大日本近世史料「幕府書物方日記七」

本巻には、『書物方日記』の享保十三年を収め、且つ巻末に『御書物方年譜覺書』を附録した。『書物方日記』は原本に於いては「日記六」と題する。
書物奉行は、前年から引続いて石川半右衛門清盈・堆橋主計俊淳・奈佐又助勝英・下田幸大夫師古・松村左兵衛元隣である。その内下田師古は四月九日に急死し、そのあとに松波金五郎正富が、五月十九日、任命された。師古の遺族は師古が借用していた書物を御文庫に返納したり(四月十日・五月一日記)、荷田春満よりの借用書の返却を促されたりしており(五月二十四日・八月一日記)、一方、役所に置いてあった書物その他の私物が返遣されて来ている(四月二十三日記)。また十二月十二日には、宝永六年西丸から本丸の書物奉行となり爾来二十年に亘って勤務し来った、最古参の奉行石川清盈も死去している。
 本巻中特に注目せられる事項は、書物外題札を認めて書物の出納に便ならしめたこと(正月十八日記)、事務を繁多にしていた貸出し本の三十日伺について、伺に及ばざる分と之を要する分とをそれぞれ別帳を作って記し分けさせていること(二月三日・七日記)等もあるが、第一に挙げねばならないのは、同書二部以上を蔵儲するものの廃棄処分であろう。即ち二月二日にその処理について伺書を作成することを命ぜられ、早速検討にとりかかり、五日に同書重複の処理基準が決められ、即日この基準に従い御目録中二部以上の書物の吟味にとりかかったのである。六月十四日からは書物の風干が始まったから多忙を極めたと思われるが、同十六日には和書の末迄、八月十日には全ての吟味を終えた。書物方としては、同書と雖も二部存置したしと願い出たが結局聴されず、かくて重複本廃棄の貼札を御書目録下書に施して差上げたが、別冊に記録すべきことを命ぜられて(八月二十二日記)、また精励し、九月十三日にこれを提出している。
 また、当年は将軍吉宗の日光社参があり、それにともない留守中の三十日伺の処理が問題となる(四月三日記)。これは一紙に合せ認めて将軍帰府後に提出することとなったが(四月二十三日記)、何事も形式・手続きを重んずる役務の一斑が窺われる。
 御用本としては、医書・中国地志類が注目せられる。この年吉宗は、丹羽貞機(正伯)・林良適をして医薬乏しき山間僻地の庶民のための簡便処方集として『普救類方』を著述せしめ、上梓頒布している。前者はこれと関係があろう。後者は、中国の府志・通志・縣志が二十部或は十部ずつまとめて徴せられ、次いで總志・州志に及んだことで、これは中国の物産を知るためであったかと思われる。吉宗は丹羽貞機・内山覺仲・稲生新助に命じて『庶物類纂増補』を著述させているから(延享四年完成)、これと関連して考えることができよう。
 また、『文献通考』正続を禁裏に進献するため、九月には林大学頭信充にその闕巻の補写が命ぜられ、且つ林家・奉行をして進献本に落丁・間紙無きやを点検せしめており、用意周到たる準備が行われている。また、成嶋信遍(鳳卿)が『十三経註疏』を下賜されたのは彼の伝記中著名なことであるが、その〓末もこの目記に詳しく記載されてある。
 巻末に附した『御書物方年譜覚書』は、寛永十年江戸幕府に書物奉行が初めて置かれてから明和九年に至る百四十年間の、奉行〓びに同心の任免その他の行跡、文庫・図書に関して起った大事などを、年を逐って略記したものである。既に此の『書物方日記』刊行に於いて「人名一覧」等の記述に本書を利用し来ったが、全体を刊行して学界に提供することが『書物方日記』の理解其他に有益と考えたので、本巻で鉛印附載することとした。
 猶、巻末には例の如く、「人名一覧」「書名一覧」を添えたほか、『御書物方年譜覺書』中に現れる書物奉行・同同心を抽出して、其の補任等を知るに便する、且つ簡略なる索引を兼ねる一覧をも作成附録した。
(例言・目次二頁、本文一九六頁、人名一覧二二頁、書名一覧三二頁、附録九三頁)
担当者 太田晶二郎・橋本政宣

『東京大学史料編纂所報』第5号 p.115**-116