大日本近世史料「幕府書物方日記六」

この冊には〔書物方〕留牒十一(享保十一年)と〔書物方〕日記五(享保十二年)を収めている。この二年にわたる書物方奉行は、浅井半右衛門清盈・堆橋主計俊淳・奈佐又助勝英・下田幸大夫師古・松村左兵衛元隣の五名であるが、浅井は、享保十二年十二月一日、石川と改姓を願い出て許可されている。
 享保十一年には、書物方会所や文庫の修理が二月下旬よりはじまり、前年(享保十年)よりはじまっている目録の吟味に対して、この修理が妨げにならぬように配慮している(二月二十六日)。そういうなかで、蔵の防火のために全ての窓に銅(赤金)の蓋を附けることを願い出ているが、許可されない、ということもあった(三月十五日)。また新文庫の修理についても願を出しているが(八月十日)、その修理は許可にならず、仮修理だけがおこなわれることとなった。
 こういう蔵の修理のすすんでいるなかで、例年の通り、六月二十目から九月二十五日まで風干(曝書)の作業がつづいたし、目録の吟味は、その前後ひきつづきつづけられていた。
 この年の文庫の利用は、とくに兵学・医学などの書物や、また書画関係のものなどの請求が、上から来ていた。西ノ丸の徳川家重も元服して、いくつかの書物、例えば『通鑑綱目』などをお手許本として請求しているし、まだ小次郎と呼ばれている徳川宗武も、『小学集註』などを請求している。また荻生惣七郎観も文庫の本を拝借している(二月二十六日・四月十四日)。医師丹羽貞機(正伯)が、文庫の『医統正脈』の中の『醫塁元戎』が端本であるのを、完本と交換したり(五月三十日・十二年正月十六日)、上から請求のあった馬麟の伝が収められている『圓絵賓鑑』と、その伝のない本とがあることが発見されたりしている(七月十四日)ことも、この年の中の注目すべき学芸事項であるというべぎである。また長崎での購入本は、この年もあり、一百三十部が到着し、目録の作製が求められている(十一月五日)。
 こういうなかで、一つの事件がおきて、奉行・同心たちは、多忙な中を、さらに時間をとられることになった。それは四谷にある書物方同心押野利右衛門の家作でニノ丸伊賀者たちの刃傷事件がおこり、その申し立てに虚偽があったことで、大岡越前守忠相掛りで吟味をうけ、押野は役目罷免となったことである。関係記事は、まず四月二十二日から現われ、十一月十八日に処分落着となり、押野の家作ならびに拝領屋敷が、小普請方に渡されている(十二月三日・七日)。この屋敷は、他の同心などからも交換の要求があったが、認められなかった。
 享保十二年に入っても、目録の吟味はつづき、この年の年末に、『御書目録下書』七冊を献上するまでにいたっている(十二月十四日)。この年には新蔵の修理が日程に上った。そして例年の風干は、六月二日から七月二十一日までつづいている。
 この年で特記することは、享保十三年四月に行われる予定の、将軍吉宗の日光山社参の行事についての準備がはじまり出したことで、松村元隣が、同心二名とともに参加することに定められ(八月十五日)、七月十八日の祝儀の惣出仕以降、持参すべきものその他について、また留守中の勤務などについて、忙しい準備・相談がはじまっている。とくに「日光江持参可仕哉之御書物伺」の目録(十月二十六日)は、そういう点から注目すべき内容ということができる。というのは、慶安の将軍家光の杜参にあたって持参した国史・儒家・道家等の書籍をやめ、国絵図などを持参しようという意見を伺っているのである。これと十二月十四日の「近年御預之御本、只今迄之御目録未載分」という目録覚書は、文庫の規模の一端についての史料ということができる。
 この年には廣澤細井次郎大夫知慎(十一月十四日)・成嶋道筑(十一月十五日)が書物拝借を許可されていて、文庫の利用が必ずしも全く閉鎖的ではなかったことを示しているといえる。
(例言・目次四頁、本文四四二頁、人名一覧三〇頁、書名一覧六四頁)
担当者 太田晶二郎・松島栄一

『東京大学史料編纂所報』第5号 p.115*