大日本史料第一編之十八

本冊は、前冊に引き続き、円融天皇の天元三年七月から同四年十月までの史料を収めている。
 本冊のうち、まず注目すべき記事は、内裏焼亡とそれに続いた新内裏の造営に関するものであろう。内裏は天元三年十一月二十二日に焼亡した。そのために、天皇は職曹司に移御され、女御藤原遵子・資子内親王らもそれぞれに移られた。この火災によって、神鏡はその半ばを滅失した。この日に警固のことがあった。翌日には、焼亡後の雑事定などがあり、二十六日には、神鏡を神嘉殿より縫殿に移した。翌々二十八日には、服御常膳を減じ、諸国の調庸未進を免除し、天下の半〓を復した。十二月十日には、勘解由使庁を女御遵子の休所と定めた。十三日には、内裏焼亡のために大神宮以下の諸社に奉幣使を発遣した。さらに、十七日には、内裏焼亡を桓武・村上二陵に奉告した。二十一日には、天皇は太政官庁に遷御され、御竈神を勘解由使庁に移し、二十六日には、神鏡を朝所に移し、また解陣のことがあった。翌年正月には、内裏焼亡のために賭射が停止された(十八日)。二月十四日には、造宮に依って、大神宮以下の諸社に奉幣使が発遣され、二十日には造宮事始があり、三月二十三日になると、造宮のために諸国の今年の半租免除が定められ、翌日、建礼門で御読経があり、七月五日にも造宮御読経が行なわれた。同月八日になって、内裏の立柱上棟が行なわれ、造営は本格化したものと思われる。十月二十六日には、造宮所の仁王会と、新造内裏に遷御のために山陵使の発遣があり、翌二十七日に新造内裏に遷御があった。これを以て、この度の内裏焼亡・内裏造営などの記事は終っている。
 次に注目すべきものは、皇大神宮の式年遷宮に関する記事である。まず、四年三月二十一日に遷宮の上卿に関することが議せられ、八月二十五日には、式年遷宮に依って大祓があり、九月九日には神宝使の発遣があって、同月十七日に遷宮が行なわれた。
 また、三年九月十九日には、大和栄山寺領に関する太政官符が下された。これに関する史料を、栄山寺所蔵文書・色川三郎兵衛氏本栄山寺文書・陽明文庫所蔵栄山寺文書を以て掲げた。
 このほかに、死歿などの条に、その事蹟を掲げたものに高階良臣(三年七月五目)・平兼忠(同月二十三日)・源博雅・同信貞・同信明・同信義・同至光・蝉丸(同年九月二十八日)・坂上望城(三年雑載生死)・荒木田興忠(四年二月二十二日)・菅原文時(同年九月八日)がある。
 源博雅は従三位皇太后宮権大夫を以て、三年九月二十八日に薨じたが、むしろ楽人として名があり、その事蹟を挙げるに当っては、内閣文庫所蔵博雅長竹譜・仁智要録・宮内庁書陵部所蔵伏見宮楽書三五要録などを引用した。信貞・信明・信義・至光は、博雅の男で、その伝を博雅の条に合敍し、信義の伝の部分には、彼の自筆と伝えられる東京国立博物館所蔵の神楽歌の一部を図版として挿入し、参考に供した。蝉丸は博雅と交渉をもった、といわれる人物であり、博雅の男と同じく、博雅の条に合敍した。
 菅原文時は、菅原道真の孫で従三位式部大輔を以て八十三才で薨じ、儒者として名がある。臨終に当っては、源信の教化を得て念仏往生を遂げた人物といわれている。承平三年文章生に補されて以来、四朝に歴事し、文章博士・大学頭を経て、歿年に及んで従三位に敍せられ公卿の列に加えられた。彼の弟子に藤原在国・慶滋保胤らがいた。また、書に秀で、その書は小野道風・藤原佐理・同行成の三賢に次ぐ、と称された。
(目次一八頁、本文三九五頁、図版一葉)
担当者 山中裕・林幹弥・岡田隆夫・河内祥輔

『東京大学史料編纂所報』第7号 p.38