大日本近世史料「細川家史料四」

本冊には、前冊にひきつづき、寛永八年・同九年の忠利宛 忠興(三斎)書状百七十通(第八五三号〜第一〇二二号)、并びに書状の図版一葉を収載した。
寛永八・九両年の間に発生した諸事件のうち、最も重大なものは、肥後加藤家の改易と、これに続く細川家の肥後転封であった。忠興は、同じ九州封置の大名の一員として肥後加藤家の動静に注意していたし、加藤忠広の人物についても、早くからその行跡を狂気と評していた。やがて加藤光広の謀書事件なるものが発覚すると、ただちに国許の忠利にこれを報じ、肥後に人を派して情報の収集に努めるよう連絡すると共に、幕府の召命に応じて出府してくる忠広の行動を逐一見守った。また幕府当局の加藤父子審問の様子、家光と老臣の談合、加藤家改易の処分にたいする諸大名の反応などについても、その情報収集の詳細なことは驚くばかりである。改易決定後、上使衆によって熊本城が接収されるまでの経緯もかなり詳細である。忠興の関心は、とくに熊本城中の家臣の動向にむけられているが、これに関して主君忠広が城明渡しを命じている以上、国許の家臣は無条件にこれに従うのが当然と述べているのは、体制側に立つ大名の意識をよく示すものであるといえよう。
細川家の肥後転封の噂が、寛永九年六月中旬からしだいに強くなってくると、忠興は、忠利が大々名になることを喜びながらも、肥後が舟付の悪い国であると難じ、隠居の身としてこのまま安穏に老後を過すことを希望している旨を述べている。転封が決定してからの処置については、さほど詳しくはない。万事を忠利に任せていたためであろう。かくて寛永九年十二月、忠利は熊本城に、忠興は八代城に移り、細川家の小倉藩時代は終りを告げた。
寛永九年正月廿四日の大御所徳川秀忠の病歿もまた大きな事件であった。寛永七年に発した秀忠の病は一旦快方に向かったものの、八年正月再発し、その後一進一退の様子であった。諸大名は、その病状を聞くと競って見舞のため出府しようとし、幕府当局がこれを堅く制止したこと、寄生虫によるものとみられる秀忠の病状などが詳しく述べられている。在国していた忠興自身も、出府のため一度は京まで上り、幕府の制止を押しても江戸に赴く決意であったが、病状快復の報によって帰国したこともあった。
寛永八年五月、徳川忠長が、甲斐に幽閉されたことも重大な事件であるが、これに関しては忠長が近臣を次々に手討ちにしたこと、駿河で辻切を行ったこと、前年江戸に発生した辻切も忠長の所業とみられること、秀忠・家光はじめ幕府老臣が度々意見を加え、心を痛めていることなどが赤裸々に記されている。肥後加藤家・徳川忠長の事件には、当時から巷説も多く、事件の性質上明らかでない点が多いなかで、本冊におさめた書状は、重要な史料であろう。
諸大名の動静については、前冊に引続き、谷家の遺跡処分をめぐる忠興の配慮、黒田忠之とその老臣栗山利章との内紛、蒲生忠知家臣の内紛、これにたいする家光の親裁、伊達政宗の狂態、加藤嘉明の病死、遺領返納の申立、藤堂家の内紛など非常に詳しい。
忠興身辺については、好みの鷹狩、鷹場、茶の湯、茶碗、墨跡等の話、浅野長重の数寄屋の普請監督、草花竹木への関心、能の仕舞の研究、能役者の批評、江戸能役者の驕奢、孫光尚と烏丸〓々の婚儀の準備、甥細川興昌の素行を嘆じての酷評、内藤正重へ甲を調製する故実家としての一面、薬法の探求等が記されている。
担当者 村井益男・加藤秀幸
(例言一頁、目次一三頁、本文二九一頁、人名一覧三九頁、折込図版一葉)

『東京大学史料編纂所報』第9号 p.94**-95