大日本史料第十一編之十四

本冊は天正十三年三月朔日から四月十七日までの史料を収めている。
 天正十三年は豊臣政権の樹立上一期を画する時期であるが、本冊には羽柴秀吉の諸国征服戦の魁を飾る紀州征伐に関する史料(三月一日・同九日・同十七日・同二十一日・同二十五日、四月二日、同三日・同八日・同十日・同十四日・同十七日条)、織田家の宿老として本能寺変後の政権の帰趨に多大の影響を与えた惟住(丹羽)長秀の伝記史料(四月十六日条)が収められている。
 また検地の強行によって逃散した百姓の還住策(三月十九日条)や大友・島津両氏への働きかけ(三月十五日条)などは、政権の樹立を目指す秀吉の基本的政策の一環であり、上総日蓮宗徒と天台衆徒との闘争(四月二日条)や大友義統によるキリスト教入信抑止(三月二日条)、奥羽地方における延暦寺再興に関する史料(三月十一日・同二十日・同二十六日・同是月条)などは注目すべき宗教的事象である。
 地域的戦争では、陸奥塩松の大内定綱と田村清顕との闘争(四月七日条)が伊達輝宗戦歿との関連において、前田利家と佐々成政との闘争(三月二十一日、四月八日条)が秀吉の越中出兵予告(三月七日、四月二日条)と共に北陸征伐との関連において注意される。
 秀吉は前年開始した仙洞御所普請の視察(三月三日条)、大徳寺での茶会(三月八日条)の後、正二位内大臣に昇任し(三月十日条)、参内の際異例の優遇を受け「あるまじき沙汰」有りとの批評をえ(四四頁)、関白就任への地歩を固めた。そして三月二十日ついに根来寺・雑賀一揆の討伐を開始(三月二十一日条)、またたくうちに僧兵を破り、紀伊一国の平定に着手(三月二十五日条)、また宗教的権威と俗権とを誇る高野山金剛峯寺を圧服した(四月十日条)。
 この所謂紀州征伐の経過の中では前線への兵粮支給が堺経由で行なわれた(八一頁反町文書)ことが特に注意されよう。また千石堀・積善寺・沢・畠中諸城図(九七頁写真)と要祐一氏所蔵和泉四郡の地誌(二二七頁)は今回採訪のうえ収録したものであるが、前者は岸和田藩士安井家伝来の絵図、後者は同藩領の名主家伝来の地誌で、類書に乏しく、ともに良質の史料と考えられる。秀吉の紀伊侵入に反抗した在地勢力の実体については「紀伊国旧家地士覚書」(南葵文庫本)「紀伊国地士由緒書抜」(本所架蔵)の記事が最も良質であり、「紀伊続風土記」等の地誌類によって網羅することに努めた寺社領勘落の様相とともに、紀伊国における統一政権成立の具体相を推知するに役立つであろう。
 なお根来山・高野山衆徒の一般的動静についてはキリスト教宣教師の報告記事を付収した(二三二頁)。
 惟住(丹羽)長秀死歿の条では、長秀画像として著名な顕本寺蔵本が昭和二十年七月十九日夜戦火を受け焼失したので図版を本所摸写本によって掲げ、また長秀の詠歌を写真に収めた(四四九頁)。この懐紙は後裔丹羽長聰氏襲蔵の珍らしいものであるが所詠年次は明かでない。長秀の病悩については、後世、丹羽家において彼の割腹を秘したこと(四五六頁)が特に注目される。これについては新井白石の丹羽長秀論評が関連すると思われるので、参考としてその記事を〓にかかげ、また出版後気付いた史料を付記する。

『東京大学史料編纂所報』第7号 p.39*-40