大日本史料第三編之二十八

本冊には、鳥羽天皇保安二年(一一二一)十一月十九日より年末雑載、および同年補遺の史料を収めた。この間の主な事柄としては、法隆寺聖霊院の聖徳太子像の開眼供養(十一月二十一日第二条、五~一六頁)、日吉行幸(十二月一日条、二〇~二二頁)、皇后令子の新造二条堀河殿への移徙(同十三日条、二七~三一頁)、京官除目(同二十五日条、六九~七五頁)などがある。このうち聖霊院太子像供養に関しては、史料の性質を勘案し、振り仮名・送り仮名もなるべく翻刻した。この時代の太子信仰の昂揚を示し、前年の広隆寺における太子像造立(二十五冊一九六頁以下)に続くものである。本冊でも、雑載・題跋に『聖徳太子生身供式』を書写した旨の奥書(一四〇頁)や、『上宮王院縁起并資財帳』の出現を示す識語(一三六頁)を収め、翌年の法隆寺一切経整備の勧進へと展開してゆく。年末雑載には、文字通り種々の史料を収めているが、『平安遺文』除外・未収録文書の紹介に努めた。仏寺の項には、『僧綱申文』(八四~八六頁)、石山寺聖教の支度(八六~八九頁)、中尊寺紺紙金銀字一切経の料紙貢進に関わると思しき文書(『平安遺文』一九一七号)に合叙して同経の料紙が染められる前に書かれていた墨書(九六~九九頁)、来迎院如来蔵聖教『』紙背文書(九九~一〇一頁)がある。特に如来蔵聖教紙背文書には、延暦寺首楞厳院安楽別所(横川安楽律院)の源信造立の丈六阿弥陀像の光背修理のために尼仏成が金箔五百枚を寄進した施入状が含まれ、直接的な関係は決めがたいが、七七日らしき供養願文断簡には、霊鷲山曼荼羅・阿弥陀迎接曼荼羅などが見える。また荘園の項には、『東寺百合文書』の伊勢大国荘関係の解状(一九〇~一九二頁)、仁和寺所蔵御経蔵聖教『胎蔵界指示』紙背文書(一九二~一九五頁)がある。後者は全五通を翻刻し、越後志都乃岐荘に関する文書では、漆樽を年貢として納めている。高田別符・博多津などの文言が見える文書もあるが、全体の点数が少なく、聖教の紙背となった経緯の推測は難しい。この他に年末雑載で注目される記事は、荘園の項の伊賀黒田荘関連で、東大寺と国衙との官物率法をめぐる相論により提出された官物返抄案を収載した(一六三~一八八頁)。七月三日に下された宣旨は部分的な引用のみで伝わり、この間の経緯や文書の性格については、勝山清次「黒田荘出作田における官物収納をめぐって」(『中世年貢制成立史の研究』塙書房、一九九五年)が基本文献となる。関係史料はおおむね竹内理三編『伊賀国黒田荘史料』一(吉川弘文館、一九七五年)に収録されるが、現時点での校訂を施した。なお再検討の結果、東大寺図書館所蔵第三部十のうち、一七〇・一七四頁の按文「アルイハ下ノ二通ト接続スルカ」については復元案としては弱く、削除したい。玉瀧杣に名張郡と傍注してあるが、阿閇郡の誤りである(一六四・二〇一頁)。一八一~一八五頁の天理大学附属天理図書館に所蔵分の許可番号は、天理大学附属天理図書館本翻刻一〇三九号である。本冊に事績を収めた者は、入道前権大納言藤原仲実(十二月二十三日条、三三~六九頁)、雑載・生死の項(一〇四~一二六頁)に皇大神宮禰宜荒木田師平・神祇大副大中臣輔清・賀茂別雷社神主賀茂重助・同祝賀茂成頼・住吉氏人津守為基・僧勢賀一男犬丸がある。藤原仲実は閑院流の出で、藤原顕季の女婿となっているが、『中右記』では儀式での失儀・遅参を記されることが多い。大中臣輔清は、神宮領荘園形成の面から見て興味深い活動を行っていたと推測されるが、直接的な史料が見受けられない点、惜しまれる。賀茂重助は、女子の「いはひを」(祝緒)が白河院女房の賀茂女御となっており、白河院崩時の記事も収録した。第二十六・二十七冊とあわせて、保安二年分をひとまずまとめ終えたが、基幹となる史料を欠くなかにあって、部類記からの採録漏れがあり、補遺として収録した。正月二十四日条(二十六冊の二十二日条を改める)の県召除目では、京都御所東山御文庫所蔵『除目部類記』所収の藤原忠通『法性寺殿記』逸文を収めた(二〇七~二一一頁)。尾上陽介『東山御文庫本『除目部類記』所引『法性寺殿御記』『中右記』逸文』(田島公編『禁裏・公家文庫研究』二、思文閣出版、二〇〇六年)に紹介されたもので、『春除目抄』に抄出される断片的な逸文の全体を知ることができ、これを『除目記篇目』(二十六冊七一~七三頁)と併せ読むことで儀式が理解しやすい。二月十九日条の円宗寺最勝会では、『中右記』の部類記である宮内庁書陵部所蔵九条家本『法事部類記』から記事を収めた(二一四・五頁)。三月二十二日条の賭弓では、『長秋記』の部類記である宮内庁書陵部所蔵九条家本『賭弓部類記』から記事を収めた(二一七~二二三頁)。二十六冊に収めた史料では月日を確定し難かったが、本史料により二十日条と改める。九月十三日条・十月是月条には、『詩序集』から前加賀権守藤原忠基家の詩会における序を収めた(二六九・七〇、二七八・九頁)。また補遺では、前冊までで収録を見送ったり、見落としたりしていた史料を補い、厳覚(閏五月八日条)・源俊房(十一月十二日条)の伝記に関連する史料を充実させた。厳覚については、東寺観智院金剛蔵聖教を中心に、聖教類の調査・検討を踏まえて史料を増補した。奈良国立博物館所蔵田中穣氏旧蔵『雑筆集』は、厳覚の弟子である寛信の門弟周辺で編まれた表白等の文集で、直接に厳覚の名は見えないものの、状況から見てほぼ厳覚に関わると判断できるものがある(二四五~二四八、二六三・四頁)。同じく寛信の記録には「先師」として厳覚が現れ、『権律師寛信授灌頂於両人記』(二三二・三頁)・『寛信法務後七日法秘記』(二六一・二頁)の記事を拾った。こうした聖教類に含まれる記録的な史料は、いまだ収集や諸本比較の余地が多分にあり、本研究所としても今後の課題である。仁和寺所蔵『秘抄』(二五四頁)は興味深い内容であるが、頁数の関係から本文の収録は見送った。参考図版を掲載した高野山大学図書館所蔵光明院文庫『青龍寺儀軌』(二六五~二六七頁)は、現存する厳覚の自署・花押として貴重である。源俊房については、前冊での収録を見送った除目関係の事績と俊房の除目説を含む儀式書を中心に収録した(所報四〇号三三頁参照)。儀式書に関しては、田島公「源有仁編の儀式書の伝来とその意義―「花園説」の系譜―」(『史林』七三―三、一九九〇年)、同「『叙玉秘抄』について―写本とその編者を中心に―」(『書陵部紀要』四一、一九九〇年)、同「田中教忠旧蔵本『春玉秘抄』について―「奥書」の紹介と検討を中心に―」(『日本歴史』五四六、一九九三年)、同「『秋玉秘抄』と『除目秘抄』―源有仁原撰本『秋次第』と思われる写本の紹介と検討―」(同編『禁裏・公家文庫研究』一、思文閣出版、二〇〇三年)を参照されたい。また『水左記』の逸文でまとまっているもの二種を収めた。一は、石田実洋「陽明文庫所蔵『水心記嘉承二即位之間事』小考―『水左記』逸文の紹介―」(『日本歴史』七〇九、二〇〇七年)に解説・翻刻があり、もう一は、国立公文書館所蔵内閣文庫本大乗院文書『神木動座記』所引の記事で、永久元年の興福寺・延暦寺の強訴をめぐるもので、十四冊に所収の日記類と対応するが未紹介である。編纂・出版にあたっては、数多くの関係各位から御理解・御協力を賜った。ここに深く謝意を表したい。
(目次五頁、本文四一〇頁、本体価格九、一〇〇円)
担当者田島公・藤原重雄

『東京大学史料編纂所報』第43号 p.28*-29**