大日本維新史料類纂之部「井伊家史料八」

本冊には安政五年七月二十一日から同年八月十五日までの史料を収めた。
 七月六日、幕府から謹慎を命ぜられて水戸藩の江戸駒込屋敷へ入った徳川斉昭の動静を、その後も、幕府はあらゆる方法で探索した。本冊に所収した田安家小普請奉行松永半六の書状や、徒目付河野忠蔵、小人目付、隠密廻等の上書には、屋敷内での斉昭の生活、京都との連絡の様子、水戸藩内での斉昭派の家臣の動きなどが種々の角度から記されている。
 一方、彦根藩系譜編集用懸長野主膳が、七月下旬、江戸を発って八月三日、京へ入ったのは、条約調印の事情奏聞の上使間部詮勝の上京に先立って、京都の情勢を幕府側に有利に導くためであったが、入京後、主膳が井伊直弼および彦根藩側役兼公用人宇津木六之丞に宛てた書状、九条家家士島田左近が主膳に宛てた書状などには、条約調印を遺憾とする八月八日の水戸藩および幕府宛の勅諚降下を中心にした時期の、京都における公卿や尊攘派志士の動きが詳細に伝えられている。
 このうち、八月五日付で主膳が直弼に宛てた書状(第五二号)を巻頭に図版として掲載した。図版でもわかるように、この書状には中間を破り棄て、貼り継いだ所が二箇所ある(一六四頁にその箇所を指示)。明治二十年頃に井伊家が編纂した「井伊家秘書集録」所収の本文書の写によれば、最初の箇所は「一御所向にて」で文章が始まり、次の箇所は「心配仕候間、御安心之場合」と文章が続く。すなわち、切断によって文章が続かない部分は飛ばして筆写されている。井伊家史料の中には、「秘書集録」を作成した際に切り離したことを朱筆で注記した文書の断片がかなり含まれており、本文書の一部切断はこの時におこなわれたものではないかとも考えられるが、断定はできない。
 第五三号には、九条尚忠および同道孝が島田左近に宛てた書状の写八通を参考史料として収めた。左近が写をとり、長野主膳に手渡したものらしいが、九条家にも伝存していないものであり、内容も尚忠・道孝の真情が吐露されていて興味深い。
 そのほかに注目すべき史料を二、三指摘しておこう。第四〇号は、オランダ政府諸公に宛てた老中の書簡が、どのような過程を経て作成されたかがわかる史料である。永井尚志・岡部長常・岩瀬忠震の三名が国王宛の書簡として起案し、海防懸、評定所一座、箱館・浦賀・下田の各奉行などが意見を付し、最後に老中がオランダ政府諸公宛の書簡に書き改めている。第四一号からは、同じく長崎奉行宛の黒印状・下知状・覚書について勘定奉行、評定所一座、老中が評議した内容を知ることができる。第四四号には、前津山藩主松平斉民が将軍後見として江戸城へ入ることを御三家等に伝える達書の案文が所収されている。斉民の辞退により、この達書案はついに表に出ることなく終ってしまったものである。
(目次一六頁、本文三一七頁)
担当者 山口啓二・小野正雄・河内八郎

『東京大学史料編纂所報』第8号 p.56**-57