大日本古文書 幕末外国関係文書 巻之五十二

本巻には、文久元年三月十六日から同月晦日(西暦一八六一年四月二十五日~五月九日)まで、及び三月是月分の諸史料を収録した。
 この間は大きくいって、開市開港延期交渉幕府使節派遣の問題と、露艦ポサードニク号滞留による占拠事件(対馬事件)とが並行して展開している。
 前者の問題からみると、二月三日の英仏両公使との談判(巻之四十九第二一号対話書)にもとづき、各国宛の将軍書翰が三月二十三日付で出された(本巻四一号・四四号・四六号)。なお露国宛は同十四日付で発給(巻之五十一第七〇号)、公使の不在だった英国宛書翰は、遅れて翌四月に出される。また、同じく二十三日付で、各国宛の老中書翰も出されている(四二号・四五号・四七号・四八号、宛先は米国が国務長官、葡国が外相、仏国が駐日公使、蘭国が駐長崎総領事)。各国宛の文面には、細かくはあるが違いが認められるため、全文を収録した。ハリスは両書翰の送達を本国に報じ、そこで諸侯の半数が開国に賛同したとの判断を開陳し、駐日代表への裁量権拡大をも求めている(八五号)。幕府では二十四日、遣欧使節の人選を決定した(五四号。副使とされた桑山元柔は、八月に松平康直に替えられる)。
 同じ頃、米公使ハリスは、新規条約締結の停止問題について独自の取りくみを進めている。前年末の会談(巻之四十六第七四号)以降同公使は、条約締結国を増やさない方針を非締結諸国に通達する件への協力を表明、同件通知の案文作成をも、安藤老中より依頼されていた。各国宛老中書翰の草案は正月に成り(巻之五十第一号)、これが幕府側で三月には老中の「書取」案に改変された(巻之五十一第四号)経緯は、既刊分の所収史料により明らかである。本巻第六五号の本国宛ハリス書翰につき、右の「書取」文面をもとに作成・同封された、各国外相宛老中連署形式の二十二日付「回章」(Circular)英文を附収した。国務省への送附にあたって、ハリスが連署書式に改変したものと考えられる。また、同文の未条約諸国への転達をハリスに依頼する旨の、老中連署書翰訳文も同封されており、こちらも日付からみてハリスが独自に作文した書面と思われる。ゆえに附収した文書名には括弧を附し、以上の経緯につき注記をも補った(なお二十九日交付の、ハリスに依頼する内容の老中書翰は、第八〇号所収)。国務省の同一ファイルには、送り状の機能をもつ、オーストリアほか六か国外相宛のハリス仏文書翰案も含まれる。こちらの帰趨も、検討すべき重要な課題となる。
 次にロシア関係として、対馬事件関連の所収史料を挙げる。対馬藩では三月十七日、滞留中のビリレフ艦長から同十三日に伝えられた密話(巻之五十一第六七号)について家中に達し(第一〇号)、そこで英海軍来襲との風評ならびに右艦長の藩主面談要請とを明らかにした。翌十八日、宗家の問情使はビリレフに接見し、藩主と外国人の面談は不可とするのが「公儀御作法」と回答したが、逆に重臣との密談を要求されている(第一五号)。家老の仁井孫一郎は、公辺へ無届のまま露艦へ下賜品を渡すよう指示、これに対して銃など答礼品が問情使に贈られた(第一六号)。また二十五日、軍艦修理の謝礼に大砲を提供するとのビリレフの意向に対し、謝絶の返信を片仮名の文面を副え発している(第六三号・六九号)。仁井は二十三日に、ビリレフより直接芋崎租借の要求を切り出され、拒絶の説得に窮している。ついで二十
 五日には、要求拒否の方針を家中に達した(第六四号、なお本史料二行めの当該箇所傍注に誤記があるため、上記の経過に沿うよう訂正させていただきたい)。 露海軍による芋崎拠点化の進行は、第一五号附収史料から窺える。十九日にスヴェトラーナ号、ついでナエーズドニク号が補給目的で来航し、二十一日に両艦とも出航した(第二〇号・二三号)。ス号乗員による秘密保持誓約も収載した(第五二号)。総ての計画を立案し、対馬島でのビリレフらの行動を見届けたリハチョフは、二十五日に沿海州より本国のコンスタンチン大公に宛て、任務の進捗を述べる軍務報告書を書き送る。本巻にはその草案を収めたが(第六六号)、添付書類ともども豊富な内容を有する重要史料である。アニワ湾の占拠案、朝鮮海域への着眼など、注意すべき意見がふくまれている。
 宗家では動揺が広がり、二十日に藩内取締の達が出され(第二四号)、二十二日、藩士の出願を受け府内浦の台場築造が命じられる(第三八号)。家老の仁井は二十四日、急の出府目的で厳原より出発したが、このとき対馬島上知・移封をも企図するプランの書面を携えている。二十八日には公儀への届書案が国許から江戸藩邸へ発出され、この届は五月十一日、幕府に提出された(第七九号)。
 横浜に到着したシーボルトは、この間ロシアの利害に沿うかたちで活動していたが、当初神奈川奉行松平康直は、シーボルトが蘭国代表部とは独立に動いている実態について理解していなかった(第二一号)。当のシーボルトは奉行との十四日の会見記録を添付したうえ、幕府に顧問として招請されたことを、本国の植民省に宛てアピールしている(第二二号、幕府側対話書は巻之五十一第七七号所収)。二十六日には外国奉行小栗忠順とも会見し、シーボルトは小栗による多くの質疑に答えるなかで、長崎の自由港化という持論を再説した(第六八号)。
 神奈川奉行・シーボルト会見の内容につき、面晤の場に立ち会った奉行所通詞より内密に情報を得たポルスブルックは、要点を長崎の総領事に報告している(第二八号)。その蘭国総領事デ・ウィットは、二十二日に四月分の月例報告を送信し(第四〇号)、幕府の遣欧使節方針に言及したうえ、自身の江戸出府計画についても述べた。英公使が香港より帰還後に、長崎で合流したうえ大坂から陸路東上するというのである。この英蘭両代表の陸路出府については、老中宛総領事書翰(第五号)でも通知され、二十五日には、認可する旨の老中書取が長崎奉行に下されている(第六〇号)。また、かねてデ・ウィットは、デンマークとの条約締結を仲介すると幕府に申し入れていたが、これを謝絶する老中書翰案が調製され(第九七号)、ポルスブルックに手交された(四月八日)。以上の二件につき、外国奉行らは評議のうえ上申書を提出している(第九八号)。
 英公使らの陸路出府は、十七日付長崎奉行岡部書翰でも問題にされている(第八号)。英公使代行のマイバーグは、これに必要な馬匹等の確保を老中に要請した(第七一号・八九号)。総じてオールコック不在中は、英国側の動きは不活発なままである。横浜から江戸への列国代表部帰還の報知につき、これを十七日に受領した本国の外相ラッセル卿は、その半公信では流血無き解決として、公使の当時の姿勢に高い評価を与えている(第一一号)。二十九日に、当のオールコックは賜暇帰国の申請を出している(第八四号)。
 仏公使ドゥシェーヌ・ド・ベルクールは、なおも文久改元の原因を天皇死亡に帰す風説にふれた書翰を、二十日に外相宛で発信し、横浜でのシーボルトとの接触についてもそこで言及している(第二七号)。この間同公使は、翌月に送信することになる、長文の報告書を準備していたものと考えられる。
 三港での動静については以下の通り。神奈川では十七日、奉行所支配向の充実を理由に、火盗改の詰合人数が半減された(第七号、五月に一同引払)。外人墓地設定に関する神奈川奉行伺につき、外国方で評議がなされている(第八二号)。また、運上所の改革案ならびに外国人取締規則(英公使が原案を提出、巻之四十九第七七号・巻之五十第三六号)の制定をめぐって、大量の附箋を用いての込み入った修正のやり取りが、老中・外国方・神奈川奉行所の三者間で交わされており、本巻ではその復元の仕方を提示しておいた(第一〇五号)。
 長崎では、英国人に対する日本人犯罪者の取扱規定が、前年よりの交渉をふまえて制定されている(第一〇四号)。箱館では、対岸の南部領に上陸した英米人問題の処理が、十里四方遊歩を規定する条約解釈と絡んで続いている(第一号・二五号・五六号・八三号)。居留地配分についての交渉も続く(第一二号・七七号)。二十二日には、米国で貿易事務を担当するピッツが、箱館港定則の案を奉行に提示した(第三四号)。
 本巻には、西蝦夷地宗谷領における公領と秋田藩分領の割替をめぐる、一連の幕政文書も収めた(第一〇一号)。最終的には、海峡を隔てた北蝦夷地への渡海の便を考慮して、珊内の地を秋田藩より上知し、佐竹家には替地の警衛を命じている。この評議過程からは、一領一円ではなく公領私領の犬牙交錯の方が取締上有効である、との蝦夷地支配の原則が、勘定所内では意識化されていたことが判明し、その点でも興味深い史料である。
 安藤・久世政権下では、幕府による大陸出貿易が指向された。亀田丸の沿海州発遣とも別個に、上海への派遣船の検討が進められていたことを示すのが、第一〇三号所収の一件史料である。評議の結果、老中より貿易船の仕法取調が指令されている。外国掛の大小目付は、清国との通商開始、さらには遣使を念頭におきつつ、進んで朝鮮国の条約体制への編入を検討し、上申書を提出した(第一〇二号)。今後の日朝間通商条約の締結にあたっては、清と朝鮮との宗属関係が障碍となるとの認識にたち、先例を改め対朝鮮国の取扱を変革されたいとの趣旨である。両国間交渉における対馬藩の介在を廃し、条約を結んで直接首都に幕府役人を駐箚させればよいとする内容で、これがただちに現実化はされなかったとはいえ、以後の歴史過程の見通しをも窺わせるような考え方が看取される点、重要な史料と位置づけられる。幕府軍艦の派遣により通信使のような送迎関連の冗費を廃絶できる、との意見も示唆的である。
(例言二頁、目次三一頁、本文四六六頁、本体価格一一、一〇〇円)
担当者 小野 将・佐藤雄介・保谷徹・横山伊徳

『東京大学史料編纂所報』第48号 p.41-43