大日本古記録 實躬卿記 八

この冊が収めるのは、徳治二年(一三〇七)正月から元亨元年(一三二一)正月までの日記と、その自筆本によった部分の紙背文書である。徳治二年、実躬は四四歳であった。官位は前々年に権中納言を辞して以来、散官のままであり、従二位である。こののち、延慶二年(一三〇九)正二位に叙せられ、同三年に按察使に補せられて正和四年(一三一五)までその官にあった。同五年任民部卿、同年権大納言に昇進する。しかし、わずか二ヶ月でこれを辞し、翌文保元年に五四歳で出家する(法名実円)。つまり、出家後も日記をつけていたことになる。現存する最後の自筆本は、延慶元年正月記(断簡、紙背徳治元年具注暦、口絵参照)であるが、写本に残された最末の記事は元亨元年正月にいたる。なお没年は未詳だが、嘉暦元年(一三二六)ごろまで存命していたのではないかと思われる(小川剛生氏のご教示による)。
 本冊でも引き続き、前田育徳会所蔵自筆本および武田科学振興財団所蔵自筆本を主要な底本として使用している。また、早稲田大学所蔵自筆本断簡および東京大学史料編纂所所蔵自筆本断簡も利用した。写本もまた同様に、三条本のほか、新たに「先人記」(神宮文庫所蔵三条家文書)を底本として使用した。さらに、前冊までと同様に部類記等の記事を編年化して、日次記の間に挿入している。特に、まとまった日次記が残らない延慶元年(一三〇八)以降は、もっぱら部類記によっている。部類記として用いているのは、引き続き「院号定部類記」「御幸部類」「除目部類」「節会部類記」であり、加えて本冊では、「実躬卿記改暦事」(京都御所東山御文庫収蔵)、「元秘別録」(宮内庁書陵部所蔵三条西本)、「花園上皇仙洞部類記」(東京大学史料編纂所所蔵中院家史料)をも使用した。特に「花園上皇仙洞部類記」は、東京大学史料編纂所所蔵『中院一品記』自筆本とともに伝来したものであり、近年の修理事業に伴う調査研究によって、その性格が明らかとなった(詳しくは、『東京大学史料編纂所所蔵『中院一品記』修理事業に伴う調査と研究』[東京大学史料編纂所研究成果報告二〇一五―一]参照)。なお、前冊と同様本冊においても、部類記相互に一部日付の重なる部分があるが、記事の内容に重複はない。
 本冊も前冊までと同様、底本に錯簡が認められる。編纂の過程でこの点の研究を進め、テキストを復元した。すなわち徳治二年九月記には、二一日条以下に、伏見天皇勅願春日社新三十講の記事が見える。一方、東京大学史料編纂所所蔵自筆本断簡に含まれる年次不詳の二紙は、もと折紙で某法会の散状(実躬とは別筆)である。三条本を参考に本断簡を検討したところ、同本が写し取っている通り、これは本来徳治二年九月記巻末に貼り継がれていたものであることが明らかとなった。この散状によれば、法会には証義者二名が立てられ、各日六座・五日間にわたって行われたうえ、一座ごとに講師・問者・読師・唄・散華が割り当てられている。このように、規模・内容からも春日社新三十講の散状にふさわしい。日次記の記事に関連して、その巻の末尾にこの散状を貼り継ぎ、後日の参考としたものであろう。このとき実躬は「上卿」を勤めていたが、所労のため男公秀(「参議奉行又常事也」と註記している)を代官として進めた。その関係から、詳しい情報を入手したものであろう。なお校訂にあたっては、自筆本断簡を底本として本来の秩序を復元したが、同断簡は欠損が激しく、三条本をもってその箇所を多く補った。
 次に、本冊から新たに底本として用いた「先人記」(新写本)についても説明しておく。同本は、神宮文庫所蔵三条家文書に含まれ、もと転法輪三条家に伝来した。現在は四三函に、大日本古記録『実躬卿記』に継続して主要な底本として使用してきた三条本(三十七冊本)と一括されているが、元来は四冊一揃の別本である。ちなみに、三十七冊本自体、元来別本であった複数の写本群を一括したものである。詳しくは、拙稿「『実躬卿記』写本の形成と公家文庫」(『禁裏・公家文庫研究』一、二〇〇三年)を参照されたい。筆者はそこにおいて、『実躬卿記』の中世における流布は比較的限定されており、新写本の形成時期は、三条西公福による正徳五年(一七一五)ごろの書写を嚆矢とし、近世後期に転法輪三条家などに急速に流布したと考えた。しかし、今回底本として用いた「先人記」第二冊(四三函―六一冊)の末尾には、実躬の曾孫にあたる正親町三条公豊による明徳二年(一三九一)の本奥書および、転法輪三条実治の書写本を転写した旨の同公修の文化一〇年(一八一三)の書写奥書が見える。つまり、中世における『実躬卿記』写本形成に新たな情報が加わる上に、実治の没年が享保九年(一七二四)であることから、実治書写本の成立はそれ以前となり、新写本流布の時期にも再考を要する。詳しくは、後考を期したい。
 この点ともかかわって、部類記の性格にも改めて注意が必要である。前掲拙稿においては見逃していたものも含め、現時知られる『実躬卿記』部類記の多くの成立は、中世にさかのぼる。つまりこれらの部類記からは、かつて存在した自筆本の状況を推測する様々な情報を得ることができる。特に、現在では失われてしまった自筆本がかなりあったことは間違いない。本冊における研究編纂によって、最後にまとまった日次記が残る徳治二年以後も、実躬が出家後にいたるまで日記を記し続けていたことが改めて確認された。この時期以降、実躬自身は散官となり、代わって公卿へと昇進してゆく公秀の後見の立場に退くことになる。そこで公事への関心も変化し、日記の作成もある程度公秀に委ねるようになって、徐々にその分量も減って、逐日記さなくなっていたことも推測される。それでも、「節会部類記」や「除目部類」からは、朝儀の根幹をなす行事への関心がなお旺盛だったことがうかがわれる。その関心は、実に出家後まで維持された。また一方、女院号定の部類記である「院号定部類記」は、これとは一線を画し、院や女院への院司・近臣としての奉仕の必要からも日記を記し続けていたことを推測させる。さらにこれらの部類記の中でも興味深いのが、「花園上皇仙洞部類記」の一部から本冊に収録した「三条入道大納言記」である。これもまた、院への奉仕の必要から出家後に記されたとおぼしいが、本史料は紙背文書から、貞和四年(一三四八)ごろに洞院公賢周辺で成立したものと考えられるという(前掲『東京大学史料編纂所所蔵『中院一品記』修理事業に伴う調査と研究』参照)。同じ閑院流に属する実躬と公賢が親密な関係にあったことは、『実躬卿記』に散見するが、その没後二〇年ほどで、同時代を生きた公賢のもとで『実躬卿記』が部類記に書写されたことは、先述の中世における『実躬卿記』写本の形成・流布という史料学的課題を解明するうえでも今後注目していかなければならない。
 紙背文書についても触れておく。本冊も前冊までと同様、自筆本の部分のほぼ全面に紙背文書が見られ、これらも順次悉皆的に翻刻した。本冊所収の紙背には、前冊までに多く見られた相論関係文書が姿を消し、かわって散官としての立場を反映した書状類が大半を占めるようになる。ただし、徳治二年四月に蔵人頭から参議に昇進した公秀を後見していたことを反映してか、本来公秀の手元に蓄積されるべき内容を持つ、奏事目録や行事への参加を催す綸旨なども含まれる。推定される文書の作成年次は、おおむね日次記の年次に近接しており、実躬が長期保存の必要なしと判断した文書を、到着後比較的すぐに反故にして日記の料紙としたものであろう。なお、前冊にもみられたように、本冊所収の自筆本においても、実躬は反故の文書を料紙として褾紙に再利用しており、見返にも反故の文書が残されている。
 最後に、内容についても紹介しておく。この時期はなお後宇多院政が継続し、実躬は後二条天皇の蔵人頭として活躍する公秀の後見に腐心する。院の権勢のもと、徳治二年正月の白馬節会においては、前冊の記事にも見えたように、尊治親王(後の後醍醐天皇)が旧風に習って出仕した。その後も尊治は、論語談義や鞠会など院の主催する行事の場に度々参仕する。院の政治思想や、尊治との関係を考える上で示唆的である。同日、前年末に左中弁に補せられた洞院公賢の拝賀があり、先述のように洞院家と昵懇であった実躬は、公賢の父実泰と細かな打ち合わせを行い、その書状を日次記に貼り継いでいる。三月になると、実躬の持病が落命を恐れるほど急激に悪化し、いったんは西園寺公衡に後事を託した。その後療養によって回復するが、実躬はこの時の病状を「腎空」(腎虚か)による「石淋」(腎臓または膀胱に結石のできる病気)であると理解していた。そこで当時の「大医」たちを召し、治療の方途を相談して、その内容を詳しく記している。四月になると公秀の参議昇進が実現し、実躬はその拝賀の詳細を、喜びをもって記した。これに続いて、初度除目清書・直衣始など、公秀の公卿としての活動が次々に記されてゆく。この若さでの公卿昇進は三代にわたってなかったことであり、実躬は公衡と相談しながら、車や装束を入念に用意した。七月一二日条には、はじめて「赤斑瘡」(麻疹)の流行が見える。その月のうちに遊義門院がこれに感染し、前後して日野資冬・公秀・大炊御門良宗・後伏見院女御藤原寧子(後の広義門院)なども同じく病に倒れる。資冬・良宗は没し、女院も危篤に陥った。寵愛する女院の命をつなぎ留めんとする院は、尊治を石清水八幡宮に代参させたが、女院は没する。院は悲嘆のあまり出家し、治世を天皇に譲りたいと幕府に申し出るほどであった。故女院追善のため、卒塔婆経や女院の御衣に遺髪をもって刺繍された梵字、消息経などが供養され、遺愛の品が配分されたという。これと並行して、前年以来の院の公衡への勅勘について、なお幕府が仲裁を図る記事も散見する。院は改めて幕府の指示に従い、晩年の亀山院の寵愛を受けた昭訓門院およびその皇子恒明親王に、遺領を配分した。連動して、昭訓門院から実躬・公秀に越前国小野谷荘・播磨国大山郷が充行われる。九月までには公秀の病も癒え、実躬は春日社新三十講奉行(先述)の機会を得てともに社頭に参拝して、嫡男の昇進ならびに病気平癒を謝した。一一月記は、後宇多院の東大寺受戒御幸にかかる。実躬の関心は、ここでも公秀の装束に集中しており、公衡に具足等の借用を依頼し、また衣装の色目を相談するなどしている。このため二人の間で何度も書状を交換し、花山院兼雅・同通雅ら複数の日記を引勘したり、一族の先例を調査した。以上でまとまった日次記は終わる。以後は節会・御幸装束・除目・改元などの部類記に残された記事であり、断片的なものが多い。しかし、たとえば延慶二年正月七日条には、藤原忠実が同忠通に語った公事の故実がみえるなど、興味深い記事も少なくない。中でも注目したいのは、「院号定部類記」である。これは、情報の少ない当該期の女院号定についての記事として重要であることは言うまでもない。そればかりではなく、延慶元年一二月から翌年一月にかけて、立て続けに三人の女院号宣下があったことについては、「年中両度院号先例希云〃、三个月三人相続、定無先例歟」と実躬が述べるように、異例であった。このうち後二条天皇生母西華門院については、天皇の突然の崩御に伴い、その生前の意を汲んで実行されたものであるが、実は遊義門院存生の時は女院に遠慮して差し置かれていた案件であったという。これは特別な事情であったとしても、残る二人は持明院統の后あるいは皇女であり、他の例ともあわせて何らかの政治的な背景を読み取るべきではないか。下って文保二年の、「花園上皇仙洞部類記」に収められた「三条入道大納言記」は、同天皇の脱屣にかかるものであり、すでに権中納言となっていた公秀が奉仕していることから記されたものであろう。元来実躬は大覚寺統(亀山院)への奉仕が顕著であったが、かねてから後宇多との不和もあり、むしろこの時期、公秀の持明院統への奉仕を重視しつつあった可能性がある。この推移は、後に公秀が北朝の重臣となってゆく前提として重要であり、また『花園天皇日記』を除いてまとまった記録が少ない当該期にあって、花園院をめぐる人間関係を考える上でも不可欠である。これから三年後、後醍醐天皇の時代となった元亨元年正月の除目に関する記事が、現存する『実躬卿記』の最後になる。そこには簡潔ながら、蔵人頭であった日野資朝が公事を奉行せず、人々が違乱に悩まされているが、「叶時儀」ゆえに問題とされないことが記されている。きたるべき内乱の時代を予見させるような示唆に富んだ記事であるが、実躬自身はその推移を最後まで見届けることなく、数年のうちに没したと思われる。
(例言一頁、目次四頁、本文二四七頁、口絵図版二頁、定価一二、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 菊地大樹

『東京大学史料編纂所報』第52号 p.50-53