大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之五

島津家文書は、本所所蔵の文書群で、国宝に指定されている。本冊は、これまでの冊に続き、「御文書」と名付けられた巻子を収録した。収録した巻子は以下の十二巻で、題名は巻子の外題に書かれたものである(カッコ内は架蔵番号)。
①御文書 義弘公三・四十九通 巻五 (4─18)
②御文書 家久公一・二十二通 巻六 (4─19)
③御文書 家久公二・二十三通 巻七 (4─20)
④御文書 家久公三・二十三通 巻八 (4─21)
⑤御文書 家久公四・二十二通 巻九 (4─22)
⑥御文書 家久公五・二十五通 巻十 (4─23)
⑦御文書 家久公六・二十四通 巻十一 (4─24)
⑧御文書 家久公七・二十五通 巻十二 (4─25)
⑨御文書 家久公八・二十四通 巻十三 (4─26)
⑩御文書 家久公九・二十三通 巻十四 (4─27)
⑪御文書 家久公十・二十三通 巻十五 (4─28)
⑫御文書 家久公十一・二十三通 巻十六 (4─29)
 ①から⑨までは、黒漆塗第二番箱に収められた巻子で、これで第二番箱の巻子はすべて刊行したことになる。⑩⑪⑫は、黒漆塗第十番箱に収められた巻子である。『大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之三』以降は、薩摩藩が分類した構成をできるだけ尊重して編纂しているが、箱番は必ずしも連続していない。ちなみに、これまで編纂・刊行してきた箱は、黒漆特二番箱、黒漆第一番箱、黒漆第三番箱、そして黒漆第二番箱である。
 現在、刊行している「御文書」は、島津家の当主で言えば、義弘・家久の時代で、「義弘公」と書かれた巻子には義弘宛の文書が、「家久公」と書かれた巻子には家久宛の文書が収められている。時代は、豊臣政権から江戸幕府成立期である。この「御文書」の系統は、豊臣政権の奉行、江戸幕府の年寄、他大名などからの書状・奉書を選んで収めている。以下、巻子ごとにその内容を簡単に紹介する。
 〔御文書 義弘公三・四十九通 巻五〕
 慶長四年正月二十八日付け石田三成書状から元和三年林鐘十五日琉球中山王尚寧書状まで四十九通が収められている。この時期は、義弘にとって、朝鮮の陣から帰陣し、関ヶ原合戦で西軍に付いて敗北し、敵の中央を突破して薩摩に帰り、徳川家康と交渉して島津家の存続を認めらるという激動の時代である。義弘の赦免にあたっては、黒田孝高、福島正則らの大名が動いていることがわかり、また家康からの窓口として旗本の山口直友が懇切な書状を送っている。ちなみに、関ヶ原合戦後の交渉は、別に「御文書 二十一通 関ヶ原合戦ニ付 壹」(2─23)、「御文書 二十四通 関ヶ原合戦ニ付 貳」(2─24)の巻子(『大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之一』所収)に整理されている。
 〔御文書 家久公一・二十二通 巻六〕
 島津家久は、義弘の二男であり、兄の久保が文禄二年九月八日、朝鮮・唐島(巨済島)の陣所で病死したことにより、急遽、跡継ぎとなった。当時の名は忠恒で、本書でも慶長十一年六月十七日、徳川家康の偏諱を賜って「家久」を名乗るまでは標出・傍注とも「忠恒」とした。これは、義弘の末弟に家久がいるからである。本巻には、文禄三年十二月十一日付け寺澤廣高書状から、慶長二年卯月二十五日付け小西行長書状までが収められている。島津家の跡継ぎとなり、豊臣秀吉に拝謁した忠恒は、文禄四年正月に朝鮮に渡海する。若い忠恒に対し、石田三成・寺澤廣高・小西行長らが、様々に指示・助言を加えていることが文書によって理解できる。
 〔御文書 家久公二・二十三通 巻七〕
 本巻には、文禄五年卯月二十五日付け石田三成書状から慶長二年九月二十六日付け熊谷直盛書状までが収められている。「家久公一」と年号に重なりがあるのは、薩摩藩で整理した際に年代推定に誤りがあったからである。本巻で注目されるのは、慶長二年正月二十日付け安宅秀安書状(一九一一号文書)である。安宅は、石田三成の家臣で忠恒への助言者として登場している。島津領太閤検地が行われた後、島津領国では知行配当に混乱があり、忠恒の家臣への知行配当要求に難色を示したものである。また、慶長二年初頭には、島津氏らの陣へ朝鮮の番船が出没していることを告げる文書が目立つ。
 〔御文書 家久公三・二十三通 巻八〕
 本巻には、慶長二年十一月三日付け福原長堯書状から慶長四年と推定される三輪山大宿良惠書状までが収められている。慶長三年八月十八日、秀吉が死去し、朝鮮に在陣している大名たちは、迫り来る明・朝鮮両軍を防ぎながら日本に撤兵する。その中で島津氏は、泗川の戦いで明の大軍を退け、無事撤兵することができた。この島津家の働きに対して、慶長三年十一月朔日付け福原長堯書状では、「数万騎被打捕ニ付、諸手之敵悉敗軍之旨、御父子御手柄之段」と賞賛している。
 〔御文書 家久公四・二十二通 巻九〕
 本巻には、慶長四年八月二十日付け豊臣氏四奉行連署状から慶長五年正月二十日付け立花宗茂書状までを収めている。冒頭の二通の豊臣氏四奉行連署状は、どちらも八月二十日付けで、一九四八号文書が大仏本尊の御用として青銅二万貫目の提出を命じたもの、一九四九文書が「ばはん海賊」の禁令である。それ以後は、慶長四年に起こった島津家内部の争いである庄内の乱関係の書状である。この事件は、島津忠恒が島津家老中の伊集院忠棟を手討ちにしたところ、その子の伊集院忠真が領地の庄内地方(宮崎県都城市を中心とする地域)に立てこもった事件である。忠恒は、五大老の徳川家康の許可を得て国元に帰り、鎮圧の兵を出す。これにより、周辺地域の大名も、家康の指示で出兵を打診するが、忠恒はそれを謝絶し、ついには伊集院氏を屈服させる。
 〔御文書 家久公五・二十五通 巻十〕
 本巻には、慶長五年二月五日付け井伊直政書状から慶長八年正月十五日付け山口直友書状までを収める。庄内の乱の終結、関ヶ原合戦後の徳川家康と島津氏の交渉、島津忠恒の上洛などに関連する書状が中心である。一九七八号文書は、関ヶ原の合戦に敗北し、島津氏に保護を求めて薩摩に落ち延びていた宇喜多秀家が忠恒に謝意を表した書状である。忠恒は、その後、家康と交渉し、秀家の助命を実現し、秀家は駿河の家康に引き渡されて、八丈島に流罪になることになる。
 〔御文書 家久公六・二十四通 巻十一〕
 慶長八年正月二十二日付け山口直友書状から慶長九年卯月二日付け寺澤廣高書状までを収める。忠恒は、関ヶ原合戦の講和のため国元を発ち、慶長七年十二月二十五日、入京する。そして翌年正月に暇を賜り、国元に帰る。本巻は、上洛した忠恒に対する山口直友の動き、忠恒を擁護する福島正則らの動き、公家の難波宗勝との交流などを示す書状が中心である。宇喜多秀家関係では、二〇一一号文書の西笑承兌書状に、秀家の赦免と駿河護送が告げられている。
 〔御文書 家久公七・二十五通 巻十二〕
 慶長十年卯月四日付け寺澤廣高書状から慶長十年と推定される卯月十七日付け西洞院時直書状までを収める。忠恒は、慶長十年三月十八日、伏見に到着し、四月には徳川秀忠の将軍宣下のための参内に供奉し、七月に暇を与えられる。さらに翌十一年初頭にも上洛し、四月二十八日の参内に供奉する。この上洛の時、山口直友を介して家康から琉球攻めの許可を得ている。実際に琉球に軍を送るのは、慶長十四年二月十一日である。このように頻繁に上洛していることから、このあたりの巻子の年代比定は混乱が多い。
 〔御文書 家久公八・二十四通 巻十三〕
 慶長十年と推定される卯月二十七日付け伊藤則世書状から慶長十年極月五日付け山口直友書状までを収める。慶長十年の上洛に関係する書状が中心だが、慶長十四年の江戸幕府による五百石積以上の大船提出に関係する幕府年寄奉書等も収められている(二〇五八・二〇五九・二〇六三・二〇六四・二〇六五号文書)。
 〔御文書 家久公九・二十三通 巻十四〕
 慶長十四年十二月六日付け寺澤廣高書状から慶長十一年林鐘十九日付け理性院勧助書状までを収める。薩摩藩からの歳暮の祝儀に対し、大御所(家康)からは本多正純が、公方様(秀忠)からは本多正信が担当し、御内書を調進していることがわかる。
 〔御文書 家久公十・二十三通 巻十五〕
 慶長十一年六月二十八日付け飛鳥井雅庸免許状から慶長十二年五月二十五日付け大久保忠隣書状までを収める。これまで諸大名からの書状が散見されていたが、この頃には山口直友のほか、家久の行動に支持を与える幕府年寄の本多正信・正純、土井利勝らの書状が目立ってくる。
 〔御文書 家久公十一・二十三通 巻十六〕
 慶長十二年五月二十七日付け福島正則書状から慶長十三年卯月二十二日付け片桐且元書状までを収める。最後の片桐且元の書状は、大坂城の豊臣秀頼の疱瘡が本復したことを伝えたものだが、これは秀頼の疱瘡を聞いて見舞いの使者を使わした家久への礼の書状である。
 本冊の挿入図版は、古田重然書状(一八六八号文書)、琉球中山王尚寧書状(一八七八号文書)、大谷吉継書状(一九五七号文書)、山口直友書状(二〇五一号文書)の四点を収めた。古田重然書状と山口直友書状は、自筆と推定される。琉球中山王書状は、島津氏に服属した尚寧が家の相続を許されたことに感謝の意を表したもの、大谷吉継書状は慶長四年、家久に対して大坂の情勢を伝えたものである。巻末には、花押一覧と印章一覧を収めた。
(例言二頁、目次二五頁、本文二八八頁、花押一覧一六頁、印章一覧二頁、挿入図版四葉、本体価格八、一〇〇円)
担当者 山本博文

『東京大学史料編纂所報』第51号 p.52-54