大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十五

東寺文書は、京都府所蔵・府立総合資料館保管の「東寺百合文書」のひらがなの函をいろは順に翻刻している。本冊から、新たに「れ函」にとりかかり、建治三年(一二七七)より永享八年(一四三六)に至る文書を収録した。
 「れ函」は、東寺の寺僧組織のうち廿一口供僧方の文書を収納した函である。したがって本冊の大部分をしめるのも、播磨国矢野荘例名の供僧方および公文名の応永一〇年(一四〇三)以降の年貢散用状・送状・支配状である。東寺領矢野荘例名は、領家職を供僧・学衆両方が所持しており、供僧方と学衆方とは、名田を分かちながらも、定年貢額や荘園現地での負担を等分していたから、この函の文書の読解には、百合文書「ヲ函」「カ函」「ノ函」等にある学衆方の散用状を参照するのが有効である。また例名内の公文名については、供僧・学衆両方の管轄下にあったが、散用の監査は廿一口供僧方年預が統括し、年貢支配は廿一口供僧方の所務を担当した惣公文が行なっていたから、供僧方と併せて文書が管理されたものであろう。
 さて矢野荘の散用状については複数の種類のものが存在しているが、それらの形式と内容的な特徴には、散用に係る名田畠がどのような経緯で所領として形成されてきたのか、その事情がよく反映されている場合があった。矢野荘例名公文職に付随し、給分と雑免から成る公文名の散用状はその一事例である。当荘公文職は、建武二年(一三三五)の公文寺田氏没落以後、寺家による新たな補任、守護方による闕所・寺家への返付・再闕所・祈祷料所としての寄進等の変遷を経て、至徳四年(一三八七)に東寺供僧・学衆方に打ち渡された。寺田氏が公文であったことから同氏の本領であった重藤名のなかに含まれた公文名についても、新たな所務が発生することになったのであり、ここに公文名散用状が生まれた。そして、応安二年の守護方給人飽間光泰跡田畠得分注文案の公文給部分に「為但毎年検見地間、増減在之」とあるように(『教王護国寺文書』五〇三)、公文職が守護方に闕所され守護給人に充て行なわれていた時の慣例を引き継ぎ、一般の公田や公文名以外の重藤名田とは異なって、毎年内検により年貢額を確定する内検散用状の形式をとるようになったのである(馬田綾子「荘園の歴史と収納方法―矢野庄公文名散用状をめぐって―」(『兵庫県の歴史』三二 一九九六年)参照)。
 散用状の内容については、播磨国守護にかかわる「国下用」という支出項目の記事を素材として、守護役賦課の論理、すなわち「天下之御大事」(二二号) 「国一大事」(二五号) 「国中の法礼(令)」(三〇号)といった地域の政治情勢の変化による公権の発動あるいは在地の秩序確保を目的とした荘園公事に由来するといった側面、賦課される役の内容や賦課方法、人夫役動員の実態、さらには守護による森林などの地域資源の供給や流通の把握などの面での研究が進んでいる。散用状の「国下用」項目の記述は断片的なものであり、解釈は容易ではないが(この点、第一六号文書の「上様」の理解を誤った可能性があり、利用には注意を請う)、日次記の形式を備えていることから、他の史料と関連づけることができれば、より詳細な事実が判明する可能性が高いといえるだろう。
 散用状についで多くを収録しているのは年貢の送状・支配状である。東寺では、年貢が送進されるごとにその支配(分配下行)が行なわれていた。送状と支配状は、その都度貼り継がれて、供僧方奉行が継目に裏花押を据え、端裏に「支配状」の文言と支配の日付を記入する。この手続きによって、二通の文書は、年貢支配というひとつの機能を遂行した一点の報告書として保管されることになったのである。
 次に矢野荘以外の文書について、いくつか触れておくことにする。
 第一号は、若狭国太良荘の内検の結果を反映した建治三年(一二七七)六月の散用状である。鎌倉時代の供僧方の納所公文として、あるいは太良荘の預所・沙汰雑掌として、供僧方供料荘の経営に功績があった真行房定宴の作成になるもので、やや縦長の定宴筆跡の特徴がよく顕れている文書である。写真を掲げるべきであったかもしれない。
 第二号紙背は、鎌倉末から南北朝期にかけて、清閑寺・大覚寺聖無動院・東寺実相寺などの住持となり、東寺二長者にも補任された道我の書状である。道我は、東寺学衆の興隆に尽くすとともに、荘園の寄進・経営にも関わった。本書状は、「新御願分」の年貢到来とその配分について述べているが、何処の所領に関わるものなのか判然としない。ただ表の文書が山城国拝志荘の正応六年検注帳(正文は「□函」一〇)の抄録であることから考えると、その紙背の道我書状は拝志荘についての文書であり、後宇多上皇が東寺西院御影堂に三口の新供僧を置いて、その行法のための料所として拝志荘を寄進し(『東宝記』七)、さらに「正応六年検注目録」に任せて拝志荘の興行を道我に充てて命じた(「こ函」四二)正和元年頃のものではないかと推定した。
 第五号は、若狭国太良荘の百姓間の相論において、助国名百姓蓮仏が出した陳状とそれに副えられた起請文である。詳細は未詳であるが、関連文書によれば(「ヱ函」五六〜六〇、「ゑ函」三三など)、蓮仏は次のような事件の中で太良荘の他の百姓等と対立し、陳弁を求められる事態に至ったものと思われる(『中世荘園の様相』(塙書房 一九六六年)・『海の国の中世』(平凡社ライブラリー 一九九七年/ 『小浜市史』通史編として執筆分)に記述されている網野善彦氏の解釈と、地頭方代官・新見荘雑掌の比定などに異なる点があるので、その辺に関わる部分を以下に記すことにする)。
 暦応四年(一三四一)頃、東寺領備中国新見荘の前雑掌が、新見荘に関わる何らかの用途調達のために借銭をしたが、その返済が滞っていた。ところがこの用途の銭主から借銭の契状を請け返そうとしたのは、太良荘地頭方代官の祐実(乗真、坊門殿)であった。新見荘用途のために太良荘の年貢を流用し、借銭返弁に引き当てようとしたのである。そうすると新見荘前雑掌というのはおそらく太良庄地頭方代官祐実その人であっただろう。この時期、祐実は東寺の他の所領の沙汰雑掌を務めていたことがわかっている。彼は自らの借銭返済のために、太良荘現地に下向し、寺家にも、また地頭方と並ぶもう一方の領家方預所代官(大江盛信)にも内緒で、百姓等から用途を出させたのであった。そしてその際、若狭守護の御内佐河助を語らって援助を得ていた。一方銭主側も、当初佐河助と相談じ、獲得するはずの料足を折半する約束をしていたが、その約束を反故にされて、若狭国人松田氏を頼って東寺に訴えを起こしている。結局のところ、太良荘からの出銭分は借銭返弁に充てられることなく、祐実と佐河助が抱え込んだのだと百姓等は訴えている。
 この件について東寺は暦応五年三月に下知を下し、百姓等に、祐実による年貢流用分のうち半分の弁済を命じた。公平を失墜した楚忽の沙汰であるから地下百姓も半分を弁済すべしということであった。百姓等は当然、地頭方代官の命に従ったまでのことであると反論している。そして百姓側の証人として立てられたのが助国名主蓮仏であった。ところが彼は領家方預所代の前では、地頭方代官祐実と守護御内佐河助両人の関与を証言しながら、いざ京都東寺の法廷に立つと、佐河助の太良荘年貢の流用は認めたが、地頭代祐実については与り知らぬことと証言を避けたのである。ここにおいて惣百姓等は、自分たちに不利な状況に証言を変えた蓮仏に反発し、訴訟の主な論敵を祐実と佐河助から蓮仏に変えて、先の証言に起請文を添えて差し出すよう要求した。本号文書は、それをうけた蓮仏の陳状と起請文である。
 この後蓮仏は、所持していた助国名半名を失うことになるが、当初の借銭をめぐる相論が様相を変えた背景には、百姓間の名主職をめぐる何代にもわたる争いがあった。名主職の由緒の重要性をみるべきであろう。またこの事件からは、領主側の経営と荘現地との密接さもうかがうことができる。こうしたつながりを通じて、百姓等は領主を同じくする新見荘についても認識をすることになったであろう。そして、次の第一二号文書にもみえるように、在地の紛争に、守護方被官人あるいは国人などの武力との連携が常に現れるのも、当時の社会状況を反映している。
 第一二号文書は、東寺雑掌としての高井祐尊の出した書状で、年未詳であるが、関連文書から(「ソ函」八一・一二七〜一二九・一三七・一三九・二五六・二五八・二六一など)応永一一年(一四〇四)のものと推定した。山城寺戸の妙浄房英昭は、東寺御影堂聖であった法誦上人重藝から借用した料足の返弁を滞らせたために守護方から譴責を受け、東寺の助力を請うことになった。内容に未詳の部分があるが、それに対する東寺側の対処の一端を示したのがこの書状である。重藝は応永五年六月に死去しており、その料足は没後東寺造営料として寺家に寄進されていた。この文書および関連史料からは、祐尊の子息祐舜が義満の寵童御賀近辺に奉仕していたことが知られる。御賀は、応永一一年に東寺の抵抗にもかかわらず、義満の権威を背景にして東寺領大和河原城荘を買得しているのであるが、祐舜が彼に近仕し始めるのはこの年のことであるから、たとえ敵対勢力であっても、さまざまな機会を捉えて権威との縁を求める行動に、祐尊一家の雑掌としての活動の一側面をうかがうことができる。なお祐尊は、明徳頃を境に花押の形状を変えていることから、本文書の花押は彼の活動後半期のものであることがわかり、これも年紀推定の傍証となった。
 最後に第一五号は、応永一三年(一四〇六)一〇月二八日の一対による山城植松荘内田地避状である。植松荘は、足利義詮が不断尊勝陀羅尼勤修ために、その地頭職を東寺に寄進した荘園である(「東寺文書」楽乙七・東京大学史料編纂所所蔵「東寺文書」)。この年九月の義満の東寺御成の機会をとらえて、尊勝陀羅尼衆が不知行所領の回復をはたらきかけた結果、この田地返付が実現した(「東寺霊宝蔵中世文書」一箱九)。これも第一二号と同じく、高井祐尊による沙汰雑掌活動の成果のひとつであった。
(例言三頁、目次一一頁、本文三九七頁、花押一覧一四頁、文書番号対照表一頁、本体価格九、五〇〇円)
主担当者 高橋敏子

『東京大学史料編纂所報』第45号 p.40-43