大日本古記録「建内記六」

本冊には、前冊のあとをうけ嘉吉三年五月から文安元年三月までの左記の部分を収めた。なお、( )内は底本に用いた諸本である。
嘉吉三年
五月記及び同記紙背文書(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本建内記第十五巻)
六月記及び同記紙背文書(同 第十六巻)
七月記及び同記紙背文書(同 第十七巻)
文安元年
正月記及び同記紙背文書(同 第十八巻)
なお、菊亭本建内記第十三巻(京都大学附属図書館保管)の内を以て、一部補った。
二月記及び同記紙背文書(京都大学附属図書館保管菊亭本建内記第十巻)
なお、伏見宮本建内記第三十七巻(宮内庁書陵部所蔵)の内を以て、一部補った。
三月記 九日条のみ(京都大学附属図書館保管菊亭本建内御記抜書の内)
前冊以来問題となっていた五辻建聖院の帰属をめぐって、宝慈院秀仁(後光厳天皇皇女)との間で争われていた一件は、幕府の裁定によって記主万里小路時房の主張どおりとなったが、時房の娘で建聖院主だった慈俊の帰住は許されなかった。そこで時房は、下の娘で、足利義教後室瑞春院尼の許で喝食となっていた慈照を院主にあてることになる。従弟悦林中恰は十刹の公文を望み、時房の息子阿古鶴丸は中権と号して建仁寺嘉隠軒内の南陽軒で中恰に喝食として仕えるなどの記事もあるが、記主時房に関する記事で興味をひくのは、永年家司として活躍した齋藤国継(法名常継)が、五十九歳で死去するにさきだち、その給恩を後妻とその一族出の養子とに譲ろうとし、種々画策して時房と対立する一件であろう。
薨卒記事のおもなものを拾えば、小倉宮・鹿苑院主海門承朝・将軍足利義勝らの記事があげられる。
担当者 益田宗
(例言一頁、目次一頁、本文二八二頁、図版二葉、岩波書店発行)

『東京大学史料編纂所報』第9号 p.94*