大日本史料 第七編之三十二

本冊には、応永二十五年(一四一八)年末雑載のうち、災異、社寺、公家、諸家、疾病・死没、学芸、荘園・所領の各項を収録した。
 災異項では、会津地方に伝来する史料から、陸奥の大刹恵日寺(現福島県磐梯町慧日寺)に大火があったことが知られる。並べて掲載した『満済准后日記』の記事は、日付は異なるものの、同寺の火災の報が京まで伝えられたことを示すものと考えられる。
 社寺項は国別に史料を排列した。山城の東寺に関しては、鎮守八幡宮宮仕らが宮仕部屋で泥酔のあげく部屋を汚し、社頭奉仕を怠るという不祥事をおこしたことが同宮供僧評定引付にみえ、下級神官のありかたが垣間見える。諸方供僧の交代があったほか、伝法会学頭融然が伝法会期間中に没したため、翌日以降の試講の是非や捧物の分配、後任などをめぐって評定で議論がなされている。
 醍醐寺に関しては、『満済准后日記』本年二月から三月にかけてみられる義賢が八千枚を焼く記事、および「醍醐寺文書」所収の「八千枚略記」は、義賢が満済より伝法許可灌頂を受けたことに関わる史料であり、本年正月二
十一日条を参照されたい。
 その他の山城社寺に関しては、この年、一休宗純が「一休」の道号を華叟宗曇から与えられたことが「東海一休和尚年譜」にみえる。
 地方社寺史料については、「長楽寺所蔵記録」から収録した上野国長楽寺に伝わる印信目録が注目される。長楽寺は中世においては禅・台密兼修の寺院であり、この目録は全体として広い意味での印信として永正五年に伝授されたものであるが、台密の印信群が体系的に整理され、同時代における台密印信群の内部構造を示すものとされる(菊地大樹「東福寺円爾の印信と法流─台密印信試論─」『鎌倉遺文研究』二六、二〇一〇年一〇月)。なお本冊に収録したのは、目録総体のなかから応永二十五年の筆写年次をもつ部分である。
 本冊では、綱文にとりあげられない朝廷の公事に関わる史料を収録するため「公家」項を設け、「薩戒記」に記された広橋宣光の蔵人宿侍後朝儀を収めた。
 諸家の項では、前年同様、「看聞日記」が伏見宮家および所縁の今出川・田向・庭田等の諸家の動向を、「康富記」が中原康富家と清原家の行き来やそれぞれの日常、人々の出入りを細かに記している。応永二十五年分も「康富記」の紙背文書はすべて翻刻し、公家、諸家、学芸、荘園・所領の各項に類別して収めた。諸家の項に収めた九月三日のかな書状は、康富の隣人山下家の娘幸御が滞在中の伏見から書き送ってきたものであるが、紅梅の小袖や鏡を求める女性らしい気持ちを綴っており、紙背文書ならではの内容となっている。
 疾病・死没の項では、史料編纂所所蔵の「摂家系図」にみえる松殿忠輔の死没記事を収録した。藤原忠通男基房を祖とする松殿家は早く衰微し、忠輔の名は「尊卑分脈」にも現れないため、「摂家系図」はこの時代の松殿家について記す貴重な史料である。
 学芸の項では、諸道に関わる大部の著作を複数収めた。
 まず特記すべきは、応永二十五年の年記をもつ世阿弥の伝書「花習内抜書」「花伝第七別紙口伝」を収録したことである。「花習内抜書」は、「花習」から「能序破急之事」一か条を抜きだしたもの。「花習」の全容は伝わっていないが、まさに本書の奥書から、応永二十五年段階で題目六か条、事書八か条からなる「花習」が成立していたことがわかるのである。そして本書の内容は応永三十一年に成立した世阿弥の伝書「花鏡」の事書二条目「序破急之事」とほとんど同内容であることから、「花鏡」は「花習」執筆の後、それを増補して著されたものということも推測できる。内容的には、能の催しの現場で、様々な理由により序・破・急の原則的展開が困難な場合の対策について詳述したもので、古記録等にはみえない能が催される場の実際が垣間見えて興味深い。底本には財団法人観世文庫所蔵の世阿弥自筆本を用いた。署名はないが、筆跡および使用する濁点・文字・促音表現の特徴により世阿弥自筆と確定されている。もう一つの伝書『花伝第七別紙口伝』は、世阿弥の代表的な伝書「花伝」のうちの一篇である。「花伝」の成立過程は極めて複雑で(岩波講座能・狂言『Ⅱ能楽の伝書と芸論』表章著「序説」・「一 世阿弥の伝書とその芸論」他)、ここでの詳論は不可能だが、本書は、「花を知ること」に始まり、一貫して「花」の論の実質が述べられている。世阿弥の芸論の本質ともいえる「花」について多くの伝書のなかで最も集中的に論じられており、世阿弥が秘伝の一巻として位置づけたものとされる。「初心ヲ忘ルヘカラス」や「秘スレバ花、秘セスハ花ナルヘカラス」といった世阿弥の名辞として著名な一文も本書の中にみられるが、これらの言葉が本来意味するところは本書のなかにおいて読み取られなければならない。本書には世阿弥自身により書かれた二種類の本があり(一つは弟四郎に相伝した本、もう一つは応永二十五年に息男元次に相伝した本)、二本間の差異はあるが、条目の順序、論旨には大差はない。四郎本は世阿弥自筆本が伝わっているものの焼損が甚だしいため、底本としては、元次本系の天正六年観世宗節書写本(観世文庫所蔵)を用いた。なお、これら世阿弥伝書の翻刻にあたっては、財団法人観世文庫が公開している観世アーカイブの原本画像を用いた。同文庫には、画像にもとづく翻刻および掲載をご許可いただいたことに深くお礼申し上げる。また、伝書の編纂にあたっては、法政大学文学部専任講師・野上記念法政大学能楽研究所兼担所員伊海孝充氏のご教示を得た。謝意を表したい。
 「なぐさめ草」は室町前期を代表する歌人清巌正徹の紀行文で、全文を収録した。京都から近江・美濃を経て尾張清須に至るまでの旅の様子や、清須での日々が記されている。滞在中に出会った童形に請われて「源氏物語」の和歌について談じる場面で知られる。また僧としての自らの自堕落な生活や童形への恋情が赤裸々に語られている。複数の写本があるが、本冊の底本には自筆本に近いとされる早稲田大学図書館所蔵本を用いた。
 「兼宣公記」逸文(応永二十五年四月十五日条・十六日条)は、後小松上皇から足利義持への源氏物語注釈の伝授に関わる内容である。足利義持が注釈中における不審箇所について後小松上皇の解釈を求め、上皇が宸筆をもって返書するにあたり、伝奏としてこれらを取次いだ広橋兼宣が自らのためにそれを筆写したものである。取り上げられた項目は、いずれも鎌倉〜室町時代にかけて成立した複数の古注釈書においてみられるものであるが、五つの項目すべてを載せる古注釈書はないうえ、上皇が示した注釈の内容は当時すでに存在した注釈書とは異なる部分もみられ、注釈成立史上でも注目される(池田和臣「源氏物語の秘説と後小松上皇─新出「三条西実条筆『兼宣公記』逸文」について─」『文学』二〇〇四年十一・十二月号)。なお、底本は広橋真光氏所蔵本だが、この逸文には三条西実条による慶長九年の書写があり、そこには底本にはないもう一通の後小松上皇女房奉書が十五日条につづいて筆写されている。それによれば、当初、義持から上皇に問い合わせがあったのは三か条であり、そこに上皇が「とのゐものの袋」を付け加えたことがわかる(三条西実条写本については翻刻も含めて、前掲池田論文を参照)。
 五山文学では、この年、天章澄□が「栖碧摘藁」を編んだ。紙の史料ではないが、「慈恩寺詩板」も注目される。慈恩寺はもと鎌倉花谷にあった禅寺だが、京の名だたる禅僧達がこの寺を讃えて作った詩に応永二十五年に一曇聖瑞が序を添え、当時の寺主が板に刻ませたもので、序や詩からは山に抱かれ海を望む同寺の立地や堂塔・草木等の見事さがしのばれる。
 和歌・連歌については、前年に引き続き、「康富記」やその紙背文書から多くの記事を収録した。同紙背文書には、八月・九月の連歌関係の文書をはじめ、表の日記記事と関係する史料が少なくない。
 犬追物(「検見故実」)や蹴鞠(「鞠之事」)に関する典籍など、多様な史料を収録したことも本冊の学芸項の特徴である。「鞠之事」は昭和八年に当時大阪市東区在住の富田仙助氏所蔵本から本所が作成した謄写本を底本とする。類書は多いが、それらとの系譜関係は未詳。なお表紙に現れる「朝衡」とは、収録しなかった書写奥書に「文明七年十一月十一日感得之、朝衡」と現れる人物である。なお、この人物についての系譜関係は明らかにできなかった。
 聖教の書写等に関しては、この年、美濃東香寺住持祖芳蘭室の発願により賢愚因縁経ほかの経典が書写されていることが注目される。
 荘園・所領の項では、「看聞日記」正月四日の記事から、応永二十四年に行われた伏見庄下司三木氏の闕所地の知行をめぐって、綾小路信俊と田向経良という伏見宮家の重臣同士が対立していることが知られる。「康富記紙背文書」の十一月日の丹波佐伯庄内隼人保の作人穴川の申状は、他領代官からの年貢徴収の停止を求めたものであるが、このころ康富は同所に下向中である。荘園現地に滞在中の領主のもとに寄せられた訴状であると思われる。
 「鵤庄引付」の記事は、室町期の百姓逃散史料として著名なものである。庄鎮守である稗田社での集会や、表を囲って家に籠るという逃散の形態などが記されている。また、逃散への対応に手を焼いた寺家から守護方に対して仲介が要請されており、この時代の荘園現地における領主、百姓、守護の関係を具体的に知るうえで興味深い。
 東寺領関係では、若狭国太良庄で、百姓が狸の穴を掘ったところ、銭壺を掘ったのではないかとの嫌疑をかけられて守護方に捕縛されるという事件が起き、東寺は百姓の解放を守護に訴えている(「東寺百合文書」)。
 このほか、奈良近郊の諸荘園が能登岩井川から水を引く権利を日割りで定めた引水定(「能登岩井河用水記」)、香取社領下総国大畠の夏畠内検取帳、筑後国報恩寺領の坪付注文(「隈文書」)などを収めた。
(目次二頁、本文四〇九頁、本体価格九、四〇〇円)
担当者 榎原雅治・伴瀬明美

『東京大学史料編纂所報』第46号 p.38-40