東京大学史料編纂所

刊行物紹介

大日本史料 第八編之四十三


 本冊には、前冊に引き続き、延徳二年(一四九〇)年末雑載のうち仏寺に関する史料を収録した。仏寺のうち本冊に収録したのは、諸寺における年忌、参詣、往来、贈答、風呂、造作、修理、騒乱等に関係する史料である。史料残存の状況にしたがって、興福寺(『大乗院寺社雑事記』『政覚大僧正記』など)、相国寺(『蔭凉軒日録』)に関する記事が大部分を占めることになる。
 前冊と同様、『大乗院寺社雑事記』(『尋尊大僧正記』)および『政覚大僧正記』の紙背文書について、特に意を用いて収めた。いずれも二次利用面の記録の内容を補う内容を持つものが多い。
 単純な事例としては、『大乗院寺社雑事記』(『尋尊大僧正記』十三として収める)正月八日条に「内山上乗院賀札到来」(一三六頁)と記されている上乗院公済書状が、同じ冊のうち三月十五日条の裏面に残っており(一五四頁)、大乗院門跡後見の成就院清賢を充所とする披露状だと知られることなどがあげられよう。
 また、九月二十三日、尋尊は、衆徒竹内光秀が吉野参詣に出かけたことを記し、さらに、同人に蔵王権現の絵像を持たせ、金峰山における大乗院門跡の宿坊である今熊野坊の坊主成慶をして、金峰山の蔵王堂で供養をさせるように命じことを書き載せている。『大乗院寺社雑事記』(『尋尊大僧正記』十一として収める)十二月後附の裏面には、同月二十二日付の光秀の書状があり、出発に際して自ら参上することが叶わないため、竹千代丸(光秀の弟。のち出家して乗秀)を以て尋尊に暇乞いをしたが、その際、「御本尊」の供養について成慶への伝達を命じられ、供養料として杉原一束を預かったことを記す。そして「御本尊」については、神人春国に命じて雨に濡れないように梱包して欲しい旨の要望を述べている。光秀は二十六日に奈良に戻り、二十四日に蔵王堂で供養を遂げたことを伝える成慶の書状を届けた(以上、六九頁)。この成慶書状は、『大乗院寺社雑事記』と同じく国立公文書館内閣文庫の大乗院文書のうちに伝わる『第二御油帳』の紙背文書として残っており、光秀に充てられており、追而書には布施として杉原一束を受領したことが記されている(七〇頁)。検索すべき対象は日記の紙背文書に限られないわけであるが、年記のない書状の探索は容易ではなく、残念ながら、採録は偶目したものに限らざるを得なかった。
 あるいは、二月五日、成就院清覧が尋尊・政覚師弟を自坊で饗応し、大乗院門下の院家東門院孝祐・東林院尊誉らも相伴することがあった(一三七・一六五頁)。『政覚大僧正記』十月一日・二日の裏面に残る二月七日付の東門院孝祐書状は、政覚に充てられたもので、相伴にあずかったお礼を言上すべきところ、タイミングが合わずに果たせなかったことを詫びるとともに、甘海苔十帖を進上している(二五二頁)。孝祐の甘海苔進上のことは『政覚大僧正記』に見えておらず、日記を補う史料になる。
 さらに、必ずしも尋尊は都度都度記すことはしていないが、南都陰陽師の幸徳井友重は、毎月祈祷のため、十八日に尋尊から撫物を受け取り、翌日それを戻している。『大乗院寺社雑事記』の紙背文書には、その際の友重の書状が多数確認され(一五五~一五九頁)、これらは、尋尊の当たり前の日常を知るための素材になろう。
 例示したものに限らず、紙背文書に残された書状は、モノの移動に付随するものが多く、日記と見合わせることで人とモノとの動きを詳細に読み取ることが可能になっている。特に、夏の贈答品として短期間のうちに奈良盆地内および奈良・京都間をさかんに往来した瓜については、輸送用の人夫徴発にかかわり『京上人夫帳』などの帳簿にも関連記事があり、少なからぬ分量の史料が残っている。すでに注目されている事象ではあるが(盛本昌広『日本中世の贈与と負担』〔校倉書房、一九九七年〕など)、書状を活用することでより微細な検討が可能になろう。
 書状以外でも、『大乗院寺社雑事記』十二月十日条の裏面に残る表法師参仕日々并下行覚書(三〇四頁)は、ごく最近、中世における史料の保存修理にかかわって注目されるに至った三位という表法絵師(三輪眞嗣「「表法絵師」三位について」〔総合展示図録『保存と修理の文化史』京都文化博物館、二〇一八年〕)による大乗院所蔵の絵画の表装修理に関する尋尊の手になるメモであり、やはり日記本文(三〇一~三〇四頁)を補う部分がある。
 日記とそれ以外の史料との連関という観点からすると、『春浦和尚法語』大照禅師(養叟宗頣)三十三年忌拈香法語(二三頁)および『補庵京華外集』上、永元院殿(細川政之)大祥忌拈香(二五頁)と『蔭凉軒日録』(前者は一〇頁、後者は一五頁)との対応も同様のものといえよう。
 最後に、収録した記事のうち、すでに活字化されているものでありながら、これまで注意が払われてこなかった記事について触れておいたい。
 『蔭凉軒日録』七月十九日条(九八頁)では、蔭凉職亀泉集証が門人である盛文集昌らと相談して、小河にある酒家の子を門弟として申し受けようとしている。この時期の禅宗寺院の経済活動を考える上で、金融業者との関係についてはつとに研究されるところであるが、ここで酒屋と蔭凉軒との具体的な人的関係が確認できるものとして注目される。
 また、『実隆公記』明応五年九月七日条(三一六頁)は、仁和寺真光院尊海(石山寺座主)の依頼をうけた三条西実隆が、中原師富に文案を作成させた勧進状をこの日清書し、翌日尊海に届けたことにかかる記事で、勧進状の本文を収める。それによると、延徳二年三月に近江で兵乱があり、石山寺の経典数百巻が失われたため、一切経の補闕整備のための費用寄進が求められている。ここに発したと思しき補写事業は、明応五年から文亀二年にかけて、善忍ついで空忍を本願としておこなわれたことが知られているが(田中稔「石山寺一切経について」〔石山寺文化財綜合調査団編『石山寺の研究―一切経篇―』法蔵館、一九七八年)、その契機は延徳二年三月の兵乱あった。ただし、石山寺の一切経を大きく損じたというにこの兵乱ついては、残念ながら他に徴すべき史料がなく、詳細は不明である。
 なお、本冊の編纂には、前冊までと同様、研究支援推進員木村真美子の協力を得ている。
 (目次一頁、本文三五六頁、本体価格八、五〇〇円)
担当者 末柄 豊・川本 慎自


『東京大学史料編纂所報』第53号p.38-39