大日本古記録 実躬卿記 六

この冊が収めるのは、嘉元三年(一三〇五)一月から同年閏一二月までの日記と、その自筆本に依った部分の紙背文書である。ただし本冊では初めての試みとして、後述のように、一部の紙背文書写も収めている。この年実躬は四二歳であった。官位は権中納言、三月八日辞官、従二位である。

本冊でも引き続き、前田育徳会所蔵自筆本および武田科学振興財団所蔵自筆本を主要な底本として使用し、あわせて早稲田大学所蔵自筆本断簡も利用した。同断簡も含め、本冊にも底本に多くの錯簡が認められる。編纂の過程でこの点の研究を進め、テキストとして復元した。例えば、嘉元三年二月記(武田本第三六巻)には、本来「亀山法皇自筆競馬番文」(『宸翰栄華』所収) が収められていたが、現状では同文書は武田本第五一巻に納められている。同巻は、各巻から脱落した文書を集めて貼り継ぎ一巻としたものであり、本冊においては、他にも同巻を用いてテキストを復元した箇所がある。また、嘉元三年四月二九日条から同年五月六日条は、嘉元三年四月〜六月記(武田本第三七巻)の一部に含まれる。当該箇所は、日次記の筆跡・筆勢・墨色の観察結果および紙背文書の状態から、四月二九日条前半に続いて、①早稲田本断簡a、② 「丹波行長自筆書状」「藤原公衡自筆書状」(現状ではともに武田本第一〇巻所収)、③五月一日〜六日条前半、④早稲田本断簡b、⑤ 「藤原実躬本座宣旨」(武田本第一〇巻所収)の順にテキストを復元した。実躬は四月二九日から五月一〇日まで、持病のため出仕を止めて休息しており、当初、日次記の記述は非常に簡略であった。②⑤は、この間に受け取った書状・宣旨である。そこで実躬は、後にこれらを日次記に貼り継ぐために、日記の料紙を切断する必要があった。なぜならば、本巻は具注暦・仮名暦の紙背を再利用したものであり、すでに巻子装となっていたからである。まず彼は、五月六日条の箇所を切断し、そこに⑤を挿入した上で、さらにその直前に料紙の末尾(具注暦暦頭)を切り取って⑤の説明を記し(④)、挿入した。続いて②を挿入するために、五月二九日条の箇所を切断し、同じく料紙の末尾(具注暦暦頭の続き)を切り取って②の説明を記し(①)、挿入したのである。特に⑤は、後述のように、突然に権中納言の官を召し上げられた実躬にようやく下されたものであり、このことに対する感情の吐露を旨とした④を挿入したことは、中世公家日記の記述態度や成立過程を知る上でまことに興味深い。なお、底本の現状と研究成果の一端を示すために、口絵図版として当該箇所の一部を復元順にもとづき掲載した。

この他に、本冊でも底本および対校本として写本を利用している。嘉元三年正月記は、三条三十七冊本のうちをもって底本としたが、ここには自筆原本の紙背文書と思われるものが同時に写されている。切断等の欠損や、改行・筆跡など、原本の状態を忠実に写そうとした痕跡があるが、残念ながら転写本のため、本来の字形が崩れて意味が通じにくくなっている箇所が多い。今回、できる限り原本の状態を推定してテキスト復元に務めた。また本冊では、はじめて底本の一部として三条十六巻本を用いた。拙稿(「『実躬卿記』写本の成立と公家文庫」『禁裏・公家文庫研究』第一輯、二〇〇三年)で報告したように、本写本は自筆本から直接写したものであり、紙背文書も含めて、ある程度原態に忠実な書写態度が見られる。今後も、自筆本が失われた部分のテキスト研究に大いに活用していきたい。

また、前冊までと同様、自筆本の部分のほぼ全面に紙背文書が見られ、これらも順次悉皆的に翻刻した。本冊所収の紙背には、前冊同様、永仁三〜四年(一二九五〜六)ごろの文書が多く、内容的には、実躬の蔵人頭としての責務にかかわる文書が集中している。その中でも、本冊では特に大神宮関係の訴訟関連文書が目立っている。当時、奏事に際しては、大神宮の訴訟は他の案件(雑訴)と区別し、それぞれ一結として奏することになっていた(永仁三年八月八日条)。本紙背文書群は、実躬のもとに一定期間保管された文書のうち、大神宮一結文書が一括廃棄・再利用された経緯を反映している可能性がある。

内容についても紹介しておく。嘉元三年は、実躬の身辺に多くの変化が起きる時期であると同時に、政治・社会的にも注目すべき事件についての関連記事を多く含む。すでに念願の権中納言に昇進して、公卿としての活動を活発に行っていた実躬であったが、嘉元三年三月、急に官を召上げられてしまう。やがて本座宣旨が下されるが、実躬はこの件を非常に遺憾に思い、鬱屈した心情を日次記に書き付けている。同時に、治天であった後宇多院への奉仕を拒否し、逆鱗に触れながらもなお抵抗を試みた。一口に大覚寺統近臣といっても、その関わり方が一様ではなかったことが分かる。やがて、実躬が最も奉公の志をかけいてた亀山院が病に伏すようになる。病状はいったん回復の兆しを見せるが、ほどなく再発し、重篤になってゆく。聖俗を総動員した、この間の夥しい祈祷の様子や人々の奉仕のあり方、伏見院ら持明院統との関係などの記事が詳細に記される。例えば、実躬が院危篤の報を伏見・後伏見両院にもたらしたところ、後伏見院の悲嘆が一段と深かったことを記している。亀山院と後伏見院は蹴鞠について師弟関係を結ぶなど(乾元元年二月二三日条)、両統が一様に対立的ではなかった一端を示していよう。日次記は亀山院崩御(九月一五日)の前月末で終わり、一一月一六日条から再開する。この間の日記は「凶事記」に加えたというが、残念ながら今は伝わらない。関連する史料として、『公衡公記』の「亀山院崩御記」は詳細であり、参考になる。未翻刻であり、研究の進展が望まれる。院の崩御により、名実ともに大覚寺統の家父長となった後宇多院による新体制が急激に築かれてゆくが、その中で、嫡男公秀が蔵人頭に昇進する。その早さは代々の家例に超えるものであった。実躬もようやく愁眉を開き、公秀後見のために出仕を再開する。ところがその喜びもつかの間、今度は閑院流の一族として特に親しく接していた西園寺公衡が、所職を召し上げられてしまう。記事の中に「故院御譲事、為彼公所意之由、被思食歟」(閏一二月二二日条)とあるのは、単に亀山院の恩領等の譲与を指すのではなく、森茂暁氏が明らかにしたように、院が晩年の寵児恒明親王に、皇位を継がせようとしていたことを暗示していると考えられ、注意が必要である。その背後に、公衡の策動ありと考えた後宇多院の逆鱗に触れたものであろう。この他に政治的事件としては、北条時村・宗方らが粛清された、いわゆる嘉元の乱に関する記述が注目される。六波羅に武士が馳せ集まっているとの情報や、鎌倉において北条貞時亭の寄合に推参した宗方が、佐々木時清と打ち合い、共に落命したとするなど、実躬の伝聞は詳細である。

(例言一頁、目次一頁、本文二五七頁、口絵図版二頁、定価一二、〇〇〇円、岩波書店発行)

担当者 菊地大樹

『東京大学史料編纂所報』第44号 p.33-34