大日本史料 第十編之二十七

本冊には天正二年雑載のうち、風俗、交通・市場、所領、検注、訴訟、年貢・諸役、寄進、売買、譲与、貸借、物価・算用の各条を収めた。天正二年は、暦年が第二〇冊から二五冊までの六冊にわたった。前冊および本冊を年末雑載とし、天正二年は本冊にて完了する。
 本冊に収めた史料のなかで、暦年の冊に収めるべきであったものも含まれる。いくつかあげれば、三月、長門甲山市と周防白松との境相論において、毛利輝元が裁定を下した一件(訴訟条)、朝廷が角田隆能入道に西国往来船月別一艘の過書を与えた一件(月未詳、年貢・諸役条)、五月、長岡藤孝が山城粟生光明寺に寄進地・被官人らを安堵した一件(所領条)などである。
 本冊のなかで多くの分量を占めるのが、賀茂別雷神社の職中算用状である。賀茂別雷神社文書は二〇〇六年に重要文化財の指定を受けたが、それに先立ち京都府教育委員会によって行われた調査において、これまで未紹介であった文書多数が見いだされた。天正二年分算用状も多くそのなかに含まれており、確認できる天正二年分算用状(およびそれに関連する書付類)をすべて収録した。
 天正二年分は、正月分を除き、閏十一月分を含めた十二ヶ月分の月例職中算用状が残っているほか、「錯乱方」と呼ばれる算用状が十ヶ月分伝わる。錯乱方とは、年によっては「乱入方」などとも称され、「動乱期にあたる年のもののみが伝来することから、支出が多かった年において、いわば特別会計として作成された」(京都府教育委員会編・発行『京都府古文書調査報告書第十四集 賀茂別雷神社文書目録』)職中算用状のことである。
 賀茂別雷神社周辺、ひいては京都周辺が政治的・軍事的な混乱状態にあり、そこから神社境内および同社領を保全するために使った渉外活動費をまかなう必要から、氏人たちが月例予算とは別に組んだ臨時会計が、錯乱方職中算用状である。このたぐいの算用状はほかに天正十年(本能寺の変の起きた年)に多く残されており、天正二年という年が賀茂別雷神社にとっていかに危機的状況にあったかがわかる。
 この年はほかにも「天正弐五月分就信長御見物職中算用状」がある(『賀茂別雷神社文書』Iノ5ノ四〇〇号)。毎年五月に開催される競馬を見物に来た信長を饗応するために別立てで組まれた経費の算用状と推測されるが、この年信長は競馬に愛馬を提供したものの、見物したという記録はなかった(第二二冊所収五月五日条参照)。本史料により信長見物について再検討する必要がある。
 こ賀茂別雷神社算用状では、信長ほか、明智光秀・丹羽長秀・佐久間信盛・羽柴秀吉・柴田勝家・塙直政・村井貞勝(および彼の被官)・太田牛一ら家臣への贈与が見られるが、本冊に収めた『正法山妙心禅寺米銭納下帳』・『大雲山誌稿』(日黄事故略抄・竜安寺の記録)においても同様な事例が散見される。妙心寺・竜安寺の記録では、暦年で確認できなかった十月・十一月における信長の滞京記事(両寺周辺での鷹狩)が見られ、注目される。
 なお、検注条に収めた『久我家文書』(久我家領山城上久我指出帳)・『饗庭昌威氏所蔵文書』(近江饗庭定林坊田畠帳以下)はそれぞれ長大であるため、一部を収録するにとどめた。興味をお持ちの方は、刊本『久我家文書』・写真帳饗庭昌威氏所蔵文書をそれぞれ参照されたい。
 北野社についでは、摂津住吉社に関する記事が多い。いずれも歴代残闕日記所収の『津守氏昭記』に拠るものだが、同記の性格・伝来については、末柄「本所所蔵『津守氏昭記』」(『東京大学史料編纂所研究紀要』九・一〇号、一九九九・二〇〇〇年)を参照されたい。
 本冊編纂にあたり、本所RA立石健氏・同研究支援推進員西ノ原勝氏・遠藤ゆり子氏のご助力を賜わった。厚く感謝申し上げる。また賀茂別雷神社算用状については、文部科学省科学研究費補助金基盤研究B「中近世移行期における賀茂別雷神社および京都地域の政治的・構造的分析研究」による調査成果を利用させていただいた。研究代表者野田泰三氏、研究分担者高橋敏子氏、研究協力者米田裕之氏にもあわせて感謝申し上げたい。
(目次二頁、本文五一一頁、本体価格一〇、五〇〇円)
担当者 金子 拓・黒嶋 敏

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.42