大日本古記録 薩戒記 五

本冊には永享二(一四三〇)年六月から同九年三月までの記を収めた。
 正長二(一四二九)年に元服の儀を行い、本格的に政務に取り組みはじめた将軍足利義教は、同年八月四日に右近衛大将に任じられ、翌永享二年七月二十五日に拝賀を遂げる。足利義満の例に倣い、満済の坊である三宝院において摂政二条持基の立会のもとに習礼を行った後に本番に臨んだが、その際の行列に「薩戒記」記主の中山定親も加わった。義教の威光は確実に高まっており、公卿・殿上人らは「随志可参」との沙汰によって、こぞって拝賀への扈従を希望した。ただし、そのなかにも義教の意向によって扈従を許されない者があり、「頗恐怖」したと見えている。義教の「恐怖の世」への流れは次第に定まっていったのである。右大将拝賀に関わる記は、国立歴史民俗博物館所蔵「広橋家旧蔵記録」のなかの「薩戒記抄」のみが伝えており、奥書によれば康正二(一四五六)年に甘露寺親長の蔵本を広橋綱光が書写したものという。
 永享二年十一月には後花園天皇の大嘗祭が催され、清暑堂御神楽が行われた。定親は笛を奏したが、この際に名器柯亭を用いる可否が問題になった。柯亭は応永二十三(一四一六)年に伏見宮栄仁親王から後小松上皇に献上されたもので、死期が近いことを悟った栄仁親王が、柯亭と引き換えに室町院領の安堵を奏請したのである(「看聞日記」。九月三日に安堵の院宣が出され、栄仁親王は十一月二十日に薨去)。「椿葉記」によれば柯亭は「天下の宝物にて、清暑堂の神宴、其外公宴厳重の時ならては、おほろけにいたされぬ名物」であった。どのような経緯で定親が柯亭を演奏するという話が持ち上がったのかは不明だが、十一月五日条には長文の後小松上皇女房奉書が引かれており、定親の精進は認めるが、今回は柯亭の所作は許可しがたいと述べられている。定親の記述では、彼自身が柯亭にそれほど執着しているわけではないが、名器の権威をことさらに強調する上皇の意向に配慮して、重ねて演奏を懇請するむねの返報を送るとしている。「看聞日記」十一月二十日条の清暑堂御神楽当日の記を見ると、定親は神楽の際は蛬、御遊には柯亭という二種の名器を演奏した。蛬は、やはり栄仁親王が秘蔵していた楽器で、その死後に綾小路信俊に与えられた(「看聞日記」応永二十四年三月十七日条)が、永享二年段階では後小松上皇の手許に召されていたという。清暑堂神楽に関わる十一月一日~九日の記は、京都大學附属図書館所蔵の滋野井本第十四冊を底本とし、慶應義塾図書館所蔵の裏辻本によって対校した。七日~九日条を含むのはこの二本のみで、後者は奥書によれば櫛笥隆成のもとにあった原本の書写本に基づくものだという。
 「薩戒記目録」には、永享三年九月二十六日に定親の母(土岐満貞女)が四十八歳で亡くなったことが記されている。定親は重服となるが、翌永享四年正月三日・五日条には、「当年中公事汝若不見証者、真実可及闕如」と後小松法皇(永享三年三月に落飾)から再三促されて、白馬節会に参仕したと見える。故実の研究や公事への参加に熱心に取り組んできた姿勢が評価され、朝廷における定親の存在感が高まっていたことが知られる。
 同年八月、足利義教は左大臣に転じ、十二月九日に牛車を聴され、源氏長者、淳和・奨学院別当となり、拝賀着陣を遂げた。義教は同日に後花園天皇の元服由奉幣日時定の上卿もつとめている。十二月九日条は史料編纂所所蔵の日野西家旧蔵本第二十八冊を底本としたが、その構成は複雑で、①拝賀着陣に扈従の公卿・殿上人の一覧、②拝賀着陣の仮名次第、③義教の参内・拝賀着陣および元服由奉幣日時定の記録の三部から成っている。ほかにやはり本所所蔵で、田中教忠氏旧蔵「薩戒記」のなかの第三巻が、日野西本の③に通じる内容を持つが、異同が多いためこちらも別本として掲載した。同巻の褾紙には田中氏の手で「薩戒記 永享四年 原本」という外題が付されているが、あきらかに写本である。明治十九年に醍醐寺報恩院の蔵本を採訪して作成された本所架蔵の影写本「任大臣并大饗記」(3057/6/1・2)のなかには、この写本が含まれている。同書は「小右記」治安元(一〇二一)年七月二十五日の藤原公季の任太政大臣等から、長禄二(一四五八)年七月二十五日の足利義政の任内大臣にいたる記録の集成で(「小右記」から「台記」保延二年十二月九日条にいたる部分は「任大臣大饗部類」として『続群書類従』雑部に翻刻がある)、後半部の「鹿苑院殿并普広院殿大将御着陣并大臣大饗記」「長禄二年七月廿五日任大臣大饗記」「長禄二年三月十日大饗雑具目録」は、現在「田中穣氏旧蔵典籍古文書」の一部として国立歴史民俗博物館に所蔵されている(二七一・二九〇・二九一)。高橋秀樹氏「『田中穣氏旧蔵典籍古文書』所収の記録類について」(『国立歴史民俗博物館研究報告』七二、一九九七年)によれば、これらは足利義政の任内大臣に際して清原業忠が収集・記録したものと考えられるという。田中教忠氏は醍醐寺旧蔵のこれらの記録を入手し、そのうちの一巻を「薩戒記」原本と判断して、別に収集した同記の原本と一括して装幀をほどこし、箱に収めたのであろう。
 永享五年は正月三日に後花園天皇の元服が行われ、義教は理髪の役をつとめた。定親も参仕し、御遊では柯亭を演奏した。また五日の叙位で、定親は執筆を勤仕した。嫡男の親通が従五位上、次男親輔が従五位下に叙せられ、自身が執筆の日に、子息二人がそろって叙位簿に名を連ねるのは「希代過分」であると喜んでいる。彼が日記の中で家族に言及することはめずらしく、貴重な記述といえよう。このころから定親は諸家で催される蹴鞠の集まりに出かけ、室町殿の蹴鞠にも参加するようになる。禁裏小番衆の一員としても、頻繁に宿直をつとめるなど、次第に公武の枢要に近づいていくようである。
 十月二十日、後小松法皇が崩御。「薩戒記」は十月記を欠いているため崩御そのものに関わる記事はないが、十一月記には諒闇の儀礼に関する詳細な記述が見える。特に諒闇装束の色彩や着用の作法について、例によって「山槐記」等を参照しながら、さまざまな薀蓄を記している。
 永享五年記は原本は失われているものの、七月・十月・十二月記以外は、原本からの写本が陽明文庫・東山御文庫に残されている。前者は忠実な写し、後者は浄書本で、自筆本の体裁を伝えるために、底本としては陽明文庫本を採用した。対校本とした東山御文庫本は、書き損じで抹消された部分を省いたり、挿入線によって順序の入れ替えを指示してあるような文章を整除したりして、完成されたテキストの提示をめざしたものである。一方で、他から提供された注文や、書状が貼り継がれている部分などには注を付して原態を示すよう努めており、書写の精度は非常に高いといえるだろう。正月三日条の天皇元服の記事には清涼殿の図が付されているが、東山御文庫本のほうがより精細な図となっているのでそちらを採用した。また、同五日条に掲載される叙位聞書については、東山御文庫本の書写を統括した中院通村によって、大外記清原業忠から注進されたものを定親が日記の中に貼り継いだことや、定親が書き加えた部分があることが注されている。さらに二月二十八日の祈年穀奉幣使発遣の記事の紙背には、このときの諸社奉幣使注文折紙が存しており、東山御文庫本は紙背文書もあわせて書写している。
 五月・六月記は、原本そのものに欠失や貼継の不備等が生じていたのではないかと考えられる。六月記は一日条の一部のみが残っているが、写本によっては定親祖父中山親雅の遠忌仏事を記す五月二十七日条が誤入していたり、逆に五月記に同日条が欠けていたりする。宮内庁書陵部の日野本「薩戒記」第十一冊は、永享五年記全体を一冊に収録しているが、六月一日条のあとに五月二十七日条を付し、さらに「裏反故写之、」として永享四年十二月二十一日の後花園天皇元服由奉幣使注文・同十二月九日の足利義教拝賀扈従御点公卿・殿上人注文を載せている。前者は「自端三丁目」、後者は「自端二丁目ノ紙」の紙背だったと注されているが、原本がどのような状態だったのかは不明である。陽明文庫本・東山御文庫本のほかに、原本を直接書写した別の系統の写本があったことになり、日野本の来歴の探索が必要であるが、今後の課題としておきたい。また、十一月記の冒頭一日条のみは尊経閣文庫所蔵の「薩戒記残簡」という古写一紙を底本とした。近世には原本に傷みが生じていたらしく、陽明文庫本・東山御文庫本いずれも空白になっている部分があるが(後者は「朽損、」と注している)、尊経閣写本の段階では、まだ判読が可能だったようである。ほかに「和長卿記」明応九年十一月二十三日条に、「薩戒記」十一月三日条の一部が引用されている。後土御門天皇の崩御に関わる先例として用いられたもので、必ずしも正確な引用ではないが、現在の写本で欠けている部分を補う情報が含まれている。
 永享六年は、加賀前田家で影写された四月~九月記および十月~十二月記の二巻が伝来し、国立国会図書館に所蔵されている。五月に義教は兵庫に赴いて遣明使の帰朝を迎え、六月には来朝した明の使節に謁した。六月十二日条には「抑左相府殿政務之後、遭事之輩已及数多」として、義教に粛清された人々の一覧が掲げられている。八日夜半、裏松義資が強盗のために首をとられて惨死し、十二日にその息子の重政が出家遁世、高倉永藤が遠流されるという事件がおこったのを機に、作成を思いたったのだろう。「看聞日記」六月十二・十七日条によれば、義資の死は義教が差し向けた刺客によるもので、永藤はそのことを口走ったために硫黄島に流されたのだという。齋木一馬氏が「恐怖の世」(『齋木一馬著作集二 古記録の研究 下』所収、吉川弘文館 一九八九、初出は一九六八年)で紹介され、「薩戒記」のなかでは、おそらく最も有名な部分であろう。僧俗・男女を問わず実に多くの人々が、出仕を止められ、所領を没収され、果ては遠流・暗殺にいたるなど、人生を剥奪される災禍にあっていることがわかり、些細なことにも義教の意向をうかがう陰惨な雰囲気が京都政界を覆っていたことがうかがわれる。このような一覧を記すのにも、定親は各人の序列や体裁にこだわっており、いったん書いたものを抹消したうえに、挿入符を付したり、行間に細字で書きこむなどのこだわりを見せている。
 義教が恐怖政治の度合いを強めるなかで、定親は粛々と政務に励んでいたようだが、次第に義教の信頼を得て、永享八年十月、突鼻された広橋兼郷に代わって武家伝奏に補されることとなった(「看聞日記」同年十月十五・十七日条)。このころの記事はあまり多くないが、同年十一月記以降、定親の伝奏奉書があらわれてくる。永享九年三月、義教が石清水八幡宮に参詣した際には、定親は公卿としてただ一人供奉した。義教と行動をともにして、沓を献じ、陪膳をつとめ、作法について指示を与えるなどの全般にわたる介助を行ったのである。細かい点で失敗もあったようだが、まさに義教側近の地位に就いたことがあらわれている。本記は八幡参詣の次第に、それぞれの過程で特筆すべき事項を書き加える形式をとっており、翌永享十年三月の八幡参詣記でもほぼ同文の次第を利用している。「永享九年三月八幡御参詣記」の底本は京都大学図書館所蔵の滋野井本だが、原本の紙背は永享九年春の具注暦だったらしく、末尾に「裏永享九年暦也」として正月から三月までの行事暦注を写している。史料編纂所所蔵の彰考館文庫旧蔵「薩戒記」の謄写本によって校した。
 最後に逸文を採録した諸本にも触れておこう。徳川ミュージアム所蔵(彰考館旧蔵)の「蝉冕魚同」は、中山家に関わる史料を集めたものである。彰考館には前出の「永享九年三月八幡御参詣記」を含む写本や「中山家記」(中山孝親・親綱記)等が所蔵されており、同家の史料について、独自の書写・収集のルートを持っていた可能性がある。
 西尾市岩瀬文庫所蔵の「消息案」は柳原家旧蔵の文例集で、そのなかに定親の玄孫である孝親が「薩戒記」の記事を報じたものが収録されている。いずれも任大臣に関わる内容で、天正五(一五七七)年十一月二十日に織田信長が右大臣に転任するにあたっての先例を求められたもののようである。第四巻の正長元年正月二十二日条に、やはり柳原家旧蔵の「贈官宣下部類」から足利義持の贈太政大臣の記事を採録したが、こちらも天正十年十月の、信長の贈太政大臣・従一位の際の先例として、中山親綱(孝親の息子)が提供したものであった。
 「巌砂記」は柳原紀光書写にかかる記録等の逸文集で、史料編纂所が明治三十三年に柳原義光氏所蔵本を謄写したものを用いた。「薩戒記」に関しては「已上、以定親卿自筆令書写了」とあって、原本から抄出を行ったらしい(「薩戒記」応永三十三年正月二十六日条の一部も書写されているが、この文章については、紀光は同記の一部であることを知らなかったらしく、「以古筆令書写了」としか記していない)。紀光の編纂にかかる『続史愚抄』文安四年三月二十四日条の吉田一社奉幣使発遣・七月十九日条の宮中三十日穢の記事の出典は「巌砂」となっており、「巌砂記」所収の「薩戒記」の記事に基づいていると思われる。「巌砂記」に見える紀光の奥書はいずれも天明元(一七八一)年閏五月のもので、寛政八(一七九六)年頃の成立とされる「砂巌」に先行して、『続史愚抄』編纂のための史料集として作成されたと考えることができるだろう。
 京都大学附属図書館菊亭文庫所蔵の「雑々日次抜書」は「山槐記」「薩戒記」の抜書、「中山親綱記」断簡等、中山家に伝来した史料を貼り継いだものである。「山槐記」抜書は「達幸故実抄」のための作業の一部という可能性もあるが、「薩戒記」抜書については、抄出の時期や目的等を今のところ確定することができない。「薩戒記」には「記中抄出」「消息抄出」をはじめとして、多くの抄出本が存在するが、これらの編集の経緯も含めて、中山家における記録の研究や整理についての事情全般を今後の課題として考えていくことにしたい。
(例言三頁、目次二頁、本文二八三頁、巻頭図版一頁、本体価格九、五〇〇円、岩波書店発行)
担当者 本郷恵子

『東京大学史料編纂所報』第48号 p.45-48