大日本史料第八編之二十九

本冊には、後土御門天皇延徳元年十月二十八日条から年末(是歳条)までの史料を収めた。
本冊の主要記事として、先ず十月二十八日条の相国寺八十世桃源瑞仙の伝記記事がある。
瑞仙は、明遠俊哲の法嗣、近江国市村の人で、父は京極氏の家臣、室町期五山文学の巨峰として夙に名の高い人である。瑞仙と親交のあった横川景三・景徐周麟・彦龍周興らの詩文集や瑞仙自身の講述にかかる抄物などによって、応仁の乱以後の彼等学僧が属した文化圏の動向ととくに宋学研究の状況などを伺うことが出来る。旧東京帝国大学所蔵の『百衲襖』は関東大震災によって焼失したが、その歴史的事項に関する抄出本が第八編原稿としてのこされている。これをすべて収め、ほかに建仁寺両足院本からの抄出本などによって補足した。『史記抄』は、既刊の大日本史料の底本であった三ヶ尻本を改めて京都大学附属図書館本を以て底本とした。また大谷大学図書館所蔵「小補東遊集」(天正十九年書写奥書)は、流布本と異なって、横川景三以外の禅僧の詩文をも採録している。いま玉村竹二氏の御教示を得て、瑞仙の詩文をはじめ、その関係資料を収載した。瑞仙関係の主要な史料なので以上付言しておく。コロタイプ版として、京都相国寺慈照院蔵の瑞仙自筆利渉守湊充の尺牘(「文明乙亥(十一年)仲夏十又一」付)を挿入した。守湊の南禅寺入寺を祝することの遅引を詫び、守湊の門人仙洲瀛蔵主に託して七言絶句一首を送ったもので、その第一句について改作前の旧句を併記してその批評をきくなど、守湊との親交を告げる史料である。ほかに瑞仙の筆蹟をうかがいうるものに岐阜宗敦寺蔵『識廬庵記』中の自筆七言絶句一首があったが図版は割愛した。また慈照院蔵別宗祖縁著贊(年記「寛永丁亥(四年)初冬念有八日」)の頂相一幅を図版とし、ほかに花押と印章を収めた。
つぎに、十一月十九日条の、神祇権大副吉田兼倶の大神宮神器の吉田社斎場所に降臨したことの奏聞と是日叡覧の記事は、吉田唯一神道大成期の一大事件として注目すべき記事であろう。
ついで十二月二十五日条に、幕府が義政の疾平愈祈祷の千句連歌会を北野社松梅院に催し、懐紙を叡覧に備えた記事があり、これに先立つ十二月初めに飯尾宗祇が北野連歌会所奉行を辞退して猪苗代兼載が受継ぐが、この間宗祇ははじめ明智頼連を推挙したのを頼連が辞し、禅予が兼載を推して決するという推移の事情がみえている。連歌史上興味深い記事というべきであろう。
ついで十二月是月条の、「無足衆」とよばれた丹波国衆が同国守護代上原元秀に背き蜂起し、細川政元が兵を遣して之を鎮めしめた記事は、当時の在地情勢を端的に物語る事例であろう。
おわりに、是歳条に我国辺民が朝鮮全羅道を屡侵した動向が朝鮮側の史料『成宗大王実録』によって立項されている。
担当者 百瀬今朝雄・小泉宜右・今泉淑夫
(目次八頁、本文三四〇頁、挿入図版二葉)

『東京大学史料編纂所報』第9号 p.91*-92