大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料 二十八

本冊には、万延元年十二月、万延元年補遺、文久元年正月~七月の史料を収録する。それらは、万延元年冬頃から老中久世広周や所司代酒井忠義らの京都対策に不信を抱き始めた長野義言等が、文久になると彼らとの関係を冷却したものと見做す過程として構成される。京都では、酒井の関白九条尚忠に対する軽視となって現象し、結果として九条の力を弱め、幕府に様々な難題を生じさせつつあった。
 和宮降嫁については、八月十八日の降嫁承諾の勅書のあと、その条件として朝廷側から出された諸条件への幕府の対応、和宮の下向経路、時期についての折衝が続けられた。
 本冊には、この降嫁関係についてのまとまった冊子体の留として、万延元年六月~同年末内容の五冊(三四~三八号)と文久元年四月の一冊(六二号)を収録する。これらは、書状の受信日などを地の文として記載した後に書状などの書写を収録するというある程度編纂された体裁をもつ。たとえば三四号の八の記事は、「申八月朔日、若狭守殿(所司代酒井忠義)ゟ被差出候書付之写」という記載のあとに記される。酒井に届けられた、江戸からの老中連署奉書あるいは久世単独書状も豊富に留められている。たとえば、三五・三七号の記事からは、八月二十一日・二十二日付で久世から所司代に送付された書状および添付書類が、所司代・関白のあいだでどのように検討され、武家伝奏にどのような書類として渡されようとしたのかという具体的検討過程を窺うことができる。また六二号は一部九条家家士島田龍章の筆跡である。以上から、これらの冊子は、この時期和宮降嫁をめぐって連携していた九条家側から入手されたと考えられる。これらの冊子に記載された内容の時期と長野の上京の時期(少なくとも万延元年十月・十一月、文久元年四月前後)とは重なる部分があるところから、上京中の長野に島田が渡したものである可能性もある。これらの冊子には、既刊史料集に収録されていない史料が含まれており、その作成自体を含め幕末政治史上貴重なものだといえる。
 降嫁と攘夷は密接に関わっていた。降嫁の条件として幕府は孝明天皇に、「七八年乃至十ケ年之内蛮夷拒絶」を内約していた(二十七巻一〇六号)。万延元年十二月朔日、酒井から伝えられた幕府のプロイセン・スイス・ベルギーとの条約締結方針に激怒した孝明天皇は、降嫁破談とすべしとまで発言した。結局下向時期延期となり、九条にその措置が一任された。文久元年四月二十八日に酒井から九条に進上した酒井宛老中奉書は、「七八年乃至十ケ年之内蛮夷拒絶」について、二月三日に酒井から老中に連絡した内容に対して二か月あまりの検討を経て回答したものである。蛮夷拒絶へ祝儀の勅使派遣は、その内約の内容が「夷人」に知られる危惧があるとして、大名への周知の猶予を願っている(六二号二)。
 文久元年三月四日和宮下向経路が中山道に変更され、同秋下向さえも不可能になりそうな状況に対しては、彦根藩側役宇津木景福らは、文久元年四月六日付の書状で、久世も欺かれているのではないかと、上京中の長野に情報を求めている(五五・五六号)。これに対して長野は、経路変更については久世も承知のことである、自分の上申通りに実行されれば収まるはずだが口惜しいと返答している(四月十五日付、五八号)。この時期、久世はもはや長野に対してとくに降嫁折衝の役割を期待していない様子であることを、町奉行石谷穆清が彦根藩城使富田昌春に書き送っていた(六四号別紙)。老中から所司代に送られた下向供奉の幕府役人の任命を記した老中奉書別紙の写(六八号)や、文久元年秋の下向実施を求める七月二十二日付関白宛所司代書付写(七七号)の入手経路も今後検討されるべきであろう。
 伊勢神宮領等への外国人立ち入り禁止と沿海守備については、安政六年十月二十九日に内宮・外宮の願書を武家伝奏広橋光成より言上し、十二月朔日には、武家伝奏に幕府への通達内容が達せられた。三七号の一には、所司代宛達書写のみならず、所司代がこの件を老中に知らせた書状が写されており、武家伝奏から所司代に書付が達せられたのは、安政六年十二月三十日であったことが判明する。
 彦根藩は、文久元年前半期には水戸情報収集を独自に行わざるを得なくなった。以下に示すように、それは、特定の関東取締出役との人脈を頼った情報であり、自藩領佐野領役人による情報であった。文久元年正月二十八日付関東取締出役太田信英書状写では、もはや浪士の召し捕えというよりも戦争同様だとして、短筒様の武器があれば拝借したいと伝えている。捕縛時に「打ち殺し・切り捨て苦しからず」という趣旨の触れ流しも希望している(四一号)。二月朔日には老中から三奉行に対し、関八州全域に「浪人などに不法があれば、打ち捨て・鉄砲使用可」という触れ流しを命じており、願触の事例として興味深い。
 同年二月七日の会津以下溜詰・帝鑑間詰諸侯および関東五十七藩に水戸浪士取締り命令が出される。史料編纂所所蔵『常野集』によれば、この指令は隠密とされ、封物で渡された。溜詰でありながら桜田門外の変の当事者である井伊家にはこの指令は達せられなかった。四二号はその前日の探索報告である。井伊家では、佐野領役人に、近隣諸藩からの情報を集めさせている(四
三・四四号)。
 また文久元年六月十五日、幕府は水戸藩へ「水戸領内の残党については厳重手配し悉く召し捕えるように…もし不法を働く者がいれば速やかに討ち取るように」と達した。六九~七一・七三・七四号は、この指令の写や、この時期の幕閣の動き、水戸藩主登城時供侍出奔の噂などを報じた届書である。特に、七三号は宇津木の、七四号は長野の筆跡であり、ここでも幕府内の議論から彦根藩が疎外されていると観測されている。七月八日付長野宛宇津木書状では、文久元年五月二十八日の東禅寺事件で老中の堪忍袋の緒も切れ、厳重の処置になったのであろうとし、降嫁まで水戸処分を見合わせるべきかどうかについて大小目付と和歌山・名古屋両藩主の見解が分かれているところへ、六月二十九日の老中松平信義襲撃事件が勃発し、和宮下向の支障となるのではないか、と危惧している(七六号)。信義襲撃については、彦根藩は同家公用人に問い合わせをしている(彦根城博物館所蔵『御城使寄合留帳他抜粋』)。また同藩の届書写を入手している(七五号)。
 この時期の彦根藩の関心のひとつは、藩主井伊直憲の将軍成婚後の祝儀として参内する幕府上使への任命であった。万延元年十二月二十二日付の長野宛彦根藩執権職木俣守彝書状(九号)では、直憲任命が老中久世の意向となっているとの報に喜んでいる。上使任命の内意は文久元年正月二十九日に、彦根藩に達せられた(正式には同年十二月十八日)。同年四月在京中の長野は、和宮降嫁関係の京都情報を彦根側に伝えるとともに、直憲が上使として上京し御所に参内する際の式書の入手や助力の依頼に酒井が協力的でないと伝えている(六一・六四号)。
 また、結果として破談となったため、一般には知られていないが、直憲と前名古屋藩主徳川齊荘四女釧姫との婚儀も、この時期には、ほぼ内定していた(七・一三号)。
 なお、文久元年三月二十四日から、井伊直弼の一周忌の法要が行われた。この時には江戸城大奥から女中の代参もあり、老中久世よりも表向の使者派遣、豪徳寺への代参が行われた(五四・五五号)。
(目次一二頁、本文三三七頁、口絵図版一葉、本体価格一五、三〇〇円)
担当者 横山伊徳・杉本史子・箱石 大

『東京大学史料編纂所報』第49号 p.43-44