大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料二十七

本冊には、万延元年六月から十一月までの記事を収める。
 老中に再任された久世広周は、主君を殺害された井伊家中の暴発を抑えるため懐柔策を進めながら、和宮降嫁を実現しようと図る。側衆薬師寺元真が彦根藩士長野義言に伝えた情報(四二・五二号)によると、久世は、対京都・水戸、外国問題を握り、側衆御側御用取次平岡道弘・若年寄遠藤胤統や大目付・目付を傘下に組み込んでいった。「桜田門外の変」以来、将軍に世間の風聞を上申しないように側周りに内達が行われ、久世・平岡・若年寄諏訪忠誠などが日々居残り密議を行う状況であった。薬師寺は、小姓組番頭格式戸川安清・村松武義が転役させられたことは、「忠臣を遠ざけたのだ」と報じている。直弼と共闘していた老中松平乗全は既に辞任し、久世再勤に反対していた老中脇坂安宅もやがて外国事務取扱等の御用御免となり、十一月二十九日罷免となった。
 主君が幕政の中心であった状況から一転して、無役の幼主を戴くことになった彦根藩では、七月朔日、家老の木俣守彝を執権職に就任させ体制立て直しを図る。木俣家の執権職就任は、寛文三年・享保三年につぎ、三度目であった(母利、二〇〇三年)。また、町奉行石谷穆清を介して、久世へのルートを繋ぎ、長野を中心に幕府の和宮降嫁実現への働きかけに参画する。しかし、藩内には、そうした幕政への容喙に反対する勢力もあり、長野・彦根藩側役宇津木景福・彦根藩京都留守居後閑義利に対する反感が醸成されていく(三九号)。
 一方、水戸に下された勅諚の返還がなお難航している中、八月十五日前水戸藩主徳川斉昭が死去する。このことは井伊家中にとっては、主君殺害の首魁と目される人物への報復の機会を永遠に失ったことを意味した。
 【彦根藩と老中久世広周】
 弱冠十三歳で新藩主となった井伊直憲は、六月朔日初登城し、将軍に家督相続のお礼をした際には、御座の間において将軍から「忠勤すべし」との上意を達せられ、桜の間において老中から「忍びがたきを忍び、争乱の端を披かざる」ようにと、水戸藩に対する自力での報復を防止することを特に求められた書付(一号)を達せられた。官位叙任以前にもかかわらず将軍から「御鷹の雲雀」を拝領し、八月二十六日、左近衛権少将に任じられ、掃部頭と称することになる。
 久世は、降嫁実現に向け、京都に人脈をもち直弼の右腕として奔走していた長野を活用した。長野にこれまでの京都工作経過を報告させ、また、随時情勢報告を求めた。関白九条尚忠が京都所司代酒井忠義に和宮の婚儀了承を知らせた長野(在京中)の書状を受け取った宇津木は、それを木俣に報告したあと、彦根藩城使富田昌春から町奉行石谷を介して、久世に提出している例もある(九八号)。
 また、久世と九条との間で忌憚のない情報交換を目指して直書が交わされることとなる。この直書の往復は、九条書状を久世用達に渡す(五四号)など、幕府公用便を使わない、変則的な手段で行われた。
 【水勅返納問題・斉昭の死去をめぐる情勢】
 六月十三日京都所司代に下された水勅返納を命じる勅書を奉じた禁裏附大久保忠良は、七月朔日江戸に着いた。七月二十六日付長野宛薬師寺書状では、和宮の縁談がまとまるまでは、同勅書は、老中御用部屋に留められているとの風聞を報じている(四〇号)。
 斉昭の死去は、八月二十七日、「二十六日逝去」として触れられた(二十六日、幕府は、斉昭の永蟄居宥免を水戸藩に通達、一方井伊家当主に破格の叙任を達している)。九月六日付彦根藩家老書状は、長野からの「実死に間違いなし」との知らせに「全悪業甚だしきに至った故の神罰」と断じている(八〇号)。井伊家史料のなかには、斉昭死去が真実かどうか探った届書の写が残されている(七二号)。斉昭は殺害されたのだとする噂も流れていた(六七・八六・八七号)。
 後閑は、水勅が返納されない場合は、水戸藩を「打潰す」はずであると考えていた(一〇号)。また、木俣も、幕府の威権のためにも返納を拒む状況は排除すべきであるとの上書(二〇号)を作成し、九条(二七号)、久世に提出している(二一号)。
 そのような情勢の中で、斉昭発喪の前提として謹慎解除が行われたこと、また、五月二十五日所司代酒井が「水勅返上の上は水戸藩に『寛宥』たるべし」という趣旨の上申を行ったことに対して、彦根側は、幕府に対し不信を募らせていく。長野は、久世が実は水戸と内通しているという風聞も、老中内藤信親の内々の情報として得ていた(一九号)。
 【和宮降嫁の決定】
 和宮降嫁の合意形成への道のりは平坦ではなかった。六月二十九日付の長野あて九条家家士島田龍章書状は、降嫁は甚だ困難であるとの孝明天皇の六月二十日宸翰が、二十八日所司代酒井に達せられ、即日関東に発送されたことを知らせている(一七号。この書状には、書状内容について補足説明した長野筆の下げ札が付されており、恐らく、島田書状を久世に上程したのち長野に返却されたものと考えられる)。幕府返答書は、七月十日に所司代酒井から関白九条に提出された。井伊家に残された返答書写(二四号)に対し、関白側に留められた二度目(七月二十九日)の返答書(『九条尚忠文書』収載)には書き換えが存在する。すなわち『九条尚忠文書』では「当節より七八ケ年乃至十ケ年も相立候内には」外国応接引き戻しか、また外国勢に征討を加えるかという表現に代えられている。これには孝明天皇の意向を踏まえ九条の改削の働きかけがあった(三五号)。焦点となっている外交問題については、関白の意を尊重したい久世と他の幕閣の間で意見の相違が存在していたと、長野は島田に伝えている(二九号)。
 七月二十七日、和宮説得のため、橋本勝子(第十二代将軍徳川家慶付上臈年寄、剃髪後勝光院)が江戸を立って京都に向かった。関白側は、水戸派と目され大奥や側衆にも影響力のある勝子に功績を奪われることを恐れ、その上京前に九条の手で調縁させようと腐心する。また、八月初旬、和宮の母の実家橋本家が縁組に難色を示し始めたのは、上京途中(江戸出立は大奥の思惑から、また旅路にあっては川留のため、それぞれ遅延し、着京は、結局八月十八日となった)の勝子のさしがねではないかと、九条は疑惑を募らせる(五四号)。
 八月十八日、降嫁承諾の勅許が所司代に達せられた。島田は早速長野へ幕府からの入輿正式願の手はずについて連絡している(六四号)。九月七日には、縁組御用内々取扱のメンバーが、書取のかたちで(恐らく幕府内部諸部局に)達せられている(八八号)。
 このような情勢の中、長野は上京して京都折衝にあたることとなる(十月六日着京、十一月中旬頃まで在京し、同月二十一日江戸着)。降嫁の交渉過程では、関白側から禁中并公家中諸法度の改定も俎上に載せたいという意向があり、長野上京はその意味でも関白側も望んだことであった(五九号)。
 しかし、年内降嫁を望む幕府に対し、和宮側から出された注文書は、幕府にとっては自らの威権が立たない内容であった。十月十二日付宇津木宛長野書状では、「かえって破談としたほうが将軍のためでは」という意見も持っていた。一方、和宮ではなく寿万宮降嫁をとの画策も生じていた(九七号および付属史料)。注文書およびそれに対する長野による返答案は、在京の長野─彦根藩江戸藩邸─石谷─久世のルートで伝えられた(一〇〇号)。十月十四日時点では、孝明天皇自身が和宮以外を降嫁すべきという意向を表明したという情報が幕閣に伝わっていた(九九号)。
 十一月朔日付で、「七八年乃至十ケ年之内蛮夷拒絶」について将軍以下同心したことに対し、挨拶の勅使を派遣するとの孝明天皇の意向が、島田を介し長野に達せられた(一〇六号)。同日、幕府は、和宮降嫁を諸大名に公布した。
 【京都守護】
 京都守護は、直弼が井伊家の旧格復帰運動として尽力し、安政元年拝命が実現した。万延元年六月三十日、幕府は、高松・松江・郡山・桑名・淀・膳所・篠山・高槻の諸藩に、京都諸口の戒厳を命じ、彦根藩には、御所・九条邸の厳備を命じた。しかし京都守護は「古格通り」(三三号)とされる一方、井伊家の禁裏九門一手警衛は、九条の周旋にもかかわらず実現せず、井伊家・柳沢家・酒井家の三家での分担となった(四五号)。
 【収載史料の特徴】
 (1)従来、彦根藩井伊家文書の中に残された井伊直弼およびその側近の書状類は、①長野義言の手元にあったものと、②江戸藩邸に残されたものであると考えられてきた(小野、一九九六)。しかし、二十六巻および本冊におさめた、「桜田門外の変」後の史料には、彦根藩京都留守居後閑義利の手元にあったものと思われる書状類が散見される。たとえば三号にみられるような、後閑筆の端裏書を有する書状群である。
 (2)彦根藩側から久世への情報提供の痕跡を残す史料がみられる。書状の文面についての解説のための下げ札を付した、一七号史料などがこれにあたる。これらの史料には、書状の書き手から宛名の人物へという流れ以外に、主従関係にはない人物に情報が回される流れが存在し、そこでの機能につい
ても留意する必要がある。
 小野正雄「井伊直弼関係史料について」『東京大学史料編纂所報』三十号、一九九六年
 母利美和「役職解題」藤井譲治編『彦根城博物館叢書 4 彦根藩の藩政機構』サンライズ出版、二〇〇三年
(目次一六頁、本文三一一頁、口絵図版一葉、本体価格一四、八〇〇円)
担当者 横山伊徳・杉本史子・箱石 大

『東京大学史料編纂所報』第47号 p.39-41