大日本古記録「言経卿記八」

本冊には、慶長二年七月より同三年六月までを収めている。引きつづき記主山科言経は勅勘の身であるが、本願寺・興正寺に昵懇し、又徳川家康より十人扶持を受けて京都堀川に暮す。この間言経は二年七月二十四日より八月十三日まで瘧に悩まされ、また三年四月十六日以降及び五月十九日以降にも断続的に持病を患った。八月十三日条には「去月廿四日ヨリ所労之間、日記二三日間ニ記之、平臥之間、大略失念了」とあり、ここからかえって平素の本記執筆の仕方を推量ることができる。医薬及び種々の文化活動等を介して武家・町衆・僧尼等諸方面の人々と頻繁に交渉している記事の多いことは前冊同様で、これを山科家父祖よりの日記々載の慣例に従い毎日十項目前後の一つ書きに列挙している。
 言経の文化活動は、典籍などの貸借や茶湯・能見物・歌会等への参加をはじめ、彼の面目を示すものとしては医書や謡本に関する質疑への応答(但し内容は記載されていない)・筆蹟鑑定などがある。また亀屋栄任と組んで墨蹟や道具類の仲介をし口入料を得ている記事もある。特に本冊では、先に言経が筆写した公卿補任を本願寺門跡光昭が借出して筆写し、これを言経が校合奥書していたのであるが、それが三年正月十一日に完結したこと、又、伏見の家康の許で足利学校庠主閑室元佶が二年十月二十四日より回を重ねて毛詩の講釈を行ない、これに言経もしくは子息阿茶丸や室の兄弟冷泉為満・四条隆昌が度々出席していることが注目される。
 家康が上京すれば言経はほとんど必ず出向いて相伴するのであるが、このため家康は勿論豊臣秀吉・秀頼の京都での動向を本記によって詳細に追うことができる。家康との関係で興味深いのは、栄任と共に家康の装束についてしばしば打合せ、装束箱・束帯之具・指貫・夏袍・表袴・夏直衣・夏裾・直垂・単衣・冬袍などにつき逐一小川与七郎・中西栄久・精好屋宗永などの業者に指示したり、又栄任を経由してその代銀の受渡しをも行っていることである。さらに二年七月二十一日には、当時家康より疎遠にされていた本願寺光昭より言経が家康への口入を依頼された事実も見うけられる。
 京都の町の様子を伝える記事には、先年の地震で倒壊した本願寺御影堂再建に当り来迎柱をたてる時「町人共悉罷向合力也云々」とみえること、同じく地震でくずれた方広寺大仏の堂内に、甲斐に移されてあった信濃善光寺の阿弥陀如来像が華々しく遷座されたこと、町人原田喜衛門尉がタカサンクンに出陣するというのを見物したことなどが記されている、また、秀吉や家康の京都の邸宅新造の記事や、堀川町の南北に門が新造され、言経・為満も各々の間口に応じて負担した記事や、為満が先きに花恩院佐超の世話で買得した言経宅の向いの地にこの間私宅を新築するに際し支障を申出る者があり、言経の斡旋で松田政行等から作事の許可を得て落着した記事などいずれも細事ではあるが、これらのことから形成されつつある強大な権力と市井生活との交渉の一端がうかがわれよう。
 このほか言経とその周辺の信仰生活を語るものとして、几帳面に繰返される父母の月忌供養・旬の日の春日社拝(このスタイルは文禄四年正月以来継続)、多くの寺社やその法会への参詣、病時加持を依頼する真性院堯知を介しての不動明王花水供・聖天供浴油・庚申待、大沢一覚を介する月待等々の記事も少くない。
(例言一頁、目次一頁、本文二七七頁、挿入図版一葉、岩波書店発行)
担当者 田中健夫・益田宗・菅原昭英

『東京大学史料編纂所報』第8号 p.54*