大日本史料 第十二編之五十九

本冊には、元和八年(一六二二)年末雑載のうち、武事条、売買・貸借・譲与条、交通・運輸条、雑条、および第十二編之四十八の補遺として元和八年九月二十七日の第二条を新たに加え、収録した。これでとりあえずは元和八年の編纂を終了し、次冊からは元和九年に進むことになる。
 武事条は、各種記録類からの抄出記事や伝授書類を中心とし、刀剣銘なども収録した。記録類では、例えば「梅津政景日記」からは羽後久保田佐竹家江戸藩邸の兵具蔵の検査や鉄炮などの武具の調達の様子が見て取れる。武具の検査は佐竹家に限らずどの大名家でも行うことであるが、阿波徳島蜂須賀家については「御櫓古帳」として本年に行われた武具検査の結果が残されており、その全文を収録した。また近世初期より京都三十三間堂において盛んに行われた通矢に関する記事を、永青文庫所蔵の「矢数帳」などから集めた。 伝授書では、砲術に関するものが目を引く。本冊では市立米沢図書館所蔵「梅津家文書」の岸和田流砲術伝授書、東京国立博物館一橋徳川本「射程標準図」、国立歴史民俗博物館所蔵「砲術関係資料」の三件の伝授書の全文を初めて紹介した。これらの砲術伝授書は抽象的な教えにとどまるものではなく、射撃目標との距離、鉄炮の筒長・口径、弾丸の大きさ、火薬量などの相関関係や、照準器の使い方などを具体的に記したものである。砲術以外では、「東根文書」(阿波)から日置流弓術の伝授書、初期の剣術家として有名な柳生三厳の著した「月之抄」から草創期の柔術に関する記事、「東郷文書」(薩摩)から示現流剣術創成期の伝承などを採録した。
 売買・貸借・譲与条には、五畿七道順に土地売券・借状などの証文類を中心として関係記事を収録した。ここでは採録した証文類を個別には紹介しないが、それらから見て取れる当該期の土地売渡の形態としては、永代売買のほかに、年季が明けた時点で売主が代価を支払って買い戻す年季明請戻特約売買がある。後者は契約のあり方としては借状の形態を取って現れることもあり、その場合は売却地の代わりに質地(質物)
が設定され、期日とともに債務を弁済し、売主が質地を取り戻すことが約束される。ただし、このような契約が売券によってなされる場合は本物返が基本であるが、借状においては利子が設定されることが多い点が異なる。これらの借状は機能的には質地証文に引き継がれてゆくものである。またいまだに中世以来の徳政担保文言も見られるが、「国替」・「代替」・「知行替」・「代官替」・「検地」などが新たに担保文言のなかに現れる。
 交通・運輸条には、諸大名の東海道通行の様子が分かる遠江浜松宿の「本陣日記」、同袋井宿の「御宿帳」
や、尾張名古屋徳川領内の枇杷島橋の架橋記事など、雑条には、油を詰めた竹筒が漂着した逸話(「
梅津政景日記」)など、これまでの年末雑載各条からも漏れた記事を収録した。
 補遺では、九月二十七日の第二条として、長門萩城主毛利秀就の家臣堅田元慶の卒伝を新たに加えた。すでに第十二編之五十四の年末雑載、疾病・死歿条に収めた同人の死歿記事を削除し、本所所蔵「堅田文書」や山口県文書館所蔵「一般郷土伝来堅田家文書」、同寄託「山口市堅田家文書」などの未翻刻史料を中心として新たに一条を立てることにしたものである。
 堅田元慶は粟屋元通の次男として生まれたが、毛利輝元に寵用されて堅田を称し、早くから毛利氏の奉行人となるなど有力家臣として活動した。関ヶ原戦後は毛利秀就に従って江戸に詰めたが、これは戦前の元慶自身の行動が幕府から怪しまれ、本人が証人として江戸詰めを求められたのであり、以後死去するまで、一時的に国許に戻るなど江戸を離れることもあったが、基本的には江戸に居住した。元和六年頃からは漸く病を得、本復することなく、ついに元和八年九月二十七日に江戸において死去した。彼の死去後、その遺
跡は直ちに子の就政が継いだ。
 以下に本条の構成について摘記したい。
 先ず、元慶が開基となり、以後堅田家の菩提所となった東京都港区芝の瑠璃光寺の墓碑銘をはじめとして、過去帳・系譜史料など、彼の死去と子の就政の相続に関する史料を収録した。
 次に、関ヶ原戦以前の元慶の事蹟について、彼の固有の活動を示す未紹介史料を中心に採録した。採録史料の中では、豊臣秀吉の側近であった木下吉隆からの書状が、吉隆失脚の時期を中心にまとまっており興味深い。なお紙数の制約から、奉行人としての連署書状などで既に自治体史などに紹介されている史料の多くは、割愛文書目録としてリストを掲げるにとどめた。
 次に、関ヶ原戦後、証人として江戸に居住し、病を得て死に至るまでの経過を示す史料を収録した。採録した幕府関係者や輝元の書状などから、江戸詰めに至る事情や、国許に残していた妻子の江戸移住の顛末、幕閣や他の大名との交流などが覗える。また輝元より病床の元慶に届いた書状からは、元慶に対する輝元の細やかな心遣いを見ることができ、元慶と輝元の親しい間柄が理解される。
 最後に、遺跡を継いだ就政が母とともに長門に帰国する事情や、百回忌を期に作製された元慶の肖像を含む没後供養に関する史料を収めた。また元慶は時期により五種類程度の花押を使用しているが、それら花押影を参考として付した。
(目次一頁、本文一七〇頁、補遺目次一頁、補遺本文二二九頁、本体価格九、五〇〇円)
担当者 宮崎勝美・小宮木代良・山口和夫・及川亘

『東京大学史料編纂所報』第45号 p.33-34