本冊には、正親町天皇天正二年八月一日より同年九月末までの史料を収めた。中央で信長の統一事業の上で障害となっていた一向一揆に大きな打撃を与えた。それは伊勢長島の陥落である。まず大鳥居・篠橋城を攻略し(八月三日条)、攻囲を厳しくしたので、一揆側は和を乞い退城した。ただしその退城に際しては凄惨な殲滅戦が演じられ、信長の親族多数が討ち死にした(九月二十九日条)。なおこれと連動して、河内では信長の部将が三好勢・一向宗徒と戦い(九月十八日条)、本願寺光佐は武田勝頼に長島への赴援を求めている(八月二十四日条)。また一揆側に降った越前木目城将樋口直房は、関盛信により殺された(八月十七日条)。同国鉢伏に信長軍に備えた専修寺賢会の籠城の様子は、多くの書状によりかなり具体的に伺えて興味深い(八月二十日条)。
また中央では、秀吉が近江寶厳寺に三百石の地を寄進した(九月十一日条)が、ここに長文の帳簿「天正二年九月十八日 竹生嶋早崎村田畠並屋敷目録」を収載した。
中国では、尼子勝久・山中幸盛等が因幡鳥取城を攻め、山名豊国の内応により、これを復した(九月二十一日条)。出雲日御崎神社の検校小野政光は、検校職を同政久に譲与し、毛利輝元はそれを安堵した(九月二十三日条)。
四国では、長宗我部元親が土佐国統一の過程として、安芸郡に兵を出し、諸城を攻略した(是秋条)。
九州では、本年八月より上井覚兼日記が出現するために、島津関係の箇条が多数収載されることとなった。入来院重豊は以前より謀反の噂があったが、島津義久への八朔の使者が礼せずに帰って来たため、所領を返上して忠誠を誓った(八月一日条)。その重豊旧領に対して島津家久等より競望があったが、結局本田薫親に与えられた(八月十六日条)。なお当時島津氏の家臣や寺院等から出された所領の宛行・繰替や、それに対する義久の対応は、この箇条に合敍した。同族島津義虎にも謀反の疑いがあり、義虎は義久に何度も使者を派遣して弁明している(九月二十六日条)。両者の応答の具体的内容は、箇条的に整理された覚兼の記述によって詳しく判明する。義虎はまた肥後天草の天草鎮尚と紛争を起こしており、義久は両者の調停を計ろうとしている(九月二十八日条)。この年内における島津氏の能関係の事項は九月十五日、田布施金蔵院の能の条に、狩猟関係の事項は九月三十日、春山の狩の条に、それぞれ合敍した。覚兼は義久より「種子嶋筒之逸物」の鉄砲を拝領し、早速使っている。
東国では、徳川家康と武田勝頼が天竜川を挟んで対峙したが、大きな戦闘に至らずに、両者とも引き揚げた(九月七日条)。
本冊には武田勝頼による、家臣・寺社等に対する安堵の箇条が多数存在する(八月二・十二・十四・二十二・二十四・二十七・二十八日条、九月九・十・十一・十二日条)が、これは前年四月武田信玄が没し、勝頼に代替わりした後の一連の処置の一環である。
北条氏に関する箇条は八箇条ほどあるが、ほとんど領内統治に関するもので、且つ簡略なものである。
越中より加賀に進出していた上杉謙信は、加賀地元勢力の要請によって春日山に帰国したが、直ぐに関東に出馬した(八月二十一日条)。
那須・芦名・白河の各氏は佐竹氏攻撃について会盟し、芦名盛氏は佐竹義重の勢を陸奥赤館に破った(九月七日条)。
東北では、伊達輝宗と最上義光は出羽楢下にしばしば戦った(八月四日条)が、結局和睦して兵を還した(九月十日条)。輝宗は織田信長と音問を重ね、金襴・緞子・虎皮などの進物を贈られている(九月二日条)。
死没・伝記としては、田村隆顕(九月六日条)と春澤永恩(八月十六日条)がある。田村隆顕は陸奥三春の城主で、「奥相茶話」には、「武勇兼備、謀略ノ大将」とある。伊達稙宗の女を室とし、伊達氏と結んで勢力を拡大した。伝記には室及び子女にかかることも収めた。なお息清顕の室は相馬顕胤の女で、後に清顕没後、この両後室の確執が田村家分裂の原因となるが、引用した天正十六年の伊達政宗宛隆顕後室の消息には、清顕後室への敵意が見事に表現されている。
永恩は臨済宗の僧侶で、建仁寺の第二百八十七世住持。若狭の人。語録『春澤録』、詩集『枯木稿』の著作がある。生地のためか若狭武田氏との関係が深い事情が、法語により知られる。
なお刊行後に気づいた誤りを以下に掲げる。謹んで訂正したい。一五四頁一〇行目、東郡に「苫東郡」の傍注を付し、二一三頁一行目、榛原郡の傍注の「駿河」を「遠江」に、同上標出「駿河榛原郡」を「遠江榛原郡」にそれぞれ訂正し、三三六頁九行目、尾州小幡城の傍注「勝、下同じ」は除き、三六二頁六行目、長岩城の傍注「豊前」を「筑後」に訂正する。
(目次一一頁、本文三七一頁、本体価格七、三〇〇円)
※『史料綜覧』には一日条として収められているが、二日の誤り。
8月2日付明智光秀書状 → 観音寺御同宿中宛
本文書は元亀二年八月十八日条(十編之六、737頁)に既に収録されており、同年八月十八日に信長が近江横山に着陣した綱文にかけている。本文書の中で光秀は「随而来十八日、殿様御働必定候間、可被成其御心得候」と観音寺に伝えていることもそれを裏づけている。影写本には「元亀二年」の付箋が貼付されている。 なお刊本では元亀元年、目録では二年に比定されている。
元亀二年として問題はないように思われる。天正二年とする理由は逆にない。したがって綱文を削除する。
加田:長浜市加田町・加田今町。
同じ〔清水文書〕中に、元亀元年九月十九日付樋口直房宛行状がある。同一人物と思われる野村孫太郎に石塚壽光庵・加納慶光庵領を配当分として宛行なった内容。樋口は秀村の後見役。樋口は八月十八日以降に秀吉によって捕らえられ、殺される(本年八月十八日条参照)。 谷口克広『織田信長家臣人名辞典』によれば、秀村は天正二年正月、成菩提院より年始の礼として二百文を受けた「堀遠江守」であるとする(「成菩提院年中日記」)。とすればその後文書に「堀次郎」と書くはずはない。 「戌」年が天正二年(1574)の12年前、永禄五年(1562)の可能性はどうか。秀村は『当代記』によれば元亀元年(1570)時点で15歳、とすれば生年は弘治三年(1557)となる。永禄五年時点で5歳だから、これもまず考えられない。
〔下坂雄太郎氏所蔵文書〕(十編之二十、321頁)の「天正元年納加田・下坂并所々作職算用帳」にも野村孫太郎なる名前は見えず。一箇所「公方四斗五升」という記載があるのみ(フカダ四畝十八歩分)。また、加田辺を堀氏が支配したという徴証は見えず(平凡社『滋賀県の地名』)。
本年のものとは確定しがたく、不採。
本条に同月十四日・二十四日条収録予定の駿河浅間神社関係の文書13通をあわせ、三つの綱文を統合した。
(変更前)
(変更後)
武田勝頼、駿河府中の富士浅間神社玄陽坊に知行分を安堵し、普請役を免除す、尋で、同社新宮大夫等にも知行分を安堵し、三浦与次等をして、同社三月会の所役を勤めしむ、
『史料綜覧』では本条の前半に「勝頼、駿河富士浅間社鑰取次郎大夫等の諸役を免除し、同社稲川大夫に知行分を宛行ふ」があったが、これを十二日条に移動したため(十二日条ノート参照)、この部分のみを独立させる。
本月二十八日条に、下の典拠3から「遠江小笠原信興、旧に依り、加茂社祢宜五衛門尉の知行分に諸役を免除し、其祢宜職を安堵せしむ、」の綱文が立っているが、その後の新出分1・2を合わせて十五日条に移す。
史料綜覧にはなし。新たに立条。
※稿本では十七日条として収められている
石見国/鹿足郡/津和野町大字鷲原 保々駒次郎所蔵 一、織田信長朱印〈天正元九月廿一日〉 壱通 一、豊臣秀吉書状〈八月十八日〉 壱通 一、加藤清正領地証状〈慶長二年六月廿六日〉 一通 計参通
このうち、二番目の豊臣秀吉書状が今回の文書に該当すると思われる。しかしながら、『島根県古文書等所在確認調査報告書 1977-1978』(島根県教育委員会、1979年、RS1071-592)によると、この「保々文書」は確認できない。すでにこの時点でこれらの文書は所在が不明になっていたとおぼしい。
この明治28年に採訪を担当したのは田中義成氏である。この採訪時田中氏は自筆の日記および採訪文書目録を残している。「山陰訪書日録」(4144-12-4)および「山陰北陸採訪余録」(4144-12-5)の二冊である。
〔保々文書〕は、後者の44丁以下に記録がある。「石見鹿足郡文書」というくくりで、「此郡偽物多ク借写スヘキモノ僅々数通ニ過キス且通運不便徒ニ運賃ヲ費スヲ以テ旅宿ニ於テ直ニ謄写シ了ル」と覚書が付されており、そのあとに、蒐集目録所載の三通とも筆写されている。史料稿本と校合の結果、異同はない。
この採訪ののち、所在が不明になったものと推測するしかない。
それにしても、天正元年九月廿一日付けの信長朱印状(朝倉弥四郎入道宛)が、『大日本史料』にも奥野高広『織田信長文書の研究』にも採られていないのは、どういうわけであろう。偽文書という判断だったのだろうか。あるいは、存在が知られていないのであろうか。
年月日 | 摘要 | 十編冊-頁 | 備考(記載原文・典拠等) |
永禄12.10.11 | 信長の伊勢大河内攻めに従軍 | 3-305 | 樋口 |
元亀1.6.21 | 信長の小谷城浅井攻めのとき、調略により信長に与する | 4-532,533,534,539 | 「樋口三郎兵衛ト云者ハ、江北一ノ剛ノ者也」(甫庵) |
元亀1.7.25 | 竹生島宝厳寺領に臨時の課役を免除す | 4-675,674 | 署判発給文書・綱文 |
元亀1.10.2 | 秀吉蜂須賀正勝に米を樋口直房に渡すことを命ず | 5-12 | ひくち |
元亀2.2.17 | 島秀親宛堀秀村安堵状の伝達者となる | 5-950 | 樋口直房は島秀親の相婿(島記録) |
元亀2.5.5 | 浅井勢と交戦 | 6-215,216 | 樋口 |
天正1.8.27 | 小谷落城の戦功として、信長から坂田半郡を下さる | 17-296 | 浅井三代記 |
未詳9.6 | 浅井長政が堀秀村に物を贈ったさいの書状の宛所 | 17-322 | 樋口三郎兵衛尉 |
その他 | 19-76,77,78/23-173,233 |
ここでは、直房死没にかけて、下記の樋口直房書状四通、および〔花押彙纂〕として直房の花押を収めた。
※新たに綱文を立てる。8月20日付諸江宛専修寺賢会書状にかけて、天正二年の一連の賢会書状をここに全て収めた。
奥津氏の奥津は興津に通じる(『姓氏家系大辞典』)。黒田氏によれば、遠山氏と興津氏は縁戚関係にあるという(b論文)。この興津氏は、「北条家所領役帳」に遠山衆の一員として見え、江戸落合ほかで64貫文余の知行を有するとのことで、上記文書に見える遠山氏との関係もそのような接点からのものであることが考えられる。
『神奈川県史』資料編3古代中世(3下)を調べると、遠山康光の虎印判状の奉者としての活動のピークは永禄五年〜七年で、奉者としての終見は永禄十一年である。黒田氏の研究にあるように、元亀元年以降越後で活動したとなれば、本文書にある年記「戌」は永禄五年と考えたほうがよいか。内容的にも天正二年とするような積極的な材料が見当たらないので、不採用とする。
※稿本・史料綜覧には綱文が立てられていない。
『群馬県史』『静岡県史』など自治体史において本史料は「高山系図所収文書」と呼称されている。〔高山鶴治氏所蔵文書〕全体が高山系図で構成されているので、検索の便を考えて「高山系図所収文書」としないことにする。
稿本・綜覧では綱文が立てられていないので、上のような綱文にて新たに立条する。
武田勝頼、海島寺に門前普請役を免除すること、天正七年四月十二日の条に見ゆ、(『山梨県史』資料編4-495号によりこちらも新規立条予定)
1.については、天正元年十二月二十八日付輝宗宛信長書状がある(『大日本古文書 伊達家文書之一』p333/十編之十九p61)。これは内容豊富で、記載内容(信玄の死去、朝倉義景の斬首)から天正元年のものであることは確実である。
「去十月下旬之珍簡近日到来、令拝披候」という書き出しではじまっており、十月下旬に輝宗が信長に書状を送ったその返事であることがわかる。これは本文書の「去初冬芳墨拝謁、委曲返答候シ」の部分に対応する。また本文書の「鷹于今堅固候」は「殊庭籠之鴾鷹一連、同巣主大小被相副候、希有之至、歓悦不斜候」という部分に対応する。つまり、年次は天正二年と考えて間違いはない。
『伊達家寄贈文化財目録(古文書1)』(RS1041.23-31-2)・『仙台市博物館収蔵資料目録10』(RS1041.23-32-10)と本書架蔵伊達家文書写真帳をつき合わせたところ、基本的に上記目録番号順で写真帳に文書が収録されているが、この文書や天正五年閏七月の信長朱印状(伊達家文書302号)は省かれていることが判明した。採訪時出陳などで撮影ができなかったためと思われる。
しかしその後、別の機会に同文書は撮影されている。『東京大学史料編纂所報』24(p86)によれば、このときの仙台市博物館出張のさい、前述のごとき写真帳から漏れた文書の撮影をしたとのこと。しかし写真帳には仕立てられていないので、マイクロフィルムで閲覧できるのみとなっている(dup.1988-054)。
もともと綱文には、このあと「大村弥十郎等に所領を宛行ふ」という文章が続いていたが、この部分は十二日条に移す。
臨済寺の部分と大村弥十郎の部分は別々にして立条。信濃金山衆と菅沼伊賀への安堵・宛行を併載。
→武田勝頼、信濃金山衆及び大村弥十郎等に所領を宛行ふ、
※家康安堵と勝頼安堵の比較( )内は家康安堵高
※大村弥兵衛分50貫文が加えられた理由
この時期に遠江、とりわけ城飼郡の所領などが大村弥十郎に安堵され、しかも大村弥兵衛分も上乗せされた理由として、高天神の攻防において、大村弥十郎が家康方から武田方へ寝返った(小笠原信興とともに?)可能性を考えてみる必要がある。逆に大村弥兵衛は徳川方に残ったものと見られる。〔諸家系図纂〕高天神小笠原家譜に、大須賀康高に属して高天神城に篭った人間の中に大村弥兵衛が見られるからである(第23冊p27)。
また、『静岡県史』では大村弥兵衛に高信と傍注が付いているが、根拠は未詳。これもあるいは「御家中諸士先祖書」を見ることで判明するか。
奉者は山縣三郎兵衛、名宛人は菅沼伊賀守。
〔浅羽本系図〕に菅沼氏の系図があり。そこにも伊賀守を名乗る人物が一人いるが、よくわからない。
『寛政重修諸家譜』(刊本5-p287)によれば、菅沼氏は清和源氏頼光流、代々伊賀守を名乗る流れは、嶋田の菅沼と称したようだ。ここで該当しそうなのは三照(久助、伊賀守)。「はじめ今川家につかへ、その後東照宮につかへたてまつり、のち武田信玄に属し、また御麾下に参り、三河国の代官となり、…」とある。元和1.10.16、75歳で死去とあるから、天文九年(1540)生まれということになる。時期的には齟齬していない。
しかしその他の一次史料で確証づけることができないので、傍注は付けない。
※『山梨県史』資料編4にも〔信盛院文書〕が翻刻されているが、『甲州古文書』所収文書と照合すると以下のようになる。(○は山梨県史にも収録。×は山梨県史未収録)
『甲州古文書』は原本ではなく、『寺記』および『甲斐史料集成稿』に拠っている。本文書は『甲斐史料集成稿』に拠るもので、本所架蔵写真帳(6171.51-16-4)に見える。しかし所蔵者などの情報が不明確であるといううらみはのこる。
また本文書(上記リストの2に該当)が『山梨県史』に収録されていないということは、すなわち現在同院に伝来していないわけである。岩手氏に宛てられた安堵状が本院に残っていることは、本院が岩手氏の菩提所であったと推測する『山梨県史』の解題にしたがえば、問題はない。
内容解釈上二つの考え方がある。ひとつは「従法性院殿御父子」(信玄・勝頼)より渡された知行分を勝頼が安堵するという解釈。これだと「御父子」という勝頼の自敬表現が気になるし、それをふたたび安堵するというのも奇妙である。『山梨県史』資料編4に収録されている〔代替安堵〕とある判物・朱印状を見るかぎり、同じ文言の文書はない。ただいっぽうの解釈として「従法性院殿、御父子…」と区切り、武田信玄より名宛人たる岩手右衛門大夫・同左馬頭父子に宛行なわれた所領を勝頼が安堵するというようにも採れる。この場合も「御父子」という表現が気になるが、ここでは後者の解釈にしたがい採録しておく。
〔竹生島文書〕二/○近江(6071.61-90-2、p96)「天正二年九月十八日 竹生嶋領早崎村田畠并屋敷目録」
この帳簿の内容は以下の三つの部分に分類できる。
(A)字ごとに分類、地所一筆ごとの面積・年貢高と百姓を書き上げたリスト
(B)条里別(?)に分類、地所一筆ごとの面積・年貢高と百姓、領主(=収納先の院家)を書き上げたリスト
(C)「天女之日御供田十二人衆納所目録」…十二人衆個別に分類、供田の面積・場所・年貢高・百姓を書き上げたリスト。天正十二年八月十四日付けの奥書がある。「右田数、最前十二人衆支配之時之目録/を以書写候間、向後違目之刻、此表見合、/可被請取候、自然田地相違候ハヽ、堅可有/違乱者也、為其如此写留置者、仍目録如件、/天正拾弐年〈甲申〉八月十四日」
表紙の日付を信じれば、(1)の秀吉による寄進直後に作成された所領目録である。このとき寄進された三百石は近世竹生島領の根幹となってゆく。だからといって、とくに後年の文書などでこの目録に依拠されることはなく、この帳簿の位置づけは不明確である。ちなみに(A)の部分を総計すると、302石9斗3升5合ある。
天正三年五月十八日竹生島田地置目(東浅井郡志170号)の第一条には、「下地上中下組合、今度指出候随目録、可有支配之事」とある。この「今度指出候」「目録」は、(A)(B)の可能性がある。今後の検討をまつためにも、ここで収録する。
■「天正二年九月十八日目録」と関係するとおぼしき他の帳簿類(竹生島文書所収)
本条〔三宝院文書〕二十八所収「遷座諸役者之事」の史料について、その後の調査で原本は「醍醐寺文書」216函67号であることが判明した。
新規立条。
穴山信君は永禄12年4月以降駿河に進出し、駿河江尻領を支配する。『清水市史資料 中世』所収の文書編年目録を検すると、年記が干支のみの信君判物も数通確認できるので、とりわけ珍しいというものではない。十二支のみの年記の信君判物も少なからずあるようだ。
■佐野越前守が登場する穴山信君文書(『清水市史資料』)
(年未詳)3.21 | 信君判物 | 奉者として |
(年未詳)6.26 | 信君書状 | 長釣斎が越前守を通して信君に条々を仰す |
(年未詳)10.8 | 信君証文 | 正行院・東漸院・宝塔院の奉行人として |
(天正8?)3.14 | 信君朱印状 | 宛所、竹火縄・松明・松やにについて覚 |
(年未詳)9.4 | 信君書状 | 宛所 |
(年未詳)1.18 | 信君判物 | 宛所(佐越) |
(年未詳)4.8 | 信君判物 | 宛所、本文書と内容的に関連性高い |
(年未詳)4.25 | 信君判物 | 宛所(佐越)、俵運搬について |
(甲戌)9.13 | 信君判物 | 宛所=本文書 |
その他元亀3.7.11、同9.11付の連署知行書立などに佐越泰光(花押)という署判が見え、佐越=佐野越前守と考えれば、本文書の宛所は佐野泰光と考えられる。
■考証
■考証
署判者の行動に矛盾はない。明智の花押型も元亀四年四月から天正三年七月のW型であり、立花京子氏も本文書を天正二年に比定されている(前掲論文)。内容的に見ると、九月中旬から下旬にかけて戦われた河内での合戦が十月に入って終息したと見るべき史料はなく(唯一〔細川家記〕に「無程」帰陣とある)、依然続行中だったと考えても不自然ではない。
※「史料稿本」十月二十日条に、本文書を掲げて「信長、佐久間信盛等を遣し、遊佐信教等を河内高屋城に攻めしむ、是日、信盛等、根来寺衆徒を招く」という綱文が立てられていたが、綜覧では削除されている。稿本には元年か二年のいずれかとしたうえで、元年とする判断が書き込まれているが、その書き込みには×が付けられて抹消されている。
→採用(これにより十月まで河内攻めは続行中であることになるが、前記〔革島文書〕はやはり天正元年の可能性も捨てきれないので、採らない)
今度者各依粉骨得勝利候、連々嗜ミ験現顕候、仍疵如何候哉、時分柄養生簡要候、早々可申越候之処、取乱互相似疎意候、尚追而可申候、恐々謹言、
九月廿五日 十兵衛尉
(花押)
野村七兵衛尉殿
■考証
時間的な問題でいえば、上記(2)〔革島文書〕以上に天正二年の可能性が高い(一週間前に合戦が行なわれているから)。『福井県史』に収められている「野村家文書」を見るかぎり野村氏は、朝倉氏に仕えた越前の侍だったようである。それが明智に従うようになった契機としては、天正元年七月の朝倉攻めが考えられる。やはりこの文書も天正元年、二年両年の可能性があってどちらとも決めがたい。
→不採
新規立条。本年閏十一月十七日条に「毛利輝元、出雲日御崎検校小野政久に同検校職等を安堵せしむ」という綱文が立っているが、これに先立つ九月の文書はこの時点で認識されておらず、綱文が立てられていなかった。したがってここで一括して採ることにし、閏十一月十七日条は削除することにする。
■考証(「小野雄彦氏所蔵文書」について)
『大社町史』には、本文書を含めて六通収録されている。同町史史料編古代・中世別冊(1041.73-47-B3、p4)に説明がある。「日御碕神社検校小野氏の分家に伝えられた文書。具体的な文書の伝来経過は明らかでないが、中世末・近世初頭以後に同社上官を務めた真野家伝来の文書を含む。真野氏は小野氏の一族と推定され、永禄13年(1570)8月5日、兵部少輔政行が日御碕社検校から所領を譲渡されて神官に任ぜられ、新たに上官真野氏を称した。(…)これらの文書は、すべて従来まったく知られていなかったもので、本町史編纂の過程で新たに発見されたものである」。
※概観するかぎり、この系統の文書は日御崎検校職を継承した小野家惣領家の傍流とおぼしい。政光−政久と政行という二つの流れ。
※中世末期〜近世初期にかけて成立した日御崎社の「検校―上官体制」。政行の家(真野家)が上官職に(『大社町史』上巻p719)。マイクロフィルム〔小野文書〕所収「小野氏系譜断簡」(名称は『島根県古文書緊急調査総合目録』RS1071-504に基づく)によると、政久は政光の長子、政行は同四子である。さらに同断簡政久項には「政光第一子、天正二年九月廿四日継世、同五年十月日、日〓宮仮殿遷宮訖、是毛利輝元依仰也」とある。政光・政久・政行三者の関係もわかるので、この系譜も収録する。断簡の正式名称については、『所報』25(p14)には「「出雲国日御碕祭主小野氏系図」と他の数種類の系図の断簡も撮影した」としか記されていない。
■考証
国司元武とともに連署している左衛門尉とは誰か。
『山口県史』史料編中世2別冊「花押・印章集」により花押を付き合わせると、兼重元宣の花押に最も似ている。元亀三年二月八日輝元袖判同氏奉行人連署安堵状写(花押は花押影)/永禄九年四月廿九日毛利氏奉行人連署奉書の二通。『萩藩閥閲録』巻52(兼重五郎兵衛)には、元宣の没年月日が天正八年二月九日とされ、左衛門尉の官途を名乗ったと記されている。また『萩藩閥閲録』には、天正1.12.1輝元書状写の宛所「兼左衛」に元宣の傍注が付されている。兼重元宣が左衛門尉である一次史料がいまのところ見あたらないのが難だが、以上の二次的史料により、ほぼ断定してもかまわないのではないか。
『大社町史』史料編古代・中世下巻(1041.73-47-B2)収録文書を見渡し、今回収録された(3)で小野政久に安堵された薗村について、これまでの経緯は以下のとおりである。
天文24.2.28、尼子晴久、日御崎神社に神門郡薗村百貫地を寄進する。(日御崎神社文書)
永禄6.5.29、尼子義久、薗村は一円に寄進したのだが、近年は半分が代官分になっているので、すべて小野政光の計らいで年貢を神社に納めるよう申し付ける。(日御崎神社文書)
これに関係しさらに下記三通の文書がある。
天正二年九月に政久から政光に日御崎社検校職および社領などが譲与される。その後閏十一月十七日になって輝元から、その譲状に任せて安堵する旨の安堵状が発給された。安堵された所領中に薗村が見える。この間、閏十一月十四日には、吉川元春が「政光以御一通被仰置之趣」という小野政光の文書を拝見した旨、御崎殿(政久カ)宛に答書が出された。政光の文書には日御崎社が大破したことが述べられていたとみられる。
これから考えると、修理のことに触れられている(C)はこの後の文書であると考えられるだろう(署判者からの年代絞り込みは難しい)。日御崎社とすれば、内容的に見て還補以前の(A)はその前のことになる。(B)は当然(A)のあとのものだろうが、(C)の前とも限らない。(A)で輝元が還補を約束したほぼ一年後、(C)にて事務的な還補の報告がなされ、それを受けて吉川元春が(B)のような祝意を述べた可能性もあるからである。(B)における元春花押は、天正元年〜二年の間に変化して以後のものと同型であるから、(B)は天正二年以後とみなすことができる。ただしその後没年まで、輝元ともども花押にほとんど変化が見られない。
薗村が「勘落」され、その後「還補」されたというのはどのような意味なのか。尼子から薗村百貫を安堵されたのち、永禄六年時点で半分が代官分となっている。このことをして「勘落」とみなすのか。ただし(B)で「還補」されたのは六十貫であって、百貫の半分五十貫ではない。一度何らかの事情で日御崎領薗村の貫高が六十貫に減じ、それが「勘落」され、「還補」されたと解釈すべきだろうか。(C)に造営料に宛てることを求められた三十貫という数字は、百貫よりもむしろ六十貫に親近性のあるもので、やはり(B)→(C)という流れを考えるべきか。政久から次の元政へ譲与が行なわれたさいに元政が書き上げた出雲国日御崎社領の注文によれば、薗村は一番最初に掲げられ、千百石と石高が記されている。
〔小野家譜〕の小野政久項に、下記の記述がある。
第八十二世政久
政光之第一子也、天正二年九月廿四日継席受職、
同年閏十一月、輝元下政久相続神領安堵之証状、
同三年八月十七日、園村六十貫之地返進之旨吉川元春送証状、
この家譜では、問題の(B)をやはり天正三年としている。天正二年と断定しがたいこともあるので、ひとまずこれに従って天正三年と見て、新たに綱文を立てる。
「(天正三年)八月十七日、吉川元春、出雲日御崎社検校に、同社領同国薗村の還付を賀す、」
■aより、島津氏と志岐麟泉が書状を交わしている史料4・5は天正二年ではありえない。
■史料6には「去々年」に久玉の件が落着、天草・義虎が和睦したこと、その後ほどなく久玉をめぐり紛争が勃発し天草と義虎が戦闘状態に入り、麟泉は面目を失ったこと、大口方面は落ち着いていることに触れ、自らは島津方であることを申し述べている。天草・義虎の対立における麟泉の立場について、上井覚兼日記の記述と微妙にニュアンスが異なり、これもまた同じ天正2年のものとは考えがたい。
■しかし上井覚兼日記のd,eは史料6に触れられている事実と一致するので、同じ事件のことを指していると考えたい。すなわち、史料6は「二、三ヶ年無音」の前に出された書状ということになる。「二、三ヶ年」という表現を厳密にとらえれば、史料6は天正2年の2年前にあたる元亀3年以前となり、その「去々年」にあたる久玉落着は元亀元年以前ということになる。
■上記のうちB・Cはやはり上井覚兼日記d,eの事実を指しているのではないか。Aについては、島津氏と肝属氏が戦った元亀2年末〜天正2年正月の状況にあたる(とりわけ元亀3年2月頃の戦況―第8冊320頁参照)と考えられる。
■以上の検討をもとに、史料1〜3を加えて考えると、1〜3は、4・5の書状を受けた返書と思われる。さらに付け加えれば、史料6は1〜3のあとを受けて出されたものではないか。
■年次比定の問題。前提は史料1〜6は同年のものだろうということ。ポイントは大口の記述と天草兄弟の記述。大口をめぐる島津氏と相良氏の争いが決着したのは永禄12年8月。これをおいて他にない。とすれば史料6は同年以後のこととなる。
史料5中に「兼又先年当郡之立柄、請上意、天草兄弟和談申候」とある。これはルイス・フロイス『日本史』第1部81章の記事に相当するものと思われる。これは永禄12年から下っても翌元亀元年の記事にあたる。
以上のことと「二、三ヶ年の無音」および肝属戦戦勝の記事をあわせ、史料1〜6は元亀3年、久玉紛争は同元年に起こったものと推測される。
事件の推移 | ||
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永禄12年8月 | 大隅大口城の攻防、島津氏と相良氏和睦する。 | |
永禄12年後半 | 天草兄弟(鎮尚および弟大和守ら)の内紛。 | |
永禄13年(元亀元)カ | 天草兄弟の和談。天草鎮尚・島津義虎の和睦。 | |
(この間カ) | 天草鎮尚による天草郡久玉の侵略(弟たちの追放)。 | |
元亀2年11月 | 肝属兼亮、島津氏に対し叛旗を翻す。 | |
元亀3年8月 | 志岐麟泉、島津義久・同家老中に鎮尚・義虎紛争につき迷惑の旨報告。 | 史料4・5 |
元亀3年9-10月 | 島津義久・同家老中、麟泉の書状に返書。 | 史料1・2・3 |
元亀3年11月 | 志岐麟泉、天草鎮尚・島津義虎の間で戦闘が始まっていることを報告。 | 史料6 |
天正2年9月 | 島津氏、天草鎮尚・島津義虎の和睦調停に乗り出す。 | 史料7 |
天正2年11月 | 天草鎮尚、島津義虎との和睦について、島津氏の仲介を容認する。 | 史料8 |
天正2年12月5日 | 志岐麟泉、島津氏に使者を遣わし、和睦調停の実否を確かめる。 | 史料7 |
上記の考証から、補遺として永禄十二年における天草氏・島津義虎に絡んだ騒動について、新しく綱文を立て、次のような史料を収録しなければならない。
綱文案:永禄十二年是歳、肥後天草鎮尚、弟同大和守・薩摩島津義虎等と争ふ、島津義久・志岐麟泉、之を斡旋して和せしむ、尋で、鎮尚、和を破りて、同国久玉城を奪ふ、
June 2006