎌三二―二四八一〇)に見える「吉書かがみ(餅)三まい、こもち一せん」も、領主側での吉書儀礼のための用途として所課されたものではなく、モノを介する吉書において、進納されたモノと見なす余地は多分にある。
 さらに中野が三箇条吉書での饗応の事例として掲げた九条家領和泉日根野荘の吉書もまたこの類であったのではないか。日根野荘における吉書を物語る『政基公旅引付』文亀二(一五〇二)・三・四年正月の記述は、概ね以下のように集約できる。日根野東方・同西方・入山田の各村落で吉書のあったこと、会場は政所・寺庵であったこと、領主側の人間と村落側の番頭衆・寺庵衆・古老衆が会した饗宴のあったこと、その用途は領主側で負担したこと、などである。ところが肝心の吉書の様式、つまり三箇条吉書がそこで使用されたとの記事が存在しない。ここで注目したいのが文亀二年正月二日の記事である。「日根野村(東方)吉書今日也、依例仰付無辺光院行之云々、」、すなわち無辺光院善興に命じて吉書が行われたとある。そして次の無辺光院善興書状が日記に挟まれている。
 大井関(日根野内、無辺光院在所)より、御祝言之物共御進上申候、円鏡一面・ます鏡一面・けへふ九ツ・柿一串・同御御穀、進覧令申候、此分可然様ニ御披露可有候、旁々以参拝候、御吉事重々可申上候事、恐々謹言、
  正月二日 無辺光院善興(花押)
  兵部少輔殿(竹原定雄、政基の家人) 人々御申(中カ)
内容は祝言物進上を述べた簡単なものである。差出が日根野村東方吉書の責任者となった無辺光院善興であること、他の請取吉書において進上が認められる円鏡=鏡餅が、進上物として記されていること、などを勘案すると、この書状こそが吉書、いわば鵤荘にあった送状吉書と理解できるのではあるまいか。日根野東方及び入山田の吉書に際して、政基は扇を贈っているが、これは、前述の『政覚大僧正記』に見える七種若菜催進吉書で、檀紙・扇が荘家に下されていたのと共通する。また大乗院の万石米の事例にも、「一、伊賀国大内庄ヨリ万石米二斗沙汰、取納之由隆舜申入之、仍檀紙一束・扇一本遣之了、珍重々々、」(『大乗院寺社雑事記』長禄二年〔一四五八〕正月一一日)とあって、檀紙・扇の下行があった。この点も、本吉書がモノを介する吉書であったことの傍証となろう。
 ここで先に保留した請取吉書における饗宴と贈与の問題について立ち戻っておこう。繰り返しになるが、ここでは、送状吉書作成(荘家側)・請取吉書作成(領主側)・吉書請取(荘家側)が、贈与・饗宴が生じる局面として、一応想定される。このうち領主側での饗宴については石清水八幡の政始の事例がある。ここでは在地・荘家側の人間の参加は認められない。一方在地・荘家側での饗宴では、九条家領日根野荘の吉書にその実例があり、ここでは領主側の人間も参加していた。また万石米の事例ではあるが、後述するように東寺領播磨矢野荘では、「万石米御祝」が荘家において行われており、これも在地での饗宴の類と見なせるだろう。先の七種若菜催進吉書では、在地・荘家側での饗宴を示す明確な事例を示すことができなかったが、請取吉書における事例から類推して、吉書を携えた領主側定使が荘家に下向した際に、何らかの饗宴が催された可能性は極めて高かったのではあるまいか。また大乗院の万石米吉書の事例は、〈吉書進上物―檀紙・扇〉の贈与関係が成立する場合のあったことを示している。
 以上、推測を重ねた感が強いが、ここでの推測が認められるとすれば、モノを介する吉書は、三箇条吉書と併存する中世の吉書であったということになる。そして、本タイプの吉書においても、三箇条吉書同様、饗宴・贈与を介した領主―在地・領民の互酬の場が設定されたことを確認できるのであった。
 
 

二 モノを介する吉書をめぐるいくつかの論点

 前節までの検討によって、モノを介する吉書の存在とその広がりを示す、という小論の目的は大半果たされた。以下では、いくつかの論点を雑ぱくに考えたい。

(一)三箇条吉書とモノを介する吉書の分布の差違

 三箇条吉書とモノを介する吉書、二通りのタイプがあるとすれば、その選択の違いは何に由来するのであろうか。もとより同一領主―荘家間で、この二つの吉書が併用された可能性も全くない訳ではない。伊勢神宮は、祭主―宮司―禰宜(内宮・外宮)の重層的な正月吉書の体系があった(公文筆海抄、『三重県史』史料編中世一)。その吉書は、御常供田堰溝修復・神宮職掌人番直励行・神宮領所進物返抄の三点であった。このうち前二者は、三箇条吉書に見える勧農・仏神事励行に相当する。いわば項目を独立したひとつの吉書に仕立てたものである。一方、後者がモノを介する吉書であることは言うまでもない。また先に東大寺領周防国衙の吉書を万石米吉書の例としてあげたが、現地国庁では正月三が日に現地の人間である庁奉行が三箇条吉書を行っていた(『防長風土注進案』三田尻宰判巻六八)。東大寺―国庁間と国庁内部での使い分けは、一種の知行国であることが大きく影響しているかと推測される(なお小論の論旨に関わる点であるが、本件について、両者を同一の吉書と見て三箇条吉書においても進上行為を伴ったとする理解もあり得ることは指摘しておく)。
 こうした二つの吉書の併用がどの程度一般化できるかは定かではない。いささか恣意的ではあるが、以下ではいずれか一方の使用が一般的であった、との前提で考えておく。
 さて中野が三箇条吉書の事例としてあげたのは、足利氏、石清水八幡、大友氏、上野長楽寺、島津氏、色部氏などである。これ以外に確認される事例としては、長門国二宮(萩藩閥閲録寺社証文巻一一二之宮、鎌三五―二六九二九)、西園寺家領摂津稲福荘(京都大学蔵古文書集、鎌四〇―三一三三九)、日向櫛間院領領家(『日向古文書集成』長谷場文書二一二号)、四天王寺(天王寺執行所政所引付、『四天王寺古文書』第一巻)、修理職領丹波山国荘(『丹波国山国荘史料』、岡野友彦氏のご教示による)、などがある。これらの事例を見る限り、三箇条吉書は、中央本所系か、武家・国人系か、といった領主の階層差、あるいは中央か、地方か、といった地域差に影響されることなく、普遍的に分布している。
 一方、モノを介する吉書は、興福寺・東大寺・法隆寺・醍醐寺・高野山・石清水八幡・松尾社・山科家・九条家・北条得宗家・若狭国衙などである。対象となる地域は、大乗院のような近隣荘園の場合もあれば、東大寺の周防のように遠隔地の場合もある。これも、三箇条吉書と同様に、階層差・地域差は明瞭ではない。強いて言えば、中央大寺社が多いこと、守護・国人など在地武家系の事例を見ないことがあげられようか。ただし吉書の史料は断片的にしか残存せず、加えて筆者の調査はいまだ不十分なものであり、在地武家系の請取吉書が今後確認される可能性もある。したがって、現段階での仮説として以下の説を提示しておく。
 中野は、三箇条吉書の淵源を、平安中期以来の国司初任庁宣に由来すると指摘する。おそらく、在地武家系で三箇条吉書への傾斜が認められる理由は、この点に求めることが可能だろう。ひとつには、初任庁宣に盛り込まれた、仏神事興行・勧農誓約(農業施設の整備と撫民)文言が、百姓と空間的に密着して支配を行う傾向にあった、在地系領主にとって優れて現実的な意味を帯びていたからと考えられる。いまひとつには、在地系領主と国衙との関わりが考慮されるべきだろう。たとえば大友・島津氏など守護系では、守護による国衙権能継承・吸収という歴史的文脈の中で説明ができよう。また平安後期の在地領主の在庁官人化、あるいは在地名望家の結集の場としての国衙在庁、という先行学説に依拠することが許されるのであれば、その伝統が、彼らをして三箇条吉書を選択させたとの説明がまた可能であろう。いわば、国衙のあり様を継承することこそが、彼らの正統性の根拠だったのである。
 

(二)モノを介する吉書の淵源と変容

 とすれば、モノを介する吉書を選択する傾向を示した中央本所系では、別の論理が働いたことになる。返抄吉書・請取吉書において、その淵源が封戸返抄吉書に求められるのは言うまでもない(田中前掲書参照)。すでに見た石清水八幡宮正月政始の事例では、封戸返抄が使用されており、それは久寿年間まで遡及する。また摂関家の年中行事を記す『執政所抄』(一二世紀初頭成立、『続群書類従』第一〇輯)には正月四日吉書関連の記事で、「儲吉書承返抄、衣冠下家司申之、〈加賀・美作歟、〉」とあって、封戸返抄が吉書として使用されたことを示す。なお「儲吉書、承返抄」を対句と解すれば、〈封戸調進の国解―封戸返抄〉との解釈も可能である。鵤荘で見た〈送状―請取状〉の関係は、この段階まで遡及することとなる。
 正月吉書に限定せず、代始・就任時など他の状況における吉書にまで対象を拡大するならば、より多くの事例がある。摂関の就任吉書では、弁官方・蔵人方・摂関家政所方の三方吉書があった。嘉承二年(一一〇七)七月二二日の摂政忠実の内裏内直廬での吉書では、「官方右〔左〕中弁長忠朝臣、伊与国年料米申文」「蔵人方頭中将実隆、申臨時公用并広絹解文等」「家司泰仲朝臣申政所文〈美作御封〉」であった(『殿暦』)。また寺院社会においては、寺務・別当の就任時、返抄吉書が就任儀礼の一環として行われた。これら摂関家・寺家の吉書の淵源は、天皇代始の吉書(官方国衙年料米解文・蔵人方祭幣料請奏など)にまで遡れる(『続左丞抄』巻三)。
 摂関家・公家の場合は言うまでもなく、寺家の場合も上層部である程、自らのよって立つ基盤を天皇・朝廷との関わりに求めることは、自明の事柄であって、それ故、朝廷において正統な返抄吉書・請取吉書を採用することは当然の成り行きであったとも言える。この点は、国衙支配にその正統性の淵源を求める在地系三箇条吉書と鮮やかな対照を示している。
 一方七種若菜催進吉書については、七種若菜を召す行為が吉書となる淵源に関してはなお不明である。正月吉書ではないが、たとえば藤原頼通女多子が女御となっての政所始では、能登宛の封戸返抄とともに、同国に対して侍所用途垂布調進を命ずる侍所牒が吉書として使用された(『台記別記』久安六年〔一一五〇〕正月一九日)。モノを召す文書を吉書とする慣行が、平安後期の貴族社会に存在したのであり、請取吉書と同様に一応の淵源をここに求めて大過あるまい。
 しかしながら七種若菜催進吉書には請取吉書との差違も指摘できる。それは習俗への接近である。請取吉書においては、領主側は前提となる「国家的収取」こそが担保となる。その意味ではすぐれて政治的なものであった。これに対して、若菜催進吉書における若菜進上とは、九世紀末宇多天皇期に宮中儀礼として採り入れられたが、それは、古代以来の民俗慣行を摂取したものとされる。この古代以来の民俗慣行は中世を通しても存続し、荘園領主への公事として定着を見る。すなわち若菜催進吉書は、民俗慣行に接近し、それを取り込むことで成り立っていたのである。加えて予祝文言の記載も大きな違いである。確かにそれは、三箇条吉書の勧農文言と比較すれば、「独善的」とも見える。しかしながら、単なる返抄・請取状に過ぎない請取吉書に比較するならば、在地側の了解を得やすいものだったに相違ない。
 もちろん請取吉書にもこうした習俗への接近が見て取ることができる。たとえば「万石米」なる呼称は、領主側の一方的収取の論理のみならず、在地における豊饒を予祝するものであって、万石米習俗の広がりを背景とする(保立道久「中世民衆経済の展開」『講座日本歴史』三中世Ⅰ、東京大学出版会、一九八四年)。いわば「国家的」な伝統と中世的習俗が結合した地点に万石米吉書は立ち現れたのである。あるいは鵤荘のように、予祝文言を記した書状を副えることによって、合意形成を補強する手段もあった。
 こうしたモノを介する吉書をめぐる、民俗慣行への接近の行き着く先が、薗部の紹介した予祝文言のみの吉書と見るべきであろうか。
 下  京南吉書始之事
 右天下泰平、国中静謐、寺社繁昌甘雨普潤、五穀成就、万民快楽、庄家安穏、如往代年貢運上、郷内各々祈願成就、吉書如件、
  天正十年正月吉日
 (「天正八九十之日記 別会所日記」天正一〇年〔一五八二〕正月八日、『多門院日記』第五冊所収)
本吉書は、興福寺別会所が同所配下の辰市東九条に下したもの。この時、三升鏡・クシカキ・ユカウ・タチハナを荘屋が別会に進上している。おそらく興福寺領一般のあり方から見て、本来は七種若菜催進吉書であったのであろう。それが若菜未進などによって、七種若菜催促文言が欠落し、予祝文言のみが残ったものとの推測ができる。あるいは請取吉書では、鵤荘の請取状と書状というセットのうち、請取状の部分が消滅し、予祝の書状のみが残存、という事態もあり得たであろう。この想定が認められるとすれば、伝統的なアイデンティティーの払拭と、新たな吉書儀礼への変容を見ることができる。
 

(三)負担と下行

 以上のような民俗慣行への接近によって、モノを介する吉書は在地・村落・荘家・領民の合意を獲得しつつあったと考えられる。しかしながら、この吉書が本質的に在地・領民の負担を前提とする点は、否定しようのない事実である。その負担は、なにより第一に進納物そのものであり、いまひとつは薗部の指摘した吉書を携えて下向する定使・吉書使を交えての饗応であった。三箇条吉書は、吉書そのものの内容が、領主と領民の誓約を意味し、それ自体合意形成するものであった。加えて、その饗宴においては、百姓らも饗応に預かることさえあった。一方、吉書自体に契約性を欠く、モノを介する吉書において、こうした負担が在地・領民側の一方的な負担であったならば、それはまさに一方的収取関係であったと言わねばならない。
 それ故に、こうした負担に対して、百姓などは抵抗を示した。井原・薗部が紹介したように、鎌倉前期の周防多仁荘百姓等申状(九条家冊子本中右記裏文書、鎌六―三五八〇)は、百姓が吉書饗における新儀非法を強く非難している。もとよりこの事例は三箇条吉書の可能性もある訳だが、モノを介する吉書においても同様の事態が十分にあり得たであろう。一方的収取に対する在地・領民の潜在的抵抗は常に存在したと考えられ、領主側では以下のように何らかの措置を講ずる必要に迫られたのである。
 その第一は、贈与・饗応を介しての互酬関係の構築である。すでに見たように吉書進納物進上に際しては、檀紙・扇など下行を伴う事例があった。そこでは、〈吉書進上物―檀紙など下行〉の互酬的贈与関係が確立している。饗応については、領主側と在地側の二つの局面を想定できる。領主側での饗応は、進上物を携えた人夫に対する饗応であって、たとえば、興福寺別会所の場合、若菜を進上した狛野荘沙汰人・下司代に饗応として銭百文ずつを与えている(『政覚大僧正記』文明一九年〔一四八七〕正月六日)。
 在地で行われる饗宴を領主側が負担することもあった。『政基公旅引付』の日根野荘の事例はすでに言及した。万石米進上の事例であるが、暦応四年(一三四一)東寺領矢野荘西方名主・百姓と田所脇田昌範の間での相論も参考となる(暦応四年五月日矢野荘西方名主・百姓等申状、同年六月日矢野荘西方田所昌範陳状、東寺百合文書、『相生市史』第七巻、編年文書一二八号1・一二九号)
 名主・百姓は、正月万石御祝用途は領主東寺側から支給されていたのだが(「正月万石御祝、于毎年、自公方、雖有御営」)、ここ一両年は、田所脇田昌範が用途を対捍したため、取りやめとなっている。この条は「公私庄家衰微之基」である。祝用途下行は「当庄に限らず諸国平均」の儀であるから、用途下行を再開してほしい、と主張した。これに対する田所脇田昌範の陳弁は、やや難解であるが大意は以下のようである。祝用途下行は、寺家の「故学頭法印」の時に取りやめになった。その理由は、年貢以外の用途は百姓が負担するのが諸荘園の通例である。当荘のみで百姓が祝用途を負担せず、「万石米」と号して、これを年貢より差し引いて未進を増すのは不当である、とのことであった(「御年貢之外、為百姓沙汰者、諸庄薗例也、何限当庄、不弁之、号万石米、恣可引募庄家未進哉、」)。祝用途下行停止は、東寺側の決定に従ったまでであり、決して昌範個人の不正ではない、と。双方の主張は、用途下行停止を現地田所の非法とするか、寺家側の決定とするかで、大きく対立するが、かつて祝用途が東寺から支給されていたとする点は一致している。本史料から想像するに、実際には荘官である田所が用途現物を支給し、帳簿上は下行ないし控除扱いとなっていたものと思われる。名主側が、祝用途下行は「諸国平均」の儀とする点は、東大寺領播磨大部荘で「正月祝」が「庄立用」、すなわち在地控除分となっていたことなどから(狩野亨吉氏蒐集文書、『兵庫県史』史料編中世五、大部荘二〇三号)、それなりに根拠のある主張であった。
 あるいは吉書進納物を控除扱いとする場合もあった。いくつか列挙しておこう。
 永仁六年(一二九八)一一月一九日紀伊浜中南荘惣田数注進状写(高野山文書又続宝簡集二二、鎌二六―一九八七五)では、下行分として、八幡宮八講米・井料・御倉付米などと並び、「一斗 万石米」があった。鵤荘の「鵤御庄当時日記」には、「一、万石引足 古日記書写畢、目録定」として、「五石八斗東西分引之」とある。これは、法隆寺に納める年貢のうちから、万石米関連用途が差し引かれたことを意味する。
 大乗院領越前坪江荘に関する越前坪江上郷公私納物注文(大乗院文書、鎌三五―二七三五五)のうち「上郷分」分米三八八石余のうち四八石余が除分扱いであって、そこには在地仏神事にかかる「諸社上分米」「御祭料」「豊原寺仏性供米」、あるいは「見下立用米」「井料米」「公文得分米」などとともに、「吉書成物 十四石五斗」が見える。同様の記載は、「円方」「両屋敷分」にもある。「上郷分」の「吉書成物 十四石五斗」は、「雑掌 十石五斗/番頭沙汰人 四石」とあって、雑掌・番頭沙汰人に支給されていた。あるいは、彼らが吉書進上物用途を一時的に立て替えた代償として支給されたことを意味するものであろうか。
 一五世紀前半頃と考えられる三上荘大野郷年貢帳(『和歌山県史』中世史料二、禅林寺文書三九号)でも、「除仏神領并諸給分」の項目のうち、「番頭等吉書代、進上二貫文、給米八石四斗」とある。これも吉書銭二貫文を進上した番頭などに対して、その代米が還付されたことを指すのであろう。なお二貫文の対価として米八石四斗は余りに多すぎる。これについて薗部は一種の「祝儀」とするが、あるいは矢野荘のように在地での祝用途下行分も含まれたものかもしれない。
 また吉書進上物の運送に関わる夫役が優免される場合もあった。正和二年(一三一三)二月日山城革島荘年貢注進状(革島文書、鎌三二―二四八一〇)によれば、同荘では人夫役として、七五人分人別二〇文の代銭納と決められていたが、このうち「吉書わかな夫」二人分は除分となっている。これも在地負担の軽減措置の類である。
 以上のような措置によって、モノを介する吉書は一方的収取という事態を免れている。ここで認められるのは、領主と領民の互酬関係であって、こうした関係こそが、モノを介する吉書の長期にわたる存続を可能としたのであろう。もとより、あらゆる領主―領民関係が、全く同質の互酬関係・相互依存関係を構築できた訳ではあるまい。先の矢野荘田所脇田昌範の言を信じるならば、領主側から在地饗宴用途下行を打ち切る動きも存在したことになる。領民が不利な立場におかれる状態も十分あり得たのである。請取吉書をめぐる領主―領民関係は、潜在的に緊張を孕んでいた。領民側が有利な状況を引き出すためには、矢野荘の名主・百姓が示したような主体的な権利要求が不可欠であって、本タイプの吉書をめぐる互酬関係は、領民側の力量に大きく左右されたと言わねばなるまい。
 
 

むすびにかえて

 三箇条吉書の意味は、年頭という極めて象徴性の高い時期に、領主と領民が互いの義務を確認しあうことにあった。それは双務的な関係であった。その淵源を国司初任庁宣に求めるにしても、三箇条吉書の文言は、すぐれて現実的な支配正当性に関わる事柄であって、領主はこうした現実的な文言を年頭に繰り返すことで、毎年、領民から支配権の承認を取り付けていたとも言える。これに対して、モノを介する吉書は、本質的には、領民の進上義務のみを確認するものに過ぎない。ここでは領主は伝統と言う名の正当性に依拠し、領民はそれにただ服従するかのようである。
 「荘園制」とは、領主と領民(荘家)が、年貢・公事などのモノを介して結びつけられる関係である、と定義することが許されるのであれば、まさにモノを介する吉書はそうした「荘園制」を象徴する儀礼であった。換言すれば、年頭という象徴的な時期に、互いの立場・役割を―荘家はモノを進上し、領主はこれを受け取る、という双方の立場を再確認したのである。荘園領主とりわけ京都・奈良の荘園領主は、古代以来の伝統が彼らの自己認識に欠くことのできない要素であった。彼らは自らの正当性の淵源を朝廷との関係に求めた。朝廷の吉書のあり方を模倣し、それを継承することは、優れて政治的な選択であったと言えるであろう。翻せば、それは荘園領主の伝統的正当性を再確認するものであった。
 こうした片務的なあり方は、ことの一面を突いてはいるが、現実の社会はそう単純ではない。一方に双務的な領主―領民(荘家)関係を象徴する三箇条吉書の世界がある以上、モノを介する吉書が「伝統的正当性」のみに依拠することは容易ではない。それ故に、若菜進上・万石米習俗など民俗慣行への接近、予祝文言の注入や予祝文言のみの吉書への移行、あるいは吉書進上物負担の軽減や領主による贈与・饗応など、領民(荘家)の合意を取り付けるための方策が採られたのであった。そこには単なる隷属関係を拒否する領民百姓の姿があり、彼らの潜在的要求が吉書のあり方を互酬的なものへと変容させたのであった。この点において、現実社会の緊張関係が儀礼のあり様に大きな作用を及ぼしていたことが窺い知られるであろう。
 しかしモノを介する吉書をめぐる論点は以上に尽きるものではない。いま、モノを介する吉書の意義を、領主―領民(荘家)の関係が年貢・公事などモノを介する関係であることを再確認する点に求めたが、これのみでは吉書の意義を十分に論じきったとは言えまい。なぜならば、モノを介するということであれば、単なる贈与行為あるいは参賀という形でも十分目的は果たされるからである。むしろここで問われるべきなのは、「吉書」すなわち文書儀礼であったことの意義であろう。正月年頭に設定された文書儀礼は、領主―領民関係が、補助的であれ、文書を介する関係であることを象徴的に示すものであった。結解状・検注帳などの帳簿類が領主―領民関係の上で果たした役割の大きさ、あるいは菅野文夫「本券と手継」(『日本史研究』二八四、一九八六年)の説く、中世的文書主義の特性としての「文書フェティシズム」、こうした問題と吉書は有機的に絡んでいるのかもしれない。この難問への解答は今後の課題である。
 
(追記)小論をなすに際して、東京大学史料編纂所「古文書フルテキストデータベース」、国立歴史民俗博物館「記録類全文データベース」を利用した。また稲葉継陽・久留島典子両氏よりご助言を賜った。記して謝したい。
『東北中世史研究会会報』第11号 1999.1 1~12p
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