大日本古記録 後法成寺関白記 四

最終冊となる本冊には、天文元(一五三二)年・同二年・同五年の三ヶ年分の本文と、参考として近衛尚通の手になる『雑々記』大永三(一五二三)年・同四年分を収載した。『雑々記』は年ごとに編まれた近衛家の収支帳簿で、本記を補う内容をもつことから採録した。所蔵は日記本体と同じく財団法人陽明文庫である(請求番号二五七九七号・二五七九八号)。また本文・参考に加えて、解題・略系・略年譜・補訂表・索引を付載した。本冊の刊行をもって二〇〇一年三月の第一冊刊行以来、十年間に亘る編纂が一応の完結を見た。なお最終冊の刊行にあたっては、後述の理由から半年の遅延を招いてしまった。読者ならびに関係各位には深くお詫び申し上げたい。
 本冊に本文として収録した範囲は、尚通晩年の六十一歳から六十五歳にあたる。従一位前関白・准三后となって久しかったが、天文二年に父政家の享年にあたる六十二歳となるに及び出家を遂げた。既に嫡男稙家は三十四歳で、従一位関白に昇っており、家督交代の時を迎えていたと言える。伝来する日記は天文五年をもって終っているが、果してこれ以降に記載が続いていたのかは明らかでない。ただ尚通も父政家の死をうけて、その翌年に三十五歳から日記を遺しているから、当該時期に家記の引き継ぎがあったとみても無理はないだろう。
 前冊に引き続き天文元~五年も、京都をめぐる情勢はめまぐるしく変化していた。天文元年初頭から顕在化した細川晴元と三好元長の対立は、京都周辺の情勢にも不穏な影を落とした。近衛家も家財を避難させるなど、不測の事態に備えている(六月十四日条)。六月末に両者の対立が、元長の滅亡という結末を迎えると、つづいて晴元は本願寺勢力との対決を深め、洛中洛外において武力衝突を重ねてゆく。八月二十四日、ついに晴元勢は法華衆と連合して山科本願寺を焼き払い、真宗勢力を京都から駆逐することに成功した。しかし今度は細川晴国を擁する丹波勢が京都を窺うなど、依然として情勢は安定しなかった。尚通は、こうした推移を淡々とした筆致で書き留めている。翌天文二年も同様の状況がつづき、摂津方面では晴元勢と本願寺勢力が角逐を繰り広げ、京都周辺では晴元勢と晴国勢の戦闘が継続した。記録の欠落する天文三・四両年には、丹波勢が退き、小康を得たようで、同三年九月には近江から七年ぶりに将軍足利義晴が帰洛した。しかし同五年に入ると、洛中を掌握していた法華衆と延暦寺衆徒との対立が激化、緊張が一気に高まってゆく。ついに七月末に至り、晴元勢・六角勢・山門衆が総攻撃に出ると、下京は焦土と化し、法華衆は京都から駆逐されてしまった(天文法華の乱)。尚通は、信仰の面において日蓮宗寺院と深くつながっていたはずながら、その文面からは特段のシンパシーを感じることはできない。神楽岡まで出向いて合戦の推移を見つめ(七月二十二日条)、勝利した六角勢に使者を送って戦勝を祝すなど、現実的な対応に終始している。なおこの乱の終息を受け、晴元は畿内に進出後七年を経て漸く京に本拠を定め、政権の運営を開始するに至る。
 続いて当該期間における尚通自身ならびに近親者の動向について簡単にふれておきたい。尚通本人においては、前述のように天文二年四月の出家が最大の変化であった(二十七日条)。戒師選定をめぐる曲折や、後奈良天皇からの慰留もあったが、予定通り得度している。法名は大証と号した。嫡子稙家に目を転じると、天文二年二月の関白辞任が注目される。この辞任は九条稙通からの圧力によるもので、尚通・稙家も本意ではなかった。近衛家と連携を深めつつあった将軍義晴は、稙通の関白就任を肯んぜず、天皇に申し入れを行っている。結果として官務・局務がともに詔宣下に出仕しないなど、稙通の任関白は異常な状況下で行われた。義晴の入京後の翌天文三年十一月、稙通が辞職・出奔を余儀なくされるのも、ここに一因があるのだろう。他の尚通息では、久我家の養子となった晴通の叙爵をめぐる動きがあった。天文元年十一月、尚通と久我通言らは、通言の隠居と晴通の叙爵を打診したが、天皇の容れるところとはならず、叙爵は翌年十二月まで持ちこされている。通言の隠居・出家はさらに後の天文五年十一月まで下るが、これは同年正月に晴通が従三位に叙され公卿になったことを受けたものである。
 一方、女子では、永正十一年誕生の末娘が、天文三年六月に、入京直前の将軍義晴のもとに嫁したことが特筆されよう。日記本文の欠落する年に当り、詳細は明らかでないが、前冊に収載した大永六年冊の紙背文書の中には、日野家出身の将軍室につきその先例が不吉であることを書き上げたものがあり(⑯号)、以前から入念な準備が行われていたことが窺われる。同様に本文に記事は見えないが、当該期間に尚通女子が小田原の北条氏綱に嫁したようである。氏綱の後室が尚通女であったことは以前から指摘されていたが(井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』明治書院、一九七二年)、その婚期は明らかになっていない。本冊収録の享禄五年(天文元)四月二十六日条には、氏綱から大量の品々が贈られてくる記事が見え、これを婚姻に伴う贈答とする見解が示されている(柴田真一「近衛尚通とその家族」、中世公家日記研究会編『戦国期公家社会の諸様相』<和泉書院、一九九二年> に所収)。氏綱との交流は既に大永三年から見えているが、両者の関係はこのころから顕著に深まっており、この指摘は妥当と言えるだろう。なお氏綱室について、前後して日記本文から消える女子「正受寺」に比定する見方もあるが(柴田前掲論文)、明確な徴証を見出すことはできない。いずれにせよ尚通は、子女を将軍や戦国大名に巧みに配し、武家との関係を強めることで、不安定な情勢を切り抜けようとしていたのである。
 次に近親者の死没・誕生をまとめておく。天文元年八月二十四日、室維子の姉妹にあたる久我通言室が没し、翌二年の同じ日には、彼女らの父徳大寺実淳が八十九歳で没している。両人の死没に際して、徳大寺家では和解にむけた動きがみられ、それ以前に何か対立が生じていたと推測されるが、本文に言及は見当たらず具体像は不明である。次世代の誕生という点では、尚通の孫にあたる世代が次々と生まれたことを挙げておきたい。まず天文二年には稙家の女子が誕生する。母は正室の慶子。後にこの女子は将軍足利義輝に嫁し、その正室となる。つづく同五年正月には稙家嫡男の前久が生まれた。生母は同じく慶子である。また将軍義晴に嫁した尚通女(慶寿院)も同年三月に男子を産んでいる。これが将軍家の正嫡、後の義輝にあたる。こうして前久と義輝は同い年の従兄同士となり、さらに義輝には稙家女が配されていくことになる。尚通の婚姻政策は、その後の近衛家の基本方針となり、受け継がれていったことが窺われよう。
 本冊収録の三年分においても、その全てにわたり紙背文書がある。天文元年冊に二十二点、天文二年冊に十九点、天文五年冊に十七点を数える。天文元年分は尚通筆八点と他筆十四点からなるが、後の二年分はすべて尚通筆であり、前冊収録分に比べると尚通筆が占める割合が高い。内容的に見ると、天文二年冊紙背に、息久我晴通の叙位を要請する尚通書状土代が六通も含まれている点が注目される。前述のように、晴通叙爵の申請は、天文元年十一月のことであるが、その際の案文が紙背に残されているのである。久我通言の隠居をめぐる朝廷内の微妙な情勢をふまえ、尚通が書状を整えるのに苦心したことを窺わせている。また天文五年冊になると、「大証」名義の懐紙・書状が登場する。これは天文二年の尚通出家を受けたものである。さらに稙通の筆になるものが六点見出され、世代の交代が感じられる構成となっている。
 参考として掲げた『雑々記』は、冒頭でも触れたように尚通自筆の収支帳簿である。法量は日記本体に比べるとやや小ぶりながら、料紙を横に半切し、中央で折って袋綴にする形式や、重量感ある楮紙が選ばれている点など、ほとんど本記と変わらない。ゆえに紙背文書も同様で、ほぼ全ての料紙に存在する。帳簿記載の方法は父の帳簿(『雑々記』『雑事要録』)をほぼ踏襲しており、家記とともに引き継いだと見るべきものだろう。現在陽明文庫に遺されているのは、大永三・四両年分のみだが、父の帳簿が文明七年から永正二年までの三十一年間に及んでいることを踏まえると、より広い期間にわたって記されていたと見るべきだろう。帳簿に見える近衛家領は、山城・近江・摂津・美濃・尾張・越前・加賀・越中・丹波・播磨の十か国に及ぶが、遠隔荘園については名称を掲げるのみで、収支記載のないものがめだつ。また末尾には周辺の関係者との贈答・貸借・下行などがまとめられているが、項目を掲げるに止まり、その実態は記されていない。政家は当該項目について、かなり詳細に書きとめており、その対比が際立っている。全体として近衛家の家計は所領からの収入が減少し、ともなって贈答なども収縮する傾向にあったことは否めないだろう。紙背文書は、大永三年冊に十二点、同四年冊に十点を数え、全て尚通の筆である。大永三年册の紙背文書のなかには、日記の同年冊紙背と同文のものが収められており(④・⑩)、『雑々記』が日記とほぼ時を同じくして編まれたことを予想させる。
 さて附載のうち補訂表であるが、既刊分に修正点が多数確認されたため、凡そ百ページに及ぶものとなってしまった。本冊の刊行遅延も、当該部分の作成に手間取ったことによる。本来であれば、人名比定の変更などについて、逐一その根拠を示すべきところながら、これまた多くの紙面を費やすことになってしまう。本稿における詳述は割愛し、今後さらに検出されるだろう訂正点の公表とあわせ、別途ホームページなどを通じてその責めをふさぐことにしたい。
 最後に本冊のうちには既に修正点が多々確認されている。これについては以下に煩をいとわず掲げ、その正誤を示しておきたい。読者各位にはご訂正を請う次第である。
 本冊の編纂・刊行にあたっては、財団法人陽明文庫より史料閲覧など諸々の便宜をお図りいただいた。とりわけ文庫長名和修氏には懇切なご指導を仰いだところである。記して深謝申し上げたい。また紙背文書の読解・補訂作成にあたっては宮崎肇氏(学術支援専門職員)の、索引作成においては野口華世・小瀬玄士両氏(学術支援専門職員)のご協力をいただいた。なお本冊刊行後、科学研究費「歴史知識情報の正規化による古記録フルテキストデータベース高度化と記録語の解析研究」(代表 吉田早苗)による研究集会において、高橋秀樹・小川剛生・石田実洋の三氏からご講評をいただくことができた。本冊の訂正は、多分に三氏ほか参加各位のご指摘によるものである。あわせて深く御礼を申し上げたい。
(例言二頁、目次二頁、本文一五〇頁、参考四四頁、解題七頁、略系三頁、略年譜一八頁、補訂表一〇〇頁、索引八五頁、巻頭図版二頁、本体価格一二、〇〇〇円、岩波書店発行)
担当者 井上聡

『東京大学史料編纂所報』第47号 p.50-53