大日本史料第一編之十七

本冊には、円融天皇の貞元二年雑載(天文・地異・神社・仏寺・公家・学芸・死歿・荘園・雑)から天元三年六月までの史料を収める。この時期は、前冊に引き続き藤原頼忠が関白であった。
 本冊の主要事項の第一は、藤原兼家の廟堂復帰であろう。彼は貞元二年十月十一日兄藤原兼通によって右近衛大将を停められた(前冊)。しかし、兼通は貞元二年十一月八日に薨じ(前冊)、そののち約七ヶ月を経た天元元年六月二十一日に初めて参内した。八月十七日には、その女藤原詮子が入内している。さらに、十月二日の除目では、彼は頼忠の推奏によって右大臣に任じ、従二位に敍せられ、天元二年三月二十八日に石清水八幡宮祈使の賞として正二位に敍せられた。翌三年六月一目には、詮子が皇子懐仁(のちの一条天皇)を生んだ。寛和二年六月に同天皇の践祚をみると、彼が摂政となり政権の座につくがその素地がこのころに築かれたといえよう。
 第二は堀河中宮といわれた皇后藤原〓子崩御に関する記事である。貞元二年十一月八日に父兼通を失った(前冊)〓子は、天元二年六月三日に堀河院に於いて崩じた。これよりさき、天元元年四月十日には、頼忠の女藤原遵子の入内があり、ついで兼家の女詮子の入内(前掲)をみるなど、〓子としては失意のうちにあったものと思われる。六月五日には固関があり、故皇后の雑事を定め、遺令が奏された。八日に葬送、十三日には解陣・開関があり、七月二十一日には七々忌御法会があり、三年五月二十八日には、法性寺に於て周忌御斎会が修せられた。これを以て、〓子の崩御に関する記事は終っている。
 つぎに、天元改元の記事がある。これは元年十一月二十九日に行なわれたものであり、日本紀略・改元部類記・扶桑略記によっているが、他に数種の異説を挙げている。
 そのほかの記事では、天元二年三月二十日の昼御座の御剣紛失に関する記事、同月二十七日・二十八日の石清水臨時祭と始めて同宮に行幸になった記事などが見られる。
 死歿などの条に、その伝記を掲げたものは中原有象(天元元年八月五日)・成子内親王(同年十二月是月)・僧真覚藤原佐理(同年是歳)・季子内親王(二年二月十六日)・光智(同年三月十日)・菅原雅規(同年八月是月)・蔵祚
(同年十月六日)・寛静(同月十一日)・禅芸(天元二年是歳)・長燭(同上)・千攀(天元三年正月四日)・兼家室藤原時姫(同月十五日)・韶子内親王(同月十八日)・中務(同月二十九日)・大蔵弼邦(同年四月二十日)・源惟正(同月二十九日)である。
 真覚は藤原時平の孫で同敦忠の四男である。一家が多く夭折したため世を儚んで比叡山で出家したといわれる往生人である。京都北岩蔵の大雲寺の本願となり、その子に三井寺の心誉・興福寺の扶公・石蔵の文慶がいた。
 大僧都光智は、東大寺別当に三度重任し、寺務十五年に及び、尊勝院主となり、本朝華厳宗第十祖といわれた。参考として、東大寺封戸荘園〓寺用雑物目録(東南院文書)から彼の自署を掲げた。
 山城守従四位上菅原雅規は、菅原高視の子で、文章生を経て淡路守・因幡守・和泉守などを歴任し、詩人として名を得ていた。粟田尚歯会に列して賦した詩は時人の称歎するところとなった。弟菅原文時の詩を評したり、菅原斯宣に詩を与えたりなどもし、その詩は扶桑集・和漢朗詠集などに採録された。
 東寺長者僧正寛静は、西訓寺僧正と号し、寛空(天禄三年閏二月六日寂)の同母弟で、金剛峯寺座主などを歴任した。兄寛空の弟子となり、金剛界法・胎蔵界法・蘇悉地法を受け伝法潅頂職位を授与せられ、声明を延〓に受け元杲に伝えた。
 中務は敦慶親王の女で母は歌人として名のある伊勢である。夫は歌人源信明。母伊勢に歌と箏を習い、朱雀天皇の召によって歌を上ったり、村上天皇の屏風の歌を進めた。その他、中宮藤原安子・元長親王・康子内親王らに歌を詠進し、藤原忠平・同実頼・同師輔・同兼通らの延臣と和歌の贈答を行なっている。夫信明に伴われて陸奥に下向し、三十六人歌仙に列し、伊勢集を撰上するなど、和歌史上に重要な地位を占めている。
 なお挿入図版として伊勢飯高郡上寺の梵鐘を掲げた。
(目次二六頁、本文三九二頁、挿入図版一葉)
担当者 山中裕・林幹弥・岡田隆夫

『東京大学史料編纂所報』第5号 p.110