大日本史料 第二編之三十一

本冊には、後一条天皇の長元四年(一〇三一)七月から、同五年(一〇三二)三月までの史料を収めている。
 この時期の主要な記録である右大臣藤原実資の日記「小右記」は、長元四年については正月〜三月記・七月〜九月記を、同五年については正月~十二月記を存するが、五年正月~十月記までは略本のみであり、参議右大弁源経頼の日記「左経記」は長元五年七月以降の本記を闕く。なお、経頼は五年正月六日の叙位議で従三位に叙されている(同日の条、三二五頁以下)。
 この間の主な事柄としては、斎宮頭藤原相通夫妻に拘わる大神宮託宣(四年八月四日の第一条、三六頁以下)、上東門院藤原彰子の石清水八幡宮・住吉社・四天王寺御幸(九月二十五日の条、一三五頁以下)、斎院選子内親王の退下(九月二十二日の条)にともなう新斎王の卜定(十二月十六日の条、二四八頁以下)、出雲杵築社神殿顛倒の報がもたらされたこと(閏十月三日の条、一八四頁以下)などが挙げられる。
 大神宮託宣をめぐる事件は、長元四年六月十七日、月次祭に奉仕していた斎王嫥子女王が荒祭神の託宣を受けたことにはじまる(四年六月十七日の条)。七月初頭、斎宮から託宣の旨が関白藤原頼通に伝えられると、頼通は事情を聞くため祭主大中臣輔親を大神宮から召還し、八月四日、輔親が頼通に報告したところの託宣に関する詳細が右大臣藤原実資に伝えられた。託宣は相通夫妻の「不善」「狂乱」を糾弾し処断を求めるだけでなく、源光清による大神宮神民殺害事件の処理に関する「公家懈怠」や後一条天皇の「無敬神之心」ことを咎める言葉を含むものであった。頼通は託宣の件に関して陣定を開こうとしたが、実資は斎王自身に寄せられた託宣であるという重大性に鑑み託宣通りに処分すべきで、公卿議定を招集することは託宣を疑うようなものだと反対した。頼通や実資は託宣の詳細について頭弁をして密かに輔親を尋問させ、その内容が奏上された。その後行われた陣定では、託宣通りに相通らを配流するという天皇の決定を前提に、配流の遠近や大神宮への遣使如何等が議題とされている(以上前掲)。その結果、同月八日に相通は佐渡に、妻藤原小忌古曽は隠岐に流されたが(同日の第二条、四七頁以下)、相通の配流先に関して再び託宣があり、同月二十三日に相通を改めて伊豆に流す官符が下った(同日の第二条、七二頁以下)。また、同月二十五日には経頼を使として大神宮への奉幣が行われた(同日の条、七六頁以下)。なお、この日、託宣に関連して祭主輔親が自身への叙位および大神宮禰宜等の加階を申請し(同前)、九月十日に大神宮禰宜等の位記請印が行われている(同日の条、一〇六頁以下)。ちなみに光清・相通等は五年三月五日に行われた非常赦(同日の第二条、三六四頁以下)によって召還されることになったため、大神宮に奉幣して彼らの召還が奉告された(三月二十九日の条、三七三頁以下)。
 上東門院藤原彰子の石清水八幡宮等参詣については、女院以下随行の女房・上達部・殿上人等の船・饗・屯食・仮屋等の調進が諸国司に命じられ、扈従の人々の装束も華美にして善美を尽くしたものであったことが「小右記」に記され、実資は「狂乱之極」と批判している。この参詣には頼通と内大臣藤原教通も同行し、二十五日に出発してまず石清水八幡宮に参詣した。実資や経頼は随行しなかったため、「小右記」「左経記」からは旅程が明確にならないが、「栄花物語」によれば、一行は賀茂河尻から乗船、二十五日の夜から明け方にかけて石清水八幡宮に参拝し、乗船して二十七日に摂津に入り、二十八日に住吉社と四天王寺に参詣、二十九日に乗船して帰路につき、十月二日に「あまの河」に係留、遊女に禄を与え、扈従の人々が歌を詠み、三日早旦に帰京した(以上前掲)。なお、上東門院に関する事柄としては十月二十七日に願文を横川如法堂に納めていること(同日の条、一七一頁以下)、四年十二月三日にその御所京極殿が焼亡したため、法成寺に避難し、ついで頼通の高陽院に遷御したこと(同日の条、二四三頁以下)などがある。賀茂斎院に関しては、長きにわたって斎王をつとめた選子内親王が四年九月二十二日に自ら退下し(前掲)、新たに後一条天皇の第二皇女馨子内親王が卜定された(前掲)。退下の事情に関しては、自ら「為院別当已及多年」と記す経頼の「左経記」が詳しい。選子内親王が退下を願ったのは、月来の病気が重くなれば「本意」を遂げることができなくなる恐れを慮ったためであるとされ、同内親王は退下の後、同月二十八日に出家している(前掲九月二十二日の条)。新たに卜定された馨子内親王は後一条天皇と中宮藤原威子との間の次女で、卜定時三歳。卜定をひかえて十月二十九日に御着袴、同日二品に叙され(同日の条、一七八頁以下)、十二月十三日に内裏から丹波守源章任の宅に退出し、同月十六日、斎院に卜定された(前掲)。斎院の交代は選子内親王が卜定された天延三年六月二十五日(同日の条)以来五十六年ぶりとなるため、「当時無見彼間事之人」という状況であり、調度の舗設にあたり「初斎院」とはどこを指すかといった点について議論になっている。卜定後の馨子内親王の日常生活などに関しても、旧斎院である選子内親王にしばしば問い合わせがなされている。これらに関しては新斎院の命を受けて旧斎院との間を行き来した経頼の「左経記」が詳しい。なお、馨子内親王は斎院卜定の日に三后に准じられた(前掲十二月十六日の条)。
 出雲杵築社神殿が顛倒したのは四年八月十一日とされ(同日の第二条、五七頁以下)、その報が朝廷にもたらされると、閏十月三日に軒廊御卜が行われ(同日の条、一八四頁以下)、同月十五日には奉幣使が発遣された(同日の条、一九〇頁以下)。また十一月三十日には同社の託宣により臨時仁王会が行われた(同日の条、二三九頁以下)ほか、同社託宣に関しては五年正月に後一条天皇が頼通に託宣にもとづく改元について諮問し(五年正月二十二日の条、三三九頁以下)、三月には同社託宣の御慎によって内裏において御修法・不断御読経が行われる(同年三月十二日の条、三六七頁以下)など、大神宮託宣の事件に続き朝廷を動揺させている。
 藤原頼通に関する事柄としては、興福寺東金堂・塔の供養を行ったことがあげられる(四年十月二十日の条、一六二頁以下)。興福寺五重塔及び東金堂等は寛仁元年六月二十二日に落雷によって焼失し(同日の第二条)、頼通は翌年七月から同塔の造作を始めていた(寛仁二年七月十一日の第三条)。この供養は御斎会に准じて行われ、度者を賜っている。藤原実資に関する事柄としては、後一条天皇の命により万寿五年の大間を書写し進上したこと(四年九月二十日の条、一二五頁)などがある。
 このほかに注目すべき事柄として、東大寺正倉院の破損によって、その修理を少僧都仁海が求めたこと(四年七月五日の第二条、五頁以下)、御願による石清水八幡宮以下の諸社への幣帛・左右十列の奉納および諸社における読経(八月七日の第一条、四三頁以下)、前年、王氏爵事件によって釐務を停められていた式部卿敦平親王の省務への従事(九月五日の第二条、九七頁以下)、朔旦冬至・御暦奏(十一月一日の条、一九六頁以下)、天変・地震による非常赦(前掲)などがある。また、長元四年につづき同五年の縣召除目も頼通の病によって正月中には行えず、二月五日に始まり、釈奠(二月六日の条、三四三頁以下)・春日祭使出立(同月七日の条、三四四頁)によって六日に議を止めるも、八日に入眼を迎えた(同月八日の条、三四四頁以下)。なお、この除目において、源頼信は平忠常追討(四年六月二十七日の第一条)の行賞として甲斐守から美濃守に遷任した。また、菅原孝標が常陸介に任ぜられ、その娘をおいて赴任したことが「更級日記」に見える。
 本冊において、その事蹟を収録した者は、権僧正尋円(四年十一月二日の条、二〇五頁以下)・大納言藤原斉信の室(十二月二十一日の第二条、二六五頁以下)・平維時(四年年末雑載、社会の条、二八二頁以下)・大中臣守孝(同、二八七頁以下)・行頼の母(同、二九〇頁以下)・藤原済家の室(同、二九一頁)などである。
(目次一七頁、本文三七六頁、本体価格八、九〇〇円)
担当者 厚谷和雄・伴瀬明美

『東京大学史料編纂所報』第51号 p.37-38